額から垂れた一筋の汗を勇儀は拭う。あれから何度も衝突を繰り返しながら、未だに戦闘は終わりを見ない。瓦礫に囲まれた周りの風景は、度重なる衝突のおかげで更地と化し、旧地獄の中にぽっかりと穴が空いているようであった。そんな周りの風景に目を流してから目の前に立つ人間へと勇儀は目を戻す。何回、何十回、百を超えて加えた拳を受けても未だに二本の足で立ち勇儀を見つめる男。これほどの長時間の戦闘は勇儀も経験がない。肉弾戦ならだいたいは一撃で終わる。それがこうも自分の拳で倒れない相手がいるのかと嬉しくなりながら自分の着物に一度目を落とし、もっと動きやすい服で来るんだったと少し後悔した。
「見事だね。そうとしか言えない。なにかの術かい?」
「生憎僕は術士ではない。そんな器用なことはできん」
「そいつは……ははッ、余計に嬉しくなっちまうじゃないか。惚れちまいそうだよ」
「男冥利に尽きるとでも言えば良いのかね? ならそろそろやめにしないか。僕にはやることがあるのでね」
「そうもいかない、侵入者全員逃したんじゃ面目が立たないし、それになにより」
やめたくない。そう言うように勇儀は再び足を踏み込む。爆薬を弾けさせたように砂煙を後方に置き去りにして、一息で距離を殺した勇儀の拳が梓に突き刺さる。外の世界の摩天楼さえへし折るだろう一撃を受けて、梓は何度目かも分からぬ浮遊感の中に叩き込まれた。腹部に炸裂した一撃に軽く息を吐き出しながら瓦礫へと突っ込み、腹をさすりながら立ち上がる。そうなることがもう分かっていたと肉迫していた勇儀に目を向けて、梓も腕を振り抜いた。
────ゴンッ。
────べしッ。
二つの音が響き合い、梓がまた瓦礫に突っ込む。額から白煙を上げて立ち上がる梓に目を向けながら、勇儀は梓に殴られた頬へと指を伸ばしてちょちょいと掻いた。痛くも痒くもない。これが勝負が異様に長引いている理由だ。防御力という面で言えば、梓ほど頑丈なものを勇儀は見たことがない。鬼神然とした勇儀の一撃を何度も受けて、それでもなお飄々と立ち上がってくる。
だが攻撃力という面で言えば、勇儀に聞いた場合酒で口を濁しながら肩を竦めるだろうと思われるほどにお粗末なものだ。視覚的に言っても梓の体は悪くない。むしろ良いと言える。芸術に趣旨の深いものが見れば、ローマ時代の彫刻と勘違いするほどに、『造られた』ように整っている。だが、そこに人の手が入っているようには見えないほどに自然と。バランスの良すぎる肉付きと、こうであったら良いのにという身体的コンプレックスを抱きようもない造形。あまり関係ないが、顔も男前と言えた。
梓の上半身が服を破り捨てたおかげでよく見えるからこそそう思える。そんな人工的であり自然的な体を駆動させる梓を見て、極端な性能を誇る人間に、感心しながら、少しがっかりするように勇儀は額から伸びる角を一度撫ぜた。
「惜しい」
ポツリと零される鬼の言葉は、何もない空間ではよく響く。おかしな話であるが、自分が窮地に陥るとしても、意識が飛ぶような一撃を受けてみたいという強者としての葛藤がある。勇儀は強い、そう力が強過ぎるが故に、術や謀略で絡め取られたことこそあれ、終ぞ肉体的に崖っぷちまで押し込められたことはない。初めての感覚というものは、良いものにしろ悪いものにしろ忘れることはない。長い年月を生きているからこそ、『今』新しい感覚を体感している時間がどれほどの喜びとして体の内を駆け巡っているか百年の時も持たない人間には理解できないだろう。
勇儀も鬼として力に特化し、肉体的な防御という面でも上から数えた方が早い。だが今明らかにその面で自分よりも上にいる者が現れた。もしこれで少なくとも力が互角であれば、行き着く先がどこなのかは自ずと分かるというもの。
勇儀は鬼生の中で現段階で最も一個人を殴ったと思える拳に目を落とす。感覚。初めての感覚。何度も殴ったからこそ分かる。梓を殴った時の感覚は、鬼や天狗、他の妖怪、人間を殴ったどの感覚とも違う。柔らかく沈むようでありながら、なんとも言いようのない滑る感じ。力は完璧に伝わっているのに、どこかに外れていってしまうという感じ。術士でないと言った梓の言う通り、術にぶつかった感覚ではない。ないからこそ不思議であるのだが。
「究極の肉体か」
勇儀の答えは的中していた。細められた勇儀の目を見て、否定することはなく梓は薄く笑った。否定する時は否定し、肯定する時は肯定する。腹芸をする気のない梓の公正な性格を勇儀もこの長い戦闘という名の対話で理解している。だからこそ、そんな梓の反応に鬼も笑った。
「それが千年かけた答えか」
「人は短い間に世代交代を終える。それを利用しない手はないだろう」
強い体を。例え誰が相手でも砕けぬ体を。もしそれが作れれば、月の使者がどんな相手であろうとも、取り敢えずは対抗できるはず。そんな考えの元、足利の一族は、人間の品種改良に邁進した。その時代足利の一族で遺伝子的に、肉体的に最高だと思われる者が当主となり、幾人もの内縁の妻を相手に次代を産む。およそ人間的とは言えない営みの果てに産まれたのが梓だ。
だから梓には二十人を超える兄弟がおり、また十人を超える母がいる。祖父や祖母、叔父に叔母、それらを全て含めてゆうに百人を超える。当主に選ばれなければ待っているのは普通の生活。当主に選ばれれば、肉体を最高の状態に保つための微調整が待っている。
そうして完成するのは完璧な外殻。梓は足利の中でも歴代最高峰の肉体を誇る。完璧とはそういうこと。繋ぎの見えない体は液体のように揺れ動くが砕けることはなく、破壊の中心点である『目』さえ散らして掴ませない。どれだけの力を加えられても、完璧な肉体は世界に固定されたようにその表面を滑るのみ。
そうして人類史上最高の防御力を梓は手に入れた。
「よくできている。本当に。それで力も強ければ……」
「ない物ねだりをしてもな。持っているものでどうにかするしかあるまい。それに人の中では僕も力が強い方だ。最高の肉体を僕は生まれながらに持たされた。そういう意味では僕は幸運だったろうさ。他の当主たちとは違う。僕は生まれながらに当主であり、そこに努力が介入する余地はなかった。そして才能も」
だから梓は賛辞を贈ってくれる相手にはいつもこう返す。
「僕に才能というものはなく、自信というものはない」
自信とは努力によって裏付けされるもの。無論梓も努力はしている。だがそれをどれだけ梓がしたところで、究極的な肉体と釣り合いが取れるものではなかった。どれだけ努力をしようとも、『死』がいつも隣合うような狂気と修羅によって強制される他の当主たちの努力と比べようもない。死というものが周りを踊っているからこそ、生存本能に後押しされて人は想像以上に伸びていく。そして梓が生存本能を刺激されるようなことはないのだ。
それがどうにも堪らない。同じ当主でありながら、いつも梓は他の当主を羨んでいる。平城十傑の中で調停役という大任を得ながら、一番そこに居るための努力が足りていないと梓自身がそう思っている。以前聞かれた文からの平城十傑最強は? という問いに、だからこそ梓は絶対に自分をそこには置かない。淡々と事実を受け止めて、ただできることをする。
「あんた硬いね。頭もさ。欲しいものとか、夢とかないのかい?」
「ある」
「折角なんだ。教えてくれるかい? あんたのことは気に入ったよ。そんなお前さんのことをできるだけ知っておきたいんだ梓」
「いいだろう。だがわざわざ口にすることもない。なぜならば!」
大地を蹴り梓が勇儀と距離を詰める。笑みへと表情を崩した梓の拳が、戦闘中とはいえ、話を聞こうと少し気を抜いていた勇儀の顔へと直撃する。だが、威力は知っての通り。痛くはないが、突然の一撃に軽く面食らいながら勇儀は一歩足を後ろに置き、呆けた顔で梓を見た。
「今僕は夢の中にいる。鬼と喧嘩をするなどと、外の世界では笑われるだろう御伽噺の中に今まさに身を浸している! そして目と鼻の先にもっと、そうきっと素晴らしい御伽噺が待っている。現実は覆しようがない。ないと思われたものがある感動が君にも分かるだろう! 僕は待ったこの時を。僕の一族は待ったこの時を。僕たちは待ったこの時を。必要があるかも分からない品種改良を繰り返し、無用とも思えるこの体が役立つ時を待っている! 儚い? 結構! 人が夢を見てなにが悪い!」
「あんた……ふふ、あんた頭が硬いんじゃなくて実は一番」
その先は言うまいと鬼が笑う。シンデレラに憧れる少女のように、夢を見続ける男を見て。
この先に言葉は不要。勇儀は骨が鳴るほどに拳を握った。夢と言うなら、人とこれほど真正面から打ち合うことなどないと勇儀は思っていた。それが今まさに目の前にある。それも終わることのない闘争が。
どれだけ行ける。
どれだけ殺れる。
人知れずすぐに終わってしまうからと無意識にセーブしていた力を惜しみなく解放したとして、目の前の人間は砕けないかもしれない。その事実が勇儀の無意識のリミッターを外す。
ふと軽くなった自分の体に、勇儀は心の底からの微笑みを見せた。一つ鎖が引き千切れたと言うように、笑うのではなくただ優しく。その顔に一瞬梓は見惚れてしまうが、すぐに両手で己が頬を叩き意識を変えた。
一歩勇儀が前に出る。それに合わせて梓も一歩。縮まる距離は極度の緊張感に擦り合わされて、火花が散る様を幻視させる。額から垂れる一雫の汗を今度は拭うこともなく、瞬きもせずにただ一人の男を見据える。
同じく梓も体に付いた誇りをはたくこともなく足を出し続けた。
── 一歩。
──── 二歩。
────── 三歩。
梓の視界がひっくり返る。遅れて聞こえてくる音に目を瞬かせた梓の視界に映る鬼の顔。顔に受けた一撃で地面にめり込んだのだと気付いたのは、手が触れている大地の感触のおかげだ。その手に力を入れて起き上がろうとした梓に向けて隕石が落ちた。
生物を根絶やしにしようかという剛拳が、大地を砕き突き立てられた。ヒビ割れた大地はその威力を流し切れずに細かな砂粒が宙へ浮いていく。地に描いたクレーターの中心で、顔を地面に埋め込みピクリとも動かない梓を見ても、勇儀は笑みを崩さずに振り上げた拳を落とし続ける。
めくれ上がった大地は歪な大輪を咲かせ、地底の大地を更に下へと押し下げる。壊れた人形のように体を跳ねさせる梓に遠慮も気負いも必要ない。宙を死んだように泳いでいた梓の手が、ゆっくりと勇儀の角へと伸ばされそれを掴んだ。
振り解こうと頭を振り上げた勇儀に引っこ抜かれ、地の底から梓が起き上がる。勇儀の目前につき合わされた梓の狂喜の滲んだ笑みと光り輝く眼光に、勇儀が笑みを返すと同時に、引き抜かれた反動を利用して振り上げられていた梓の踵が勇儀の顔へと落とされた。
骨と骨のぶつかり合う痛々しい音を首を動かすことによって勇儀は反らし、そのまま肩に落ちた梓の足を勇儀は掴む。
「ははっ、ハハハ!!!!」
嬉々とした感情を振りまくように、振り上げた梓の体を大地に叩きつけた。人の体の形に凹んだ地面を塗りつぶすように、何度も何度も。
局所地震を繰り返し、揺れて剥げた地底の天井の欠片に向かって梓を振り抜く。あまりの速度と力故にすっぽ抜けた梓の体はその後方に控えていた数十の家屋を轢き潰しながら遠い地底の壁に突き刺さった。ガラガラ落ちる地底の壁に手をついて、それを砕き身を踊らせる梓が目を向けるのは、破壊痕が続く鬼の居る間。小さく長く息を吐き出して、梓は軽くリズムを取るように体を揺らす。
勝てない。
そんな思考に彩られた頭を振っても考えは変わらない。いくら肉体が死ななかろうと、これでは人形遊びの人形役だ。ただ相手を満足させるためだけに動くなど、そんなことは認められない。だから同じくらい頭の中を占めているもう一つの言葉にこそ梓は頷く。
負けない。
勝てなくとも負けもしない。この勝負の終わりが、どちらかが大地に前のめりに倒れることだと言うのなら、梓にその気はなく、また勇儀にもその気はない。最強の矛と最高の盾。その矛盾は解消されることなく千日手の形相を見せ初めていたが、それではいけないと梓は首を振る。
これは前座だ。どれほど雄大で素晴しかろうと、本当に待ち望んでいる瞬間がすぐそこに控えている。
竹取物語。
終わりと綴られたその物語の続きを自分たちこそが描くために。
終わらぬものを終わらせるには現状を変える以外に方法はない。梓の拳が勇儀の芯に届かぬことが最大の理由であるのなら、それを変える以外にすべき事はなかった。
だから梓は遂に刃を抜く。ぼろぼろのズボンのポケットに手を突っ込み、その中に隠していた世界で最も短い刃を取り出した。
それは
メリケンサックの刃を地底の街灯に煌めかせながら足を進める梓の先から、勇儀もまた歩いてくる。足取りは軽く決して走らず。身の内に渦巻く喜びを相手にこそ叩きつけるために零さないようにゆっくりと。梓が逃げないだろうことを信じているから。
梓の手に光る刃を見て、勇儀は少々残念そうに顔を顰めたが、それでも笑みは崩れなかった。素手同士で殺り会いたいのが本音ではあったが、それでは終わりが見えないというのは勇儀も同じ。
「それがあんたの武器か梓」
「肉体が脆いからこそ人は長い刃をその手に取る。その脆さがない僕にはこの長さがあればいい」
振るうでもなく突き立てる。拳の可動範囲で十分威力を発揮する。全ての脅威をその身に受け止めながら、相手の隙間に拳を突き立てることが梓にはできた。だからこそこれが梓にとって最高の得物。たった十センチほどの刃があれば事足りる。
握った右の拳をその甲を顔に向けるように掲げ、距離を測るために左腕を前に出して手のひらを開く。
これから殴る。この刃を突き立てる。構えからそれをすると分かる形に、勇儀は呆れるように肩を竦めた。格好からして馬鹿正直過ぎる。心理戦など必要ないと、自分の肉体に最大の信を置いたその形は、傲慢でも自信があるからでもない。ただ知っているから。迫る災害から逃げ惑う必要などなく、その災禍の中に身を置いて、ただ前進できると梓は知っている。
その思い上がりこそを潰したい。長くはないその鼻柱をへし折りたいと勇儀も拳を鳴らす。身の丈合ったその実力を叩き潰し合ってこその戦士。勇儀が信じるのは己の力。防御など必要ない。屈強な肉体と、それによって生まれる力で勇儀は理不尽さえ叩き潰してきた。それをまた一つ潰すだけ。遥か昔から見ている人の夢を、たった二つの剛腕をもって弾くだけ。
同時に迫る二つの影は交差して、梓の顔は驚愕に歪む。
ぶ厚い。
椹が水銀と称した鬼の肉体は、防御においても最良の効果を発揮する。突き立てた刃は筋肉に押し返され、その芯には届かない。僅かに赤い染みを勇儀の蒼い着物に浮かべるだけで終わり、梓は再度地底の壁に突っ込んだ。穴をまた一つ地底に開け、そこから梓は這いずるように立ち上がる。
「見事。鬼が恐ろしい相手であるということは重々承知していたつもりだが、君はその中でも最上だろう」
「人間に褒められて嬉しいのは久しぶりだね。梓がそう言うならそうなんだろうさ。それで? 勝てそうか?」
「負けはしない。だが」
できるなら勝ってみたい。憶測など言っても意味はないと考える梓だからこそその先は言わなかったが、沈黙は言ったのと同じ。小さく声を出して笑う勇儀に、少し恥ずかしくなり梓は咳払いを一つした。そして地底の壁を一度叩き踏み出すと、少し進んで足を地面に突き立てる。吹き飛ばされないように深々と。大地を割って足を踏み込む。
殴り合おうという誘いを勇儀が断るはずもない。その身を大地に縫い付けた梓の拳の距離まで勇儀は近づくと、勇儀も足を広げて拳を掲げる。
「やろうか梓」
「やろう勇儀」
望んだ言葉が返ってくると分かっていても言葉として聞きたかった。頭で描いたその通りの返事を受け取って、何度目かも分からぬ拳が交差する。吹き飛びそうになる体を全身の力を使ってなんとか押し留め、梓が初めて二撃目を放つ。そんな姿に勇儀も惜しげなく拳を返した。
一回、二回と増えていく交差する拳。確実に大地を削りながら下がっていく梓を一人にはさせないために、一歩また一歩と勇儀も足を出す。梓の刃で削れていく見目麗しい着物のことなど気にもせず、体の表面を流れる赤い筋を嬉しそうにくねらせて。勇儀の拳が梓目掛けて刺さり続けた。
軋む体の音に耳を傾けながら、なお梓も動くことを止めない。いくら丈夫な体でも、勇儀ほどの一撃を何度も貰えば、積み重なったダメージが徐々に顔を出す。それでも体は崩れないが、痛いものは痛い。そんな痛みは生きている証。体の内側に流れる鈍痛に奥歯を噛み締めながら、笑い声を時折零して梓は腕を振り上げた。
突き出される勇儀の拳に、梓は腕を折りたたむように肘を叩きつけると横へと流した。頑強さ故に成り立つ受け流し。態勢の崩れた勇儀の脇腹に梓の刃が突き刺さった。
銀色の先端が体に打ち込まれるのを、深く息を吸い込み筋肉を絞めることで受け止める。肉と肉の隙間に打ち込まれた刃は、尋常ならざる筋力に噛み付かれその侵攻を阻まれた。そのまま態勢を戻す勇儀に引っ張られる形となって、次に態勢を崩されるのは梓。
勇儀を見上げる形となり、振り上げられた拳は極大の鉄槌。地底の形をまた変えようと振り切られる拳を、梓は勇儀に引っ張られる力に乗るようにして初めて回避する。想像以上の力に脇腹から離れたその体を、地面にしがみつくように削りながらその場に留まり、大地を砕く勇儀の上に今度は梓が踊り出る。
「しッ!」
「甘い!」
いくらお互い肉体が頑強でも、隙を見せるような愚行を犯しはしない。今梓は強固な肉体の隙間を穿つ刃を有している。その刃に晒される危険性を、勇儀も当然理解していた。拳を出す暇はない。梓の体にぶつけるのは己が肉体。無理な態勢から力を振り絞って勇儀の体は弾丸と化した。
梓を巻き込み地底の地図を塗り替える。二人を人と鬼と呼ぶ者はいないだろう。地底ではあるはずない竜巻が通ったのだと言われた方が納得できる。勇儀の暴力を受け止めるのは地底の大地と家屋のみ。梓の無敵の肉体は、依然そこにあり、体にのしかかった木片を振り払いながら不変を示すように立ち上がった。少し遠くなった勇儀を見つめ、再度梓はその手に握った刃を構える。
「ああ! 楽しい! 楽しいねえ!」
「然り、だがしかし」
「あぁ、いつまでも続けていたいけど、そうもいかないか」
惜しむように勇儀は吐き出し、今一度体に力を込めた。無限に続くかと思われる勝負にだって終わりはくる。それがいったいどういったものであるのか。このままではいずれ喉が渇き、腹が減り、動くのも億劫になってお終いとなるかもしれない。そんな終わりは勇儀も梓も望んでいない。闘いの終わりは劇的に。全力を振り絞り大地に墜つ方が二人とも性に合っている。
最後の衝突になると察した両名の空気が変わる。膨れ上がった勇儀の妖気と、静かに張りつめられていく梓の気迫。息をするのも辛い緊張は、天井知らずに上がっていき、その熱にうなされるように、最後になるかもしれないと勇儀の口が軽くなる。
「あんたに……袴垂に、他にもまだ来てるのかい?」
「北条と五辻が。遠くない日に他の者も来るだろう。藤がそんなことを言っていた。なんせ月から使者がやって来る」
「月からか。……クソ、地上に未練はなかったのに、梓みたいなのがまだいるなら、まだ来るなら上っちまいたくなるじゃないか」
「来るといい。月軍を潰したその後なら幾らでも相手をしてやる」
「鬼は内って? 馬鹿かいほんとに……本当に。お前さん狂ってるって言われないのか?」
「僕は生まれながらにイカれてるんだろう。そして彼らも。普通を歩むことができない僕たちは、結局こんなところにいる。そんな僕たちを拒むかな?」
「いやいや、あんたらみたいなのなら幾らでも。私を誘ったんだ。その言葉忘れるなよ?」
「そっちこそ忘れるな。平城十傑の調停役としてこれは言えることだが、僕らの相手はしんどいぞ」
だろうねと勇儀は笑い、膨れ上がった妖気をその身に凝縮していく。力の結晶を視界に収め、梓も盾を矛に変えようと右手を握り直した。
三歩だ。三歩あれば全てが終わる。
手加減などと馬鹿げた考えは既にない。有り余る力を全てぶつけていい相手が目の前にいる。振り切れたリミッターに、浮ついていた体にようやく意思がついてきた。勇儀の思い通りに躍動する肉体を惜しげもなく引き絞る。
その隙間へ最大の力を突き立てようと梓の目が細められた。変わったことをする必要はない。奇策や秘策の類など、鼻から梓にはないのだ。故に梓の動きは自然と限られた。長い年月、ただ相手を拳一発で張り倒す為に研究を重ねられ続けその形に落ち着いて等しい形。即ち正拳。ただの形に則った一撃が、梓にとっては必殺技として昇華される。完璧な肉体は、その最適化された形をもって、最高の威力を披露する。
地震と言える勇儀の踏み込みに呼応して、見惚れるような梓の正拳が炸裂した。完璧に完成した一撃は、たった十センチの刃の先端に集束され、勇儀の肩に突き刺さる。その痛みに顔を歪めながらも、地を這うような勇儀の拳が梓の腹部で強く弾けた。肉体を打つ音ではない。かつて恐竜が聞いただろう地上最大の破壊音、かつて大日本帝国が誇った最強の戦艦の砲撃。どれにも負けぬ音を残して、梓の体が幻であったかのようにその場から消えた。
「……痛たた。折れたねこりゃ」
ぽっきり逝った鎖骨に笑みを与えて勇儀は肩を回す。姿なき人間は、見えずとも生きているだろうと確信する。荒れに荒れ果てた旧地獄の町並みを見回して、これはひどいと言うべきか、これだけで済んだと言うべきか思案し、後者だろうと勇儀は笑う。
「……さて、と。さとりのとこに行こうかね。上への切符を貰わなきゃならん。なあ梓、まだ見ぬ人間たち。鬼との約束は破っちゃダメだよ」
足取り軽く勇儀は歩く。萃香の酒で喉を潤し、素敵な未来に祝杯を挙げる。
***
突然妖怪の山を揺らした地震と、湧き上がった煙に、天狗たちは騒然となった。噴火でもしたのかと慌てた天狗たちは、印刷のために戻っていた文とはたてに様子見という生贄役を押し付けて、山から蹴り出すように急き立てた。文もはたてもそんな暇はないのにと印刷した大量の新聞を手にそこへ向かえば、大きく弾け飛んだ山の斜面が待っていた。
「どういうことよコレ」
「知らないわ。どうしてこう短い期間で面白いことが起きるのか。はたてが珍しく働いてるからじゃないの?」
「あんたに言われたくないわ」
木々が燃えていないことから溶岩の類はないと判断し、薄くなっていく煙の根元に二人が下りると、一人の人間がその中心に立っていた。それも今朝方姿を消したはずの男。しかも薄く口からは血を垂らし、それを地面へと嬉しそうに吐き出している。
「ちょ、梓さん?」
「ああ、文女史か。見たところ新聞は出来上がったようだな。是非見せてくれ」
「いやそれは良いんですけどどうしたんですか? 服は?」
「いや、ああそうだな。ああ」
うわ言のように呟きながら、梓はその場に寝転がる。体に走る痛みに笑顔を返しながら、赤くなっている空へと目を向けた。天狗の折檻で傷も付かなかった梓が口から血を垂らしている異常さに文とはたては顔を見合わせ、何も言わずに梓の答えを待つ。
「鬼と殺った。今はただ浸っていたい」
「「え゛?」」
文とはたてがその先を聞くことはなく、青い顔で夕日の中へ飛んで行く二人の背を、梓は愛おしそうに見送った。