月軍死すべし   作:生崎

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大将の器

  強烈な酒気が鼻先を掠め、梓は堪らず指で鼻を擦った。ただ対面に座る者が気分を害さないよう、つとめて自然に。そうして差し出された盃をおずおずと断った。残念そうに苦笑する鬼の額の朱の一角が揺れ動く様を目で追う梓を見ながら、勇儀は一口で酒を飲み干す。水抜き穴のようにただ酒の流れていく赤い唇を梓は眺め、浮かべた笑みを僅かに深める。

 

  初めて会った時と変わらぬ梓の様子に勇儀は満足気に頷いて、唇を一度舐めると晴れやかな橙色に着物の胸元へと盃をしまった。

 

「はぁ、やっぱり秋の山の景色はいいね、見事な野山の錦。これで酒の相手も居れば言うことないんだけど」

「前にも言ったが僕は酒に弱くてな。一口でぐでんぐでんだ。今そうなるわけにもいくまいよ」

「分かってるさ、話し相手がいるだけでも違うからね」

 

  薄く笑い声を上げて窓辺に寄りかかる勇儀を楽しそうに梓は眺めるが、ただ、残念ながらこの場で笑顔なのは二人だけ。バランスを取るためなのか、同じく二つ蝋人形のように暗く凝り固まった顔がある。そんな顔でカタカタとタイプライターを叩く文の姿は、下手な絡繰人形よりも不気味だ。営業用の仮面を被ったはたても同じようにタイプライターを叩き、時折肘で文を小突く。

 

「……もう何日目よ」

「三日よ、三日。三日も私の部屋に鬼がいるわ……」

 

  妖怪の山にやって来た勇儀を出迎えてから、三日も文の部屋に鬼が入り浸っている。なにをするでもなく酒を飲み梓と話しているだけだが、鬼がいるというだけで文とはたての両肩は子泣き爺がくっ付いているんじゃないかというほど重かった。

 

  ただ、勇儀がいることで他の天狗が全く寄り付かないため、梓を隠す意味においてはこれほどうってつけな相手もいない。だから社交辞令でも、散歩でもどうですか? とすら言えなかった。故に三日間印刷機のようにただ文とはたては新聞を書く機械と化し、気が抜けるのは外に出た時だけ。ため息を吐きながら今日の分の新聞を書き上げ、印刷所に持って行けと文ははたてに手渡す。

 

「今日は私が配って来ていいわよね?」

「昨日は私だったからね。はたてに譲るわ」

 

  今はいがみ合う時ではないと出ていくはたてに手を振って、文は座っている椅子に深く沈みうんと両手を伸ばす。そんな少し肩の力を抜いた文の目の前に赤い角が突きつけられ、文は咳き込みそうになった喉をなんとか鳴らし息を飲み込む。夕日のように光る勇儀の瞳が文を覗き込むと柔らかく歪んだ。

 

「お疲れだね文屋。どうだい一杯、梓は相手してくれなくてさ」

「ぇえ⁉︎ ああいや私は」

「すまない勇儀、文女史に今酔っ払われると困る」

「そう! そうです! 梓さんもそう言ってますし!」

「なんだいつまんないね。いつから天狗は人の言うこと聞くようになったんだか。……なあ梓、面白い話でもしとくれよ。私は退屈してきた」

 

  目の赤みが増し、勇儀の身から妖気が滲む。口の端が落ちていく文とは対照的に勇儀の口端は上がっていくが、特に表情を変えない梓は前のめっていく勇儀を手で制した。頬を膨らませる勇儀につい梓は笑ってしまい、申し訳なさそうに一度口元を手で覆うと笑みを消す。

 

「月夜見の話じゃ満足いただけなかったか?」

「いやあ、あれは面白い話だったさ。神との喧嘩! それもお前さんと一緒なら悪くないさ梓。ただねぇ、いつ来るか分からない相手を待つのはしんどいもんさ。すぐって言ってももう三日。折角地上に上がったのに梓以外の面白い人間にも会えてないしね。力を持て余しちまうよ」

 

  そう言い勇儀が拳を鳴らす音は稲妻のよう。肩の跳ねた文を見て、梓はまた苦笑する。が、すぐにまた笑みを消す。勇儀がここで暴れれば文の部屋が壊れてしまう。世話になっているのにそれはまずいと、梓はいい案が浮かばないか少しの間頭を回したが、思いつく案など一つだけ。仕方がないと一人頷き、座っていた椅子から立ち上がる。

 

「本当は藤が来るまで待つつもりだったんだが、致し方あるまいな。どちらにしろ時間が足りないかもしれん。この三日で勇儀の妖怪の山での立ち位置もよく分かった。僕も動くしかあるまいな」

「立ち位置って、目の上のたんこぶかい?」

 

  シャレにならない冗談に、どうすればいいのか口を開けたまま文は固まる。梓だけは文の代わりに薄く笑い、勇儀の顔を見返した。

 

「まあそんなところだ。おかげで行くのが容易いだろう」

「行く? どこにだい?」

「天魔に話をつける。天狗を味方につける時が来た」

「は、はあ⁉︎ ちょっと梓さん正気ですか⁉︎」

「嘘をついてなんになる。必要のないことは言わん。天狗は幻想郷最大の妖怪集団だ。そして絶対の縦社会。一番上と話をつければ全て済む」

 

  天魔が白と言えば白。天魔が黒と言えば黒。天狗社会の絶対権限者。そのたった一体の妖怪が、天狗の行動の全決定権を持っている。梓の考えは正しくはある。天狗全てを味方にするなら一番の近道はそれだ。梓の話に勇儀の笑みが深まるが、文は逆に口端を歪めた。

 

「あの、梓さん。言いたくはないですが天魔がどうやって選ばれるかご存知ですか?」

「予想はつく。強さだろう」

「ええそれも天魔様は勇儀様たちが山を統治していた時代から、今も変わらず天狗の頂点に立つ方です。その力は甘くないですよ」

「私たちが統治してた時って、それは文屋も」

「あぁっと⁉︎ 勝つ見込みがおありですか梓さん! 天魔様は天狗最強で間違いありません。梓さんのことです、勇儀様の力を借りようとかは思ってないんでしょ?」

 

  文の問いに梓は微笑で返し、勇儀もまた笑った。答えを言葉で聞かずとも、梓の考えていることが分かり文は肩を竦める。そして文もまた薄っすらと口角を上げた。天魔に挑んだ人間がこれまでどれだけいたか。両手の指の数より少ない。その中で天魔に届いた数は、残念ながら一つもない。

 

  梓ならどこまで行ける?

 

  そんな期待に胸を寄せる自分は馬鹿なのかとも思いながら、好奇心には勝てず、新しい新聞の見出しばかりが頭の中を流れていく。想像の風の中を飛ぶ文だったが、その中に雑音が混じった。風に乗って流れてくる話し声。それに首を傾げながら、必要な一言を拾い上げ、梓の方へと勢いよく振り返る。

 

「梓さん……、ウルシ、蘆屋が来たみたいです。現在妖怪の山の麓、間欠泉センターに」

 

  文の言葉に「また来たか」と勇儀は喜び、梓もそれを噛みしめるように目を伏せる。平城十傑随一の術師。欠けてはならないピースの一つ。

 

「漆が来たか。なら菫も来たな」

「どうしますか? ここに呼びます?」

「……漆も菫も、ここに来たところで勝手に動くだけだろう。間欠泉センターだったな。文女史、地底へ落とせ。漆のことだ死にはしない。菫は……放っておいてもいい。それに、僕は会ったことはないが地底の主に会った方が漆のためだろう」

「あのさとり妖怪にかい?」

「そうだ勇儀、漆にもウルシにも必要だろう。藤や櫟ならおそらくそうする。僕らには出会いこそが大事になり得る。文女史、行ってくれるか?」

「そうですねぇ、いいですとも。できるだけ早く戻って来ましょう。メインイベントを見逃さないように」

 

  風に溶けるように消えた文を見送り、梓は小さく息を吐いた。月軍が来るまでにやれる梓の最後の仕事。天狗を味方に引き入れるために天魔に会う。難しい顔の梓に「どうだい?」と勇儀は盃を差し出した。紅い盃と紅い一角をしばらく交互に見つめたが、「また今度」と、梓はやっぱり断った。

 

 

  ***

 

 

  妖怪の山、山頂。天魔の座す場に向かえば向かうほどに、木々より建物が目立つようになる。山の岩壁に背の高い木の足を伸ばし、投入堂*1のように岩肌と混ざり合った建物は、人の住処にしては危う過ぎた。岩を撫ぜる風は独特の唸り声を響かせて天狗の里を駆け抜け。風に乗った落ち葉が肌を撫ぜるのを眺めながら、木の床を軋ませる足音が二つ。

 

  それを見送るいくつもの黄色い眼光は、黒い羽と白い体毛を風に揺らしながら、口に覗く白い牙を光らせる。それを差し向けようと薄く牙を誰もが開くが、鼻先をかすめる妖気に一様に口を噤んだ。視線を裂く紅い一角。たった一匹の鬼が肩で風を切り歩くそれだけで道が開く。かつて妖怪の山を統治していた四天王。その威光は未だ衰えず。橙色の着物を翻し歩く姿の艶やかなことよ。ズリズリッと後退する天狗たちの足音に耳を傾けて、勇儀はつまらなそうに目尻を下げる。

 

「はぁ、梓は寧ろ向かって来たのに、羽毛のように軽い連中だ。着替えりゃ良かったよ、こんな奴らに見せつけてもね」

「その着物も似合っているがな」

「そりゃありがとさん。男に会いに行くんだから格好くらいしっかりしたいだろう? こいつらに見せることになるとは思わなかったけどね」

 

  天狗の視線は一時は勇儀に向くも、すぐにその視線はその隣を歩く人間の男に向く。背丈はおよそ勇儀と同等。恐れた様子もなく、ただ淡々と足を運ぶ。見慣れぬ服に身を包み、散歩でもするように天狗たちの垣根、その間を歩いていく。

 

  妖怪の山に侵入し脱走した男が鬼と共にやって来た。その意味不明さに天狗たちは顔を歪めただ見送ることしかできない。天狗たちが指し示す道を駆け上がり、斜面が緩やかになり始めた頃、大きな木の扉が視界の下から伸びてくる。その両脇に控えた二体の高い鼻を天に向けた大天狗が来訪者に目を落とし、そのうちの一体の目が鋭く尖った。向ける先は当然人間に向けてであり、その目に優しさはない。

 

「……何をしに来た人間」

「ここまで来れば分かるだろう、天魔に会いに」

「罪人の分際で天魔様に会うか!」

 

  大天狗の妖気が風となり梓の肌を叩く。背後の天狗たちが吹き飛ばされないように踏ん張る中、そよぐ前髪が邪魔だと後ろに流しながら梓は変わらず足を出した。激流の中を変わらず歩く人間に大天狗は目を少し見開き羽を広げる。言葉は不要。梓は大天狗と話に来たわけではない。隣を歩く勇儀の笑い声に肩を竦めながら、梓はポケットへと右手を伸ばしその手に刃を掴んだ。

 

  全く扉を開ける気のない大天狗に開けて貰おうとは思わない。ここまでは勇儀のおかげで楽に来れた。天魔に続く扉ぐらいは自分で開けねば格好がつかんと、壁のように圧の増した風に向かって、梓は思い切り右腕を振り抜く。

 

  壁に楔を穿つが如し。拳大の弾丸に貫かれ弾け飛んだ風の塊に巻き込まれて扉が吹き飛ぶ。大きな木片が風に流れて飛んでいく中、変わらず勇儀と梓は足を進めた。大きな何本もの蝋燭の火が、岩を綺麗に削りくり抜いた風穴を照らし出す。その中央に大きな黒い羽が揺れる。虚空に座した人影を避けたように円を描き散った木片の欠片。それを横目に見る深蒼の瞳は、冬の空風のようだった。

 

  黒っぽいワイシャツと長く綺麗に折り目の入った黒いスカートを靡かせ、同じように長い黒髪を風に揺らしている。全体が黒っぽい中で、唯一色鮮やかな瞳が異様に目立つ。その青い瞳がゆっくりと勇儀に向き、黒い少女は小さく頭を下げた。

 

「これはこれは、勇儀殿。久々に元気そうな顔を見れて嬉しく思うぞ。地底に篭ろうとその輝きが失せていないようで嬉しい限りよ」

「相変わらずだね天狗の頭領。相変わらず偉そうだ。お前さんも変わらないね」

「変わらないとも。貴女と同じ。敬意は払おう、それだけだがな。さて……」

 

  挨拶は終えたと天魔の目がゆっくりスライドした。妖気も魔力も感じない人影を目に留めるほどに、天魔の瞳に差した影が濃くなる。その目を受けても眉すら顰めぬ人間に、より呆れたように天魔は首を回した。

 

「足利 梓、平城十傑とやらの大将だったか? 随分とまあ、うちの天狗を勝手に使ってくれたね。それだけならまあ面白かったけど。私のところまで来るっていうのは、そう、思い上がりね。何しに来たのかは聞かなくても予想はつく。戦力の徴収? 私たちが人間風情の下につくと?」

「下につけと言う気はない。ただ力を借りたい。月の神と戦うのにバラバラでは勝てまい。各々好き勝手やって勝てるような相手なら、そもそも僕らは来ていない」

「なら来なければ良かったのに。この山を襲い、間欠泉センターも吹っ飛び、好き勝手やり過ぎだろうが人間。それで手を貸せ? 随分と虫がいいな、ん?」

 

  天魔が指を弾けば、その音の波紋が刃に変じ広がった。梓を斬りつける刃は梓の肉体に弾かれ四散し、周りの地面に数本の線を刻む。人の形をした鉄塊のような男を興味深そうに天魔は眺め、鼻で笑った。

 

「報告の通り頑丈だな。何を食べればそう育つ?」

「バランスの良い食事と適度な睡眠だ。話し合いで終わらせる気はないのか?」

「話し合い? 話し合いとは対等以上の相手とのみ成立する。私とお前が対等だと? 同じ大将でも価値が違う」

 

  天狗の頂点と平城十傑の調停役。たった十人の纏め役と、多くの天狗を束ねる長。背負うものも見ているものも違う。梓の前で天魔は虚空に腰を下ろすと、静かに緩やかに足を組んだ。表情には笑みはなく、ただ冷ややかな瞳の色で場を覆うように人間を見つめる。それを受け止める梓の顔もまた変わらず無表情。張り詰めていく空気に、鬼だけが静かに微笑んだ。

 

「天狗は天狗だから偉いのではない。偉いから天狗なのだ。そんな私と人間のお前が対等なわけないだろう。私はそんな天狗を率いる者。全てを率いてこその大将だろうよ。なのにお前は、大将としてどうなんだ? 纏め役? たったの九人も纏められていないのに」

 

  来て早々博麗の巫女に斬りかかり、あまつさえかぐや姫を殴った北条。人妖問わず目につく女性の手を取り、冥界にまで踏み込む五辻。吸血鬼とさとり妖怪から自分勝手に宝を奪った袴垂。月に忍び込み、月軍を幻想郷に連れて来た坊門。その策を練り今なお暗躍する唐橋。同じく暗躍し、天界を白煙に染めた黴。間欠泉センターを潰し地底を進む蘆屋。河童と怪しげなものに手を出そうとしている岩倉。幻想郷に邪眼を持ち込んだ六角。

 

  たったの九人の人間が、幻想郷全体で問題を起こしすぎている。足利まで含めれば、妖怪の山に鬼を舞い戻した厄介者だ。これほど自由に周りが動いているというのに、どこが調停役なのだと天魔は呆れることしかできない。少なくとも大将などとは呼べるものではない。

 

  だが、どれだけそこを責めようとも、梓の表情は変わることなく、腕を組み細く息を吐き出すだけ。不遜とも取れるような態度だが、全く気取った様子も見せず、ただ梓は天魔の指摘に頷いた。

 

「まあ……そうだろうな。纏め役などと、そうは見えんだろう。そもそも僕は纏める気がない」

「なに?」

「君のように上に立ち率いる者こそが大将というのであれば、僕は違うのだろう。だいたい彼らは誰かに言われて、その通り動くような者たちでもない。あの我の強過ぎる九人を率いようなどとすれば幻想郷に来る前に空中分解しているだろうと確信が持てる。なにより、彼らは僕にはないもの、足りないものを誰もが持っている。そんな彼らを率いることができようか」

 

  平城十傑。彼らは自分のためにしか戦わない。千三百年積み重なった歴史に削リ出された欲とエゴを胸に抱き、誰もが自分だけの理由を持っている。故に妥協し諦めるようなことがあっても、その芯だけは絶対に変わらない。全く違う位置にある九本の杭を同時に引くなど不可能だ。故に梓は率いない。

 

「だが、僕にも一応足利として生まれた矜持はある。僕の役目は調停役であれ彼らを率いることではない」

 

  その先の言葉を梓は飲み込んだ。梓は平城十傑で最も恵まれている。特に苦労することなく極大の力を持ち、その後も漆や藤、梍のように、力を得た後遺症や問題があるわけでもない。だからこその調停役と言えなくもないが、だからこそ梓は九人に頭が上がらない。

 

  もし彼らが挫折していれば、道半ばで諦めてしまえば、残されるのは梓一人だ。人の理から外れてしまった体を一人で支えなくてはならない。だが、そんなことになってしまうことはなく、誰一人欠けることなく九人は梓の周りにいる。梓の不安を、時に立ちはだかる壁を透け、時に誰より疾く駆け、時に盗み取り、時に殺し、時に煙に巻き、目で見なくても、悪夢を抱え、武器を携え、全てを見、あらゆる手で潰す。

 

「僕は頭も良くなければ弁が立つ方でもない。ただ寄って殴ることしかできん。だが、それでも、彼らが危機に陥った時、救いの手が欲しい時、力を借りたいと思われる存在になりたいと思っている」

 

  絶対に朽ちぬ大黒柱。十人十色という言葉があるように、大将の器というものも千差万別だ。言葉で率いても行動で率いてもいい。それも大将。だが梓の目指すところではない。決して折れず、曲がらず、朽ちず、揺れぬ強固な芯。いざという時寄り掛かってもまるで傾かない存在。それが梓の望む大将の器。

 

  梓の答えに天魔は鼻を鳴らし立ち上がった。口にはしない想いが渦を巻くように、風が轟々と音を立てる。

 

「それは一種の放任主義宣言か? それとも望まれれば全てを背負い切られる蜥蜴の尻尾のつもりなのか。いずれにせよ、それすらできるとも思えない」

「なんとでも言うがいい。大望を望む我らにできることは最後まで追うことを止めぬ事。僕は仲間内で一番足が遅くてな、代わりにいざという時背を押すことはできる。まあ先を行く者たちが速すぎて押す機会もないのだが。我らの歩みを止めたければ、まずは最後尾にいる僕の足を引っ張ることだ。引き摺りながら進んで見せよう」

「ぬかしたな小僧! その歩みが私まで届くか試してやろう、一撃、届けば力くらいは貸してやる。届けばな」

 

  天魔が指を弾けば風が弾ける。同時に打ち鳴る岩を砕く音は梓が足を大地に突き立てた音。その音を飲み込むように風は畝り、梓の姿が掻き消えた。コン、ゴン、と風に切り出された大岩は、飛んで来た岩とぶつかり合いより細かくなって風に乗る。砂をかき混ぜたような音をがなり立て、吹き荒ぶ風は縮こまる。小さくまとまった風は内で暴れ、抱えきれなくなった力が縦に伸びた。雲をかき混ぜる代わりに岩をかき混ぜ、灰色の辻風が空気を貫く。天魔の社を吸い込みながら、山の山頂を削り切り、風の穿孔機は数を増やす。

 

  お互いがお互いを喰い合うように時に重なり、時に増え、天魔を中心に更に回った。小さな回転と大きな回転が合わさって、より多くのものを吸い込みだす。天すら吸い込み落ちてきているように錯覚する景色を、渦の中心で天魔は冷ややかに見つめ指を鳴らす。

 

「……こんなものかよ

 

  天魔の呟きは間も無く風に食われた。天狗たちの雄叫びも、鬼の笑い声も旋風が吸い込むおかげでとても静かだ。普段と変わらずいつもと同じ。ただ椅子に座すばかり、何かわざわざ言うこともなく、天狗たちの書く新聞を読み時間を潰す。

 

  率いていると言えば聞こえはいいが、何もなければ率いることもない。およそ平和な幻想郷で、組織の長などやることもない。天狗の長は強さで決まる。誰より強く、その座を狙いわざわざやってくる者もいない。退屈を埋めようと天魔も異変でも起こそうかと考えたことがあったが、どうしてもできない理由があった。数が多過ぎるのだ。

 

  天狗は幻想郷内妖怪の最大勢力。その気になれば人里などため息で吹き飛ばせる。わざわざ片手間にやることでもなく、そして八雲紫にそれは止められていた。天狗の頂点でありながら、やれることはかなり限られ自由にならない。鬼の居た頃、上を見上げれば常に誰かが居た頃の方が遥かにマシだ。今はもうただ見下ろすばかり。ただ見ているだけで動くこともない傍観者。

 

  だからこそ、文の新聞を見た時に天魔は笑った。外からやって来た人間。平城十傑と月の神。久し振りに見上げ挑めるかもしれない相手。本音を言えば当然やりたい。だが、立場が頷く首を重くする。その首を無理矢理落としにやって来た人間に僅かでも期待しなかったと言えば嘘になる。

 

  風に飲まれ消えた人影に、僅かな希望も飲まれてしまう。弱い者に強さを示したところで意味がない。月の神が来ればそれも変わるかと退屈に埋もれていく天魔の意識を、小さな音が叩き起こした。

 

  ──メギリッ。

 

  と押し潰すような音が旋風の足元から響いている。ゆっくりと、確実に、一定のリズムで打ち鳴るその音に、天魔は小さく目を細めた。足音ではない。灰色の壁の向こうで輝く眼光が二つ。地に伏せ、壁を登るように右拳を打ちつけながら、這うように前へと進む人影に、天魔の瞳の奥で、小さな小さな火が灯る。

 

「くくっ、這い蹲り、それでも進むか人間。滑稽だな、ならこれはどうする?」

 

  迫る人型の戦車に向かって天魔が軽く腕を振る。渦巻く槍はその方向を変え、愚かな人間を食い破ろうとその身に頭を埋めた。服を引き裂き食い込む刃は、肌色の装甲に阻まれ動きが止まる。ダイヤモンドに下ろし金を擦り付けたような音が響き、梓の体が大きく後退した。岩肌を削り細かな破片が視界の中を縦横無尽に飛ぶのを眺め、強く梓は歯を食い縛る。

 

  肌の表面で流れを感じ、足を固定するために強く両足を踏み込み大地から手を離す。

 

「……かっ!」

 

  無理矢理息を吸い込み耐える。吹き飛びそうになる体を丸め筋肉を絞った。折り畳んだ体は弓であり、放つ矢は既に握っている。狙う場所はただ一つ。流れの狭間を肌で感じ理解する。どんな攻撃的な流れでも、それを受け止められる肉体を梓は持つ。薄い狭間に楔を穿つが如く。強固な流れにヒビを入れ割るように。

 

  『かちわり』

 

  風の壁がモーセの奇跡のように二つに割れた。大きなヒビを天魔まで走らせ、通るべき道を形作る。風の消えた回廊を、強く梓は踏み締めた。決して止まらぬ重戦車を薄い笑みで天魔は待ち受け、目の前で崩れた人影を見下ろした。

 

「ぐッ⁉︎ くかッ⁉︎」

「丈夫なのは表だけか。苦しいだろう? 呼吸を封じるだけで人は死ぬ」

 

  息を吸っても何も口に入らない。梓の体から力が抜ける様をつまらなそうに見下ろしながら、天魔は再び手を振った。崩れ落ちた梓の体が引っ張られるように背後に飛ぶ。崩れた岩壁に激突し、破片を撒き散らしながら吹き飛ぶ人形へ、天魔は指を下に向けた。大地に張り付け、呼吸を封じ、赤味の増した梓の頭を夢が過ぎる。

 

  耐え忍ぶこと、それこそ人生。

 

  ただ次代に繋ぐため、そのために人生を終えるはずだった。なんのためかも分からない。人には有り余る肉体を持ち、なんのために生きるのか。北条から六角までの九つの夢に囲まれながら、それが輝く姿を見ることもなく終わるはずだった。

 

「終わりにしよう大将。新しい竹取物語を描いて」

 

  そう白煙と共に吐き出された言葉に、梓は大きな夢を見た。耐えて耐えて耐えてきた。持て余した力を。夢見た景色を。ずっとずっと。夢は所詮夢であり、現実になることはあり得ないと。それが目前に迫った今へ、進むと決めたら足は止めない。止まらない体があるのだから。しんどくても、辛くても、遅かろうと、進むために必要なのは……。

 

  梓が身を起こす。天から落ちてくる風を受け止めながら、力の入らぬ体を無理矢理起こし、二つの足で地を踏み締める。

 

「……一歩」

 

  足を出す。それができたらもう一歩。小さい事をコツコツと積み上げる。それが手も届かぬ大望を成就させる。どれだけ遠くても、どれだけゆっくりでも。いつか届くと信じるが故に。

 

「……初めて、夢を見た。僕にしか、僕らにしかできないことがあるはずだと。見れる景色があるはずだと。息ができない? 道が険しい? それがどうしたぁ‼︎」

 

  肺に残った空気を全て吐き出し、梓は大きく足を出す。それが最後の一歩になろうと天魔に躙り寄るために。それができたらもう一歩、それもできればもう一歩。風を受け止め歩く梓に、天魔の顔が引き攣った。大きく口が弧を描き、青い目に炎が宿る。

 

  限界は超えている。呼吸を止められ、既に意識を失ってなければおかしい。なのに人の歩みは止まらない。一歩づつ確実に距離を潰し、天魔の肩に梓の肩が触れると同時に梓の体は崩れ落ちた。

 

  腕を振れば風が止む。綺麗さっぱり平らになった妖怪の山の山頂で、天魔は小さく息を吐くと空に輝く月を見上げた。

 

「面白いだろう天狗の頭領。こいつら死んでも歩むのやめないよ。だから私は気に入った。鬼に笑って拳を振り上げるような奴さ。一緒に喧嘩をするならそんな相手がいいさね」

 

  崩れた岩に腰掛けて、鬼が紅い盃を傾ける。微笑む勇儀から視線を切って、数瞬天魔は目を閉じると虚空に向かって手を振った。

 

「……いるんだろう文。至急号外を書け。この戦いに天狗が参戦すると。月の神の最後が近いとな。せいぜい上から目線でこき下ろせ。いいな」

「いや……、いいんですけど、今からですか? 号外配るのも?」

「くどいぞ」

「イエッサー! 万事承知しましたぁ! ああもう、はたてぇ‼︎ さっさと帰ってこぉい‼︎」

 

  風から溶け出てきた文が泣きながら夜空に飛んでいく。ただしっかり口元には笑みは浮かべて。舞い散る黒い羽が降りかかる梓を見下ろして、天魔は梓の影に九つの影を見る。

 

「期待しよう梓。平城十傑。お前たちの見る景色を見させて貰うぞ」

 

  青い瞳は熱く輝く。久々の挑戦がより良いものになることを祈って。降り積もる期待を大黒柱は受け止める。意識がなくとも弧を描く口元が決して零してしまわぬように。

 

  平城十傑、大将の器は砕けない。

*1
鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院。山の断崖の窪みに建造された平安時代の懸造りの木製堂




どうでもいい設定集 ④

天魔と文は幼馴染。

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