富士山。日本で最も月に近いこの山には、日々多くの登山客が訪れている。そんな富士山の周りは深い山に囲まれており、山道こそ人の影をそれなりに見るが、森の中は別だ。薄暗い森の中は迷宮であり、蠢く影は怪物のように影にも見える。目に見えない壁に阻まれているかのように人は森の中に踏み入らず、踏み入るのは仕事か、それともある種の物事を決めた者だけ。
死を決めた者。自分で自分の命を断ち切ると決めた者は容易に不可視の壁を乗り越えて富士の樹海にやってくる。キィキィと揺れる富士の樹海に実った新たな死の果実を見上げて、「なんまんだぶなんまんだぶ」と口ずさみ、二ッ岩マミゾウは肩に落ちて来た枯葉を手で払った。
風が吹けば炎が揺らめいているようにも見える秋の富士の森の中を大学生が歩いている。一見するとそうとしか見えないだろうが、その実情は違う。佐渡の狸の御大将。二つ岩大明神として祀られてさえいる大狸。普段は大きな綿菓子のような尻尾を揺らし、凛々しい耳で風を切る少女も、今はジーンズにワイシャツ。その上に黄緑色のカーディガンを羽織った人間に化けていた。
別に旅行に来ているわけではない。秋に山に行くのなら少なくともマミゾウも八ヶ岳や奥羽山脈を訪ねる。昼間でも不気味に見える秋の富士の森の中を歩き、目当てのものを見つけて足を止めた。
結界のように枯葉のない地面を色付いた落ち葉が囲っている。炎に穴が開いているような景色に鼻を鳴らしながら、マミゾウはくしゃりと枯葉を踏み越え、音を吸い込む土の上に足を置く。
「こんなところに何か用だにか? おんしのような大妖怪がよ」
その足を押し返すような声が木々の隙間から風に乗って運ばれてくる。それは眼鏡を押し上げたマミゾウの目の前に物言わぬ石のように身じろぎせずに座っている。少し赤みがかった学ランに身を包み、畝った髪を風に揺らす四角くゴツいサングラスを掛けた男。男の視線がどこを向いているのかは分からないが、顔がマミゾウの方へ向いているのを確認すると、マミゾウは息を吐き目の前に落ちて来た葉を吹き散らす。
「お前さんよく分かったのう、なぜ分かった?」
「見えるからよ。おれにはな」
そう言って男は足元に置いてあった登山用のコップを手に取り口に運ぶ。顔はマミゾウの方に向いたまま、ただ相変わらずどこを見ているのかは分からない。自分の化けの皮が剥がれていないのを頭へと手を伸ばし耳に触れないことで確認しつつ、マミゾウは足を動かすことを再開する。
「見える? 唐橋という一族と同じく心眼とかいうやつの使い手か?」
「いや、言った通りだに。おれにはそのまま見えている。その立派な尻尾もな」
マミゾウは背後へ振り向き尻尾が揺れていないのを確認して頭を掻いた。変化には少しの乱れも見られない。だというのに男は見えていると言う。そのおかしさに笑いながら、マミゾウは男の前に立つ。サングラスの奥の瞳を覗き込もうとマミゾウは身を乗り出すが、男にそれに合わせて顔を上げられ阻まれる。
「噂に違わず変わってるのう。平城十傑、六角
「……おれを知ってるのか?」
「まあの」
「……そうだにか」
それだけ言って梍はサングラスへと手を伸ばしそれを外す。黒いレンズの向こうには、同じく暗闇が広がっていた。夜空の闇を圧縮したような様々な極彩色が瞳の中で揺れている。それを覗くマミゾウの視界もまた揺らぎ、数度のまばたきの後にマミゾウの前にいたはずの男の姿が嘘のように消え去った。
「ほ?」と声を漏らすマミゾウの体を突如吹いた突風が包み、周りの落ち葉が舞い上げられる。カラカラと音を立てながら加速していく落ち葉たちは渦を巻き、マミゾウは紅色の竜巻の中に囚われる。太陽の陽を透かしていたはずの木々はざわざわと鳴き喚き、細長い足を大地から掘り起こす。
「……幻術か?」
紅色の竜巻を貫いて伸びる槍のような根はマミゾウの足に巻きつき締め上げる。現実味の薄い光景は、痛みをもって現実であるとマミゾウの脳へと忍び寄るが、ぽふん、という間抜けな音と小さな白煙に飲み込まれ、突如空から落ちて来た巨大な信楽焼の狸に全てが踏み潰された。非現実には非現実を。富士の樹海に突然現れた信楽焼もまた、すぐに風に流され形を変える雲のように傾き倒れると、間抜けな音を立てて姿を消した。
「……やるな。これを狙って来ただけのことはあるだに」
「これ?」
富士の暗闇から滑り込んでくる梍の声。未だ姿を現さず、マミゾウの元に声だけが運ばれてくる。木を背に辺りを伺うマミゾウは、目を細めながら注意深く観察するが、液体のように形を変えた木の肌に腕を掴まれそうもいかなくなる。
技の出も原理も分からぬ幻術に顔を歪めながらも、手を化けさせてその場を離れる。生き物のように動く木々。風向きも気にせずに森を駆け抜ける生温い風。魔力も霊力も肌では感じない。梍を探し上を向いたマミゾウの足は、ずるりと落ち込み目を向ければ、落ち葉の中に足が沈んでいる。それも際限なく底なし沼のようにズブズブと落ち葉の海に沈んでいく足を見て、マミゾウは空を飛ぼうと力を込める。それを抑えるのは紅い海から伸びてくるいくつもの根っこ。イカの足のようにマミゾウに巻きつく。そのままマミゾウの体を引き、落ち葉の中に沈み込むマミゾウを止めるものはいない。
ぬるい感覚に身を浸し、頭の先まで引きずり込まれ息を大きく吸い止めるマミゾウの意識は、目を閉じてなお続き、暗闇がぐるぐると渦を巻く。暗黒の渦の中心から真珠のように白い骨の手が伸びる。頭の中で伸ばされた腕はマミゾウの首を掴み、強引に口を開けさせた。頭の中とリンクして口を開いたマミゾウの口に流れ込んでくるのはコーヒーの香り。驚き目を開けたマミゾウの前には、初め会った時と同じように梍が岩の上に座っており、カップを傾けていた。サングラスを掛けて。
「無駄な殺生をする気はないだに。これに懲りたら帰ってくれ」
「……今のはお前さんか?」
「ああ、おれを知ってるなら分かるだろう?」
「いやいや、知ってるのは名前だけじゃ。おっかないのう、化かされたのは久し振りじゃな」
「なに? 名前だけで会いに来たのか? なぜだにか?」
周りの景色が変化しないことを確認しながら大きく息を吐きマミゾウはその場に腰を下ろした。どんな目にあったのか。そんなことは梍には分からないが、よくないことだろうことは分かっている。だがどんな目にあっていようと暴力にすぐ訴えず、その場に居座る豪胆さに梍は舌を巻いた。それだけでマミゾウがやはりそこらの木っ端妖怪とは違うという証明になる。そんな妖怪が何の用で訪ねて来たのか。興味半分、怖さ半分で梍は聞く姿勢を整えた。攻撃の姿勢を崩した梍を見てマミゾウは短く息を吐き、少し前に自分のところにやって来たスキマ妖怪の言葉を思い出す。
「月から敵がやって来るそうじゃ。お前さんの力が必要なんじゃと」
「……それは」
「お前さんと同じ平城十傑の藤と櫟とかいう二人が探しとるんだと、そうある妖怪から頼まれてのう。儂が探しに来たというわけじゃ」
サングラスを外して目頭を指で抑える。目を閉じていてもびくりとマミゾウの耳が跳ねたのが梍には見えるため分かったが、マミゾウがまた幻覚を見ることはない。藤と櫟が絡んでいる。それだけで梍には面倒ごとであるということが分かった。なによりも『月』というワードが絡んでいるあたりとびきりだ。手に持ったカップを足元に置きながら、梍は目頭から手を離し目の前のマミゾウを見据えた。
「……なにが来るだにか?」
「月夜見じゃと。世界が滅ぶと」
「神か……、なるほど笑えるな」
押し殺すように笑いながら梍は天を仰ぐ。人の世には馴染めない。だから人のいない場所を渡り歩くような生活に身を落としていたのに、世界が滅ぶと言われては笑うしかない。笑う梍の瞳が彩雲のように輝くのを見ながらマミゾウは自分の膝に肘をつき、突き立てた腕に顎を乗せる。
「それで? おれにどうしろと?」
「幻想郷という場所が戦いの場になる。そこに来て欲しいそうじゃ」
「なるほど、で、おんしが案内人といったところだにか」
「ま、そんなところじゃ。それでどうする?」
「行こう」
即決して梍は足元のカップを取り飲み干すと背後に置いていたバッグに放り込む。バッグを背負い立つ梍を見上げながら、思ったより簡単に決めたなと探索の面倒さを思い出しながら、マミゾウも笑った。膝を一度強く叩くとマミゾウもまた立ち上がる。
「よいのか? そんな簡単に決めて。儂が言うのもなんじゃがかなり面倒そうな案件じゃぞ」
「ここに居ても仕方がないだに。藤先輩と櫟先輩の頼みはいつも面倒だにが、今回は行かないわけにもいかないだに」
肩を竦める梍に、同じく肩をすくめ返しマミゾウは化けの皮をぽふりと剥がす。落ち葉の上に柔らかな尻尾が落ち耳が生えるが、そんなマミゾウを見ても梍がなにか反応することはなかった。『見えている』。そう言った梍の言葉を思い出しマミゾウはつまらなそうに口を尖らせた。
「お前さんの目、なんなんじゃそれは? 人の目か?」
「そうとも。人の中で稀に出る邪眼というやつだによ。生まれてすぐに目を潰された櫟先輩のような人もいれば、おれのように逆に優れた目を与えられる者もいる。人生とは思い通りにならないもんだに」
邪眼。または邪視。生まれながらに見た者を呪う瞳。どういう経緯でそれが生まれるのかは分からない。ある種の進化なのか。それとも突然変異か。少なくともいいか悪いかの二択で判断するならば、迷わず梍は悪いと答えるだろう。優しさなどなく見た者に攻撃的な意思を向けるだけで相手は勝手に破滅していく。そんなものを良いと言えるわけがない。
そしてそんなものを現代まで繋いだ一族もまた良いものではないだろうと梍は断じる。邪眼などという特殊なものが毎度毎度一族の中で生まれるわけがない。なら梍の持つ邪眼はなんなのか。簡単だ。外部から持ってきた。邪眼の噂を聞きつけた古い当主はそれを手に入れ、それを自分に移植したのだ。死んだら次の当主に。また死ねばまた次の当主に。邪眼に適応できれば次の当主に。できなければ拒絶反応で死ぬ。そんなことを繰り返して現代まで運んできたパンドラの箱。
それを人の業を嘲笑うかのように邪眼は一千年経っても腐らず、活動も止めずに存在し続けている。その終着点はどこなのか。そんなことは誰にも分からないが、少なくともそれぐらいは良い方に持っていきたいと梍は思う。そのために。
「藤先輩も櫟先輩も梓先輩も、終わらせることをいつも考えていただに。今回の件はそれは大きいんだろう。きっと先輩達の目指していたところはこれだ。ならばおれも行かなくては」
「お前さんも、他の平城十傑とやらも大変じゃのう。欲しくもないものを与えられて」
「まあいざという時は便利だによ。嫌いな奴は簡単にあしらえるし」
「はっは、そうじゃろうな」
「で? その幻想郷にはどう行くだにか?」
意外と強かなことを言う人間の肩を叩き、マミゾウは一枚の葉を手に掴み掲げる。なんの変哲もない葉っぱ。サングラスの奥から邪眼で見てもそう見えた。それを梍の頭に乗せながら、マミゾウは微笑んだ。
「行く。というより向こうに引っ張って貰うんじゃ。化かすのは儂の、いやお前さんもか、得意分野じゃからな。ふふん、驚くぞ」
指を弾いてマミゾウの動きに合わせて軽い音が梍の頭上から響いた。薄い白煙に視界が包まれたと同時に、視界が伸びていく。背を引っ張られるように富士の樹海の景色は遠のいていき、紅い落ち葉は絨毯のように広がった。次第にその中からポツポツと木造の家屋が下から伸びてきて、それが生え切る頃には伸びた世界は元に戻り、静かだった世界が喧騒に包まれる。それに合わせてまたぽふり、と小さな音が梍の耳を叩いた。
梍の目の前を横切る人影は、怪訝な顔で梍を見ながら通り過ぎる。着た服は灰色の着物であり、足には下駄を履いていた。その奥にいる人もまた同じ。その周りにいるものもまた同じ。周りに目を移した梍の目に飛び込んでくる木造の日本家屋は、外では古めかしいとよく言われるが、今見えるのは真新しいもの。江戸時代にでもタイムスリップしたような光景に眩暈を覚え梍の足がふらついた。
「こらこらしっかりせんか。ふふ、視界が急に変わるのは初めてかの?」
「いや、ああこれは……すごいだにな」
支えてくれたマミゾウから離れて、梍は空へと目を移した。風に乗って流れている魔力や霊力に目を見張り目を見開く。外の世界とは空気から違う。小さな箱に遥か太古の幻想を詰め込んだようだった。薄く遥か先に見える魔力はドーム状に世界を包み込んでいるように見え、手をどれだけ伸ばそうともその結界に触れることはない。幻想郷。幻想が行き着く最後の都。至る所に点在する魔力や妖力、霊力の塊に目を見張り、それが消えないか確認するため梍は軽く首を振った。
「もう幻想郷だにか? いや、心の準備とかそういう問題じゃないだにな」
「もう少し風情を出すべきじゃったかの? まあでも化かされた仕返しというやつじゃ」
悪戯っ子のように笑うマミゾウに呆れながら梍は首を振る。普段多くの見えないものも見てしまう梍もこれには驚いた。まさしく化かされたような気分だ。だがそれは多くの人の声と、風に乗って流れてくる木の匂いと美味しそうな食べ物の匂いを嗅いで現実だと認識した。途端に鳴る低い音は梍の腹が鳴った音。そう言えば久しくちゃんとしたものを食べていないと思い出し、梍は腹をさすった。
「はっはっは! 花よりだんごか? 体は欲求に素直じゃのお」
「仕方ないだに。ここ二、三日野草の煮込みしか食べてなかったから」
「野生動物みたいな生活しとるのう。そうじゃ、折角の幻想郷初日ということで昼は奢ってやろう。詳しい話はその時にでも」
「いいんだにか? なら頼むだに」
バッグを背負い直し梍は歩き出す。向かう先は風に乗って流れてくる美味しそうな匂いの出所へ。薄く宙を泳いでいる白煙は梍だけが見えている。その道標を辿りながら、隣を歩くマミゾウへ目を向けた。尻尾を振って耳を出したマミゾウは、周りの人々から多少の目を向けられてはいるが、騒がれることもなく慣れたように歩いている。世界観の違いにまだ面食らいながら、梍は漂う白煙に目を戻した。
「変わった場所だに。そう言えば集合場所とか、拠点とかはあるだにか?」
「ん? いやあ、時が来れば集まるじゃろうがそれまでは好きにしてていいんじゃないかの。儂はお前さんを幻想郷に連れて来いとしか聞いとらんし」
「そんなんでいいだにか? なんとも適当な」
あまりの保障のなさに梍はため息と共に肩を落とす。扱いがあまりにも雑過ぎる。困ったことに野山に放てば無問題ではなく、人間は快適ではない環境にはがっかりしてしまう。いくら人の目を離れた場所を移り歩いていた梍でも、風呂に入ることもあれば食べ物だってスーパーで買う。もしあるなら布団やベッドで寝たいところ。そのどれがあっても手に入るかも分からぬ状況に梍は頭を痛めた。
「ひょっとして来たる時まで野宿だにか?」
「そうじゃのう、お前さん以外の平城十傑は勝手に居候になったりして住む場所確保してるそうじゃぞ?」
マミゾウの言葉に梍の頭痛は痛みを増した。
「先輩たち逞し過ぎるだに……。どうすればそうなるだに?」
「さあのう。まああれじゃ、儂の知り合いに寺に住み着いてる奴がおっての、それを頼ってみようか」
「頼むだに、悪いだにな」
「困った時はお互い様じゃ」
気の良い大妖怪の懐の深さに感謝しながら、梍は辿っていた場所の終わりを見つける。木造の家の切れ間に置かれた木の屋台。引車にようなそれからは、甘いタレに漬け込まれた鶏肉の匂いが流れて来ており、空きっ腹を直撃してくる。「あそこで」とマミゾウに言いながら屋台を指差した梍はそのまま固まった。
「…………楠先輩?」
「あ?」
屋台で焼き鳥の串を持って手慣れた様子で焼いている男に梍は非常に見覚えがある。ワイシャツの上に割烹着を着た楠は、人相の悪さと全く似合っていなかった。屋台の前に立つサングラスを掛けた男の登場に楠はギリギリと歯を擦り合わせると、パチリと弾けた木炭の上に置かれていた焼き筍をひっくり返す。
「梍、なんでいやがる。ああいい、藤さんか梓さんに呼ばれたな。ドンマイ!」
「いやまあそうですけど。楠先輩は何して……いやほんとになにしてるだに」
「見りゃ分かるだろうが。焼き鳥屋だ」
それがなんでか聞いてるだに⁉︎ と叫びながら、梍は突き付けていた手をダラリと下げた。月からやって来る神との戦いのために集められているはずなのに、なぜかそのうちの一人が焼き鳥の屋台をやっている。梍が知っているいつも不満そうに刀を振っていたはずの楠のイメージと今が全く合わない。固まる梍の前で焼き鳥を焼き続ける楠の顔は怪訝であり、そんな楠の後ろから長い銀髪を揺らして一人の少女が顔を出してきた。
「なによ楠、知り合い? ……ああ、外来人? ってことはそいつも平城十傑? 初めて見る顔ね」
「ああ六角 梍って言ってな。うちの寺にたまに泊りに来てた奴さ。こりゃ他の奴らもついに来たかな」
「あー、楠先輩? そっちの人は?」
「ん? ああ妹紅って言ってな。ほら藤原の」
楠と親しそうな少女に目を白黒させていた梍だったが、少女の名前を聞いて本当に視界が白黒になったのかと思うほどに錯覚した。藤原妹紅。楠から何度か聞いた千三百年前に存在していた貴族の少女。それが目の前にいると聞かされて平気な方がおかしい。妹紅に目を向け幻の類でないことを確認して、梍は顳顬を抑えた。
「え? え? 本当にいただにか? いや、えぇぇ」
「言っとくけどかぐや姫もいるぞ、アンタなんで来たんだ?」
「はあ⁉︎ 全然聞いてないだに⁉︎」
「ちなみにもう俺は殴ったぞ、やったぜ」
「いや先輩なにしてんだに⁉︎」
情報が多過ぎて梍の脳がオーバーヒートする。おかしなものを見る妹紅の目と、呆れた楠の目から逃げるようにマミゾウへと梍が目を向ければ、肩を竦めるだけで否定もなにも返ってこない。ただ小さく梍の腹が鳴り、取り敢えず食い物と叫ぶ体の欲求に逃げることにした。
「あー、楠先輩、取り敢えず」
「なら金を払え。常連客が食い逃げ犯ばっかで俺の給料がやべえ。ちなみに外の世界の金はなしだ」
「それなら大丈夫だに」
「ほいほいっと。約束じゃからな、ここは儂が奢ろう」
「え、なにその人超いい人じゃん。俺のと交換してくれ」
「なんで私を見るのよ、今日泊めないわよ」
「交換してくれ」
妹紅に頭を叩かれながらマミゾウから代金を受け取った楠から幾らかの焼き鳥を受け取る。視界の端で「これで霊夢と魔理沙の分」と給金を引かれている楠を目に入れないようにして、梍は久し振りの肉に腹を満たした。味は楠の家で何度か梍はご馳走になっているため心配はない。急いで腹に焼き鳥を詰め込み、串は屋台についているゴミ箱へと捨ててしまう。
「それで先輩はその人の家に泊まってるだに?」
「ん、まあ一応妹紅の家とあと博麗神社に行ったり来たり」
「博麗? 博麗の巫女? なんでそうなっただに?」
「いや神社の修繕と妹紅の家の修繕で」
「先輩マジでなにしてるだに……。おれは神様と戦うからって言われたんだにが」
「らしいな。俺もつい最近聞いたよ。梓さんと藤さんと櫟と菖さんに嵌められたんだよマジで。会ったら邪眼使っていいぞ」
「いやそれは……。他の人たちも来てるだに?」
梍の問いに楠はウンザリとした顔になり歯を擦り合わせた。そんな楠の様子に聞きたくないなあと思いながらも、顔には出さないようにしつつ梍はサングラスを指で押し上げ位置を直す。
「桐のやつは白玉楼ってとこにいる。たまにそこの庭師と屋台に来るぞ。椹はあれだ」
楠が親指で雑に指した塀には盗賊と書かれた椹の人相書きが風に揺れており、梍は苦笑いを浮かべてそれに応える。
「梓さんは妖怪の山で新聞作ってるぞ。しばらくすれば今日も天狗が届けに来るはずだ。菖さんは知らん」
「なんというか予想通りというか、まず梓先輩に会いに行くのがいいだに? それともかぐや姫様?」
「梓さんのとこはやめとけ。妖怪の山ってとこにいるんだが隠れてるようなもんだからな。警備も厳しいし今は外来人が近寄るだけで殺しにかかって来るぞ」
「え? なんでだに?」
「梓さんのせいだ」
「いやもう本当に先輩たち、いやもうなにも言わんだに」
好き勝手やりすぎなんじゃないかと言いかけた梍だったが、よく考えれば考えるほど別におかしいことでもないんじゃないかと梍の感覚が麻痺してくる。なぜか焼き鳥の屋台をしながら大工仕事をしている楠。早速指名手配されている椹。梓は相変わらず不運なようなので梍は考えないことにする。戦いの前から早速いろいろ心配になった梍だったが、かぐや姫のことを思い出しそれは聞いておこうと顔を上げた瞬間口を閉じる。
楠がギリギリと歯を擦り合わせている。それは楠にとってよくない状況が来ている証。その音に耳を澄ましながら、楠の目と、顰められた妹紅の目の先を追って梍も顔を動かした。その先に待ち受けていたのは黒髪の乙女。なにか言うよりも前に梍は息を飲んだ。不思議と誰か言われなくても察しがついた。シミひとつないシルクのような白い肌とその美貌。その少女を見た梍は間抜けに口を開き目を見開く。
「ま、まさかかぐや姫さ「あっはっは! 来てやったわよ楠! 今日も焼き鳥を献上なさい!」……ま?」
「来やがったななよ竹の疫病神さまよう! アンタ金持ちなら金を払え! せけえんだよいろいろ!」
「なに言ってるのよ私はかぐや姫よ? はいはい、全く味は良いのよねえ」
「げ⁉︎ いつの間に取りやがった⁉︎ 食い逃げだ! 妹紅焼け!」
「言われなくても!」
「あっつ⁉︎ なにするのよ! これは謀反だわ! 切腹!」
「するかあ! 妹紅塩だ塩を撒け! 塩塩‼︎」
「それはもったいないからいや」
「えぇぇ……、ええええ⁉︎」
一族が追っていた月の姫。その美しさから帝さえも愛したという少女の幻想が、梍の中で音を立てて崩れていく。妹紅の炎を避けながら焼き鳥を奪う少女はどう見ても平城京一の才女には見えない。ひどい頭痛に襲われてふらふらと揺れる梍を、笑顔のマミゾウが支えた。その笑顔の眩しさに梍はマミゾウに化かされていると夢を見たかったが、優秀な目がそれを否定した。
「大丈夫か?」
「……こんなことなら来ない方が良かったかもしれないだに」
「あら? また外来人? 貴方は誰かしら?」
「え? ああ、かぐや姫様、おれは六角 梍と言って」
「六角? ああ六角も来たのご苦労様。じゃあ貴方も今日から私のために働きなさい。それが望みで来たんでしょ?」
「ええええ⁉︎ そうだっけ⁉︎ もうわけわからんだに⁉︎」
「誰が働くかアホ! 梍! 邪眼使え邪眼! それか殴れ!」
「楠先輩頭おかしいだに! 梓先輩に怒られるのは嫌だに!」
「そうだったわ楠! あの時貴方二度も殴ってくれたわね! 私まだあと一発殴ってないわ! 殴らせなさい!」
「本気のアンタの拳なんて受けたら死ぬわ! 妹紅盾だ!」
「なるか馬鹿! 護衛役はお前でしょうが!」
妹紅に背後から殴られ地に埋まる楠に輝夜が飛び掛かる。もう見なかった事にして梍は踵を返すと振り返ることなく歩き出す。梍の背中からは人を殴るとは思えない音が響いていたが、楠なら多分大丈夫だろうと勝手に終わらせて、マミゾウを急かして先を急いだ。
「いいのかアレは放っておいて、見てる分には愉快じゃったが」
「いやもうなんか早く寝たいだによ……。それに今なら悟りが開ける気がするだに」
見たいものは全て見れるが、この世には見なくてもいいものがある。それをまた一つ知った梍は少しだけ大人になった。