────パキリッ。
足の落とした先、砕けた小枝の音に依姫は顔を上げた。魔法の森の端、昼間霧の張る霧の湖は、月明かりに透かされたようにはっきりと見え、対岸には小さく吹き飛んだハリボテ紅魔館の残骸を見ることができる。夜の清々しい空気ではなく、血と白煙の匂いが薄っすらと混じった気味の悪い空気に依姫は鼻を擦り、ビュービューと喚く風の音が変わったのを聞き目を動かした。
妖怪の山を覆っていた風の膜が横合いから吹き飛んだ。
その様子に依姫は姉の姿を見たが、内側からではなく横から吹き飛んだのを見て小さく眉を歪める。
降り立つ場所がズレた。
スキマ妖怪のせいかと依姫は舌を打つが、正解は白煙のせい。妖怪の山が巻き込む風に乗って、薄く幻想郷の上空に広がった白煙のせいで、精密な操作を要求されるスキマも空間移動も無理矢理位置をズラされる。暴風ドームと月の扇の起こした風の衝突に、幻想郷の空気が掻き混ぜられ、依姫の視界の端で揺れ動いていた白煙の壁は薄らいでいった。
本来なら魔法の森の乱戦の只中に降り立つはずだった依姫は小さく息を零し、腰に括りつけた結界装置の『目』の箱を一瞥したあと、未だ小さな戦闘音を零している魔法の森を睨んだ。静かに闘気を立ち上らせながら一歩を踏んだ依姫だったが、視界の端でゆらりと人影が揺れたのを見るとそのまま立ち止まる。
怪しく畝る妖気ではない、鮮やかな魔力でもない、清々しい霊気でも眩い神気でもなく、肌に突き刺さるは鋭い剣気。月の都を踏んだ暗殺者と同等の武士の気風を受けて、依姫の口は薄く弧を描く。
「──何者だ?」
剣気に刃を沿わせたように零された依姫の鋭い声は、一人に向けられたものではない。視界の端で揺れる蜃気楼には顔を向けず、反対の目の端にスルリと滑り込む人影が一つ。蜃気楼に負けぬ燃えるような熱い剣気。依姫の声は今まさに刃を鍛えているというような赤銅色の剣気と、薄く透明な身の内に滑り込んでくるような剣気の二つに向けられたもの。
「平城十傑、北条家第百三十七代目当主 北条楠」
「平城十傑、五辻家第七十八代目当主 五辻桐」
平城十傑。天探女の気にしていたイレギュラー。月に喧嘩を売った十の人間。二刀と大太刀。立ち姿から戦法は分かる。肌で感じる刃のような感覚に、依姫は今度こそ大きく口を横に引き裂いた。その笑みに楠と桐の手が刃に伸びる。
ただの笑み。だがその口に浮かんだ三日月は名刀と呼ばれる刀よりなお鋭く、肌を撫で上げる依姫の闘気に、楠と桐の肌は薄っすらと冷たい汗に覆われた。
格の違い。
こうも違うのかと思わずにはいられない。玉兎と月人。月に存在する二つの種族がどうして綺麗に上下に分かれているのか、依姫を見て理解する。数多の人妖をただ一人で撃滅せしめた現月の使者のリーダーが一人。八百万の神を使役できるというのも脅威ではあるが、そういう問題ではない。
華奢に見える女性らしい肢体は薄っすらと脂肪に包まれ、形の良い筋肉を覆っている。目で見てすぐ理解できる鬼の力ある肉体とは違う、言うなれば梓に近い均等の取れた無駄の無さすぎる完成された形。腕が長いだの、胸が小さいとか、そんな文句が一つも出ない完成された肉体は、梓よりもなお一つのことに向けて完成されている。
依姫の腰にぶら下げた刀が、物ではなくその身の一部であるというように、依姫自身が一振りの刃のようであった。神社に奉納される鏡のように磨き抜かれた刃。無数の神を降ろせる依姫の身に不思議と納得がいく。
「──月に侵入したあの人間の仲間たちね。見事、そう言っておきましょう。どうやらそちらには私よりも頭がキレる者がいるらしい。誰か名を聞いてもいいかしら?」
「……いいだろう、どうせアンタは会うことないんだ。平城十傑、唐橋家八十一代目当主 唐橋櫟。平城十傑の参謀だ」
「平城十傑ね……」
その名を一度依姫は口遊み、己への戒めとして心に刻む。神を身に降ろせる人間、博麗霊夢に感心したように、人の中から時折突然変異のように現れるおかしな人間。それが命、穢れの妙なのか、ただどんな人間にせよ斬るだけである。
「それで……私の相手は人二人? 随分と舐められたものね」
ゆっくりと弓を引くように、依姫の空気が張り詰めてゆく。心の臓に刃を突き立てられ押し込まれているような空気に、楠と桐は刀の柄を掴み構えるが、依姫の気に押し出されるように新たな気配が二つ依姫の前後に静かに降りる。
目の前で揺れる青い夜色の着物に依姫の眉が小さく上がり、背後で回る半霊の人魂を瞥見した。
「あら、これは当たりなのかしら、それともハズレなのかしら。困ったものね」
「姫様、それに妖夢さんまで」
「桐、それに楠、梓たちは櫟の方へ行ったわよ。天探女が櫟の方に出たみたいでね」
作戦本部が暴かれた。つまりこの先、櫟たちの方で事態が終息しない限り頭脳は動かない。月の将が動けば戦況が変わる。たったの四人。個で軍をぶち抜いてくる月人の出鱈目さに楠も桐も苦笑しかできない。
「──私を挟んで余裕そうね」
呆れたような冷笑と共に吐き出された依姫の言葉に仲間たちへの心配は斬り捨てられ、楠と桐の意識は目の前へと引っ張られる。人二人の気配が自分に戻ったのを見て、依姫は一度くるりと周りを見回し刀の鍔へと手を添えた。
開戦の合図は不要。
そんな依姫の動きに合わせて鞘を滑る刃の音が五つ。
二刀を揺らす人相の悪い男。
大太刀を肩に担いだ痩身の男。
笑みを絶やさぬ亡霊の姫。
長刀を地に沿わせる半人半霊の庭師。
「四対一なんてと無粋なことは言わないわ。私は月の使者、綿月依姫。地上の者よ、自らの愚行を嘆きなさい」
刃、刃、刃、刃。
依姫を取り囲む剣客が四人。そのどれもが一定以上の質を秘めていると言っていい。緩りと依姫も刃を鞘から滑らせて、刀を地に構える。刃を地に突き立てることなく、お前たちの切れ味を見てやると言わんばかりの風体に楠は歯を擦り合わせるが、腕を揺らし体勢を前へと倒したまま動かない。
隙が見えない。
ただ静かに刀を平に下に向け佇む依姫の形は、彫像のように完成している。前後左右どこを切り取ってもそれは同じ。下手に踏み込めば返しの刃で真っ二つ。優れた戦闘者であればこそよりよくそれが理解できるジレンマで、僅かに擦り出された四つの足は進むことなく二の足を踏んだ。
誰かが斬られる覚悟を決めて一斉に飛び込むか。
桐の一瞬の目配せに楠は目で止めろと訴え、顎から滴る一滴の汗を拭うことなく見送る。
武芸の達人であればこそ、相手の肉つきや体に付いた傷跡、構えである程度の相手の動きは予測することができる。楠は先代と刃を合わせること一年のうち三百六十五日。それが数年分。刀を握る者の相手なら、下手をすれば数百年を生きる妖怪よりも数多く楠は手を合わせている。そんな楠の目から見て、依姫の動きがまるで読めない。
依姫の立ち姿から予測できる刃の動きは無限であり、戦いの最中でなければ感嘆の息を吐きたいほどだ。剣術に対して良い思い出が然程ない楠でも、剣士の目指す先がコレなのだと理解でき、こうなりたいとさえ思ってしまう。楠や桐の奇術めいた技とは違う純粋に剣技を練り上げた姿。一斉に飛び掛ったところで、高確率で骸が四つ転がるだけ。楠は乾いていく喉を鳴らし、擦り合わせていた歯も止まっていた。
周りを取り囲む四人の剣客を依姫は半眼で見つめ、突き刺さる四人四色の剣気を拒むことなく受け入れる。そして静かに誰も気付かない程小さく口端を上げた。
第一次、第二次月面戦争の時と違い、純粋に武だけを競うのなどいつ振りのことか。依姫はお飾りで刀を腰にぶら下げているわけではない。誰も手に武器を持たない月人の中で一人、依姫だけが目に見える凶器として刃を持っているのは、誰もが認める武の極致であるからこそ。
遥か昔、弓を手に矢を射た八意永琳の姿に憧れ、形は違くとも依姫も武芸を磨いてきた。狙撃手のように広く視野を持つことは苦手だったが、肌で直に脅威を感じる近接戦の方が向いているという師の意見を素直に聞いて、何年も人より長く刃を振った。実際に誰かと手合わせした数こそ少ないが、剣術、そのたった一つだけは既に師よりも遥か先に至っている。
そんな依姫が笑みを浮かべるのは、体を捩ってわざわざ正面に置いた二刀の男を見てのこと。
北条 楠。その名を頭で思い浮かべて、依姫はより口角を上げた。
周りの全員が一定以上の武芸者だ。それは身を撫ぜる一流の剣士の気配から察することができる。その中で一番は誰かと問われれば、依姫は迷わずに楠の名を挙げる。
他の三人も質は良い。が、半人半霊は一流に半歩届かず、亡霊の剣気には、久しぶりなのか淀みが見える。痩身の男は一流だが、動きから戦闘経験が楠よりも無いように見えた。山猫のように背を少し丸め両腕を揺らす獣のような様相。ただ一人依姫の動きを余さず頭の中で思い描いているように揺れ動く瞳は、畏れからではなくただ武に没頭してのこと。
やるのならばこの男。剣士の構えとは言えないが、剣客として依姫に最も近いのは北条 楠。
人の身で、それもまだ若いと見える人間が一番自分に近い所にいるという事実。
どうすればそうなるのか。才能か修行方法か。それが依姫には分からないが、事実は事実、目の前にいる。ホッと、感嘆の息を吐いた依姫の僅かな完成の形の綻びに、そこを擦り抜けるようにして楠の剣気が滑り込み楠の腕が一瞬大きく揺れた。
それに反応したのは依姫ではなく妖夢。僅かな機敏に反応できるのは流石であるが、自身よりも磨き抜かれた目に見えぬ剣戟の応酬に堪らず反応してしまう。一歩を踏み出し刃を振る。まだ間合いから遠い届かないはずの距離を刃が斬り出した霊力の刃が埋めてくれる。
それに笑みを浮かべることなく、寧ろ舌を打ち怒りの形相で依姫は下から斬り払った。
「半人前が‼︎」
己が身でなく弾幕を一番に放ったのは、剣の腕では敵わないという諦めの証。下手な弾幕は乱戦を呼び、そのゴタゴタの中でも依姫ならば刃を摩り込ませて来ると分かるからこそ幽々子も剣術に徹していた中での不必要な弾幕。
空を走り飛び散った弾幕の後を追って二歩目を踏み込んでいた妖夢の目前に依姫が振り返り、上へと振り上げていた刃を八相の構えに落とし込む。無駄なく最短で相手を最も容易く袈裟斬りに斬り払う動きへと形を変えた依姫の姿に、目を見開きながら冷や汗を地に滴らせ妖夢の動きはもう止まらない。
────斬られる。
どう動こうと自分の身体が依姫の刃によって両断されると妖夢の頭は理解する。刀と刀を打ち合わせようと、空に逃げようと、なんとか踏ん張り止まろうと、得られる結果は全て同じ。それならば身を犠牲に隙の一つでも作るしかないと、後悔と覚悟を決めて歯を食い縛り依姫の刃を見つめる妖夢の瞳に映る影が三つ。
妖夢が斬られる。幽々子も桐も楠もそれは瞬時に理解した。だが、妖夢を守るではなく、依姫を斬ると動いたのは楠ただ一人。そのアンバランスが歪みとなって依姫の刃に迷いを生んだ。
斬られる覚悟を意識したせいで依姫を斬る気のない妖夢には背を向けて、残る三つの影を迎撃する。前後左右の一つが欠ければ、残りは百八十度。妖夢に背をぶつけるように背後に飛び、その衝撃を利用し低く沈み込んだ依姫の刃が下から迫る刃の間をすり抜けて振り上げられる。
「幽々子様!!!!」
地に転がり少し離れた妖夢だけが依姫の刃、その軌跡の全貌を見た。
体勢の低い楠よりもなお低く、一番に迫った桐の大太刀の横薙ぎの下を潜り抜け、最も丁度いい位置にあった伸びた幽々子の腕をなぞった。
肉の繊維が千切れる音も、骨を断つ硬い音もしない。
一瞬の立ち会いが過ぎ去り身を起こし背を伸ばした依姫を通り抜け、三つの影が地を踏んだと同時、
────ポトリッ。
と、溢れる血よりも早く、白い腕が刀を握ったまま紅葉した落ち葉の上に小さな音を立て転がった。
鋭く息を吐き出して、愕然とした妖夢の腹へと鋭く桐は蹴りを放ち幽々子が腕を抑えるよりも早く蹴り飛ばした。少女の口から漏れる空気の音を聞き流し、桐の目は依姫に向いたまま、いつもより荒い口調で言葉を紡ぐ。幽々子を巻き込み転がる妖夢の姿を一瞬見たのを最後に、もう気を使う余裕はありはしない。
「姫様を連れて離れろ‼︎ 邪魔だ‼︎」
妖夢は口を引き結び、何か言葉を紡ごうと思ったが出てこない。桐の背から立ち上がる剣気が炎のように揺らめいた。その熱に当てられるように、楠と依姫の気配へと飛び火する。向かい合った刃はお互いしか気にしていない。下手に足を踏み入れれば、気配だけで斬られるような。
妖夢と幽々子が離れたのか。桐も楠もその足音を拾う余裕さえない。背を向ければ待つのは死。ただ、二人の少女に迫る死が離れたことを信じるしかない。大太刀を背に一段と目が鋭くなり前のめりに身を倒す桐の気を鎮める余裕さえ楠にはない。二人になり場を広く使えると言っても、それは依姫も同じこと。
気の立っていく人間二人の姿に依姫は小さく肩を落とし、一度ゆらりと刀を振った。
「──あの二人は離れたわ、気を張って技を鈍らせないで。それはとてもつまらない。順当に剣の腕が立つ三人が残ったのだから」
「……余裕ですね、月の剣豪。私たち二人の本気も届かないと?」
「それは貴方たちの方が分かっているんじゃない? 楠、桐、そう呼ばせて貰うわ。なるほど、『人』と一括りにして分けるにはそうもいかない者たちがいるというのは霊夢で痛感したはずなのだけれど、武でまでもそういう者がいると知れたのは嬉しい誤算なの。そんな貴方たちだからこそ分かるはず。どうかしら? 貴方たちが私の下につくなら見逃すわ。共に剣の道を行きましょう」
優しく微笑む依姫の顔に影は見えない。本気で依姫はそう考えている。今の世では珍しい本物の武士。その人間まで消してしまうのは惜しい故の勧誘。その手を握れば嘘はなく月に迎えられる。振り払えば待つのがなんであるか理解できぬ楠と桐ではない。一太刀あれば実力を知るのに十分。合わせなくても分かっていたが、一対一では依姫に勝つための目がまるで見えない。
依姫の微笑に楠と桐は一瞬目を合わせ、構えを解いて馬鹿らしいと二人鼻を鳴らした。
「アンタは強いよ、笑えるぐらいな。月軍ていうのは本来アンタたち数人のことを言うんじゃないかって程強い。……だが悪いが強さに折れる心は持ってねえんだ。アンタたちが強いなんて千三百年前から知ってる。先代から聞き過ぎて耳ダコだよ。月の者はきっと想像を絶する怪物だってな。その通り過ぎて驚きもしねえ。俺たちがなんのためにやって来たと思ってやがる、その強い怪物に笑いながら殴りかかるためさ。だいたいなんだって? 剣の道? ざけんなくそったれ! 剣を振るなんてもう十分なんだよ! 俺は放課後ダラダラ過ごして! 買い食いしながらコンビニで立ち読みして‼︎ 恋人なんかと休日に温泉行ったりしたいんだよ‼︎ そんな道死んでも歩くか‼︎」
「楠……発想がなんとも……、でも私もお断りです。私の居る場所はもう決めた。ここで私は姫様とこう縁側でお茶を啜りながらゆったり過ごすんです。手を繋いで歩きたいですし、ふと寄った甘味処で頼んだ甘味を交換しながら街を歩いて、最後は夜景を背に口吸いなんかしちゃったりできれば死んでもいいですねーって……、死んでもいいですねって! ねえ‼︎」
「アンタも大概だからな‼︎」
漫才のようにお互いを肘で小突き合う人間たちに苛立たしげに依姫は肩を震わせて眉を吊り上げた。激しく感情の乗った人間たちの叫びは心の叫び。こんな奴らが自分の至っている剣技の域に近い。長く生きる半人半霊の庭師より。更に長く生きる亡霊より。意味が分からない。侮辱としか見れない。輝かしい名刀に見えた人間たちが途端に竹光のように見えてくる。所詮“穢れ”、霊夢も含め、どうして自分を少しでも喜ばしてくれる存在は底を覗けば人間的過ぎるのか惜しまずにはいられない。
「低俗が」
「低俗結構! どうせ俺たち人間は低俗だよ! 世界で一番栄えてる低俗舐めんな!」
「愛まで低俗とは言われたくないですね! その低俗さが私たちの武器で強さの源です!」
「だいたい低俗じゃなきゃこんなことやってねえんだよ!」
ぶっちゃけもうヤケである。千三百年分低俗だからここまでやって来た。感情のないロボットだったりしたのなら、早々にかぐや姫? 知らねと言って今日ここに居たりしない。
絶対に相容れないとたった幾つか言葉を交わしただけでお互い理解した。楠も桐も言葉は不要と再び構える。叫んだおかげか余分な力が抜けたと見える人間たちに、気を使う必要もなければ、もう怒りしか依姫の中には湧き上がってこない。なぜあんな言い草で先程よりも隙が少ないのか。男たちの真面目な顔付きまで演技のように見えて癪に触る。楠も桐も叫んだ言葉も含めて本気も本気なのだが、本気であればあると分かるほど、寧ろ依姫の怒りは煽られていく。
機械的ではなく、踊る風のように淀みなく姿勢を落とす二人の人間に依姫はもう刀の切っ先を向けることなく、大地に勢いよく突き付けた。
祇園の剣、女神を閉じ込める祇園様の力。
祇園様とは
大地から突き出した刃に行く手を阻まれる。無理に突き破ろうと動けば、磔にするように地から伸びる刃の檻が大太刀を担いだ桐の足を出させない。
神の足さえ押し留める刃の檻に囲まれた人間に肩の力を抜き、瞼を落とした依姫の耳に届いた落ち葉を踏む音。
新たな敵。
その足音に視界に落としていた暗幕を上げ、依姫は小さく口を開ける。
「剣術で勝てねえからって負けたわけじゃあねえ‼︎」
檻の外に人がいる。
人相の悪い顔が笑みを浮かべ、普通に依姫に向かって大地を踏んでいる。楠の背後には取り囲んでいたと見える刃の檻が聳え立ち、呆けていた顔を依姫は引き締め今一度刀を地に押し込んだ。人の足を止めようと迫り上がる刃の壁は、無理に通ろうとすれば尋常ならざる斬れ味に細切れにされる。楠は足を止めずに伸びる刃の壁の一つに勢いのまま突っ込んだ。
楠の身に沈んだ刃を見て、愚かであると依姫は断じる。
自らギロチンの刃の元に飛び込む自殺志願者。二つに泣き別れ地に落ちる楠の姿を思い描く依姫の前で、刃は楠の身を通り抜け、楠は変わらず一歩を踏む。
また一歩。
そして一歩。
揺れる楠の体はいつまでたっても泣き別れず、血の数滴すら零さない。身に沈んだはずの刃で斬れていない。術の気配を感じない不可思議な現象に、慌てて依姫は刃を引き抜く。
「その間抜け顔が見たかったぁ‼︎」
「っ吐かせ‼︎」
僅かに汗を一滴額に浮かべ、迎撃のために姿勢を依姫は整える。未だ刀の間合いには至らず、その間に体勢さえ整えば、どちらが勝つかは自明の理。
楠の軌道を先読みしながら、刀を両手で握りこもうと力を込める依姫の瞳に映り込む人影が二つに増える。鋭く息を吐き出しながら横薙ぎに振るわれる人一人ほどの長さを誇る刃の姿、檻から解き放たれ、瞬き程のほんの一瞬。その一瞬で前へ誰より速く進む人間。目前に迫った五辻の刃に、思わず依姫は刀を振り上げる。
──キャリ。
短い削るような音を残し、依姫の髪を数本巻き込み頭上を大太刀が流れてゆく。その速度に目を見張るも、連撃の速さなら依姫が上。身を攀じる桐を斬り落とそうと振り上げた刃は、しかし、その合間を縫い迫る二刀の揺れに堰き止められ、依姫は地を滑るように身を屈めて二刀を避けた。
すれ違いざまに擦られた依姫の刃に、楠の服の端は斬れ、依姫の頬から朱玉が伝う。それに伸ばされた依姫の手が朱玉を掬った。指を赤く染めているものが自分の血であると依姫が理解するまで一瞬の間が空き、その間を締めたのは依姫が強く奥歯を噛む音。
刃で傷をつけられた。
百年ぶり? 千年ぶり? 思い出せないほど遥か昔。その久し振りの一掬いが、わけの分からない人間につけられたもの。
怒りで引き絞られる依姫の目は、高速で走る刃の光と、蜃気楼のように揺れる二刀の動きに向けられて、より鋭く歪んでゆく。
前へ、前へ。
足を出すほどになお速く。依姫の刃を振る速度と、走る桐の速度が並ぶ程に。剣技で追いつかなかろうと、身を動かす速さで桐が張り付いてくる。一瞬でも速度が落ちれば依姫は斬れる。桐の足を止めるため依姫が祇園の剣を突き立てれば、それを擦り抜け楠が迫る。
一対一なら負けない相手、それが二人で依姫に掠るほどに手を伸ばしてくるその鬱陶しさ。依姫の刃で幾数本の赤線が楠と桐の肌に引かれるが、それは依姫もまた同じ。綻んだ服の端と肌に走った薄い刃の跡を睨みつけて、依姫は強く刀を握り込む。
人間とは何か?
愚かで頑固で学習しない。
長い年月で依姫もそれを知っている。
そんな者たちで溢れ返っている地上。だが、そんな地上に足を下ろした八意永琳も蓬莱山輝夜も悪くないと笑みを零す。
低俗さが強さ。人の強さを知りなさいという主神の言葉。
自分には何が見えておらず、師や天照になにが見えているのか依姫には分からない。命とはそれほど大事なのか。不要だと斬り捨てたから穢れとして月の民は地上を離れ月に移ったのではないか。穢れに纏われれば、永遠に振れる剣も百年も経たずに振れなくなる。楠と桐の刃もまた、百年も経てばなくなるのだ。
なぜ?
浮かぶ疑問に依姫の手が僅かに鈍る。そして、その僅かが命取り。
「──終わり?」
ただ一瞬で決着が決まる刃の刺し合い。命に届くと見える大太刀と二刀の煌めきに、依姫の中で何かが弾けた。
──終わりたくない!
まだ刃を振っていたい。二対一、それで自分と同等に斬り結んでくる者たちがいる。その強さの源をまだ理解していないのに終われない。
地上の者という侮辱の言葉は遥か遠くへ消え去って、永遠を持っているはずの月人が今の一瞬をただ望む。依姫の中で小さく灯った叫びの炎を掬い上げるように、その祈りを汲んで愛宕様が手を伸ばす。天照に続かなかった二柱目の神。その威光が炎となって現界する。
「──マジっかっよ⁉︎」
足を踏ん張り吹き出した炎に突っ込まないように二人、楠と桐は足を止めるが、火に触れずともその熱気に肌を焼かれる。愛宕様の火、「地上にはこれほど熱い火はほとんどない」と依姫がかつて言った通り、太陽の炎熱に近いその熱に呼吸もままならず、棒立ちのまま楠と桐の身が熱に焦がれる。
背後に飛び熱から逃げようと動いても、迫る炎の壁が人間二人を炭にしようと後を追った。落ち葉を溶かし地を溶かし、流動的に溶け出す大地はマグマと同じ。魔法の森に飛び火すれば中にいる者たちは総じて焼死。その結果が分かっていたとして楠と桐にその火を塞き止めることは出来ず顔を引攣らせたまま後退る。
「まだだ‼︎ まだ私は負けていないぞ‼︎」
身を揺らす依姫の動きに合わせて、地を這う炎もまた揺れて、手に取る命を燃やしてゆく。「まだ!」と叫ぶ依姫の叫びに呼応し跳ねた火の粉が魔法の森の木々を焼き、燃えた木々を慌てて楠は斬り落とすが、また一つと木が燃える。
「あっつ⁉︎ おいコレヤベぇぞ⁉︎」
燃え移っていく木々になす術はなく、ただ見送る事しかできない。どうするべきかと歯を擦り合わせ依姫へと体を向ける楠と桐の背後から、燃える木々を食い千切りながら深紅の槍が飛来する。炎の壁を穿ち突き立てられる妖魔の槍を燃える腕で依姫は掴み力任せに握り潰す。弱まった火の手の上に幾つもの氷塊が落とされ、炎の翼が炎の行く手を遮った。
「くっくっく。敗者ではない? だが勝者の顔ではないな月の使者」
「やっと見つけた! まったくもう、親分ほっといて何してるのよ!」
「苦戦してるみたいね楠、ご主人様が手を貸してあげようか?」
紅魔の主が翼をはためかせ降りて来る。小さな氷精が楠の頭上に落ち、永遠を生きる銀色の少女が楠の側に立った。なぜ二人も上に立ちたがるような言葉を零すのか、楠は歯を擦り合わせ、頭の上に乗っているチルノを落とそうと頭を振るう。それでも落ちないため、仕方なく腕を伸ばしチルノの頬を引っ張った。
「親分だあ? アンタ巫女さんが来た時逃げたよなあ? どの口が言うんだマジで」
「
「なによ楠、チルノとまで知り合いなの? 意外と顔が広いのね」
「……吸血鬼に、蓬莱の薬を飲んだ罪人か。邪魔だ!」
「こら無視するなー‼︎ っうぉ⁉︎」
頭の上に乗ったチルノと妹紅を抱え、振られた腕によって伸びた愛宕様の火を地を転がるように楠は避ける。燃え移ればそれまで。反対に跳んだ桐とレミリアに目を向けて、どうするべきか楠は頭を回すが、いい案は浮かばない。炎を透けることはできない。透けようとも熱に炙られ、骨になってお終いだ。
歯噛みする楠の意識を叩き起こすように、吸血鬼が牙を剥く。
「私が穴を開けてやる! 刃を突き立ててみせろよ人間!」
「鬼かアンタは⁉︎ 厳しいなおい!」
が、それしか終わりはあり得ない。放っておいてもいい相手ではなく、腰には穿たなければならないものがある。時間の流れを固定する結界さえ剥がれれば、月夜見以外永遠を操る姫一人でどうにかなる。小さく息を吐き、熱いと喚くチルノを頭から下ろして楠は刀を握り直した。
少し離れたところで大太刀を担ぐ桐と目を合わせ、紅い妖気を圧縮する吸血鬼の合図を待つ。
レミリアが放つは紅十字。火に飲まれぬよう大地を抉りながら吐き出される巨大な魔の
頭の冷めやらぬ依姫でも、その身に潜む力は変わらず。
眼に映る高速で動く影を撃墜するため、手に握った刀に力を込める。大きく弧を描き動く大太刀と、燃える依姫の刃が合わさり、大太刀の切っ先が溶け落ちた。ごてっと落ちた大太刀の切っ先は依姫の足元で燻った火に炙られて溶けてゆく。その溶けた鉄を冷ますように、青い閃光が火に炙られるのも気にせず突っ込んだ。
「ついに殴ったぞ依姫ぇぇぇぇ!!!!」
小さな吸血鬼の握り拳が月人の頬に突き刺さる。炎に巻かれ肉が焼け落ち骨になってなお振り抜き、砕けた骨の破片を飛び散らせ、湖の中に依姫は吹っ飛んだ。水蒸気を大きく上げて湖に沈む依姫を睨み、依姫の軌跡をなぞるように再び大地を踏む。
燃え落ちた右手をレミリアは見やり、小さく舌を打ちながら左手に魔の槍を浮かべ掴む。焼け焦げた右手が上手く再生しない。轟々と水蒸気を上げる根元目掛け、レミリアは歯を食い縛ると、吸血鬼の膂力に任せて思い切り魔の槍を投げ放った。当たらぬ可能性を握り潰した必中の
水面を割って突き進む紅槍は、水面を弾き噴き出した炎によって焼失する。未だ冷めやらぬ依姫の熱。吸血鬼に殴られたという事実に更に燃ゆる。蒸発する端から穴に落ちた水が水蒸気となる。揺らめく炎に口端を引攣らせたレミリアたちの足は止まった。
地から刃が伸びてくる。レミリアの左手を斬り裂き、炎を纏ってより鋭く。楠、桐、レミリア三人の足を止め、空いた手で依姫は炎を繰る。
──マズイッ‼︎
浮かべた冷や汗もすぐに蒸発してしまい、透けられぬ壁に楠は長刀を振るうも刃は溶け落ち焼失した。絶対に敵を逃さぬ牢獄。檻に囚われた者が蒸し焼きになってしまうより早く、己が熱で焼き殺そうと依姫の炎が水面を焼き払い地を這った。
「凍れぇぇぇぇ‼︎」
湖を氷らせ炎の手を止めようとチルノが宙を舞い両手を突き出す。秋の夜の空気が凍てつき、空気中の水分が雪の結晶へと形を変えるが、すぐに熱で形のない水分へと戻ってしまう。焼け石に水。シャーベット状になった湖の水が迫る火の手に流れ込むが鎮火に至らず、下手に伸ばされた手に寧ろ怒りを煽られたように、その勢いを強め三つの命を握り潰そうと迫る。
命の危機になんの言葉も出てこない。
ただ迫る死を待つしかない。
歯を強く噛み締める楠と桐は目を合わせ、決死の突撃のために姿勢を倒す先で、炎の翼が広がった。不死鳥の後ろ姿に、目を見開いた楠が叫ぶ。
「妹紅!!!!」
迫る炎に炎を打つける。妹紅の銀色の髪が上昇気流に寄って靡き、その端をチリチリと神の火の粉が焼いていく。不死鳥の炎と愛宕様の火。どちらが熱いかは、手を差し出している妹紅が誰より分かっている。
「罪人の火が神の火に勝てるか!!」
ジワリジワリと喰い千切るように妹紅の炎が神の炎に飲み込まれる。鉄すら溶かす炎熱に差し出した妹紅の指先が焦げ、その匂いに妹紅は顔を顰めた。
「妹紅退け‼︎ そのままじゃアンタ‼︎」
背から吐き出された楠の言葉に背後にちらりと目をやって、妹紅は薄く笑うと顔を前に戻す。指が炭化していく言いようのない激痛と、燃え出した服に歯を食い縛り、小さく妹紅は首を横に振る。何か言いたくても、口の中の水分が全て蒸発し声にならない。
「なんでだ‼︎」
後ろ手に差された妹紅の指を楠は追う。愛宕様の火で溶け出している地から伸びた祇園の刃。それが溶け落ちるまでもう少し。それまで妹紅が耐えれば三人は動ける。だがそれは……。
背中から聞こえていた北条の叫びは、妹紅の名を呼んだそれを最後にただの振動となって妹紅に伝わった。耳が焼け、身の内の水分が沸騰し耳が死ぬ。
そんな中で妹紅は楠には決して顔を向けずに声にならない笑い声を一人上げる。
守るなと言うのに勝手に守ると前に出て来た男。
遥か昔、北条の名を今まで繋いで妹紅の前までやって来た。
守ると妹紅に言っていたくせに輝夜を守るために北条は一度離れ、そして戻ってこなかった。
やっと戻って来たと思えば勝手に守ると……。
何度見たか分からぬその背中をまた見ることになるとは思わなかった。
それがあまりにも懐かしくて、どうせまたどこかへ行くんだと思いながらも、ついつい側に置いてしまいたくなる。そしてそれが悪くないものだから、妹紅は今ここにいる。
燃え尽き、肉が焼け動かない体をなんとか動かし、目が見えるうちに背後を見る。人相の悪い男の顔を。
北条は守ると言った通り妹紅を守った。小さな頃は初代が、同い年だった二代目はよく妹紅の隣を歩き、いじめっ子の頭に竹を落とした。楠もわざわざ月軍の前に立つ。妹紅が死なないと言っても聞かず、血を垂れ流し笑いながら。
(一度ぐらいは私だって)
北条を守ってみてもいいのではないか。
困った護衛役にこれまで一度もなにもやってこなかった。千三百年越しの褒美としては丁度いいかと炭と化した口端を持ち上げ、焼け落ちる視界と意識の中、守ると言った北条の言葉を今も信じる。
「馬鹿かアンタ、護衛役は俺だろうが‼︎ 妹紅に守って欲しいなんてどの当主も思っちゃいねえよバカ!!!!」
銀色の髪の面影はなく、黒く炭となった亡骸を溶けた刃を踏み付け楠が握れば、風に乗って崩れていく。その飛沫に手を伸ばそうとし、楠は強く拳を握った。
妹紅は不死身。時の結界さえ破れば蘇る。
楠だって分かっている。分かっているがそういうことではない。かぐや姫と共に北条だけが追っていたもう一人の少女。かぐや姫を追った初代。妹紅を探した二代目。ようやくその二人を見つけたのに、目の前で一人が焼け落ちる。
死ぬとか死なないとかそういうことではない。ただ、ただただ情けなく悔しく虚しい。
なんのために技を研いだ。それは大事なものを零さぬように。
「楠、恰好悪いですね女の子に守られるなんて」
「──ぁぁ、ああゴミだ。桐、俺のこと殴れ」
「イヤです。それはアレにぶつけてください。妹紅さんのおかげで炎の海の抜け方を思い付きました。乗りますか? 残った刃は楠だけだ」
両腕の焼け切れているレミリアを一瞥し、桐の鋭い目が楠を射抜いた。その瞳に全てを賭けることを楠は躊躇しない。が、通る刃がない。燃える依姫の身に触れれば、斬れるより早く刀が溶ける。残っている刀は、短くなった桐の太刀と、楠の短刀。
「依姫のところに辿り着いて後はどうする? あの炎で刃が溶けちまうぞ」
「熱いのが嫌なら冷やせばいいじゃない」
空から降り胸を張ったチルノに楠と桐は顔を見合わせ、チルノに短刀を冷やして貰いながら楠は立ち上がる。目を向けるのは、水蒸気を上げながら湖を出ようかという依姫の姿。「どうするんだ?」と言う楠の問いに、桐は前髪を弄りながらふやけた笑みを返した。
「私が先を行くので後ろについて来てください。私があの炎の壁に穴を開けて見せましょう」
「いや……桐の後ろって」
「姫様の腕一本分のお返しは楠に任せます」
楠は顔をうつ向けて、弱々しく息を吐き歯を食い縛る。擦り合わせることはなくただ強く。勢いよく上げた顔を笑顔に変えて、楠は桐の肩を組んだ。
「幻想郷に来るまでの旅は楽しかったなぁ桐、またしようぜ!」
「私は幻想郷に来てからが楽しかったですね。次の待ち合わせ場所は黄泉比良坂あたりで、遅刻しなきゃ駄目ですよ。大丈夫、楠は私より強いですから」
男とくっ付いているのは嫌だとスルリと桐は楠の腕から抜け出し前を見る。前へ、前へ。五辻は死ぬ時は前のめり。幽々子の笑顔と妖夢の呆れ顔を思い浮かべてふにゃりと笑い、桐は足の調子を確かめるように軽く跳ぶ。
「世の中を そむき果てぬと いひおかむ 思ひ知るべき 人はなくとも」
五辻の旅は終わった。この旅は言えば蛇足である。
それでも誰に引き止められようと、桐は前に進むことしか知らない。どこまでもどこまでも。かぐや姫にまで辿り着いた桐だから。きっとどこまでも行けるはず。
──例え先に進み続けても、きっとあなたは
「私は誰より愛の力を信じています。きっと会いに行きましょう。前に進んで。────────行きますっ」
姿勢を落とし大地を蹴る。もういらないと大太刀を手から放り出し、桐は前へと足を出した。
「信じなさい、運命とは掴もうと思わなければ掴めない。足を止めないで」
「吸血鬼の嬢ちゃん⁉︎」
レミリアの頭突きに送り出され、楠が桐の後を追う。レミリアの頭突きのせいで痛む背中にチルノを引っ付け、楠も大きく身を倒した。
「まだ来るのか……?」
人間が二人走って来る。依姫に向かい迷わずに。
理解ができない。輝夜や妹紅、嫦娥のように永遠に不滅の肉体を持っているわけではない。一度失えばそれまでだ。人より強固な蓬莱人や吸血鬼でさえ燃え溶かす炎。見ていないわけがない。自分たちから進んで死地に飛び込む人間に理解が及ばない。ただでさえ短い生を何故そうも簡単に投げ出せるのか。人がよく言う命より大事なものがあるというやつなのか。
「愚か者どもめ!!!!」
分からない。分からない分からない!
理解が及ばぬものは恐怖だ。それが向かって突っ込んで来る。こっちに来るなという祈りは炎となり、向かって来るものをこの世から消すため、依姫は刃の溶け落ちた刀を放り捨て極大の火柱を突き立てた。
迫る火柱を睨みつけ、桐は深い笑みを浮かべる。
前へ、前へ。これまでこれほどの茨の道を走った五辻はいたか。いやいない。そしてその道は帰り道。五辻は初めて帰り道を走っている。必ず冥界へと続いているその道を、友人と共に走っている。
俺の家で遊ぼうぜ! と言って走って帰る小学生をいつも羨ましいと思っていた。そんな道を、誰もが走るそんな道を。帰りを待つ者がいてくれるそんな道を。
愛する者に会いに行く気分とは?
桐はいつも知りたかった。ふわふわと気分は浮ついているのに、いつもより強く体は躍動し、自分の心音以外が聞こえない。打ち鳴る鼓動の熱に身を焦がされるように、桐の身体が火を纏う。神の炎に燃やされてではない。普段は進むことに使っている摩擦熱を、滑らせず寧ろ増して、桐の体が空間を擦り上げ火を上げた。
桐が上げるは恋の炎。不思議と燃える体は熱くなく、そのまま火柱の中へと突っ込んだ。熱を熱の壁で避ける。神の火に長くは耐えられずとも、一瞬穴を穿てれば十分。足を出すごとに自身の摩擦で燃え削れていく体を止めず、ただ笑いながら桐は走った。
これが五辻 桐の帰り道。
炎の弾ける音を突き破り、桐の笑い声が湖に響く。体が削れ切れる最後まで笑い声を残して。
「桐っ……‼︎」
楠の目に浮かぶ涙もすぐに消え去る。先を行く桐の炎に掬われて、燃え切った桐の先に残った薄い炎のベールを睨み、ただ叫び声も力に変えるように奥歯を噛む。
「全く、子分のわがままを聞くのも親分のつとめね」
茹で上がるような楠の耳に冷ややかな声が流れ、半分溶けた小さな手が楠の顔の横から伸ばされた。その薄い炎のベールを、最後に小さな手が捲る。楠の背に涼しさだけを残して質量を残さず。開けた視界に映った燃える月人の姿を捉え、楠は叫び短刀を薙ぐ。
「依姫ぇぇぇぇええ!!!!!!!!」
依姫の眼に映る人の姿は夢か幻か。
刀を。
ない。
腕を。
防御を。
身を守らねば。
突き出された依姫の腕は最後の盾。楠の刃は振るえて一太刀。それ以上は神の炎に耐えられない。その腕一本の壁は、彼だけには無意味である。
腕を擦り抜け刃が届く。
──パキリッ。と、半ばから短刀はへし折れ、その刀身は依姫に残る。見下ろした月人の眼に映る胸の中心に埋まった刃。込み上げてくる血を吐き出して、神の火が嘘のように風に流され消えていく。命に届いている。これで終わり。これが終わり。
「楠……お前は死ぬのが恐くないの? 他の者たちも、なぜ死が恐くない。なぜ、……なぜ?」
「死ぬのが恐くない? 恐いに決まってんだろうがぁ‼︎ ……でもなぁ、守ってくれる奴がいて、先を行く友がいて、背を押してくれる奴がいて、道を開けてくれる奴がいる。無駄じゃないだろう、無駄じゃねえよ……。俺がやらなきゃあよう。俺がやらなきゃ本当にあいつらが死んじまう。俺の足を動かすのは俺じゃないのさ」
あぁ……、と小さく零して依姫は笑った。
胸から溢れる血も、口から溢れる血も気にせずに。
楠が最後に信じたのは自分。依姫が最後に祈ったのは神。
八百万を降ろせる能力にかまけていたかと、自虐の笑いが止まらない。
なぜ刀を捨てたのか。
なぜ危機を感じ神に祈ってしまったのか。
せめて最後まで刀を握っていたならば、なにかが違ったかもしれないのに。
姿形のない命を恐れた。ただそれだけのこと。
それは一種の永遠で、人は永遠を背負っている。
「ああ、楠、楠楠、また私と戦ってくれる? 今度は最後まで私と刀で」
「ああ、次は俺が一人で勝ってやるよ」
「そうか……そうかぁ」
不滅の魂に感謝する。近いか遠いか、信仰で蘇るその時を夢見て。消え逝く自分の体を依姫は見下ろし、ただ一言、自身に勝った人間に言っておかなければならない言葉を絞り出す。
「武運を」
月夜見への裏切りと言われても、この一言だけは依姫の本心。その一言を残し結界装置の『目』の箱を落として依姫が消える。地に転がった光る箱を踏み砕き、楠は長く細く息を吐いた。軽い火傷だらけの手を閉じては開き、ぼやける視界の切れ端が地面に落ちてしまわぬように空の満月を睨みつける。
「取り敢えず一つかしら、平城十傑」
「……吸血鬼の嬢ちゃんか。腕は?」
「満月の下でも今夜中には生えないでしょうね。最高の血を飲んだとしても」
神の火で焦げた肘上から先のない両腕を掲げレミリアは残念そうに顔を横に振った。そんな姿に楠は何も言わずに、桐が投げ捨てた短くなった大太刀を拾う。
「あら楠、もう行くの? こんなに素敵な月夜だものね。散歩をまだ続けるの?」
「月夜見の首を取るまでな。吸血鬼の嬢ちゃんの頭突きの分まで、俺が殴っといてやる」
それと妹紅と桐とチルノの分まで。歩き去っていく楠の背を見つめ、レミリアは手頃な岩の上に腰を下ろす。紅魔の主の戦いはこれで終わり。
「Fortune favors the bold. *1私も信じるわ、勇者たち」
満月を見上げレミリアは勝利のために小さく歌う。愚者たちへの鎮魂歌。それが届くことを祈って。