月軍死すべし   作:生崎

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悪夢の心

「今日の夕餉は私が作ったのよ、漆も食べてみて!」

「そ、そんな姫様! 危のうございます!」

「危ないって、もう作っちゃったもの。ね、漆」

 

  白布を巻いた指を後ろ手に隠しながら微笑む黒髪の少女は漆にとって太陽だ。安倍晴明や蘆屋道満といった、表で有名になった陰陽師が出てくるまで、政治に食い込んだ国家機密集団として、陰陽師は決して好かれているとは言えなかった。意味不明な言葉を唱え超常の術を振るう。はっきり言ってその存在は妖怪と大差ない。なにより機密として保護されていたこともあり、古い時代の日本の民間では、陰陽師は都市伝説と変わらなかったこともある。そんな蘆屋の一人娘漆の君が、能力は高くとも、いや、高かったからこそ、女性ということも相まって良い生活が送れるということはなく、毎日影の中で燻っているしかなかった。

 

  それが変わったのもかぐや姫が都に来たからだ。大路を牛車に引かれ、簾越しに見た美しい少女の影をやることもなくただ興味から追い会ってみれば、「化生の者」と呼ばれた漆の手を取って笑ってくれた。ただ優しく、柔らかく。

 

「私都暮らしは初めてなの。お爺様もお婆様もそうだし、二人には楽して欲しいから色々教えて下さらない? え? 怖くなんてないわ、漆は初めての友達だもの」

 

  かぐや姫と歳がそれほど離れていなかった事もあり、待女としてこの人に仕えようと漆はこの時心に決めた。手を握ってくれた優しい少女を守る者は自分であると誓ったのだ。かぐや姫にとって平城京で初めての友が漆なら、漆にとってもまた同じ。周りから向けられる冷たい目の中で、唯一向けられた暖かな眼差し。月明かりのように柔らかなかぐや姫の目を漆は雲らせずにいつまでも眺めていたかった。

 

「漆、私月には帰りたくないわ!」

 

  だが、夢のような日々は夢と同じように突然終わりを告げる。少女の目から零れる心の雫を掬える指が欲しかった。少女を抱き寄せ離さないだけの力が欲しかった。与えられてばかりで、まだ何も少女に返せていない。だからたった一度、帰りたくないと言う少女の願いを叶えさせて。たったの一度でいい。たったの一度で……。

 

  ──月が沈み日が昇る。

 

  夢から覚めたように消えた少女はどこへ行ってしまったのか。夢だったのか? それとも現実? 探せど探せど見つからない。少女の影も、痕跡さえ、髪の毛一本ほどもなく。これは悪夢だ、酷い悪夢。まだなにも返せていないのに。夢と現実が頭の中で混ざり合う。きっと今見ているのが夢で、起きればきっと少女が待っている。たった一度の少女の願いを早く叶えて差し上げなければ。だから早く、だから早急に、だから、だから、

 

 

 

 

 

 

 

 

  ────覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ────。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「──蘆屋さんッ‼︎」「──漆さんッ‼︎」

 

  ぼんやりとふやけた視界にキラリと光る眼鏡と緑色の髪が揺れている。吸い込む空気は砂っぽく、砂利つく口内の気持ち悪さと酷い頭痛に、喉元まで湧き上がってきた胃液をなんとか飲み込み漆は大きく首を振った。視界を覆う暗闇と、その中に浮かぶ星のような瞬きを目に留めて、漆はガリガリと乱雑に頭を掻く。心にへばりついている悪夢の欠片を削り取るように。

 

  ぼやけた頭がはっきりとせず、呆けたように周りに目を向ける漆の前に屈んでいる二人の少女。顔を青くして心配そうな表情を浮かべている菫子と早苗の二人を見て、ようやく漆の頭が冴えてきた。それでもまだ寝ボケている顔を持ち上げて、視界に滑り込んでくる灯篭の眩さに目を眇める。

 

「よおどうしたんだ?」

「いやどうしたって蘆屋さん……大丈夫なの?」

「なにが?」

「いやなにがって……」

 

  顔を見合わせ黙る二人。それを見て漆も察し、「ああ、くそ」と小さく呟いた。眠ってしまった。それも久し振りに人前で。心を蝕む悪夢。鮮烈で時代を跳んだと錯覚するほどリアルな夢が壊れたラジカセのように何度も何度も繰り返される。少女の微笑みと涙と絶望。会ったこともないのに、遺伝子に刻み込まれているかのように、漆は少女の夢に心底同調してしまう。頬に伝った涙の跡と、砂利つく口元を乱暴に拭い、漆は体に付いた砂埃を手で払うとふらつきながら立ち上がった。

 

「あたしのことは気にしなくていい。それで今どうなってんだっけ?」

「気にしなくてって……、蘆屋さん虚空に手を伸ばしながらなにかぶつぶつ言ってたし冷や汗凄いよ? 本当に」

 

  漆の寝ている姿は、死の近づいた病人のようであった。だが、目を覚ました漆にはその時の姿の面影はない。だからこそ早苗も菫子も心配なのだが、漆はそれを鼻で笑い吹き飛ばす。

 

「気にすんなって宇佐美、いつものことだ。あたしが寝るとな。悪い、迷惑掛けたな」

 

  菫子と早苗の目を振り切って、大きく息を吐き出しながら天を仰ぐ。見えるはずの空は見えず、広がる暗い岩肌を見てようやく漆の意識が完全に追いついた。

 

  お空との激突により地下間欠泉センターが吹き飛んだ。恐るべきは核のエネルギー。長期戦に突っ込もうかといった矢先、本気になったお空の一撃と、人間三人の力が拮抗し弾け飛んだ。吹き飛んだのは岩の天井。降り注ぐ岩塊を避け旧都に潜入したはよかったものの、梓と椹、フランドールとこいしのおかげで外来人に殺気立っていた旧地獄の妖怪たちに追い立てられ返り討ちにした挙句、道端で一夜を明かしてしまった。

 

  砂塗れの服を叩きながら、漆は振り返ると変わらず心配そうな顔をしている二人を見て、自分に対して強く舌を打つ。

 

「マジで大丈夫だから心配すんなって! そんな顔されると逆に気が滅入るっつうの!」

「大丈夫ならいいですけど、これからどうします?」

 

  どうするかと聞かれても、漆の目的はかぐや姫に会うことだが、それを今言ったところでどうにもならない。そんな漆の目につくのは、砂と汚れに塗れた自分と早苗と菫子の服。取り敢えず必要なものが一つ思い浮かぶ。

 

「とにかく風呂に入りてえな」

「だよねー! 着替えはないけど、お風呂が恋しいわ」

「あ、地底なら温泉ありますよ!」

「温泉か! そりゃいいな! 風呂上がりは牛乳が欲しいよなぁ」

「いやコーヒー牛乳でしょ」

「いやいやフルーツ牛乳ですよ!」

「明治のフルーツ牛乳製造終了らしいぞ」

「ええええ⁉︎ 外の世界はなにやってんですか⁉︎」

 

  早苗の叫びに「フルーツ牛乳はない」と女子高生二人手を振りながら嘲笑う。漆も頭さえ冴えればこんなものだ。夢から覚めた頭を振って、漆はようやく薄く笑う。その様子に本当に大丈夫そうだと早苗と菫子も小さく頷き、どうでもいい会話から頭を切り替えた。旧都は忌み嫌われた妖怪の都。そこに人の姿はなく、漆たち三人は存在から浮いている。煌びやかな旧都の中にあって、その煌びやかさが悪寒となり肌に擦り寄ってくるようだった。危機感はそれほど感じないが、気味悪さと疎外感に辺りへと散らしていた視線を戻し、三人は顔を見合わせた。

 

「で? どうすんよ。ってかよく一夜過ごせたな」

「私が結界張りましたからね、結界は霊夢さんだけの専売特許ではないのです!」

「その霊夢ってやつのことは知らねえけど大したもんだな。なあ東風谷、テメエ地底のこと詳しくねえの? どっか行くとこ、というか温泉目指そうぜ温泉」

 

  とにかく風呂! という漆の提案に横に振られる頭はない。温泉と言えばで回る早苗の頭が弾き出した場所はたったの一つ。というより、顔見知りで地底で襲われないだろう住居など一箇所しかない。「では地霊殿に行きましょう」と早苗は言うものの、困ったことが一つあった。

 

「地霊殿てどこだ?」

「それは……」

 

  建物は分かっている。が、滅茶苦茶に逃げて来たせいで現在地がさっぱり分からない。地図なんて気の利いたものはなく、幻想郷に来たことのない漆は地霊殿する分からず、そこまで詳しくない菫子も同じようなものだ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、三人揃っても猿の浅知恵にも至っていない。ただただ迷子。迷子になっても犬のおまわりさんは出て来てくれない。顔を突き合わせて唸る三人の助け舟は流れて来ないが、代わりに小さな車輪の音が迫って来た。

 

  キィキィと喚く鉄の唸り声に目を向ければ、ゴスロリファッションに身を包んだ少女が、赤毛の三つ編みを揺らして路地の奥から顔を出す。三つの人の視線が突き刺さったおかげで産毛立ち、ゆっくりと顔を振り向く少女の猫の目と、人間たちの妖しく光る目が合った。人間たちの服装を見れば見るほどに、火焔猫燐の手に持つ猫車が小さく震える。カタカタ揺れる猫車の取っ手を握りしめ、お燐はピンと立った猫の耳を大きく揺らす。

 

「にゃ、にゃーん」

「んだよ猫か」

「じゃ、じゃああたいはそう言うことで……」

 

  猫車を強く押し、急ぎ足で小さくなっていくお燐の背を三人は見送る。赤い猫耳がピクピクと跳ねる様に三人はため息を吐くと、漆は軽く指を振った。「掴めウルシ、急急如律令」という呟きと共に。漆の影から巨大な手が伸び、火車が勝手に走らぬよう鷲掴みにする。猫の尻尾が土から掘り起こされたミミズのように暴れ回り、お燐の手から零れ落ちた猫車が地面に虚しい音を立てて転がった。それに合わせられるは耳を劈く金切り声だ。

 

「ぎゃあ⁉︎ 殺されるう! 野蛮な外来人に殺されるう!」

「うるっせえ! あんなんで騙されるわけねえだろ! だいたい誰が野蛮だこら!」

 

  どこからどう見ても野蛮であり、「不良だ」と零す菫子を全スルーして、漆は鼻で笑う。お燐を掴んだウルシは物珍しそうに空いた手でお燐の猫耳を軽く引っ張り、それがスイッチであるかのようにダラダラとお燐は滝のように冷や汗を掻いた。

 

「地底妖怪より妖怪らしい外来人に言われたくないよ! どうせお姉さんたちも平城十傑とかいうやつらなんでしょ!」

「げっ、なんで知ってやがる」

「やっぱりそうなんだ⁉︎ あぁさとり様、あたいの命運もこれまでみたいです。お達者で〜」

「……なんなんだテメエは」

 

  ぐでりと死んだふりをするお燐をウルシは指で突っつき、満足そうに笑った。地底に響く式神の声は隙間風のようであり、およそ笑い声には聞こえない。ウルシの様子に肩を竦め、もう放っておこうと漆は早苗と菫子の方へ振り返った。待ち構えているのは早苗のいい笑顔。その気色悪さに漆は引く。

 

「な、なんでそんな満面の笑みなんだよ」

「ラッキーですよ漆さん! お燐さんに聞けば地霊殿の場所は一発です!」

「なんだコイツそこの住人かよ。おぉい起きろ、起きろよー。朝だぜー。だめだこりゃ。仕方ねえなおい、ウルシ起こせ」

「わー! 起きてる!起きてるさね! あたい元気! 元気いっぱい!」

「そいつぁ良かった、なら案内してくれ。よっしゃー! 温泉だ温泉だ!」

 

  ウルシに掴まれたまま地霊殿の場所を指し示すお燐の哀れなことよ。背の大きすぎるウルシと比べると掴まれたままのお燐は人形にしか見えない。これには流石の菫子も同情し、笑う漆と早苗の代わりにお燐の健康くらいは祈ってやった。

 

 

  ***

 

 

「また平城十傑ですか。お空とお燐が世話になったようですね。なんなんでしょうね? 平城十傑とかいう人種は地底で暴れないと気が済まないんですかね? あなたたちが来てからというもの鬼は地上に行きたがるわ、急に開くスキマからは新聞が投げ込まれるわで全くいいことがありません。だいたい向こうから忌み嫌い追いやったくせにいざという時だから力を貸せというのは都合良すぎると思いませんか? でしょう? しかも相手は月夜見だとか。はっきり言って今地上の者たちがしていることなど手の込んだ自殺と変わらない。あなたが勝てないと思っている通り、勝利の目が見えません。ハァ、風祝に超能力者もやる気なのはいいですが、やる気だけで勝てれば苦労しません。だいたいあなたたちは私を仲間に引き込みに来たんじゃないんですか? 違う? ならなぜ来たんですか意味分かりません。地底はパンチングマシーンのような場じゃないんですよ。一汗かいたらすぐ風呂のようなジムでもないんです。それに」

「話が長えんだよ! くそ、あいつらあたしに押し付けやがって、チッ!」

 

  さとりと対面しているのは漆一人。一応屋敷の主人には顔を出さねばならないということで顔を出したところ、喋ってもいないのに漆が平城十傑であるとさとりに看破され、さとりにウンザリとした顔を向けられた。

 

  昨夜の号外で平城十傑が戦う為の戦力を手ずから募っていると書かれていたおかげでさとりに盛大に勘違いされ、そういうことならと漆を置いて早苗と菫子はさっさと温泉に向かってしまった。全く仲間っぽくない二人に漆は舌を打ちつつ、一応客ということで出された茶を啜りながらもう十数分。さとりの愚痴交じりの長い口上に、漆の精神力が削られていく。椅子に沈み込んだ漆を眺めながらさとりも疲れたようにティーカップを傾けた。さとりにとってのお茶請けは相手の心。漆の心を覗けば覗くほどに、その味が一色に染まっているせいで流石に少し胸焼けしてしまう。

 

「複雑な心を相手にするのも疲れますが、単色の心を相手するのもまた疲れる。あの泥棒の心はある一点に向かうのに多くの枝葉を辿っていましたがあなたは逆。ずっと変わらぬ一本道」

「泥棒ってのは椹のやつか。あんなのと一緒はごめんだな、それだきゃあいいこった」

「ええ、私もあの泥棒野郎は嫌いです。でもあなたはそうでもない。優しい心を見るのは気分がいいですから」

「はあ? テメエその目腐ってんじゃねえのか?」

 

  思ってもいないことをよく綴れる。とさとりは口には出さずに言いそうになった言葉を茶で喉の奥に流し込む。言ったところで漆が肯定しないことが分かるからこそ言わない。聞かずとも見えるから。ここまで心と口から出る言葉が反対の人間を見るのはさとりも久し振りだ。漆の内心で反響している臆病な言葉を見つめて、さとりは小さくため息を吐いた。

 

「トラウマとは強烈なほどよく見える。貴女のトラウマはシンプルだからこそ分かりやすい。誰より友達が欲しいくせに、友達のことを思えばこそ強く当たっているのね」

「あのな、テメエなに言って」

「初めてウルシという式神が憑いたのは五歳の時ですか。物心つかずともよく覚えているようですね」

 

  さとりの言葉が漆のトラウマを呼び起こす。ある日を境に周りの自分を見る目が一変した。親しみの色から恐怖の色へ。細かなことは覚えていないが、ある日から向けられ続けた冷たい目はよく覚えている。自分を取り囲む人ではないものを見るような冷たい目。親姉妹に至るまで、恐怖一色に染まった目を向けられる。それからずっと漆はひとりだ。

 

  それから幾数年月が経ち、漆にも友達と呼べそうな者が出来そうになった時があった。だがその度に伸びる影の手腕。傷つける気が毛ほども漆になかろうと、どこかに消えた友へと伸ばす式神の手が、漆の想いに呼応して伸びる。だから漆はひとりきり。もし友達が出来たとしても、悪夢の腕が伸びるから。

 

「だからわざわざ口汚い言葉を吐いて人を寄せ付けないようにしている。言わなくてもいいことを口にして」

 

  さとりの目が細められ、ついっと第三の目がそっぽを向いた。嘘をつけば後ろ暗いものが心に残る。仲がいい相手にはより暗く。普段見えないその後悔を、さとりだけは見てしまう。それを相手も分かるからこそ、さとりと好き好んで仲良くなろうと思う相手は少ない。仲良くなればなるほどに、さとりに顔向けできない時がやって来た時、自分で自分を壊すまで何にも顔向けできないから。

 

「あなたたち平城十傑はおかしいわね。あの泥棒も、行かないと口では言いながら心の奥底ではいざという時仲間のために行くことしか考えていなかった。あなたも同じ。口では適当言いながら、勝てないと思いながらも、行かない戦わないという選択肢が頭にない」

「んなことは……」

「ありますよ」

 

  友ではないが、隣にいる者がいる。そういう関係を超越し、ぼんやり立っている漆の肩を叩き背中を小突くそんな者たち。目がないくせにあらゆることを察する奴。ぶっきらぼうで表情に乏しいが、誰より気にかけてくれる奴。買い物行こうだの、流行りのデザート食べに行こうだの、まるで普通の学生のように。そんな者たちになぜかウルシの手も伸びず、漆はいつも彼らに舌を打つだけだ。

 

  怒りと恨みで壊すことしかできない式神がもし力になるのなら、たった一度でいいからそんな者たちと共に行きたい。漆は何も返せていないから。そんな瞬間を得られたなら、たったの一度でいいのだ。

 

  図星を突かれ黙る漆の心の底に滲む影を見て、さとりは呆れたように口を開いた。パチクリと第三の瞳を瞬いて。

 

「それにそれだけでもないでしょう? だってあなた」

「それは言うな!」

 

  強くギラついた漆の目にさとりは息を飲んだ。影から伸びる巨大な手。黒い世界からずるりと這い出る怨みの塊に、さとりはきつく目を絞りそっぽを向く。心の叫びが強過ぎて見ていられない。一人どころか、百を超える怨念の色。あまりに強く塗り重ねられ過ぎて、穴が空いているようにさえ見える。式神ウルシはゆらゆらと長い黒髪を振って、漆の心を覗く不届き者を睨みつけた。

 

  『あたしの初めての友達』

 

  一人暗い場所で蹲る漆に伸ばされる手が一つあった。影と同じように暗かったが、どれだけ周囲の憂惧に晒されようと、常に漆から離れず側に居た。静かに泣く漆の頭を撫でる大きな手。その時と同じように、漆が荒れれば手が伸ばされる。人を悪夢に陥れるくせに、消えぬ優しさもまた呪い。頭に乗せられた大きな手に、漆は舌を打ちながらその手を払った。視界の端で寂しそうに揺れる長い黒髪から漆は目を背ける。

 

「伸ばす相手が違うそうですよ、ウルシさんとやら」

「テメエ嫌いだ! もう喋んな!」

「あらそんなこと言ってますけど悪くないと」

「うるっせえな! もうテメエのご機嫌取りも終わりだ! あたしも風呂借りんぞ!」

「なら私もご一緒しましょう。頭洗ってあげましょうか?」

「いらんわ‼︎」

「ああはいはい、背中流す方がいいんですか。しょうがないですね」

「ついてくんな‼︎ あたしはテメエが嫌いだよ!」

「なるほど、これが噂に聞くツンデレですね。ちょっとくせになりそうです」

 

  決して力で追い払うことはなく、漆は口で喚きながら地霊殿の廊下を歩く。薄笑いを浮かべてついて行くさとりは、その言葉の裏にあるものを全て掬い上げ、漆の隣へ足を運んだ。今向かう先は温泉だが、目はより先に向いている。なんだかんだ言いながらも、さとりも月軍との戦いに参加しないという選択肢をそもそも持っていない。愛する妹が出て行くだろうことが、どこぞの盗賊のせいで心を見なくても分かるから。だがほんの少しだけ、それ以外にも楽しみができたと足取りが軽くなる。人もさとり妖怪も孤独では生きてはいけないのだ。自ら望んだ孤独、人妖問わずその行き着く先はどこなのか、その終点を見るために。

 


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