旧地獄の牢屋は跡形もなく吹き飛んだ。こっそりなどというには程遠い大胆な脱走。それもこれも全ては一人の少女。破壊と狂気を司る悪魔のせいである。
「たまやー!」
もう一人の無邪気な悪魔の楽しげな声に触発されて、また建物が一つ、『目』を潰されて吹っ飛んだ。これまで抑圧されていた狂気を解放するように目に付くものを破壊していくフランドールを見て、椹は大きく笑い、梓は小さく肩を竦めながら三人の後をついて行く。
突如蹂躙され始めた旧地獄の中にあって、そこに住む妖怪たちは慌てて逃げ回りながらもどこか手慣れているように見えた。火事と喧嘩は旧地獄の華なのだ。忌み嫌われた存在がこぞって集まっている旧地獄の中では、喧騒など日常茶飯事。散っていく妖怪たちの背を眺めながら、梓は頭を掻き、のほほんと笑っている椹に目を向けた。
「椹よ。いつのまに保父に鞍替えしたのか」
「はぁ⁉︎ 鞍替えなんかするかあ⁉︎ ありゃ子分そのイチとその二よ!」
「子分? 君がか? それはまた珍しい」
椹は誤魔化すように鼻を鳴らし、空をぐるぐる回っているフランドールの方へ目をやった後、パタパタ手を振っているこいしの方へと目を移す。経った一日、行動を共にした少女たちは、イヤな顔をすることもなく未だに椹の側にいる。そんな現状を今一度眺め、椹は少し鼻を赤くして鼻先を指で掻いた。そんな様子に梓も目を見張る。
「オレのことはほっといてくれよ旦那」
「そうもいかん。さっきも言ったがな、月軍が来る」
「月軍ね」
月からやって来る使者。遥か昔にやって来た宇宙人。全く気にしていなかった者たちが来るなどと言われても、椹は微塵も興味がない。それも平城十傑の一人が率いて。ただでさえ興味のない話が、より興味なくなるというものだ。梓の真面目ぶった顔から冗談の類でないことは椹にも容易に想像できたが、来ると言われてもなにも言うことはなかった。
興味なさげな椹の態度に、梓は怒ることもなくまあそうだろうと腕を組む。北条も、五辻も、調停役という立場上平城十傑の中でも数少ない現当主全員の顔と名前、ある程度の性格を梓は知っている。およそ此度の件に対して最もやる気のない椹の返答としては納得していた。だからこそ梓はわけも話さず三人を幻想郷に連れて来たのだ。もし言っていれば何人がついて来たか分かったものではない。
そんな梓の思惑が分かったこともあり、椹の機嫌はあまり良くない。「お頭〜」と手を振ってくるこいしに軽く手を挙げ返しながら、フランドールを見失わないように椹は足を動かし続ける。
「北条と五辻がいんだろうよ。オレは要らねえだろ」
「そう考えていたら僕は君を連れて来ていない」
「あのなあ、
なにを盗むわけでもなく戦う。それこそ無意味であり、徒労でしかない。椹は盗賊。欲しいものがあるから動く。欲しいものがなければ絶対動かない。なによりも、遥か昔の自分と関係ない物事を挙げられそれが義務であると突きつけられるのは堪ったものではなかった。
故に返事は一向にYesにはならず、首を左右に振るばかり。そんな椹に梓は頭を痛め、先を行く二人の少女へと顔を向けた。地底を照らす弾幕に少々見惚れながら。
「彼女たちにも危害が及ぶかもしれないぞ」
「はぁ? それこそありえねえやな。あいつらはオレの子分だぜ? やわじゃねえ」
「随分信頼している、それほど気に入ったか。一匹狼の盗賊が」
「うるせえな!」
「お頭どうかしたの?」
イラついている椹の形相が気になったのか、先を行っていたこいしはくるりと反転して椹の周りをくるくる回る。こいしに気を使われたことが気に入らないというように、「なんでもねえさな」とこいしの頭を帽子の上から雑に撫で、高笑いしながら空を舞うフランドールの名を呼んだ。
「なによ椹、今いいところなのに。ほらまだ壊せるものはあるわ」
「このままぶっ壊し続けながらこいし嬢の姉さんとこに行っても目立ち過ぎる。それはちとスマートじゃねえ」
「別に全部壊してけばなんにも関係ないでしょ? 何もなければ気にもならないもん」
「破壊の美学か。なかなかのじゃじゃ馬だな」
横から口を挟んできた梓に向けて、フランドールは目を引き絞る。椹のことは自分でも意外に思うほどフランドールはそれなりに気に入っていた。どうも融通が効かないが、その自由の効かなさが同じ思考する生物であると示しており、同じようなこいしのことも悪くないと思っている。だが、急に現れた椹の仲間と思われる男に至っては別だ。
気の向くままにフランドールは梓に向かって手を伸ばす。椹のように梓は動くことはなく、無闇に壊すなとそこそこの頻度でたしなめてくる椹も手は出さない。その理由は牢で一度見たから。いつもならフランドールの手のひら浮かび上がってくる『目』がどれだけ経っても出てこない。不良品の調子を見るように伸ばした手をフランドールは何度か振るが、結果は一向に変わらなかった。
業を煮やしたフランドールが伸ばした手に魔力を込めて梓に放つも、それも椹は止めはしない。感情に押されて放たれた弾幕は梓の身を吹き飛ばし、背後にある建物ごと大きく弾ける。紅い極光が消え去った後に残されたのは、建物の瓦礫とより大きく服の避けた梓の姿。二本の足で立ち腕も二つ。最早服の機能を果たしていない上着を引き千切りながら梓は瓦礫の中から足を出す。
「なんなのよアイツ!」
「やめとけフランドール嬢、やるだけ無駄だ。ありゃそういうもんなんだよ。力じゃどうにもならねえのさ」
「うわー、あの人間超合金製? お頭って友達も変なんだね」
「…………友達じゃねえよ」
吐き捨てるような椹の言葉を、フランドールの弾幕が搔き消した。相手を紅く塗り潰そうと走る高速の紅剣をその身に受け、後退りながらも梓は確実に前に出る。まるで世界に固定されたように梓は崩れない。生きているものは壊れるもの。生気を感じさせながらも生物らしくない梓にフランドールの口元が引き攣る。
「キャハハ! ウザイウザイウザイ、なんなのアレ、どうして壊れないの? ムカツク、ムカツク! なら周りごと弾けちゃえ!」
「喜ぶかイラつくかどっちかにしてくれよ。あとそれはいただけねえやな」
手のひらの中にいくつもの『目』を浮かべ無差別に握り潰そうとしているフランドールの手から『目』を
「お頭、子分その二が造反だよ!」
「盗賊のストライキとかクソ面白いな」
フランドールがどれだけ荒れようと普段と変わらぬ二人の姿が、フランドールには癪に触る。忌み嫌われるフランドールの狂気さえ楽しむような男と、そんな狂気の中でもなにも感じていないのか無邪気に笑い意に介さぬ少女。それを握り潰すようにフランドールは手を伸ばすが、その手は遂にフランドールの隣まで来ていた梓の手に掴まれた。
「そろそろ落ち着いて欲しいものだ」
「邪魔を!」
フランの身の丈よりも大きな男を視界の端まで飛ばしてやろうと掴まれた腕を振るうフランドールだったが、動いたのは自分。地面に突き立てるように足を踏み込んだ梓は動かず、フランドールは自分の力に振り回される。梓は起点に自分の力でフランドールは横へと吹き飛び、忌々しげに歯を噛み締めたところで背が何かに当たった。不動の感触に一瞬壁かと思ったが、背から伝わる熱が生物だと言っている。背後を見上げたフランドールの眼に映るのは、血よりも紅く見える一本の角。
「綺麗な羽だね、飴細工みたいだ」
瓦礫に囲まれた道端でなんでもない感想を言う長身の女。あまりに場違いなせいで、フランドールの表情が険しいものから崩れていく。そんな顔へ角の生えた顔を、鬼、星熊勇儀は近づけると、ゆるりと右手を伸ばし指を丸め見舞った。
────ドンッ。
軽い動作に合わぬ重い音。弾かれた指一本、眉間を拳銃で撃ち抜かれたような衝撃に、フランドールの体が宙を舞う。ぐらぐらと揺れる視界の中で、身を叩きつける衝撃になんとかフランドールは備えようと手を宙に漂わせるが、いつまで経っても衝撃はやって来ない。
「大丈夫かや、フランドール嬢」
揺れる視界の中ににゅっと伸びてくるのは白い頭。こいしに結われた三つ編みを揺らしながら、変わらぬ不敵な笑みを浮かべた男の顔。暴れたフランドールを怒るでもなく、見捨てるでもなく、受け止める男にフランドールの口元はうやうやと歪み、額から血の流れる顔をそっぽに向けた。
「べつに……平気だし」
「そりゃ良かった。で? ありゃなんだ」
「鬼だよお頭、勇儀って言うの!」
「それは見りゃ分かる。オレが言ってるのはそういう意味じゃねえ」
額から伸びている角を見なくても、勇儀の身から立ち上る強者の空気を見れば只者ではないことぐらい分かる。先日椹たちの出会った別の鬼である萃香に似たような空気があるが、それとはまた別の気味悪さ。肌を叩いてくる妖気は、どこまでも圧縮されているようで、重い感触が与えられたものの肌に張り付く。
椹と梓、二人の人間を勇儀は見比べ、椹に引っ付いている吸血鬼の妹とさとり妖怪の妹を目に留めると、大きな声で笑い出した。
「アッハッハ! 地上から人間の盗賊が侵入して来たっていうからどんな顔してるのか拝んでやろうと思ったんだけど、こりゃあいい! あんたら何者だい? 前に来た巫女や魔法使いとは纏う空気が違う。そう、なんて言うか、懐かしい感じだ」
そう言って開けた胸元から取り出した赤い盃に、なみなみと勇儀は酒を注いでいく。明らかに味方ではなさそうなのは椹も梓も理解できた。少なくとも絶対に弱者ではないと分かる勇儀のことは無視するのが吉であるのだが、名を聞かれて自称世紀の大盗賊である椹が答えないはずもなく。また、梓も腕を組むと口の端を緩める。
「覚えておけ、オレは袴垂 椹、日の本一の大盗賊よ!」
「平城十傑、足利家第八十八代目当主 足利 梓。お初にお目にかかる星熊童子」
「子分そのイチ」と笑顔で続くこいしと、「言ってることが微妙に違う……」と椹の名乗りに呆れるフランドールの言葉を聞き流しながら、勇儀は笑みを大きく深めた。嚙み殺すような笑みは次第に大きくなっていき、鬼の咆哮が二人の人間に叩きつけられる。その空気の振動に椹は冷や汗を垂らし、梓は小さく眉を寄せた。
「平城十傑? 袴垂? はっは‼︎ あんたらまだ生きてたのかい!いや八十八代か。そんなに代を重ねて月の影を追うなんて、やっぱり人間は面白い! 特にお前たちは」
「おい、梓の旦那。なんか奴さん急にエンジンフルスロットルだぞ」
「僕に言うな」
「さぁまずは小手調べといこうかね。私の盃から酒を零せるか?」
酒の注がれた盃を前へと差し出し勇儀はそんなことを言う。鬼の『遊び』、鋭く見定めるような鬼の眼光を二人は受けて、どちらも面倒臭そうに肩を竦めた。力任せに襲い掛かってくるでもない誘い文句に、梓は大きくため息を吐く。
「悪いが僕らは忙しい身だ。そういう遊びは別の誰かとやってくれまいか」
「おやおやつれないね。鬼と人が向かい合えばやることなんてひとつだろうさ。こう派手に暴れられちゃ、あたしとしてもあんたらを捕まえないといけないんだ。どうせやるしかないんだから、少しくらい付き合っておくれよ」
嬉しそうに頬を緩める勇儀の顔に、梓は盛大にため息を吐きながらも、吐き切った後に薄っすらと口角を上げた。鬼が本気で遊べるかの分水嶺。その交通手形を受け取れるかどうか。やる気になったと見える梓に勇儀は笑みを深めたが、次の瞬間僅かに眉を顰める。微妙に揺れる盃が、零れないまでも雫をその上に跳ねさせた。
「おぉ?」
「げッ!」
梓を見つめ瞬きをした瞬間、落ちた暗幕が上がると同時に目の前に揺れた白い髪。勇儀の差し出していた盃の端を掴んだ椹だったが、掴んだはいいもののピクリとも動かない。バレれば仕方がないと思い切り踏ん張り勇儀の手から盃を引き抜こうとするが、力の行き場を失った足が地面を削るばかりで動く気配は微塵もない。抜け目ない盗賊に呆れた笑みを返しながら、勇儀が一度盃を持った手を振るそれだけで椹の身は宙を踊る。
「……なんだいコリャ」
「ああ! オレのお宝!」
「萃香の瓢箪? あっはっは! あの馬鹿盗られたのか! 流石は袴垂!」
「感心してないで返せ泥棒!」
「袴垂に泥棒呼ばわりされるとは光栄だね。んー良い酒だ。しばらく借りとくか」
宙を舞った拍子に落としてしまった萃香の瓢箪『伊吹瓢』を勇儀は手に取ると、味を確かめるように中身を盃へと足し一口に飲むと再び注ぐ。どうにか取り返したい椹ではあるが、油断しているようでまるで隙のない鬼の姿に、梓の隣に降り立つと、強く口をへの字にヒン曲げた。
「まあ一応友人の仇ってことで、成敗してやろうかね」
「なにが仇かや、どうせ難癖つけて喧嘩したいだけだろ、オレには分かる」
「あの鬼椹と似たようなところあるよね」
フランドールの小言に口を引き結び、椹は勇儀の全体像を漠然と捉える。金色の長髪を靡かせて、額から伸びる赤い一角。大胆に胸元をはだけさせた蒼い着物がよく似合っている。そんな艶やかな服装とは対照的に、萃香同様千切れた鎖が垂れ下がった腕輪を嵌め、ジャラリと耳障りな音を立てた。自分で引き千切った証と言うように嵌められている腕輪だが、それがハッタリではないと分かる女性的でありながら、筋肉の筋が見受けられる鬼の肢体。勇儀が呼吸をするたびに脈動する肉体の質に、椹は顔を引攣らせた。
「……同じタンパク質でできてるとは思えねえな。つか思いたくねえよな。水銀ででもできてんのか」
「正に中身が違うか。驚きだ」
「梓の旦那が言うなよ……」
「仲間はずれは寂しいね!」
ズズッと鳴った地響きのような音は勇儀が足を踏み込んだ音。巻き起こった砂煙に紛れて、勇儀の体が雲を引くように二人の人間の元に飛来する。力とはパワーであり、スピードとは力だ。目では追えても、椹でさえ身体が反応するのに一瞬の間が必要であり、その間に勇儀が腕を振り抜くには十分だった。迫る拳に椹は舌を打つ。避けるには距離が足りない。だからこそ、椹は隣に立つ男を引っ張った。
肉と肉のぶつかる音。見ていれば分かるが、見ていない者はそうは思わなかっただろう。戦艦と戦艦の衝突、小惑星同士の激突、山同士の衝戟。形容する言葉はいくつも思い浮かぶだろうが、そのどれとも似て非なる生物同士の接触の結果は、音と反して静かなものだった。足の形に四箇所凹んだ大地と、そこから伸びる長いヒビ割れ。突き出された鬼の拳は、人間の額に突き刺さってはいたものの、その肉体にはヒビすら入っていない。
拳を梓から離し、手の感触を確かめるように勇儀は軽く手を開いては閉じる。その感触に深めていた笑みを薄くして、細められた勇儀の艶かしい視線が梓を射抜いた。
「あんた……なんだい?」
「なんだとはなんだ。中身のない問い掛けには答えを持たん」
「言う気はないかい。ふーん……、千年経てなにか変わったのかね。じゃあ次はもう少し上げてやろうか」
再び強く握り込まれた拳は彗星と同じ。宙に引かれる尾こそないが、膨大すぎる筋力ゆえに、振られる拳からは独特の音が畝る。梓はそれに少し眉を顰めると、小さく息を吸い込んで、両足を強く踏み込んだ。二度ぶつかり合ったその衝撃に、フランドールもこいしも耳を塞ぐ。二本の線を深く大地に刻み、殴られた肩から薄い白煙を上げて梓が下がった。拳を振り抜き笑顔を携えた勇儀に向かって、表情のない顔のまま梓は勇儀の盃に向けて人差し指を向ける。
「……殴られてもいないのに酒が零れたのは初めてだね。面白い、気に入った!」
勇儀は盃に残った酒を飲み干すと、胸元へと盃を戻す。腰には萃香の瓢箪をぶら下げて、空いた両手を胸の前で打ち合った。ダイナマイトでも破裂させたかのような轟音に、梓は体の調子を確かめるようにぶらぶらと両腕を振った。
「致し方ない。椹、先に行け」
「おいおい、お宝取られて引き下がれってのかよ! ありえねえ! だいたい梓の旦那はどうすんのよ」
「鬼ごっこできるほど足が速くないでな。月軍が来る。先に上がれ」
「……オレが行くとでも? 地霊殿も目の前だってのによ」
「多少の寄り道には目を瞑るさ。それでも僕より速いだろう?」
「けッ! 面白くもねえ! 門番に時間掛けてもしゃあないか。行くぞ子分ども!」
勇儀の力と相対する労力に白旗を振り、「覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて椹は二人の少女を抱えると影へと消える。その逃げ足の速さに勇儀は舌を巻き、「忘れそうもないね」と頭を掻いた。残った人間ひとりに目を戻せば、梓は逆に動くこともなく腕を組んでいる。先程の激突などなかったと言うように、体には傷の跡も見られない。
「お前さんほど頑丈なやつは鬼でも見たことないよ。本当に人間かい?」
「それは違うという答えが来てほしいという期待か? 現実から目を背けるものではない。事実は事実。あるべきものをあると言えないようでなければ、大望は望めんな」
「なんとも堅苦しいやつだね。酒でも飲めば柔らかくなるかね」
「断る。僕は下戸だし未成年なものでね」
ゆるりと歩き出す勇儀に合わせて、梓もゆっくりと足を出す。縮まっていく距離に息を飲むものはなく、誰が見ているわけでもない。だが、その衝突を報せる音は旧地獄に潜む者たち全ての耳に届いた。しかし、届いたものはそれだけで、勇儀と梓の笑い声を聞いたものはお互いを除いて他にいない。
椹は袴垂 第ニ夜 夕 に続く