青から紫がかり朱色へと。光を失い塗り重ねられた色に空は時間を追って黒へと変わっていく。夕闇の中に浮かんだ満月は、空の色が沈むのに合わせて輝きを強め、影に覆われたように薄暗い大地を覗いている。目から溢れる雫のように、誰に見られることもなく地に落ちる月の結晶。最新の兵器に身を包んだ月の兎は、餅を搗く代わりに幻想郷を叩くためにやって来た。静かな森の中に響く鈴虫の鳴き声。
リーン、リーンと優しい音が地面を覆う色とりどりの落ち葉の下から伸びてくる。それを掻き消すように葉の音を起こし鈴虫の声を玉兎は踏み潰す。一瞬流れた沈黙は、しかし、すぐに少し離れた別の場所から湧き上がる鈴虫の声に包まれた。踏み潰しても踏み潰しても這いずり出て来る生命の声。ただ、一々玉兎も小さな命の声を気にしたりしない。一定のリズムの呼吸を意識し、身の内で暴れようとする感情に蓋をする。考えるのは流れて来る指示と引き金を引くこと。己が身を武力の一矢として律し、いらない思考は隅に追いやる。
情報よりも木々が多い。出だしから違う情報に掻き乱された心を抑えるので精一杯だ。「進軍、進軍」と頭の中でやる気なく繰り返される嫦娥の声に舌を打ちつつ、玉兎たちは足を止めずに進み続ける。目指すは重要拠点。もう間もなく見えるはずの目標だが、肌に張り付く嫌な空気が拭えず、無意識に鳴る喉の動きを感じ玉兎はまた呼吸に意識を集中する。
道中何にも遭遇していない。隠密行動をしてはいるが、それにしても出会わな過ぎだ。幻想の都のはずの幻想郷に妖魔の影が見当たらない。上へと報告したところ、僅かな沈黙の後「逃げたんじゃない?」と不安の残る一言。本当に逃げたのならそれに越したことはないのであるが、姿形のない不安は拭えない。妖と対峙しているような不安は、しかし妖とほとんど遭遇したことのない玉兎たちには言いようのない脅威として眼に映る。そしてその眼に映るものは何もない。
何不自由なく過ごすことのできた月の都。
争い事や戦火とは無縁。最近になって急に人妖、神霊が月に攻め入って来たが、結局は小競り合い。それと相対し戦った者など数えるほどしかいない。月軍の玉兎のほとんどは、都市伝説のようにしかそれを知らず、人妖の時も神霊の時も何かが攻めて来たとしか分からない。そんな不定形な侵略者の根城に踏み込んでいる。神霊騒で踏み込んだ時とはまるで違う本当の侵攻。その時の幻想郷の空気とは百八十度違う静かな都。
一歩。人の手が入っていないと見える広大な森から抜け出して、月明かりが照らす重要拠点の一つを玉兎は見上げる。月明かりを反射するのは紅い肌。夜に映える吸血鬼の館には薄っすらと明かりが灯り、静かに佇んでいる。妖しく輝く館から感じる生命の鼓動はなく、門番の姿もない。首を傾げながらも先頭にいる玉兎は辺りを見回し、後列の玉兎に進むよう手で促した。紅魔館の大きな入り口扉に張り付き呼吸を整える。肩に張り付いた扉をぶち破る瞬間を今か今かと待ち、頭の中で響いた月の女神の号令に合わせ扉を力任せに蹴破った。
館の口から玉兎が雪崩れ込む。その侵入を阻む者はなく、打ち鳴る兎の足音が館の中に反響した。足音を返すのは薄い壁。シャンデリアも絨毯も階段もない。飛び交う妖精メイドの羽音も生命の呼吸も感じず、玉兎たちの呼吸が止まった。
「こちら『ろの三』、白玉楼もぬけの殻だぞ!」「『はのニ』、妖怪の山もだ!」「『への一』、命蓮寺も同様!」「『りの五』、地霊殿も空だ!」
一気に流れ込んで来る情報に心が殴りつけられる。一歩足を後ろに踏み出し、紅魔館の現状を伝えようと頭に手を置いた玉兎の目に飛び込んで来る紅い光。急速に強さを増して視界を塗り潰す紅光が窓から伸び、紅魔館を根元から吹き飛ばした。
────キィィィィィィン。
と頭の中で響く耳鳴りになんの音も聞こえない。ふわふわとした浮遊感を削ぐのは肌を焼く炎熱。動ければ地を這う炎から逃れられるが、一度手を引かれれば骨の髄まで炭となる。砕けた木片と燃える大地を満月と共に見下すのは四つの紅い瞳。黒い翼と七色の翼をはためかせ、白い牙を覗かせた。
「「ようこそ紅魔館へ、そしてさようなら」」
笑うように呟かれた二重の声が、嫌にはっきり玉兎たちの耳に届く。青い髪の吸血鬼は胸の前で手を合わせ静かに笑い、金髪を振った吸血鬼は右手を前に大きく伸ばし壊れたように高笑う。玉兎たちの体から奪われる大事な核が、たった一人の少女の右手に収束する。右手に浮かぶ数多の『目』を宝石をのぞむように眺め、「盗んじゃった」と、破壊の使者は小さく舌舐めずりをした。ゆっくり握り締められる少女の手の動きに合わせてヒビの入る玉兎の身体。
止めろ! 頼む! 命だけは!
侵攻して来たと言っても、命の危機には変えられない。阿鼻叫喚の声は至上のオーケストラ。破壊の音と濁流のような悲鳴に耳を澄ませて吸血鬼たちは静かに笑う。救いを求める声はご馳走で、歪んだ顔は最高の名画。玉兎は手を伸ばす相手を間違えた。人差し指を一本立てる姉の姿に妹は小さく頷いて右手を握り締める。パキリッ、と砕けた音に合わせて玉兎が爆ぜた。地と鉄と木片が降り注ぐ光景を見上げる玉兎が一匹。同じ玉兎の波長は周りから消え、代わりに小さな足音が二つ両脇に落ちる。鋭い爪に頭を掴まれ玉兎の瞳にねじ込まれるのは紅魔の主の歪んだ笑顔。
「動くと喉が乾くわね。戦いは続く、貴女に私たちの喉を潤す最初の栄誉を与えよう。玉兎の血は美味しいかしら?」
叫び声を肴に牙が二つ突き立てられた。行儀悪くぽたぽたと血溜まりを広げながら、玉兎の体から命の泉が溢れていく。水を失った枯れ木のように絞られた玉兎の体を小枝のように二つに千切り、レミリアとフランは口を拭って放り捨てた。森で蠢く命の叫びに耳を向け、姉妹二人顔を見合わせ小さく笑うと思い切り大地を蹴る。
視界を走る銀線に、瞬きをすることも忘れ玉兎は立ち尽くしていた。放つ弾丸が当たらない。銃弾の雨を縫うように走る銀の線は三つ。鮫の背びれのように隙を割り迫る大太刀の刃。流水のように静かに流れる半霊の長刀。そして蝶のようにヒラヒラと舞う亡霊の刃に、玉兎の肌は優しくなぞられた。
落ちる腕。崩れる足。小さく赤い線を引く肌。傷の大小は関係ない。刃に斬られる。斬られりゃ死ぬ。その死の実感と共に玉兎の視界は暗転する。刃が触れれば死が訪れる。当たり前だが、その目前に迫る恐怖に足が竦み、次の瞬間にはバターにナイフを入れるように音もなく刃が肌に埋まった。小さく指を切っただけでもその細い糸を手繰り寄せて死が手を強く伸ばしてくる。その手を振り払うことは叶わず、暴れても喚いても一度掴まれれば最後。
分かりやすい暴力でもなく、迸る妖力でもなく、ただ静かに確実に首を握り潰す死の姿と得体の知れない恐怖に、玉兎たちの口からは同じような言葉が漏れる。
死にたくない。
その命の極限に絞り出された想いの結晶は、しかし、簡単に摘まれる。いつか必ず生者に訪れる死が今来ただけの話。冥界という死の総本山に踏み込んで、生を謳うことこそ馬鹿らしいことはない。この場で命を支配するのはただ一人。いつも隣に居て離れない親愛なる隣人である死と同じように、優しく微笑む妖艶な少女。地面に転がる動かぬ人形たちにいつしか諦め膝を折った玉兎に、少女は静かに近寄り死を授ける。血に濡れ微笑む幽々子の頬の血を目に留めて従者はハンカチを手渡し、風来坊は兎の空を蹴る音に耳を這わせた。
「お見事です、幽々子様。腕は落ちていませんね」
「妖忌に三百年も剣術指南を受けていたんだもの、たまにはね。それに弾幕よりもこの方が死を実感できる」
刃に指を這わせる亡霊の姫の姿に妖夢は口を引攣らせる。普段なら絶対見ることのない亡霊の剣鬼の珍しさ。剣術指南役としての肩書きも持つ妖夢だが、その役目はほとんど必要ない。理由は単純、幽々子の剣の腕は妖夢が教えるようなものではないからだ。本当なら妖夢の方が幽々子に剣術の手解きをして欲しい。
「三銃士〜」と、笑いながら妖夢と桐の間に立つ幽々子に妖夢は少し困り、桐は非常に真面目な顔で幽々子を見つめている。その見たこともない桐の真剣な顔つきに妖夢は大いに引いた。「どうしたんですか?」と、嫌々ながら聞かないことには分からないため妖夢は桐に声を掛けようとしたが、スッと手を挙げ桐は妖夢の言葉を制す。
「今姫様の姿を目に焼き付けているところです。邪魔をしないでいただきたい!!!!」
「えぇぇ……」
怒られた。と、理不尽な桐の怒りにドン引きする妖夢の横では、あらあら笑いながら刀を肩に掛け見せつけるように幽々子が一回転。これには桐も渾身のガッツポーズ。
普段の緩やかな幽々子の着物姿はなく、白い襷を背に十字に掛けて袖を挙げ、着物は崩され、裾は切り取られたように短い。覗く生足の艶かしさからは目が離せず、袴履けばいいじゃんとか無粋なことは言ってはいけない。
「敵来てます」と前を指差す妖夢の訴えに、桐は前髪を一度弄り、大太刀を強く握り締めると不埒な侵略者に向けて一歩を踏み出しそして止まった。桐は居場所を決めた。白玉楼こそが桐の終着点。身を焦がすような情熱を刃に乗せて、炎の線が空に引かれる。それを更なる一歩で押し出して、炎の刃が空を飛ぶ。焼き別れた玉兎を見上げて、妖夢は目を見開き幽々子は笑う。開戦の狼煙は挙げられた。その熱に乗って舞い上がるように三者三様の剣技が空を走る。
「ようこそここは白玉楼。こここそが死地、貴女たちの行き着く先」
首を斬り落とすギロチンは避けられない。処刑場に繋がれたように、迫る死もまた避けられない。穢れの極地に座す姫に、静かに死へと誘われる。
千切っては投げ、千切っては投げ。地底は暴力の釜である。玉兎の叫びは振り抜かれた拳の音に打ち抜かれる。考える時間も瞬きをする時間もない。弾丸も弾幕も関係なく、その身一つで受け止め駆け抜け迫る拳。先頭にいる者が倒れようとも、気にせず振り向かず力を振り抜くためにただ迫って来る。
鬼、鬼、鬼。
額から伸びる角は強さの証。揺らめく角が全てを砕きにじり寄って来る。玉兎の叫び声と鬼の笑い声の二色に地底は染まっていた。止まらぬ進撃を止めようと、ガトリング砲を取り出す玉兎の斉射に数多の鬼が崩れ去る。薄っすら笑みを浮かべた玉兎の身を影が覆い、その口角は一気に下がった。百鬼夜行を率いる鬼の大将、地底の天蓋を削りながら頭を揺らす巨鬼の拳骨が、蟻を潰すように玉兎を潰す。
最新式の機関銃も、月の兎もちっぽけであることに変わりはない。強大なただ単純な暴力に、口に含んだ飴玉のように砕かれる。それを狙撃銃のレンズ越しに遠目で覗いていた玉兎は一瞬呆けた後狙撃銃を握り直したが、飛んで来た人影に潰されて引き金を引かずに終わった。紅い角を振り回し、手近にあるものを強引に手で引っ掴み怪力乱神が投げ飛ばす。手に持つ瓦礫も玉兎も砲弾と一緒。空を裂き肉を裂き地底の壁を打ち壊し赤い花を咲かせて崩れる脆い砲弾に呆れながら勇儀は動かす手を止めない。
暴力の間を縫って隙なく暴力を差し込む仙人は肩を竦めながら、形ない右手を滑らせ玉兎の足を引く。いや、引くなどと生易しいものではない。そのまま足を握り潰し千切飛ばす。吹っ飛ぶ玉兎の欠片を頭に受けてそこを指で掻きながら、萃香は宙に跳ねた玉兎の欠片を叩き落とした。地に落ちるまでもなく手に張り付いた赤い色を服に擦り付けこそぎ落とし萃香は一歩を踏む。
性能が違う。言ってしまえばそれまでの話。生まれながらに存在の強度が違い過ぎる。同じように息を吐き、同じように生きているはずなのに、一体なぜこれほどまでに違うのか。鬼に生まれなかったのが悪いと言ってしまえばそれまでだが、そんな言い訳を考える暇もなくただ災害のような暴力に怯える。
つまらん、つまらん。
と愚痴をこぼしながら萃香は小さく縮み、酒で心の隙を埋めた。
「歯応えがなさ過ぎる。楠たちと遊んでた方が楽しかったよ」
「それを言っちゃあおしまいだね。はぁ、梓と殴り合いたいねぇ」
「そうですね、菖とまたやりたいわね」
「あ、いいの? 仙人がそんな好戦的でさ」
「うるさいわよ萃香、今は無礼講でしょ」
「これが終わったら異変でも起こすかい? 相手は平城十傑でさ」
それもいいかもと鬼たちは笑いながら、また暇を潰すように腕を振るう。そんな力の津波を見下ろしながら息を零すのは地底の主。力が跳ね除け溢れた月の兎を三つ目の瞳で見つめ、その心に浮かぶ闇を呼び覚ます。今生まれたばかりのトラウマを、熱いうちに叩くように再来する鬼の拳に玉兎は目を瞬かせ、質量のない拳に心を殴りつけられる。当たらずとも当たろうと心を砕く鬼の脅威に、玉兎の心は壊れていく。
「地底にようこそ。忌み嫌われた私たちの相手をしてくれるなんて優しいですね」
優しく伸ばされた手を握り潰す。綺麗な花には棘がある。地底に咲く花は綺麗だが、その棘の長さもまた長い。地底の花に手を伸ばした玉兎たちは、その鋭い棘に見事に指を食い千切られた。
そよぐ風は刃。捲き上る石は拳。妖怪の山に踏み入った玉兎たちは、手では掴めない災害の渦に巻き込まれて、上下左右の感覚を失っていた。いくつもの暴風を束ねられ、少しでも近づけば引きずり込まれる。普段肌を叩く心地いい風が牙を剥く。噛み砕かれる玉兎たちの間を木の葉のように踊る黒い翼。兎の耳を引っこ抜くようにそれを睨むのは天狗の瞳。風に隠れるように光る黄色い視線は刃物のようで、一瞬それを見た玉兎の視界はすぐに掻き混ぜられて見えなくなる。
天狗は偉いから天狗なのではない。天狗だから偉いのだ。空に浮かび地上の者を見下ろす月の者を天魔は見下ろし、渦の中心の上空で偉そうに足を組んだ。風のミキサーに細切れにされていく兎の肉の音に耳を澄ませて、指を回し風を吹く。
「妖怪の山によく来てくれた。登山の手伝いをしてやろう」
空に巻き上げ肉をばら撒く。妖怪の山は、飛び散る玉兎の血肉を摘み食いしながら空を舞う天狗たちの餌場でしかない。吹き荒れる風がやすやすと侵略者を連れ去ってしまう。隣で羽ばたく翼の音に天魔は目を向け、腕を組んだ文がその目に小さく頭を下げた。
「雑兵ならこの程度か。文、しばらくはこれを維持しなければならない。お前もたまには働けよ。ここで力を振るっても私のせいにできるのだし」
「はいはい、貴女も変わらないわよね。動くのが好きなら天魔になんてならずに私みたいにのらりくらりしてれば良かったのに」
「仕方ないだろう。どっかの鴉天狗のやる気がないせいで私がやるしかなかったんだもの。ただ天魔にも楽しみはある」
「それは?」
「偉ぶれる」
鼻を鳴らす天魔に呆れながら、文も黒翼を羽ばたかせる。蠢く風が幻想郷中の風を吸い込み、その風の運んでくる噂に腕を摩った。
「天魔様、全体的に動き出したようですよ。吸血鬼、亡霊、宗教家たちが大きく玉兎を囲みながら魔法の森を目指しています」
「全く、急に下手に出るな。ではもう暫し我らは翼を燻らせようかな。虎穴から虎が出るまでまだかかりそうだ」
風の強さが増していく。天まで届くバベルの塔のように高く厚く、巨大な建造物のように聳える風の社は打ち崩れず、幻想郷に渦を巻く。
「あーもう何やってんのよ! 地上の者風情に掻き回されちゃってまあ」
飛び交う悲痛な通信に頭を痛ませて嫦娥は椅子に深く沈む。未だ居るのは月の都。歓喜の声は一つもなく、ただ叫び声一色。うっさいと玉兎の波長をスイッチを切るように打ち切って、嫦娥は雑に頭を描いた。予想はしていたのか、依姫も豊姫もサグメも取り乱すことなく静かに椅子に座し、そんな三人の顔が苛つくと嫦娥は舌を打った。
「なによ、こうなるって分かってたっての? 余裕そうね豊姫。玉兎を送ったのは貴女でしょうにね」
「幻想郷は彼らのホーム。名を馳せた人妖が相手なのだから楽に進むわけもない。だから広域殲滅兵器を投下した方が楽だったのに。まあ幻想郷を包む結界の強度が下がってるって報告が上がってきてるしどっちみち使えないけれど。現状は?」
「重要施設を狙って行った玉兎はほぼ壊滅、地底に至っては全滅ね。どうするのよ」
「取り敢えず第二波を送るとしましょうか。もう少し装備の固めた者たちをね。どうかしら依姫」
組んでいた腕を解き、衛星が写す幻想郷の映像を見つめながら小さく依姫は頷く。
「第二波で粘り一箇所に敵を誘導し、残りの大部隊で回り込み一気に叩くのがいいと思うわ。そうすれば数でもこちらが上回りそれで片がつく。広く場を使っても時間が掛かるだけでしょうから」
「質の高いのが何人かいるし、勝てても消耗戦は望むところではないものね。ほら嫦娥、華を持たせてあげようというんだから動かしなさいな」
「そりゃどうも」とため息を吐きながら指を振った嫦娥の周りに紫電が散る。月の女神の毒電波を受けて耳をビクつかせる玉兎たちの内面を感じながら、玉兎たちの中で吐き出される毒素に楽しげに稚児髷を揺らした。葛藤を持たぬ穢れなき悪意。毒婦嫦娥の笑みに三人は小さく肩を落とす。
「そんな退屈そうにするならもうさっさと貴女たちが攻めに出ればいいでしょうが、そうすればすぐに終わるのに」
「どうせ出るなら今出ても乱戦に巻き込まれて楽しめないでしょう? それに誰がどこにいるのか分からないと送りようも行きようもないし」
「なによ豊姫、戦いたい相手でもいるの?」
嫦娥の問いに豊姫は少し考える。思い浮かぶのはスキマ妖怪と亡霊。どちらも扇子で消しとばしたいところだが、どちらを先に潰したいかと言われれば決まっている。
「八雲紫には私が会いに行きますわ、依姫はどう?」
豊姫に言われ依姫は再び緩く腕を組んだ。吸血鬼、メイド、巫女、魔法使い。一度月に攻めに来た人妖たち。その時のことを思い出し薄く依姫の口が持ち上がる。そんな者たち以外にも月に侵入してきた暗殺者もいる。手を合わせる相手は色とりどり。その中でも一番を選ぶなら誰か。
「霊夢にはまたお仕置きが必要かしら。私が出るわ」
「はいはい、相手が決まってて羨ましいわね。サグメはどうよ」
目を閉じるサグメの脳裏に浮かぶのは、異変解決にやって来た者たち。神霊騒動の際はこれ幸いと今日のために幻想郷に手を出したが、神霊を追い払うために期待したのも確か。そしてその期待を見事に背負い切った。依姫も豊姫も嫦娥も楽しげにしているが、サグメはどうにも嫌な予感が拭えない。イレギュラー。その存在が月を救ったように、月を穿つ銀の弾丸に成り得るかもしれない。事態が未だどう転ぶか分からず口を開きかねる。だが、事態が読めないからこそ、取り敢えず一つ小石を投じる。
「鈴仙」
「ああ言うのね、会えるかどうか知らないけど」
「そう言う嫦娥は? あの神霊が出てくるんじゃなくて?」
「はあ? 純狐が? まあ今なら会ってやってもいいけどね」
頬杖を突きにやけた嫦娥の表情に、残る月人たちは肩を落とした。純狐。月人をして面倒な相手。万物を純化させる神霊と、他の者を誑かし物のように操る嫦娥。その二人の闘争がろくなものにならないことは容易に想像ができる。泥沼となりそうな戦場を思い描き、中でも玉兎を送る豊姫は大きなため息を吐く。
「まあなんにせよ、あんまり前戯が長いと白けるし、どうせ出るなら早く出番が欲しいわね」
「はしたないわ嫦娥。でもそうね、地上の者がもう少し頑張ってくれればですけど。玉兎に負けるようなら私たちが出ても無駄」
できることなら労力は抑えたい。勿論玉兎のことではなく、月人のこと。玉兎をどれだけ消費しても関係ない。問題は月の民がどれだけ楽ができるか。表面上優しく接しても、所詮は月人にとっての消耗品。豊姫の後ろの壁際で、ここにいることを感謝しつつレイセンは仲間の冥福を祈った。
ただ静かに口を挟まず眠ったように動かない月夜見はなにを考えているのか。
それは月の神だけぞ知る。
天に輝く満月が瞳のように幻想の都を見下ろす姿が、本当に月の神の瞳であると気付いている者は何人いるか。ただ全てを眺めながら、月夜見は小さく笑みを浮かべた。
「結果はまずまず、ですかね」
幻想郷の森の中。遠くから聞こえる喧騒を感じながら、広げられた幻想郷の地図、盤面の上に櫟は鉛筆を走らせた。鈴仙たち地上の兎と遠く景色を覗く白狼天狗と鴉天狗の話を聞きながら、ひっきりなしにやってくる鴉天狗たちの報告を纏める。
どこも勝利。その結果の速さこそまだ敵の将が来ていない証。簡単に得られた勝利にうつつを抜かすことはできない。出頭に月人に遭遇しても困るが、いつまでも来ないのもまた困る。「どうするの?」と聞いてくる鈴仙の言葉に櫟は頭を回し、盤面の上にまた鉛筆を置く。
「第二次の話は聞いていますし、月人もその相手は気にするはず。こちらの強者をチラつかせながらこのまま誘導するとしましょう。敵の全軍はまだ来ない。勝利を決めようと思うまで動かないでしょう。それまではこの勢いに乗って、敵の思惑に乗ったフリといきましょうか。序盤は優勢、中盤は敵が動いてからが勝負。それまでは耐えるだけですよ」
消極的に見えてもこれは防衛戦。こちらから月に出向くわけではない。敵の将を引っ張り出せてからが本当の勝負。優勢と言っても、雑兵同士の戦いでは勝負にならない。既に幾人もの天狗や鬼、河童など、妖怪が玉兎の兵器の前に倒れている。今勝てているのは幻想郷の大駒を既に動かしているから。
切れる手札は多くはない。周りが静かでも櫟は戦場の中にいる。そして平城十傑も。ペンを手の上でくるくる回し、櫟は小さく息を零した。そんな櫟の姿に鈴仙は耳を揺らし、その隣へと歩み寄る。
「どうしたの? なにか問題?」
「……いえ、将が来れば一気に被害が増えるでしょう。それを思うと今から気が重い」
「でも櫟のことだからもう戦い方は決めてるんでしょ?」
鈴仙に微笑を返し櫟は盤面へと顔を戻す。勿論決めている。動きの決めている者たち以外、ゲリラ戦術を取り広域に展開している平城十傑。幻想郷という戦力を借りておきながら、自分たちがなにもしないなどあり得ない。将が来れば短期決戦。時間を掛けるだけ勝率は下がる。どこに将が降りてもいの一番に平城十傑をぶつけるため。まず切る手札は平城十傑であるべきと、分かっていても、その結果が分からないが故に、言いようのない不安が拭えない。
「……勝ちますよ」
呪いのようにその言葉を呟く櫟の背を鈴仙は見つめ、ホッと息を吐き肩の力を抜く。櫟の頭が煮詰まった時はぶっ叩けと言った藤の言葉を思い出しながら、嫌な役を押し付けられたとその時が来ないことを願う。
「敵の第二波が来るよ。暴風ドームになってる山は避けて魔法の森に集まろうとしてるみたい。こっちの外側に展開するみたいだよ」
「ではやられるフリをしてそのまま第二波を魔法の森に誘導、気を見てこちらが優勢になるように動きましょうか。清蘭さん準備を」
「あいあいさー」
鈴瑚の報告に櫟は頷き、月の狙撃銃を担ぐ清蘭を近くに呼ぶ。目は見えずとも遠くの戦況を肌で感じられる櫟と、異次元から弾丸を飛ばす清蘭の狙撃コンビが動き出す。
序盤は幻想郷が上を取った。戦いは中盤へと動いていく。