月軍死すべし   作:生崎

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見えざる手

  目には写らぬ剣先が穴を穿つ。柔らかな白い布に空いた穴から聞こえるのは、空気をただ垂れ流す無機質な呼吸音。漏れ出た空気に運ばれて空へと薄っすら伸びる黒煙を見送り、ゆっくりと菖は目を閉じる。耳を傾け拾うのは、己を取り巻く呼吸音。

 

  ふっ、ふっ。と規則正しく吐き出される生命の息吹に囲まれながら、その音の間に滑り込ませるように菖は鋭く息を吐く。たかが呼吸。だが、心の鼓動、呼吸のリズム、瞬きのタイミング。絶対的な個人の律動。それを狂わされ、菖を取り囲んでいた息吹のリズムが、崩れたジェンガのようにバラバラと散った。とはいえそれも一瞬のこと。そのバラついた一瞬を菖は足を出して踏み締め一歩を出した。動けない獣たちを置き去りに一歩を踏み出す人間を見るのは薄い桃色の瞳。人から包帯で包まれた右腕へと桃色の瞳は移ると、空いた穴を感心しながら見つめ軽く右腕を振る。カセットのテープを巻くように右腕全体の包帯は素早く擦れると空いた穴がさっぱり消える。包帯の擦れた音が消えるのを聞き届け終え、菖は薄っすらと閉じていた瞼を開けた。

 

  菖の黒い瞳に映るのは、大きな木に寄りかかった八面玲瓏の仙女の姿。短く切り揃えられた桃色の髪にシニョンキャップを被り、大陸の空気を感じる衣服に身を包んでいた。物事には格好から入るタチなのか、見るからに仙人の様相を呈している。少女の背からは緑色の龍の頭が覗き、菖を睨むと低いうなり声をあげる。

 

「……その腕、異様だな。命の息吹は感じるが、繋がりが薄いように感じる。どういう仕組みかは分からんが」

「それは貴方もでしょう。感覚で言えば死神に近い。死神では決してないけれど、普通は死から遠ざかるというのに自分から近づくなんて、この子達もすっかり怯えてしまっているわ」

 

  生命が死を恐れるように、理性よりも本能の強い動物たちが菖にいいようにあしらわれている。心の鼓動、呼吸のリズム、瞬きのタイミングを鋭い剣気で乱しては、一足一挙動を制していた。これでは番犬にもならないと岩の上で唸る虎に、仙人、茨木華扇は目を向けて困ったように息を吐く。

 

  困った客人。昨夜華扇の住居を訪ねて来た菖は、一睡もせずに華扇の家の前に突っ立ったまま去って行かない。これが一般人なら華扇の飼う動物たちにさっさと追い払われるのだが、全くそんなことにはなっていない。なぜ菖が華扇の元にやって来たのか、要件は既に菖から聞いている。

 

  『月夜見との戦争に力を貸せ』

 

  華扇の中では、既に菖への答えは出ている。華扇はいざという時人の側に立つと決めているのだ。そしてこれはそのいざという時。手を出さなければ、外の世界へ打って出る拠点として幻想郷は月の軍に占拠される。そうなれば待っているのは何か。穢れを嫌う月人が、人や妖魔を放っておくわけがない。良くて流刑、悪ければ処刑。そんな横暴を許しておく理由がない。だが、その答えを華扇が口に出すことはなかった。菖の存在がそうさせる。既にそう決めているとしても、人の身でありながら死を滲ませる人間が気に掛かった。

 

「懐かしいけど少し違う。最近の堕落した若者とは価値観が違うとでも言いましょうか。一日寝ずに過ごしては健康に良くないわよ」

「問題ない。三日までなら寝ずに変わらず行動できる」

「あぁそうですか……」

 

  不動にして静寂。嵐の中でも折れず曲がらぬ柳のように、水面に浮かぶ木の葉のように。ただそこに居るはずなのに存在感が気薄だ。目で見ていなければふとした瞬間忘れてしまいそうになる。死と対決し生を勝ち取る仙人とは真逆。死と隣り合い死を振り撒く。そんな菖の立ち振る舞いは、仙人の華扇からすれば許容はできない。

 

「ですが貴方にここに居られても、別に答えは変わらない。お帰りはあっちよ」

「必要なものを貰えるまでは帰れんな。答えを貰えるまでは動かんよ」

「なら力付くでやればいいでしょう? 貴女は得意でしょそっちの方が」

 

  わざわざ月に行き、数百人の玉兎を引き連れかぐや姫の命を目指した人間。遠巻きながら華扇も見ていた。必要ないのに菖は博麗神社にまで赴き、霊夢と魔理沙に穴を開け、そして見事に負け戦を演じた。それを菖も望んでいたことではあるが、そこに手加減は存在しない。もしも可能であったなら、ボタンが掛け違えられていたら、かぐや姫は死んでいた。それを見透かす華扇の目に、菖はゆっくり目を閉じる。

 

「私が本気で剣を抜く時は殺す時だけだ。味方に対して剣は抜かん」

「だからそうして立っているだけ? 今更一人や二人、数百匹の玉兎を死に連れて行ったのだから、少し増えても変わらないでしょ」

「私の矜持だ。死には必ず意味がある。必要のない死を振り撒こうとは思わない」

 

  かぐや姫に対する死の想いは建前であった。だが、その建前は、平城十傑ではなく引き連れて来た玉兎、そして、月の監獄に収監されていた月人にこそ必要だった。千三百年前、地上にかぐや姫を迎えに行ったが、まさかの八意永琳の裏切りによって失敗した。だが、かぐや姫を思っていたのは永琳だけでは勿論ない。

 

  菖の持って来た案に乗り、もし成功すれば輝夜は月夜見が来るのを見なくて済む。より酷い戦いに巻き込まれずに済む。失敗すれば、それはそれで安心だ。月人に対抗できるかもしれない、かぐや姫を任せておけるかもしれない、そんな者たちに託せるのだから。

 

  そのために月の彼らは命を賭けた。それに応えるために菖も剣を抜いたのだ。賭けられた命には、命しか賭けられない。それが最も得意だから。そして罪を着せられた月人と玉兎の期待通り、菖たちはかぐや姫を託されたのだ。ならば勝たねばならない。そのために必要なものが欠けてはならないのだ。故に今は剣を抜く時ではない。剣を抜くのはまだ先だ。

 

  菖の黒い瞳が艶やかに光る。ブレず揺れず華扇を見つめて。

 

「だから望む返事を貰えるまで私は動かない。貴様が折れるまで、私はここに居させて貰う」

「いや、それはすっごい迷惑なんだけれど。貴女はカラス除けの案山子どころか呪いの人形みたいだし、誰も寄り付かなくなっちゃうでしょ」

「ならただ頷いてくれ、それで済む」

「私は仙人よ? 人に言われるままは癪よね」

 

  結局仙人であろうと言っていることが妖怪と変わらないと菖は小さく肩を落とした。この後続くだろう言葉は決まっている。「だから欲しいなら力ずくで頷かせてみせろ」、そう言う華扇の笑顔には影が差し、俗世から浮いた仙人には到底見えない。戦いを楽しむような空気は戦闘狂のそれ。菖は目を閉じたまま眉を寄せ、小さく息を吐いた。

 

「よせ、やるなら私は手加減が苦手だ。私の技は死しか呼ばない」

「死と闘うのが仙人です。私が恐れるとでも?」

 

  目を開けた菖の瞳と華扇の瞳が重なった。動物たちを無理矢理けしかけようとした華扇に放った威嚇の一撃はもう放たない。放つは死。命に穴を開ける鋭い刃。息の詰まるような音が菖の手元で唸り、華扇の左の肩口に穴が空く。千切れた白い服の切れ端を追うように龍が仙女から離れ、華扇は服に空いた穴を指でなぞった。

 

「……仙人とはそれほど頑丈なのか?」

 

  服に空いた穴の先に見える肌色は、表面の皮膚こそ薄く削れはしたものの、赤い雫すら零さない。機嫌悪そうに華扇は眉をくねらせて、誰にも聞こえないように内心で大きく舌を打った。

 

  ──速い。

 

  これまで天狗など多くの素早い妖魔を華扇も見て来たが、一瞬の鋭さなら、これまで華扇が見てきたどんなものよりも速い一撃。瞬間移動といった術ではなく、ただ技巧によって繰り出される高速の一撃に、普段抑えている気性が突っつかれる。人の身でこの技を振るうことの異常さが、小さく華扇の心に火を灯す。

 

「一撃を当てられたのなど久しぶりだ。遠慮はいらないぞ人間。どこまでやれる?」

 

  華扇から浮き出る力に押されるように、周りに居た動物たちが一様に飛び去った。滲み出る力は純粋な力。空間を震わせる人とは思えぬ空気に、小さく菖は息を飲んだ。死の空気にも質がある。人には人の。動物には動物の。そのどちらとも違う空気に、遠慮はいらないと菖は左腰に差した剣の柄へと手を伸ばし握るが、口を引き結びそのまま固まった。

 

「どうした? さあ来なさい。月夜見と戦うと吠えるのに、力が伴っているか見せて頂戴よ。貴女たちがやろうとしているのは戦争でしょう? この先多くの命を奪うのに道中の一つなど気にするなよ。……それとも、逆にこちらが貴女たちを殺しにかかればやる気になるのかしら?」

「……貴様」

 

  菖の声音が一段下がった。菖の身を押し留めていた力が抜けてゆき、より生気が薄くなる。色の濃くなる菖の黒い瞳を眺め、嘲笑うように華扇の口が横に裂けた。

 

「自分は死を振り撒くくせに死を向けられて怒るとは、手前勝手が過ぎるだろう!」

「別に私はいい。殺してるんだ殺されもする。だが……」

 

  友が死ぬ姿だけは見たくはない。

 

  死が蔓延して散ってはいかない人生に沈んでいることは理解している。底のない暗い影のような海の中を菖は泳ぎ続けるしかない。が、たまに釣り糸で引き上げるように休ませてくれる者たちがいる。目を抉り、何も見えないくせに「菖ちゃんは美人さんだから」と、菖を着せ替え人形にする女。白煙という名の命を吐き出し寿命を大きく削りながら、「ちょいと護衛頼む」と、必要ないくせに世界中引き連れ回してくる男。どちらも自分の方が大変なくせにお節介が過ぎるのだ。

 

  初めて会った時のことを菖は今でもよく覚えている。一族の当主を選ぶ儀で、菖は一度死んだのだ。菖は一人生き残り、代わりに従兄弟や姉を失った。その瞬間から菖の手には死が握られ、他に何も握れなくなった。日に日に死に魅入られ衰弱していく中、バックアップを取りに来たとやって来たのは一組の幼い男女。目のない目で菖を見つめ、そっぽを向く菖を煙に巻く。離れろといっても離れない。

 

「菖ちゃんの力が必要です」「菖の力が必要なのさ」

 

  二人はいつもそう言うのだ。技を研ぎ、どれだけ技が死に近づいても、それを振るえと言わないくせに力を貸せと繰り返す。

 

  何を貸したらいい? 自分にはなにができる?

 

  そう繰り返して来た菖の十年間が、今ようやく報われている。櫟と藤の本気の願い。全ては終わらせるため。そのためなら菖は全てを賭ける。だがその中で、友の死だけは見たくない。

 

「私は一番我儘なのだ」

 

  薄く笑う菖の顔に、華扇の笑みが返される。そして華扇の服が再び弾けた。前に踏み出そうとした華扇の一歩は、スカートを穿ち足の付け根に飛来した点に、無理矢理足が落とされた。それに小さく笑いながら前を向く華扇に点が集まり壁が迫る。

 

  剣の泣き声が雫を落とす。

 

  肩に、膝に、肘に、腰に。二度と元には戻らぬ黒点を打ち付けようと、華扇の身に針の雨が集中するが、柔らかそうな肌色は崩れず、弾かれた点は華扇の周囲の木の枝葉を噛み千切る。ポトリと落ちた枝の音に歯噛みして、一歩を踏み出した華扇により大きく菖は身を沈めた。華扇は防御の姿勢も術も使っていない。迫る針のような衝撃を身に受けても揺らがず、ただ前に進んでくる。なんでもないと笑いながら。

 

「まるで梓だな!」

 

  ただ純粋に頑強な肉体。これほど厄介な相手はいない。ただただものが違う。鋼にような肉体は盾であり矛。突っ込む姿は水を掻き分け進む魚雷さながら。目の前に揺れた桃色の髪に、菖は冷や汗を垂らし強く剣の柄を握り締める。振りかぶられた華扇の右腕が、勢いよく振り抜かれ菖の顔の横を過ぎ去った。驚いた顔の華扇を見送り、菖は仙人の首の後ろ目掛けて剣を振り下ろし地に転がす。

 

  固い音が響いたが、それが決定打になることはなく、己が背後に伸ばした華扇の手が触れるのは首の後ろではなく、振り被った右腕の繋がる肩の後ろ。服に空いた穴を摩り忌々しそうに華扇は笑う。

 

「ふふっ、跳弾か! 芸達者ね人間! 殴る私の勢いを寧ろ増して避けるとは!」

「こればかりをやってきた。これぐらいできるさ、こんなこともな!」

 

  カチ鳴る鍔の音に鬱陶しいと手を前に出し、盾にして強引に華扇は進もうとするが、目に突如走った衝撃に頭を大きく振って後退った。潰れこそしないが、ぼやけた半分の視界を手で擦り、笑う菖の顔を見据える。訳も分からず、兎に角進もうとした体の横から走った衝撃に僅かに華扇はバランスを崩し、続けざまに足元の大地が弾け再び地面に腰を下ろす。

 

「……まさか」

 

  姿勢を低く華扇は大地を蹴った。目の前から降ってくる剣戟の雨。それに意識を集中すると、全く関係ない方向から衝撃が飛んで来る。横から、下から、背後から。華扇の視界の端で弾ける枝葉や小石は跳弾の軌跡。だがそれだけでは飛んで来る衝撃の数と辻褄が合わない。菖の技の正体、華扇の頭が弾き出す答えはただ一つ。

 

「その居合、軌道を曲げられるのか!」

「千年以上費やしたのだ。これぐらいできなければ寧ろ罪だろう?」

 

  最速の直線に加え、個を取り囲む針の筵。三百六十度を支配する剣尖に、華扇はイラつきながらも大きく笑い足を止めない。人がただ鍛えた技のみで向かってくる。小細工も策もない。敵に向けるは剣一本。それを振るうのは二つの手。それに応えるように、華扇もただ力を漲らせる。術を使わぬ仙人を仙人と呼べるものなのか。人の技がどこまで至っているのかを、極上の料理を吟味するように再び華扇は拳を握る。

 

「次は外さん! さあどう受ける!」

 

  場を支配せんと空気を穴ぼこだらけに穿つ連撃も、本気で体に力を入れた華扇の肉体には弾かれる。振りかぶられた右の包帯だらけの華扇の腕を、腰を落とした姿勢のまま菖は小さく見上げ、熱く燃えるような内側とは裏腹に北風のような冷たい息を吐く。死が迫れば迫るほど頭が冴える。スローモーションのように迫る華扇の拳に、菖は瞬きも身じろぎもせずに、その拳が顔の右頬の皮膚に触れる感触を薄皮一枚で感じ取った。

 

  力では受けない。そもそもそんな力はない。肉体の強度にも任せない。そんな頑強さは持っていない。

 

  坊門は柔らかさから死を生んだ。だから死を退けるのも柔らかさ。拳の力に逆らわず、全身をアメーバのように脱力させて、受けた拳の威力を全身に回すように菖は華扇の拳に乗っかった。天から脳天に一本の杭を打ち込んだように、地に穴を開けるが如く菖は回る。小さな黒い竜巻は、華扇の拳を受け流しながら、全身に回った力を両足で塞き止め、その勢いを右手に握った剣に乗せて射出した。

 

  ガチリッ、と空間同士がぶつかり合う。細い西洋剣の先端が生み出した小さな世界が、世界を押し分け光速で走った。その煌めきに目を見開いた華扇の額を軽く擦り、遠い空に浮かぶ白雲を飲み込み小さな穴に引きずり込む。

 

  固まった華扇の前で顔を歪めながら小さく裂けた右手を菖は振るう。口に溜まった血を大地に吐き出し、殺し屋の口から出るのはしんどそうな吐息。微妙に震えた自分の指先を見つめ手の感覚を確かめるように何度か開閉した。

 

「想像以上の威力だ。御せんな、照準がズレた」

「……ここまで来ると奇術染みてきますね。お見事、その殺人術、よくぞそこまで磨いたわね」

「それしかできん」

 

  殺す。ただ殺す。友の心も関係なく、自分がその光景を見たくないがために、友を殺そうとする相手をより早く殺すため。人も、鬼も、天狗も、河童も、天使も、悪魔も、神でさえ。菖の大事なものに手を出そうとしてくる不届きモノを、終わりを阻む邪魔モノを、絶対に必殺する。それが菖は得意だから。

 

  微笑を浮かべる菖と満足に笑う華扇。

 

  舞い散ったシニョンキャップの欠片が菖と華扇の間に流れ、笑顔のまま華扇の顔は固まった。地面に落ちた布切れを華扇は何度も見直すが、何度見てもシニョンキャップ。桃色の頭に恐る恐る華扇は手を伸ばし、指の触れた感触に石像のように動かなくなる。

 

「あ、あれえ? た、たんこぶかしら? なんども転がったし! いや、固いたんこぶねー。あっはっは! あっはっはっはっは⁉︎」

「それはまあ変わった形のたんこぶだな。それより仙人、答えを聞こう」

「いや、それよりって」

「貴様が何者だろうと関係ない。必要なのは貴様の力だ。それ以外のことなど小事。全ては月夜見に勝つために。全ては終わりにするために。必要なら全てが終わった後私を殺してくれてもいい。だがこの戦いだけは共に来てくれ。頼む」

 

  菖の瞳に映るのは茨木華扇。種族や内に抱えた問題などどうでもいい。菖は華扇に会いに来た。そして華扇は目の前にいる。それが全てだ。初めて華扇に会いに来た時と微塵も変わらぬ菖の雰囲気に、華扇は頭から静かに手を離し、口の端から吐息が漏れた。

 

「……ハァ、良いでしょう。参戦しますよ。元々そのつもりではいましたが。少し羽目を外しすぎたわね」

「そうだったのか? では骨折り損だったな」

「私は久々に楽しかったけれどね。あぁ、それと私の頭のコレはできれば内緒で」

「なぜだ? 問題か? 別にいいだろう」

「いや、よくないので」

「私は櫟と藤に話したい。久々にあの二人に自慢できそうだからな。漆や梓にも話してやろう」

「だからよくないんだって言ってるでしょ⁉︎ 貴女話聞いてるの⁉︎」

「聞いている。よし、話す」

「聞いてないじゃない! ちょっとこっち来なさい! 記憶を消すわ!」

「イヤだ。私はあいつらに自慢したい。ではな」

「ちょ、なに帰ろうとしてるのよ菖! 待ちなさい!」

「イヤだと言ったらイヤだ。追ってくるな華扇」

 

  去る菖を華扇が追う。初めとは真逆の形に遠くで眺めていた動物たちは首を傾げ二人の背を見送った。ズンズン歩いていく菖の姿に華扇は息を荒げながら大きく息を吐き出して、諦めたように隣に並ぶ。不敵。傲慢。強欲。そのどれとも違う無表情な暗殺者の横顔を眺めながら、華扇は穴だらけの前掛けの下に右手を伸ばし、替えの服とシニョンキャップをどこぞから引っ張り出すと一瞬で着替えた。

 

「勝てると思うの菖。月の神に」

「誰もが同じことを聞くのだな。だがそれに返す我らの返事も変わらない。勝てる」

「根拠は?」

「ない」

 

  はっきりと言い切った菖に、呆れるよりも華扇は感心する。少なくとも頼もしくはある。だが、知りたいのはその者の言葉ではなくその裏にあるもの。絶技を振るう人間の考えが知りたいと華扇は緩く腕を組んだ。

 

「ないのに勝てると言いますか」

「少なくとも言わねばならない。この戦いは甘くはない。一人でも負けると言ってはならないのだ。多くの勝ちへの執念がきっと届くと信じるしかない。私たちは一人ではない。自分にできないことができる者が側にいる。自分が考えつかないことも思いつく者がいる。技と、力と、知恵と、意思と。私も含め取り敢えず十人。更に今さっき一人が増えた。姿は既になくとも、分かっているだけで月の意思も六百二十八名分。勝てる。勝つ。それが当事者としての責任だ。敗北の意思は早々に殺す。神がどうした。神より私は櫟たち九人の方が怖い。あの九人に置いて行かれることの方がずっと怖い」

 

  それにまだできていない。殺す以外のことを菖はまだできていない。それができるまで、世界が終わってしまっては困るのだ。たった神一匹。そんな神の我儘で終わってしまうなど菖は許さない。自分は神より我儘なのだと鼻を鳴らして菖は笑う。

 

「それに今はかぐや姫も居るからな。月の姫に自慢してやるのだ。殺せぬのなら、死にたくなるほど自慢してやる。月の姫を守る平城十傑、誰のものにもならなかった月の姫に死んでも手放したくないと思わせるために。ちょっとした仕返しだ。素敵だろう?」

「それはまた、大それた望みですね」

「人間なのだ。欲張りでなにが悪い」

 

  慎ましく生きろ。身の丈の生活を。説教のための言葉はいくつも思いつくが、華扇はそれを口にしない。乾いた笑い声を上げて、ただ菖の隣を歩く。神に救いを求める者。欲を捨て清廉潔白な生を望み、死という概念と戦う。多くの者が正道を目指す中で、浅ましく、頑固で、傲慢で、聞き分けもなく、欲に塗れ、夢を吐き、子供っぽい、どこまでも人間的な人間にただ笑うしかない。無謀こそ、愚者こそ人の姿。華扇が、萃香が、勇儀が望んだ、終ぞ現れなかった人の姿。

 

……遅すぎよ。しかも味方でなんて勿体ない

「なにか言ったか?」

「いえ何も。では楽しみにしましょうか。勝利という名の美酒を飲む時を」

「そうだな」

 

  感覚のない右腕を華扇は摩りながら足を止めない。今こそそれがないことを惜しみながら、左腕に腕二本分の力を込めて右腕を握る。ほんの一瞬、華扇は仙人であること忘れてしまった。

 

 

 


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