第三夜 夜
戦場とは地獄である。
誰かが言ったそれは正しい。飛び散る血肉と叫び声。抉れる大地と爆ぜる鉄。引き裂かれる風と砕ける骨。数多の生物の熱狂によって掻き混ぜられる場は、人ひとりなど簡単に轢き潰してしまう。
だが、今夜に限って言えば、身の毛もよだつような騒音の中に三つの笑い声が混じっている。
『北条』
『五辻』
『袴垂』
外の世界では七十億に混ざり、名も知らぬその他いちであろうとも、今夜幻想郷でだけは違う。普段人が見上げる月に住む兎が、地面に縋り見上げている。揺れる二刀。滑る大太刀。意識の隙間から伸びる両腕。向けなければならぬ銃口の先は三つに散り、腕を動かしている間に腕が落ちる。ぼどりっ、と枯れ葉の上に転がったものを見下ろす兎の首がずるりとズレる。崩れ落ちた月兎を見つめるものはなにもなく、悲鳴を飲み込み足を下げた月兎に踏みつけられた。肉が潰れ血が広がり、赤色の混じった空気に鼻を顰めている間により濃い赤色が兎の顔を汚す。
多勢に無勢。そうであるべき事実は、鬼のように暴れている三人の人間によって捻じ曲げられている。いや、人間かどうかも怪しい。少なくとも月兎たちの眼に映る者は人の形はしているが、それを信じたくない。目の前でジグソーパズルのようにばらけた仲間をまた一人見て、月兎は引き金を引く。
「うぁああああ!!!!」
「あっはっは!」
笑える。笑えてしょうがない。これで笑わずいつ笑うのか。深く沈み揺れ消えた楠を探しているうちに兎の首がまた落ちる。逆さになった兎の首を肘で弾きながら崩れる兎の体を盾にまた沈み、楠は地面を転げ回る。一撃での必殺は必要ない。足さえ奪えればそれで済む。肌色の林に刃を這わせて刈り取れば、落ちて来るのは兎の耳。枯れ葉を舞上げ林を抜けて、楠は不死鳥に向けて顔を上げる。
言葉はいらない。ギラついた楠の目と深く大きな笑みを向けられウンザリと大きく顔を背けながら、嬉しそうに舌を打ち不死鳥は大翼をはためかす。血に転がった多くの肉の焼ける匂いに眉をしかめながらも、その火を引き裂く閃光を見て妹紅は炎の壁で進路も退路も塞いでしまう。足の止まった月兎の目は、目の前を横切る細長い波長を見た瞬間に宙を舞う。
前に。前に。銃弾よりもなお早く。軽くなった体の背を押すのは、同じ道を歩く友人たち。揺らめく幽鬼のような友人と、銃を奪い命を奪う友人とをゆっくり眺めながら崩れた笑みと共に桐は大太刀を滑らせる。一人を弾けばドミノのように後方の群れが倒れる。それを踏み越えより前に。大型の長銃を背後に弾き前に出る。
空を飛んだ宝物を掴む者は一人だけ。月兎の頭上を舞った長銃を、ふわりと飛んで盗賊が奪う。初めて手に取る武器だろうと、どう撃つのかはもう一度見た。頭で月兎の動きを思い描きながら、それを自分の動きに落とし指を弾いた。動きを盗むその妙技に目を見開いた月兎の目に黒穴を開け、椹は満足げに高く笑う。その表情こそ見たかったと言うように。ただ必要ないものが混じっていると唾を吐いて。
「ああったく、月軍の命とかマジでいらねえやな! まあこの武器は悪くねえ! おい桐もっといい武器よこしゃあ!」
「わがままですね、それよりあっちをどうにかしてください!」
崩れていく人垣は、壁に阻まれたようにその崩落を止める。ブレザー風の軍服を着た月兎たちを押し分けて出てくるのは、生きた装甲を纏った兎。肌に光線をくねらせて、椹の放つ重弾を受け止めた。マシュマロが弾けたというような柔らかな結果に椹は舌を打ち、その重弾を溶かして妹紅の炎翼が後を追うが炎のカーテンを容易く捲る月軍の鎧の表面を焦がすだけに終わった。
月の軍の装甲服。その耐久性に妹紅が舌を打つその前で、枯れ葉の海から這い出るように楠が両腕を揺らし立ち上がる。相手の領域を確実に侵しながら、緩やかに足を出す月軍の壁を見て楠は笑った。この瞬間が必要だった。月兎に教えなければならない。千三百年培った北条の技を。例えどんな硬い守りであろうと、すり抜け命に届く刃。左の刀を左なぎに、右の刀を上から振り下ろす。月兎の体の滑り込んだふた振りの刀は、風鈴の鳴るような音を響かせてすり抜けた。
『
体の内側で擦り鳴った小さな音。隙間なく体の内に滑り込んだ刀の振動は、そのまま体組織の細胞、分子を揺らし崩してしまう。砂の城が崩れるように体が折れた月兎を見て、月兎の壁が止まる。
「俺に盾は関係ない。だが、こう多いと面倒だな。桐、いい加減斬るのが苦手とか言ってんな。やれ」
「いやあ、あっはっは。本当に苦手なんですが、まあもう歩む必要もないですか。北条の技を見せられて、五辻の技を見せぬわけにもいきますまい、ねえ? 下がれ楠」
ゆらりと消えた楠を見て、桐の笑みに鋭さが足される。また消えるのかと警戒する月兎の前から桐は消えず、大きく足を広げて大太刀を背に担いだ。一刀背負い。ただ前に。だがその必要はもうない。ここが目的地であり足を止めたなら、弾くのではなく斬るだけだ。滑らせる刃はもう滑らず、空気の壁と刃が噛む。ただ刀を振る全てに力の全てを。刃の煌めきに火花が混じり、夜の闇に紅い線を引く。
『炎閃』
宙に引かれた炎の一本線が風に舞って消える頃、二つに焼き切れた八つの体が地に転がる。速さを捨てた五辻の剣の鋭さに、足を止めた月兎の頭に両手が添えられた。ふわりと揺れる白い三つ編みが、ゆっくりと添えた手を狭めた。両手が掴むのは狭間の空間。圧縮された空間に取り残され、月兎の頭が徐々に小さく潰れていく。ぐっと握りしめた椹の手に合わせ、兎の頭がボンと爆ぜた。
「キュッとしてドカーンだっけ? まあそんな感じで」
「なんだそれ、全然アンタに似合ってないぞ。気持ち悪。袴垂の技はどうしたんだよ」
「技ってのは盗むもんだろ? オレのはそれさ」
「はいはい、喋ってないで手を動かす! 余裕振りまいてる場合じゃないから! ほら動いて楠!」
「なんで俺だけ⁉︎」
妹紅の炎に背を焼かれて、堪らず楠は地を転がりながら敵へと突っ込んだ。呆れる桐と椹もその後へと続き、月兎の壁を崩していく。みるみる減っていく月軍の壁を、てゐと輝夜はただテレビを見ているかのように呆けて見ていた。
「……いやあ、あの三人、凄いって言うかやばいね姫様」
妹紅はまだ分かる。妹紅と輝夜の死闘は嫌という程てゐも見てきた。月人でもなく長い時を得た人間の狂気。不死鳥の如き人の力に並ぶのもまた長い時を生きた人。永遠を持たず、世代交代を繰り返してなおかぐや姫に会いに来た人。何も言わずにその三つの背を見つめる輝夜の顔から目を外し、てゐもまた三つの背を追った。
「……まあなんて言うか、バカだね」
「そうね、本当に」
悪口にだけ反応する輝夜にてゐが肩を竦める先で、遂に月軍の壁は崩壊する。月兎の数ももう数える程に減り、そのほとんどが妹紅の炎に焼かれて竹林の枯れ葉を燃やしている。立ち上る白煙を振り払うように楠と桐が刀を振れば、残り少ない月兎も崩れ去る。
「アンタらの負けだ。下がれよ」
「まだだ! まだ!」
「怖いですね、何があなたたちをそこまで駆り立てているんでしょうか」
「全ては我らが主人のため! そして!」
最後の力を振り絞って突っ込んで来る月兎に刀を振る。四人三人と数を減らす月兎に目を細めながらも手を止めず、その足掻きが通じたのか桐の前へと最後の一人が躍り出た。だが、距離を潰せばいいというわけでもない。自分を起点に大太刀を巻き込むように振るった動きに月兎の首の骨がへし折れその場に崩れる。最後の一人が崩れて小さく息を吐く。誰が吐いたか、その音に混じって流れてくる小さな音。息を飲むようなその音に合わせて、空気の層に穴が空いた。
「……おや?」
小さな穴は音もなく、黒い口を桐の足に開く。片膝崩れて枯れ葉に膝を落とした桐に誰が駆け寄る間も無く、もう片方の足にも同じように開く口。燃える竹林の中から流れる葉擦れの音は死神の足音。夜闇の中により暗い黒い川を揺らしながら、黒い瞳が瞬いた。
「気を抜いたな。貴様らの中で唯一私について来れそうな平城十傑一の俊足の足は死んだ。楠、桐、椹。これがどういうことか分からぬ貴様らではないだろう」
「……誰よ」
妹紅の問いに暗殺者は答えない。ただ一度妹紅の方へ目をやるだけで、すぐにその目は三人の男に流された。味方ではないのは見れば分かる。警戒する妹紅がやって来たのは誰なのかと楠へと目を向けて、そしてそのまま固まった。楠の肩に一つ、同じように椹の腕に一つ、桐の足と同じく小さな穴が空いている。静かに血を垂らしながら、三人の男の顔色は良くなく、張り付いた血を押し退けて汗が肌に滲んでいた。それを見た妹紅もやって来た者が誰か予想がついた。三人が知っているであろう者、新聞に載っていた敵の将。猛威を振るっていた三人と同じく、平城京より時を超えてやって来た人間。
暗殺者の目が楠たちから外れると、それが向かうのは月に照らされた黒髪の乙女。逃げず、隠れず、側に小さな白兎を貼り付けた月の姫に向け、暗殺者の口は大きな弧を描いた。
「探したぞかぐや姫。私は菖、坊門 菖。平城十傑、坊門家九十八代目当主。その首貰うぞ月の姫君」
「っ、椹‼︎」
楠の叫びよりも早く血を振りまいて椹が手を伸ばす。菖と輝夜の間に割り込んで、菖の視界を塞ぐように伸ばされた椹の手のひらにずるりと穴が空いた。奥に控える輝夜の額を小さく削り、鈴の音のように西洋剣の鍔が鳴る。
「諦めろ。貴様らの技もそうであるように、いや、それ以上に私の技は殺すことに特化している。同じ平城十傑のよしみだ、大人しくしていれば貴様ら三人と、そこの白兎と女は見逃そう」
「菖さん、なぜ……」
足を抑えて菖を見上げる桐の目に、菖は肩を竦めて返した。見つめる先の輝夜が額から血を流れているのも気にせずにただ菖を見つめている姿に菖は眉間に皺を寄せながら、左手を西洋剣の鍔に添えて桐の問いに言葉を返す。
「なぜときたか。むしろ問おう、なぜ貴様らはかぐや姫を守る。言ってしまえば我らの境遇はかぐや姫のせいとも言えるだろう、それを守る必要がどこにある」
「それは、菖さん。暴論です。私たちの境遇は私たちの一族のせいであってかぐや姫様のせいではない。殺す必要なんてどこにもないでしょう」
「だとして、貴様らは一度でもかぐや姫を恨んだことがないと言えるか? 血を吐き、骨を噛み、歯を食いしばって必要なのかも分からぬ修行を重ねる中で一度でも思わなかったことがないと」
「いや、普通にあるな」
菖の問いに楠は即答する。思わないことがないわけない。幼き頃、日々先代や一族に向く怒りの矛先に、かぐや姫が含まれていないなんていうのは嘘だ。だから楠は輝夜を殴ったし、桐と椹は否定することなく口を閉ざす。例え八つ当たりだとして、かぐや姫は八つ当たりを引き寄せるだけの存在感がある。その名は欠かせないピースなのだ。
「だが菖さんよう、それが全部じゃないだろう。所詮俺たちがやってるのは自己満足に近い。それでかぐや姫を殺すまで行くのはやり過ぎだ」
「そうかな? 私たちが背負わされているものはそれぞれ違う。千年を超える蠱毒の中で、そう思い立つ者が出ても不思議ではないだろう」
坊門の当主を決める方法は簡単だ。最も殺しが上手い者が当主となる。それをどう示すのか。当主の候補として集められた者たちによる殺し合いだ。人を殺す方法も知らない者たちを集め素養を見る。たった一人が残るまで。およそ五十人が集められた中で菖が残った。その先に待つのは殺しの英才教育。犬の殺し方、猫の殺し方、妖魔の殺し方、人の殺し方。姿形の分からぬ月人を殺すため、そして自分が死なぬため、死とはどういうものかを体験させられる。時には半殺しにされながら。
そんな生活を強要されてまでかぐや姫は守らなければないない存在なのか。いるのかいないのかも分からない存在のため、ただ必殺の牙を研ぐ毎日。それを差し向ける相手ぐらい、選んでもいいだろう。
「多くの者がただ命を散らした。楠、貴様なら分かるだろう。この牙を突き立てる相手が月人であることに変わりはない。ここでかぐや姫が死ねば全ては終わる。後はその死体が蘇らぬように封印したままマリアナ海溝にでも沈めれば終わりだ。それがいいとは思わないか?」
菖の笑みに楠も笑みを返す。ただ少し呆れながら。
「……さてな、俺は北条の技をかぐや姫に振るおうとは思わない。それにもう殴って満足だ。菖さんも殴ってみりゃいい、それで満足するかもしれんぞ。なあ椹」
「あ? オレ? 知るかよ先祖とかどうだっていいし。だいたいお宝ってのは壊れたら価値がねえ」
「……はぁ、では桐はどうだ? 貴様なら知っているだろう? 私の一族は帝直属の暗殺者だった。一族の記録に確かに残っている、かぐや姫が他人の手に渡るようなことがあれば殺せとな。そんな帝のうわ言を届けるだけで満足なのか?」
菖の言葉に桐は目を見開いた。小さく振り返りかぐや姫を見る桐に、てゐは輝夜に引っ付き、輝夜は何も言わずに目を瞑る。大太刀を地に突き刺し立ち上がった桐は細く長い息を吐き、大太刀を回して背に背負う。
「……例えそうでも、今際の際の言葉に嘘はない。連れて来いでも、殺せでも、会いたいでもなくただ愛の言葉を口にした意味など誰も分からないでしょう。でも私は分かりたい。その尊いものを受け取った女性を殺そうとは思いません」
「……そうか、ちなみにそっちの」
「私? ちょっと、私をお前たちのいざこざに巻き込まないでよ。あいつを殺すのはもう随分前に諦めたし、まあなに? お前よりは楠の味方がしたいかしら」
腕を組みそっぽを向く妹紅に楠は両肩を竦め、菖は一度目を瞑り小さく顔を振る。ただほんの少し口角を上げて。
殺しだけの毎日だった。その心が壊れずに済んだのは、殺さなくてもいい櫟と藤が近くにいたから。菖に得意なことなど何もない。女性らしい料理や裁縫など全くできず、勉強も不得意で友人も少ない。ただできるのは殺しだけ。だからもしも本気で殺そうとしてもできなかったら、それ以外のことができるなら、どうかそれを教えて欲しい。
「ならば……さあ、私を止めてみろ。貴様らはここまで迫った死を止められるのか?」
細い鉄針が静かに高鳴る。目に見えぬ真空の針が空気の層に穴を開けた。目に映らぬ透明な穴を切り裂くのは五辻の大太刀。両足を動かす必要はない。足元にできた血溜まりの上で振り回す大太刀の遠心力を使い加速する。
「ッぐ⁉︎」
「見事、だが遅い‼︎」
大太刀の影に隠れるように、突き抜けた針が桐の肩に穴を穿った。僅かに速度を落とすことが命取り。壁のように迫る針の筵の前に白い髪がふわりと舞う。広げた両手はパントマイムのようにぺたりと透明な層に触れ、回した腕の動きに合わせて空間が捻れる。
「いかがだ殺し屋」
「手が足りんぞ盗賊‼︎」
拮抗できたのはほんの僅か。捻れた空間に弾かれて地面や建物に空いた穴と同じように、再度飛来する針をまた弾くが、一つ穴が椹の膝に開く。同時に空中に弾けた地面の小石を見て、椹の顔が少し歪んだ。目の前に差し出す腕に横から穴が開く。また一つ舞う小石。その結果をすぐに椹の頭脳ははじき出した。
「くそ、跳弾か! だが時間は奪ったぞ! 楠!」
「分かってるっつうの!」
菖の隣で影が揺れる。視界の端で月明かりを照り返す刀を見て、僅かに菖は目を顰めた。振り切られる右の刀を頭を下げて避け、左の刀は距離を詰めて避ける。体に当たるはずだった左腕が透けて行くのを眺めながら、反転する楠の背に蹴りを放つ。突き出された針のような蹴りは楠を貫き、その姿が揺れ消えた。地面から伸びる二刀を眺め、添えた右手を弧を描くように菖は下に這う楠へと落とす。
「腕一本貰うぞ楠」
「なら足を一ついただこう」
楠の右肘に穴が空き、菖の足が切り裂かれる。血の垂れる足を振りながら振られる菖の右手から距離をとった楠に、菖の笑顔が送られた。体勢を落としたまま振った右手を柄に添えて、菖の最速の牙が穴を穿つ。勝負は一瞬。いくつも壁を砕くのではなく透けてきた。薄く細かく息を吐き、楠の全神経が菖の右手だけに集中する。僅かに引き絞られた菖の指の動きに合わせて、楠は一歩足を出した。
「……貰った」
「見事だ、だが終わったのはどちらかな?」
穴をすり抜けた楠の顔は、笑顔を崩さぬ菖の顔を見て凍りつく。
自分の背後には誰がいた?
その事実に刀も振らずに振り返った楠の目の前で黒髪が散る。かぐや姫の背にある壁には黒々とした穴が空き、その姿は幻のように透けて見えた。崩れる輝夜の体がまるでスローモーション映像のようにゆっくりと倒れ、その背後にあるものを見せつけた。
視界に揺れる紅と白。体中に包帯を巻き、ぼろぼろの巫女装束を揺らした少女が立っている。手に持ったお祓い棒を肩に掛け、苛立たしげに小さく舌を打つ。
「博麗の巫女⁉︎ この短時間で技の調整をしたのか‼︎ ハハッ、見事だ!」
「あんたに褒められてもまるで嬉しくないわ。悪いけど私天才なのよね。楠、さっさと終わらせて手水舎おっ建てなさい。いちからね」
「今言うことじゃねえ⁉︎ って、は? いちから⁉︎」
「まだだ! 私の技の速度がこれで打ち止めだとでも思ったか!」
菖へ楠が振り向くよりも早く、菖の体が躍動した。ギリギリと空気を削る音を立てながら、細く鋭い穴を世界に穿った。およそ一秒掛からず開く口は、かぐや姫に向けて鋭い牙を突き刺そうと叫び、その間に究極の体が落ちる。
耳障りな音はまるで鋼鉄を引き裂く音。学生服を切り裂いて垂れる赤を指で掬い、調停役はその赤を服の端で拭う。
「完璧だ文女史、なんとか間に合った」
「結局飛ぶことになるとは……。腕がツリそうです。もう二度と梓さんは運びませんよ」
「梓の旦那! 遅え!」
「ああ遅刻か? だから言っただろう、椹なら僕より早く着くと」
最高の盾の登場に菖の顔が大きく歪む。血の垂れた足に目を落としながら、菖は舌を打ちながらも右手の添えられた柄を強く掴んだ。踏み込みの浅い足では今以上の速度は出せない。奥歯を噛み締めて体を沈ませる菖に向けて、輝夜の哀れんだ目が落とされた。
「……なんだその目は」
「……どうせなら、もう少し早く来てくれれば良かったのに。そうすればこの首をあげても良かった。でも、それは、周りの者に失礼でしょう?」
「貴様の想いなどどうでもいい。これも全て私のわがままだ。私は試したかったのだ。私に唯一ある殺しも無理なら、今度こそ別のことを」
剣の柄から手を放し、影のようにふらりと立ち上がった菖の体を光の濁流が飲み込んだ。迷いの竹林を貫く極光の輝きがその場にいた者の視界を塗り潰す。焼けた竹林も、穴の空いて大地も、月兎の死体も飲み込み、戦場の全てを洗い流す天の川が走り抜けた先には何もなく、開けた竹林の先にはとんがり帽子が揺れていた。
「どうだ! 今度は当ててやったぜ!」
「いや、これは当てたっていうより押し流したって言うか……これで終わりか? 梓さんよ」
「まあそうだな楠、よくやった」
梓の一言に三つの体が崩れ落ちた。怪我をしていないところを探す方が一苦労だ。誰も彼も体に穴を開け、枯れ葉の海に沈み込む。歯を擦り合わせることもなく、崩れた笑みもそこにはなく、お宝だって盗んでない。だが不満もありはしなかった。
「ちょっとあんたなに寝転がってるのよ。神社の修理が待ってるわ」
「今言うか⁉︎ もう少し優しさを見せろ! おい妹紅手を貸してくれ」
「嫌よ、自分で立って」
「あっはっはどんまい霊夢の彼氏!」
「彼氏じゃねえ!」
「あー! ずるいですよ楠ばかり女性に囲まれて! うぅぅ、姫様ぁ、今戻りますから!」
「こ、この野郎桐オレに引っ付くんじゃねえ! 気持ち悪いから泣くんじゃねえやな! ああ! 鼻水が付いたぁ⁉︎ フランドール嬢さっさと来てくれ! そんでこいつは潰していい!」
「……姫様の新しい部下やばいやつしかいないんだけど」
「部下じゃないわ、っていうかなにがどうすればこんな奴らばかりになるのよ! ちょっと! 永琳! あとイナバ!いい加減出てきなさい急患よ!」
月の使者は地上を去った。血濡れ達磨の三人を見て、記事を書くのも忘れて文はただ困ったように翼を羽ばたかせた。文の隣でしばらくそんな景色を眺めていた梓は、少しすると口を引き結びその場に膝を折る。周りが誰も気に留めていないのに呆れながら、仕方がないと文が咳払いを二つしてようやく全員の目が梓に向いた。
「かぐや姫様。僕は平城十傑、足利家第八十八代目当主、足利 梓。此度は無事で何よりでした」
「……そ、今度は足利ね」
「はい、ここに今四人しかいないことはお詫びいたします。他の六人もすぐに参りますので今しばしお待ちを」
頭を下げて言い切った梓に、三つの首が傾げられた。梓の言葉の違和感に、血が足りないせいなのか納得できない。三人の男は顔を見合わせ、楠は背を撫で付ける嫌な予感に、小さく歯を擦り合わせ始める。
「なあオイ梓の旦那、菖の姉御の計画もおじゃんになったんならよ、他の奴ら来る必要ねえだろ。しかも六人て菖の姉御も含まれてねえかや?」
「ああ含まれている。戦いは終わりだ。此度の演習はな」
「はあ⁉︎ 演習⁉︎ いやいや梓さんよ、なに言って」
「……どういうことかしら?」
「姫様、まだ本当の戦いが残っています」
梓の言葉に嘘だという言葉は返ってこない。梓の人となりを知っている三人はもとより、隣にいる文も、他の者はその意味を測りかねて。
なにが来る?
その答えは顔を上げた梓の見上げる先。夜空に浮かぶ黄金の球体。静かな夜に木霊する重い梓の声に、今度こそ楠はギリギリと歯を擦り合わせた。
「今こそ全てを話しましょう」
月から使者がやって来る。人を迎えず刃を手に。ただ死を迎えにやって来る。
手からポロリとペンを落とした文は、慌てて拾うと急いで手帳を開き文字を書き綴る。梓の話を漏らすことなく、自分史上最大のスクープを逃してしまわぬように。新たな記事の見出しはもう決めた。月の使者がやって来る。それに対するは幻想郷と十人の外来人。それらがいずれ叫ぶだろう罵詈雑言を思い浮かべて。
『月軍死すべし』
物語の終わりが始まる。
第一幕 完
ここまでありがとうございました。