竹取物語
「──今は昔、竹取の翁といふものありけり」
国語の女教師が読む教科書の一文に目を落としながら、心の底から少女はため息を吐く。なんともタイムリーな授業内容は、これまで少女が好き勝手やって来たことへの罰なのか、他の生徒の寝息や貧乏ゆすり、小さな話し声に混じって聞こえてくる竹取物語の一節に少女は覚えた頭痛をこそぎ落とすように頭を掻いた。
別に少女は竹取物語のことが嫌いではない。日本最古のSF物語。夢と悲哀の詰まった物語は面白いとも思う。だが、物語とは観客として眺めているからいいのであって、その渦中に放り込まれるとなれば別だ。それもより壮大で危機的なものとなればより強くそう思う。先日空中に突如開いたスキマよりひらひらと雪のように少女の頭上に舞い落ちて来た一枚の紙。そのたった一枚の紙が問題だった。差出人が誰かは手紙を見なくても分かった。手紙を手に取った少女が急いで広げた手紙の最初に書かれていたのは、『頼みがある』と。
「──さん、宇佐見さん」
「は、はい!」
考え事に集中していたせいでつい宇佐美菫子は強く返事を返してしまう。教師に怪訝な顔を向けられ、羞恥から菫子の頬に赤みが差した。これも全てスキマ妖怪のせいだと心の中で悪態を吐く菫子に、教師は教卓の上に手に持った教科書を置くと、疲れたようにホッと一度息を吐いた。
「宇佐美さん今日は起きているみたいね。それで?」
「あー、なんでしょう」
「かぐや姫が月に帰ると聞いた時の帝の心情をどう考えるか。そう聞いたのよ」
そんな文章問題みたいな質問をするなと目を泳がせて菫子は考える。美しい姫が手が届かない場所へと行ってしまう心境など、どれだけ考えても菫子には経験がない。異世界の研究をしている菫子からすれば、落ち込んでないで会いに行く方法を考えろボケと言いたい。が、それを言ったところで教師から花丸を貰えないことが分かるので、あまり自分を出さずに脳に浮かんだ客観的意見を弾き出す。
「それはまあ、帰って欲しくなかったでしょうね、その当時最高の者たちを揃えたくらいですし」
「その当時最高?」
「ええ、そうほら平城十傑──」
そこまで言ってしまったと菫子は顔を顰めた。案の定教師は馬鹿を見る目で固まっており、周りからもくすくすと笑い声が聞こえてくる。
平城十傑。かつてかぐや姫を月の使者から守るために帝が招集した十の一族の当主たち。その存在を知る者はほとんどおらず、だいたい竹取物語を史実だと考える者もいない。今度は深く考えなさ過ぎたと菫子が後悔してももう遅い。最近脳にインプットされたばかりの話は新鮮で、その鮮度を保ったまま出荷されてしまった。教師は呆れたように、これ見よがしにため息を吐き、教卓の上に置いた教科書を手に取った。
「はぁ、宇佐美さん、今は漫画の話をしてるんじゃないの。教科書を見なさい。変な活動に熱心なのもいいけれど、学生の本分は勉強よ」
「……はい」
どっちが無知だこの野郎と食ってかかることもなく、菫子は椅子の上で縮こまった。例え菫子しか知らぬ真実があったとして、そのほとんどは常識には勝てない。鬼も、河童も、天狗も、全ては想像の産物で、夢に見ようとも実際に見ようと思う者はいない。神が攻めて来ると聞き、それを信じる者もいない。
世界の命運を小さな教室の中でただ一人知っている。口を大にして菫子はそれを叫びたいが、もし試せば狂人認定の印を押される。苛立たしげに机の天板を指で叩きながら毒にも薬にもならない授業を聞き続け、授業終了のチャイムと同時に菫子は教室を飛び出した。
「ちょっと! 宇佐美さん!」
「ああ! 先生! その今日は部活の大会なんです!」
「あなたの部活大会ないでしょう!」
学校の廊下に木霊する教師の声と競争するように走っていた菫子の体は、曲がり角を曲がると加速した。地面にリズムよく落とされていた足の影は、足音を消して小さな影が一つ廊下に落ちる。揺らめくスカートは風に揺れ、重力が消えたように少女が舞う。空を蹴り学生たちが教室の扉を開けるのを横目に、菫子は一つの教室へと滑り込んだ。
『秘封倶楽部』
異世界の秘密を暴く非公認サークル。部員数は驚異のひとり。机の椅子にかけてあったマントを羽織り、机の上に置かれている黒い三角帽子を被れば秘封倶楽部初代会長の出来上がりだ。マントをはためかせて掛けている眼鏡の位置を直し、菫子は椅子へドカリと腰を落とした。
「あぁぁぁ、どうしよ」
情けない声を上げながら机の上に上半身を倒し両手でバシバシ机を叩く。竹取物語。幼き頃から知っている物語。菫子はかぐや姫本人だって知っている。だが、それに纏わる平城十傑のことなんて露とも知らなかった。キラリと光るレンズの向こう、机の上に置かれた手紙を見つめて再び手に取る。八雲紫から送られて来た一枚の紙。最後の意思表示の確認に二人の人間に会えと書かれている。
蘆屋家第百二十三代目当主 蘆屋 漆
岩倉家第十二代目当主 岩倉 菫
その二つの名前を見て菫子は頭を抱えた。八雲紫直々の案件、めんどくさそうなことこの上ない。だが断って幻想郷を出禁にでもなったらそれこそ困る。なぜこんな頼みごとが自分に来たのか、そんな菫子の疑問は、手紙に挟まれていた短な一文によって答えられた。
東深見高校。平城十傑の二人はここにいる。この事実を知った時菫子は顔を顰めた。誰かの策謀か。たまたまなのだとすれば運が悪いなんてものではない。手紙にしばらく目を落とし、それをくしゃくしゃ丸めると部屋の隅にあるゴミ箱へ投げる。
「あ、……っと」
ゴミ箱の縁に弾かれたちり紙に菫子が指をさせば、床に転がる前に空間に固定される。ゆっくり指を動かしてゴミ箱の上に浮かんで行ったちり紙を見て、菫子はゴミ箱へと落とさずに手元に引き戻した。
「はーあ、もう!」
ちり紙を手に取り窓を菫子が睨み付ければ、ひとりでに窓が両脇に開く。滑るように宙を飛び外に出た菫子は、学校の外壁に沿って空へと身を翻し舞い散る落ち葉を掻き分けて校舎を眼下に見下ろした。どこにでもある普通の学校。菫子の目にはそう見える。幻想郷という不思議の箱庭とは比べるべくもない普通。つまらなそうにそれを見ながら、はためくマントを抑え屋上へと足を落とした。
足音もなく屋上へと舞い降りた菫子は歩きながら周りに目を向ける。人の姿はまるでなく、青空といくつかの白い雲に囲まれている。陽に照らされて宙を舞う紅い葉を目で追いかけながら、後者に続く扉へと手を伸ばしドアノブを捻る。
カチャリ、と音を立てて静かに開く扉を見て、菫子はため息を吐きながら首を回す。普段開いていない屋上の扉が開いている。その事実に眉間に皺を寄せ、ペントハウスの上へとふわりと舞い上がった。ペントハウスの上に立った菫子の目は、目当てのものを見つけてしまい小さく目を反らす。
紫からの手紙を見た時、菫子にはそのうちの一人に既に当たりがあった。目を戻した菫子の目の前で横になっている一人の少女。菫子と同じくある意味で学校の有名人。曰く不良。暴走族と喧嘩をした。ここら一帯の高校全てをシメている。そんな噂に事欠かぬ自分とは正反対の世界の住人にわざわざ会いに来ている現状に、菫子はメンドイと雑に頭を掻いた。
少女は菫子が来たというのに目もくれず、昼寝でもしているのか目を瞑ったまま。金色の混じった長い黒髪は鋭く、世の中に反抗しているかのように外へ向かって跳ねている。整って見える顔はだからこそ少女の苛ついた内情を強く表し、切れ長の眉は剃刀のように鋭かった。菫子と同じ制服は、上は同じでもスカートは足首が隠れるほどに長い。一時代前のスケ番のようなスタイルに菫子は呆れながら、恐る恐る少女に声をかける。
「あのー」
小さな呟きは秋風に流され、少女に届いていなかったのか返事はない。少し待ち全く少女から返事がないのに内心で舌を打ちながらもう一度口を開いた。
「あの、蘆屋さん? ……蘆屋さん聞こえてます? ああなんで私が、蘆屋さん!」
「ウゼエ、あたしになんか用か」
急に身を起こした漆の顔が菫子の鼻先に突き付けられた。一体いつ立ち上がったのか。驚き目を瞬いた菫子の目の前から漆の姿は消え、目を擦った菫子の前には変わらず横になった漆がいる。ただし閉じられていた目は開けられ、青い瞳が菫子の顔に向いていた。
「で? テメエ宇佐美だったか? 学校の鼻摘まみ者があたしになんの用だよ」
「んなっ、それは貴女もでしょうが。だいたいさっきのはいったい?」
「んなことよりテメエは自分の格好をどうにかしな」
「な⁉︎ 格好いいでしょうが! はあ、これだから凡人は!」
菫子のファッションセンスに首を振りながら、渋々漆は立ち上がる。菫子よりも頭半分背の高い漆は威圧感があり、一歩菫子は足を下げた。その足は虚空を踏み抜き落ちそうになるが、慌てて帽子を抑えながら虚空を踏む。風に揺れるマントに片眉を上げ、隠すこともなく漆は舌を打った。
「テメエ、なんだ?」
「それはこっちの台詞なんだけどね平城十傑さん」
「テメエ……ッチ、藤の回し者かクソ! あいつに言っとけ、世界とか知らねえんだよ!」
平城十傑。その単語に初めて強く漆は答えた。鋭く尖った瞳は刃物のように菫子の抵抗心を切りつけて、喉から出かかった言葉を詰まらせる。身を翻し背を向ける漆の姿に、私に当たるなと欲しくもない頼みを受けてイライラがせり上がってきた菫子は、同じくそっぽを向いてズレた眼鏡の位置を直した。
「はぁ、藤って誰なのか知らないけど、これだから不良の相手は嫌なのよね。話にもならないし」
「あ?不良だ? 誰のことだそりゃ」
「貴女しかいないでしょうが、喧嘩の噂には事欠かないし、こんなところで授業サボって」
「喧嘩は向こうから勝手に吹っかけて来て勝手にくたばってるだけだ、それにサボってるわけじゃねえ」
「はいはい、だいたい不良ってそう言うのよね」
この野郎! と噛み付こうとして、途端に馬鹿らしくなり漆は止まる。学校の中でも一段と変な噂に事欠かないのは菫子も同じ。そういった変人と進んで関わろうとは漆も思わない。なによりも平城十傑という全く世に浸透していない言葉を知っている少女。それだけで厄ネタであるのは明らかだった。奇術師のような格好をしているコスプレイヤーの相手はもうやめたと屋上から去るため足を動かす漆を止めたのは、菫子の零した言葉に含まれたたったの一言。
「夢のある話だったからちょっと期待してたけど、不良を従えたんじゃ『かぐや姫』も可哀想ね」
「テメエ避けろ‼︎」
憐れみの言葉を零した菫子に返されるのは漆の叫び。急に形相を変えた漆に首を傾げる菫子だったが、次の瞬間視界が飛んだ。
音が消えた。体の感覚も。身に降りかかった砂埃と、遅れて聞こえてくる瓦礫の崩れる音。ぷくぷくと顔を出す体の痛み。目の前に刻まれた屋上の一本傷を見て、ようやく菫子は何かに殴られたということに気づく。
「やめろ『ウルシ』!」
ふらふらと立ち上がった菫子は、漆の側に立つ異形を見て目を見開いた。
背が高いと見える漆よりもなお背が高い。十尺はありそうな長身は、ボロボロの黒い十二単に包まれて、床に引き摺られその端は千切れて擦り消えている。足元に垂れた黒髪は滝のようで顔さえ隠し、黒い髪の隙間からは血走った赤い瞳が覗いていた。細いが異様に長い二つの腕の先には、針金のように細く長い指が五つづつ。全体として人の形はしていても、絶対に人でないと言える。屋上に突如現れた異形に固まった菫子の前に漆が立ち塞がり、犬を躾けるように地面へと指を突き付けた。
「かぁぁぐぅぅぅやさぁぁまぁぁぁ」
「うるせえ黙れウルシ、さっさと消えろ。かぐや姫は居ねえ」
悲しげに泣くような女の声が怪物から漏れ出ると、かぐや姫の名を口にしながら蜃気楼のように姿を消した。夢のような光景を見て漆の方へおぼつかない足取りで歩く菫子へと漆は振り返り、不機嫌そうに頭を掻いた。菫子の体に大きな怪我がないのを確認すると、「大丈夫かよ?」とぶっきらぼうに言い放つ。
「いやまあ、バリヤは間に合ったし。……それより今のは?」
「うるっせえ、どうせ藤か櫟か梓とかに聞いてんだろ。さっさとどっか行け」
「いやその人たちが誰か知らないんですけど」
「あ?なんだテメエ意味分かんねえ。ならなんであたしに話しかけた」
「いやちょっとした妖怪に頼まれまして」
「妖怪?」と怪訝な顔をして漆は手を振った。どんな者が関わっているのか知らないが、少なくとも漆は相手をしたくない。そんな漆に「あのあれは?」と好奇心を振り撒く菫子をあしらう為に、削れた屋上の床の破片を漆は蹴り上げた。
「……式神だ。あたしの一族は陰陽師だかんな。式神というより呪いだが」
「呪いですか?」
「ああ、千三百年前にいたらしい初代からのいらねえ置き土産だクソ! そんなわけで誰の頼みであろうが世界なんて気にしてる場合じゃねえ」
歩き去っていく漆の背を見て、菫子は人知れず口角を上げた。夢は夢ではなく、御伽噺は御伽噺ではなかった、幻想郷で見れるような光景が、今まさに目の前に広がっている。人のようで人ではない存在が自分以外にも身近にいるという現実が、頼まれごとの面倒さは別として、喜びとして菫子の内に広がった。
「まあ待ってよ蘆屋さん」
「ああ? なんだって?」
「一応私も頼まれたから聞かなきゃいけないのよ。幻想郷に来るかって」
「行かねえ、世界を救うなんて勝手にやってろ」
隣にふわりと並び立つ菫子を追い払うように腕を振り、漆は歩く速度を上げる。刺々とした空気を周りに放つ漆の近くにいるのは危険そうだと足を止めて、菫子は持って来ていたちり紙を開き、書き綴られた文字に目を這わせた。
「あー、一応これが最後ってことで、えー幻想郷にはかぐや姫がいる。呪い解けなくていいのかだって」
「あ? は? はあ⁉︎ ッチ! 藤と櫟の野郎黙ってやがったな‼︎ かぐや姫だと……、かぐや姫かぐや姫うるせえ‼︎」
ピリピリと空気を震わせる漆の感情に呼応して、漆の影がゆっくり伸びる。太陽の向きとは関係なしに伸びていく影からずるりと長い腕が伸び、屋上の床にペタリと落ちた。望外の膂力に軋む屋上の床は簡単にヒビが入り手の動きに合わせて削れていく。かぐや姫を呼ぶ泣き声をあげながら、外に飛び出る式神を見て漆の目がひどく歪んだ。
「ウルシ出てくんじゃねえ! 毎度毎度勝手に出て来やがって鬱陶しい! おいテメエ、宇佐美! 今言ったことに嘘はねえんだろうな! 嘘だったらウルシに千切らせるぞ!」
何をと漆は言わなかったが、細長い手に掴まれて上半身と下半身が離れ離れになる自分の姿を想像し、何度も菫子は頷いた。それを見た漆は醜悪な笑みを浮かべながら、隣の怪物を手で叩くと足早に菫子に近寄り肩を叩く。
「ならさっさと連れてけ案内人。あたしはさっさとこれとおさらばする!」
「いやあの、もう一人話さなきゃいけない相手がいるんですけど」
菫子の手に持つ紙を漆は覗き込み天を仰いだ。その名と東深見高校の字を見て舌を打つと、菫子の手を取り引っ張っていく。
「ちょちょっと⁉︎」
「場所はあたしが教えてやる! どうせあそこだ! ッチ、全然気づかなかったぞあの野郎」
歩みを止めぬ漆に菫子は諦めたように抵抗するのをやめて掴まれた腕を払うと隣を歩く。宇佐美菫子と蘆屋漆。問題児二人が並び立って歩く姿に、学生達は進んで道を開けた。
***
広いとは言えない東深見高校の図書室は、生命の休息日とも言える冬が一足早く訪れたように静まり返っていた。だがそれは耳に心地のいい静寂ではない。不発弾を投げ込まれ、それを刺激して破裂しないように息を飲むような静かさだ。内部の危うさは扉を閉められていても外へと滲んでおり、廊下を歩く生徒たちは巨大な箱の中身は何だろなに挑戦することもなく、ちらっと目を向けるだけで離れていく。
もし廊下を歩く生徒たちの中で誰か一人でも好奇心に負け図書室の扉を開けてくれれば換気ぐらいはできたのだが、そうでないせいで中の空気はどんどん悪くなる。それもこれも不発弾となっている二人の少女のせいであり、一人を除き図書室にいる生徒からすれば堪ったものではなかった。
二つの不発弾の一つは宇佐美菫子。入学早々『秘封倶楽部』という非公認オカルトサークルを立ち上げた変わり者。面白おかしく活動しているならばまだしも、大真面目に不思議を追い求める彼女は、机をベッドと勘違いしているのではないかというほどの授業中の居眠り常習犯でもあり、はっきり言って不気味である。それをマントに三角帽子という格好が強く後押しした。
二つ目はもっと分かりやすい。蘆屋 漆。時代錯誤の女番長。進学校である東深見高校にあって、数少ない不良の彼女を嫌う者は多い。その多くは事実無根な風聞によるものではあったが、彼女自身の体面の悪さと、気の強さがそれを助長し、少なからず触れずらい空気を纏っている。
そんな二人がなぜか一緒に図書室を訪れたとあって、生徒たちの心中は穏やかではない。何か起こるのではないかという期待と恐怖。漆のせいで若干後者に傾いている天秤は、一定感覚ごとに後者により傾いていく。
それは時折図書室の静寂を打ち破るパチリッ、という音のせい。火打ち石を打ち合わせているような音は二人の少女が顔を向けている先から発せられており、いつ着火してもおかしくはなかった。
「あーうちの部に、いやなんでもないです」
図書室に入って来てから一言も喋らない少女二人に意を決して少年が話しかけようとしたが、ギラリと二人の少女に目を向けられ引き下がる。そんな部長である少年に他の生徒たちからジト目が送られるが、少年は全スルーして席に戻った。
図書室を借りて活動をしているボードゲーム部。およそ荒事とは無縁の部がなぜか修羅場のようになっている。そんな空気に気づいていないのか、パチリッ、とまたひとつ音が鳴る。
そんな中菫子は他の生徒と違い冷や汗など流すこともなく隣の漆をちらりと見た。漆が見ているのは一人の男子生徒。黒い碁石をひとつ持ち、目の前の机に置かれた十九×十九のマス目へとまたひとつ置く。少女二人を気にすることもなく碁石を置き続ける少年に業を煮やし、漆は両手を叩きつけるように机に置いた。
「なんや先輩、ぼくになんか用ですかー? 秋にもなって新入生いびり怖いわぁ」
「テメエ私よりずっと年上だろうが、ふざけたこと言ってんなよ菫」
「え? 私何も言ってないけど」
「は?」
「今私のこと呼んだでしょ?」
「いや呼んで、はあ、テメエ名前は?」
「菫子」
紛らわしい!と漆は机を一度叩き、菫子の相手をやめて菫と呼んだ少年へ顔を戻した。
紫っぽい黒髪を短く切り揃えたどこにでもいるような少年。髪色こそ少しおかしいが、少なくとも菫子にはそう見える。漆や菫子のように格好がおかしいわけでもなく、学校指定のブレザーを着ている高校一年生。だが、漆の言った年上という言葉が引っかかり、少年の首元にある校章に目を向け眉を寄せた。
「……留年?」
「失礼やな先輩、ちゃんと一年生やで、何回目かは分からんけど」
「うるせえ、それよりちょっと面貸せ」
「わー、イジメやー、助けて先輩ー」
助けを求める菫の声に全員手元のボードへと目を向けることで逃げた。「あれま」という一言を残して漆に引き摺られていく菫の後を菫子も追った。図書室を出てしばらく菫は引き摺られていたが、他の生徒の目が気になったのか諦めて自分で立つ。紅葉した葉が舞う外の景色へ顔を向ける菫の胸ぐらを漆は掴んだ。
「菫、テメエは知ってたのか? かぐや姫が幻想郷にいるってよ」
「あーそれな、藤と梓から聞いたわ。まあぼくには関係あらへんな。世界もかぐや姫もどうでもええ」
「だってよ宇佐美、話はこれで終わりでいいな」
「え? そんなのでいいの?」
話は終わったと菫の胸ぐらから手を離す漆に顔を向けながら、菫子は両手を挙げてため息を吐いた。同じ平城十傑という枠組みの中にあって仲がいいわけでもないのか、菫は掴まれていた胸ぐらをはたきネクタイの位置を直す。
「そんなんで連れ出すなんてひどいわー。でもそう言うってことは漆は行くんやね」
「なんだ悪いか」
「別にええんやない? また初代みたいにかぐや姫のお守りに行けばええやん」
「テメエ!」
嘲笑の入った菫の声に怪物の手が影から伸びる。廊下の壁をスポンジを毟るように簡単にちぎるだろう怪物の腕は、振るわれた先の菫を確かに捉えた。がりがりとコンクリートを削る音は壁からではなく廊下の床から。足の大きさの線を廊下に刻みながら、菫は顔を崩すことなく受け止める。受け止めた手と反対の菫の腕はゆるりと漆の方へと伸ばされ、広げた手は人差し指と中指の間からキリキリと言う音を立てて二つに開かれた。腕の内部に見える歯車の間から迫り出して来るのは金属の筒。真鍮色の長い筒は狙いを漆の顔へと定め、空気を吸い込み低い呼吸音を繰り返す。
「やっぱり蘆屋の一族は短気で困るわ、進歩ないなあ」
「このガラクタ野郎が、
「君らと違ごうて、ぼくは日進月歩なんよ。今の世の中ぼくに丁度良くてな」
「歳だけ重ねた老害が、潰せウルシ」
「あーそ、人のままでぼくに勝てるわけないやろ」
「い、いやいやちょっと!」
二人の距離が強引に離される。見えない手に掴まれたような体の自由の効かなさに漆と菫の顔が歪み、間に歩いて来た菫子へと向けられた。怪物を従える少女とカラクリ少年を困り顔で見比べて、がっくりと菫子は肩を落とす。
「なにやってるのよ、場所を考えて!」
幻想郷なら見ててもいいが、ここは勝手知った外の世界の学校である。未解決事件になりそうな案件をほいほい学校で起こされても困るのだ。秘密を暴く秘封倶楽部でも、秘密を隠すどころか大いに振るう二人の前では常識を語らなければならないのか、自分の立ち位置が嫌になり菫子は強く舌を打つ。
「目を背けられるために目立つのはいいけど、目を向けられる目立ち方はいやよ。それも外でね」
「くくっ、面白いなあ、えぇ? 君は幻想郷の関係者なんか? ふーん」
「宇佐美テメエさっきからなんだそいつは、テメエなんなんだ?」
「こっちが聞きたいわ、私は宇佐美菫子、超能力者よ。で? 貴方たちは? 名前は聞いてるけど」
「ぼくは見ての通りや。岩倉家十二代目当主 岩倉 菫。名前お揃いやね。歳は六百歳くらい?」
菫の歳を聞き少し驚いたが、幻想郷での日々を考えれば珍しくはないのか? と菫子は一人飲み込む。ゆっくりと廊下の床に二人を下ろせばもう暴れはしないようで、菫は怪しげな笑みを浮かべ、漆は「……超能力者」と言いながら舌を打つ。自己紹介をしない漆に二人の目が集中し、いらねえだろと思いつつ漆は嫌々口を開いた。
「……蘆屋 漆だ。もういいだろ、さっさと幻想郷に連れてけよ宇佐美」
「そやね、ぼくも頼むわ」
「はあ⁉︎ テメエさっきと言ってること違うじゃねえか!」
「幻想郷って忘れられたもんが流れ着く落し物箱や廃棄場みたいなとこだと思っとったんやけど、思ったより楽しそうや。興味湧いた。こんなことなら梓も藤もはよ言ってくれればええのに」
「知るかウゼエ! ッチ! おい宇佐美、もうどうでもいいからさっさと連れてけ! こいつの相手はもうしたくねえ!」
「いやそれはいいんだけど……」
怪しげな笑みと怒ったような漆の二つの顔を受けて、菫子は目を反らす。幻想郷への行き方を菫子は知ってはいるが、連れてくとなると別である。なにより菫子は行くか行かないかの確認を取らされているだけだ。だが、「連れてき方は知りません」と言おうものなら、影からまた手が伸びて来そうな状況に、手紙になにか書いてあったかとポケットからくしゃくしゃのちり紙を急いで広げた。
「……あれ?」
「んー? どうかしたんか?」
「いや、これって」
「ぁあ? なんだよ意味分かんねえ、なんか書いてあんのか? 貸せ!」
菫子の手から手紙を引ったくり目を落とした手紙の文面が、漆が覗き込んだ時より変わっている。
いや、今まさに変わっていた。
ずらずら書き綴られていた文字はぐるぐると掻き混ぜらるように渦を巻き、短いたった一行の言葉に変わった。
紙が急に紫色の炎に包まれ焼け落ちる。慌てて手を離した漆の目の前で、焼け落ち消えた紙の代わりに、文字は消えず宙に刻まれていた。
『ようこそ幻想郷へ』
六つの目はその一文に一瞬固定され、互いに顔を見合わせる。
「あーっと、これは……なんや?」
「おい宇佐美」
「いや私に聞かれても」
そう呟いた菫子の言葉を最後に、三人の姿は学校から消えた。地面にぽっかり空いた異世界への扉が閉じてしまえば、残されるのは廊下の床に残った爪痕だけ。百目鬼の群れに放り込まれたような空間に叩き込まれ、重力も浮遊感もなく地のない世界を三人は回る。
「宇佐見! なんなんだこれは!」
「だから私に聞かないで⁉︎ でもこれは確か紫さんの!」
「あー、多分それぼくら三人が一定時間一緒に居たから発動したんやない? やらしいわ。藤のやつ、いかん言うたのにぼくの気が変わらんでも連れてく気やったな。いやそもそも菫子ちゃんみたいなのが来たあたりがもう……。その紫いう子とも仲ようできん気がするわあ」
「んな考察いらねえんだよ! あいつら全員覚えてやがれ!」
叫び声は反響せずにスキマへと飲み込まれていく。無数の目は新たな来訪者を歓迎するように、三人に向けて緩やかに弧を描いた。