月軍死すべし   作:生崎

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月軍死すべし ④ 天探女

「……遅れたな」

 

 ポツリと梓は呟き一人ため息を吐きながら眉を寄せる。

 幻想郷の軍を動かしていた櫟の元への天探女襲来を聞き梓が魔法の森を抜けてからもう十分。少し前に妖怪の山の暴風ドームが吹き飛び、大部分の戦力はそちらへ向かった。漆と梍、早苗や神子、菫子が逸早く作戦本部のある人里と博麗神社の狭間の森に向かったため、梓はそこまで心配はしていないのだが、こういう時こそ足の遅さが煩わしい。

 

 天探女の登場は、他の月人の襲来も知らせていた。これまで月の兵器を耐えていた風のドームを一撃の元吹き飛ばした姿からもそれが分かる。それに加えて、伝令として飛んでいた天狗の影がぐんと減ったことも梓の焦りの原因の一つだった。

 

 伝令役は必ず作戦本部を経由する。玉兎の数がそれ程でもないのに天狗の姿が減ったということは、作戦本部でなにかがあったという証。それに加えて、梓の目指す先から戦闘音の類が響いて来ないのも不安を煽る要因の一つ。やって来た月人が大したことなかったということか、それとも月人が強過ぎて最悪の結果となっているか。

 

 どちらにせよ向かわないということはあり得ない。

 

 遠くで轟く破壊音を背に、一人梓が走る先、地に倒れている影を見つけ梓の目が細められた。伝令役の天狗が地に伏せている。墜落でもしたように周りの木々の枝をへし折ったようで、枝を下に倒れている。突き刺さった枝によって血を流し動かない天狗を目に、梓は今一度強く地を蹴った。

 

 月人が強いか弱いか。そんなことは幾らでも聞いていたが、実際に敵としてみなければ本当の脅威は分からない。だが、例えどんな相手だろうと寄って殴る以外の手が梓にはないのだ。

 

 敵が強力な矛であればこそ、盾である己が必要となる。

 

 木々の間から兎の耳やマントの端を見やり、梓はポケットへと手を伸ばすと右手に鏃を握る。出会い頭にぶつかろうと、それならそれで押し通るまでと意思を固め、迷わず木々の間から飛び出した。

 

「櫟、漆、梍、無事か!」

 

 開けた場で足を止め、右拳を引き構えた姿で梓は固まる。

 

「櫟! 漆! 梍!」

 

 見慣れた三人が道中の天狗と同じように倒れている。櫟は目の前の机の上に倒れるように。漆は木に寄りかかり。梍は岩を背に腰を落として。見開いた梓の目に飛び込むのは、そんな三人に間を埋めるように崩れた多くの妖の姿。鈴仙も、清蘭も、鈴瑚も、椛も、早苗も、神子も、菫子も。皆一様に地に倒れている。木々の間からは多くの天狗が倒れているのが見え、小さな鼠たちに囲まれたナズーリンも同じように倒れていた。

 

「……はたて女史?」

 

 一番近くで横になっているはたてへ近寄り梓は膝を折る。他の天狗と違い、念写によって敵情視察をしていたはたては墜落はせず、枝などが刺さっているわけでもなく、体には傷もない。ぼやけだした視界に梓は顔を顰め左手で頭を叩いた。

 

 驚愕はした。動揺もしたが、ぼやけた視界は悲しみからではない。小さく上下するはたての胸の動きを見て、状況を察し梓は立ち上がると、鼻を抑えて周りに目を散らす。

 

 千三百年前の再来。月の使者を撃退しようと集まった一騎当千の武士たちが手も足も出なかった状況と同じ。ただ眠りこけ事態が過ぎ去るのを甘受しなければならなかった屈辱的な一瞬。その到来に焦る梓を嘲笑うように、ゆるりと風に流れが変わる。

 

「おやこれは、貴方には眠り香への耐性でもあるのかしら? 千三百年経ち人も進歩したのね、夢の世界を拒むだなんて。何者?」

「──生憎普通の毒や薬は効き辛くてな。僕は平城十傑、足利家第八十八代目当主 足利梓。ようやく会えたな月の使者」

 

 バサリッ。と音を立てて羽ばたく白い片翼。端を矢印の形に幾つも切り抜かれているスカートを揺らして、梓の後方の枝に音も立てず天探女が降り立った。全体的に白っぽい中で輝く瞳は紅く、満月の夜に降り立ったトキのようにも見えた。ただ零された言葉は静かで小さく、周りが静かだからこそ梓も拾えたが、風に吹かれ揺れる木々の葉音に叩かれてしまえば、途端に聞き取れないだろうことが分かるほどか細い。

 

 平城十傑と吹く夜風よりも小さく頭の中で呟いて、僅かにサグメは瞼を落とした。狭まった視界の中でサグメを見上げている鏃を握った男の姿。イレギュラー。何よりサグメの気にした相手の登場に、口元は隠さず目を合わせ、サグメは一度飛ぶわけでもなく純白の片翼を羽ばたいた。自分の不安を吹き飛ばすように。

 

「私はサグメ、稀神サグメ。月の賢者が一人。また見せて貰いましょう、人の可能性というものを。他でもない外の世界の人の可能性を」

「幾らでも試せばいい。その全てを殴り抜けよう」

「そうでは無い。私が知りたいのは貴方の底だ。力ではなくその内側」

 

 サグメの言葉に首を傾げながら、梓の膝が地に落ちる。ぼやける視界と意識を叩き落とすような強烈な眠気。その不可解さに梓の頭が働かない。霊的な薬物を行使する黴の煙と違い、睡眠薬も毒薬も、化学的に体に異常をきたすような薬物は足利の体に効き目が薄い。そんな中での意識の暗転。舌禍の妙技を遮ることのできる者は存在せず、神であろうと眠りに落ちる。膝を折ったまま倒れることなく、腕を地に着け今にも跳んで来そうな形で固まった梓に興味深そうに目を落とし、サグメは枝の上に腰を下ろすと翼を伸ばす。

 

 今はただ、ただ待つだけである。

 

 

 

 

 ♠︎

 

 

「おーい、梍どうしたんだよ」

「ああいや」

 

 友人に呼ばれ梍は小さく頭を振った。そうすれば聞こえてくる喧騒に耳を這わせ、簡素な鉄パイプの脚に支えられた机が立ち並んだ景色を眺めると、教室にいたんだったと思い出す。

 

 午前の授業も終わり昼休み。購買に早く行かなければパンの類は早々に売り切れてしまう。「早く行こうぜー」と言って梍の顔を覗き込んでいる数人の友人たちの姿を見て、弁当の類を持って来ていないことを梍も思い出し慌てて席を立った。慌てたせいで机とぶつかり、そのせいでアレがズレてしまったのではないかと急いで梍は眉間へと手を伸ばす。

 

「なにやってんの?」

「いや、サングラスが」

「サングラスゥ〜? なに言ってんだ?」

 

 触れた眉間には何もなく、なんとも座りの悪いような不思議な感覚を梍は感じる。教室の窓に薄っすらと映る自分の姿へと目を移しても、サングラスなど掛けているはずもなく、茶色いよくある瞳がパチクリと梍の姿を見つめていた。

 

「──おれいつもサングラス掛けてなかっただに?」

 

 だがそんな自分に言いしれない違和感がある。何かが足りないような、いや、足りており何もおかしくないのだが、影のように張り付いて拭えぬそんな違和感。教室の窓を見つめて動かない梍に「気持ち悪」と言って幾人かの男子生徒たちは顔を見合わせ引き、そのうちの一人が落ち着けと言うように梍の肩に手を置いた。

 

「梍、考えてみろって。いつもサングラスなんか掛けてたら生活指導室行きだっつうの! 目が悪いわけでもないんだからさ」

「あ、あぁ、そうだに、な」

 

 それもそうだと生徒たちに恐れられている生活指導の教員の姿を思い出しながら、サングラスなんて掛けているわけがないと梍も思い直し教室を飛び出した。

 

 変な事に時間を割いたお陰で購買レースからは脱落だ。残っているだろうは売れ残りのパンばかり。それを思えば、急ぎながらも足が緩みため息が零れる。

 

 そんな中で目に映る代わり映えしない学校の廊下が、不思議と目新しく梍の目に映った。人々の話し声に多くの上履きの音。窓から差し込む陽の光はただ暖かく眩しい。人々の顔に浮かぶ表情はなんというか生々しく、ついつい見つめてしまう。そんな風によそ見をしているものだから、購買の列に気付かず前で立ち止まった友人に危うく突っ込みそうになり、梍は慌てて立ち止まる。

 

「おいおい、どうしたんだよお前今日おかしいぞ」

「わ、悪い、怒ってるだに?」

「怒ってねえよ、呆れてんだよ」

 

 眉間に皺を寄せてそう言う友人に、悪いと返しながら梍は首を捻る。本当にそうなのか。確かに呆れたような顔を梍の友人は浮かべているが、もっと感情とは分かりやすく輝かしい色を持った何かではなかったか? 途端に世界が色褪せたように感じる。まるで安っぽいクレヨンで描いたような。中身のないハリボテのような。

 

 首を捻り唸る梍に、梍の友人たちは一層呆れ、梍の後方を見て何かに気づくとやれやれと疲れたように首を振った。

 

「なんだにか?」

「お前そんなんじゃ折角彼女できたのに捨てられんぞ。しかもなぁ、なんでお前が、ハァ」

 

 友人の言葉に梍の呼吸が止まる。非常に梍が聞き慣れない言葉が含まれている。パチパチと目を何度も瞬き固まる梍の背中に、「相棒!」という声と共にぶつかってくる衝撃。蹌踉めき振り返った梍の目に飛び込むのは、ピンク色の髪、ではなく黒髪の少女。ピンク色なんておかしな髪色の人間がいるわけない。「秦さん」という梍の呟きに満面の笑みを返し制服のスカートを揺らす少女の姿に、梍は大きく首を傾げた。

 

「どうかしたのか相棒」

 

 秦さんの笑顔はもっと弾けるような色だったような、と口にしようとして、それはあり得ないか? と頭の中で浮かぶ思い出に一人頭を振るう。古くから能を嗜んでいる一族の出で、演劇部の看板娘であるこころの笑顔に勝るものはないだろうと梍は納得し頷いた。

 

「いや、どうもしないだに。それよりなんで相棒だに?」

「え、ぇえ⁉︎ そ、それはバカこんなところで言えないだろ!」

 

 そうなの? と再三首を捻る梍の頭をボコスカと背後から男子生徒たちは叩き、ご馳走さま死ね! とそっぽを向く。そんな感じがどうもこそばゆく、頭を掻きながら目を流した梍の目が瞳を見る。それに梍は今度こそ固まった。廊下の窓に映る漆黒の瞳。宙に浮いた二つの穴のように黒々とした眼が、金色の虹彩を輝かせ、静かに梍を覗いていた。

 

 その全てを覗くような瞳の恐ろしさに小さく後ろへと足を出した梍の前に、下からにゅっとこころが顔を出し心配そうに梍の瞳を覗き込んだ。「相棒?」と首を傾げたこころの背後の窓からは黒い瞳の影は消え去って、秋の風に校舎を囲んでいる木々がただ揺れているだけ。目を擦り、目を瞬き、夢のようだった一瞬に梍の鼓動が速まる。

 

「今、……外に」

「外? 別に何もないぞ? 梍大丈夫? 具合でも悪いの?」

「秦さんこいつ昼からちょっとおかしいんだよ」

「んー、きっと疲れてるのよ! 映画に行こう相棒! ほら今度の休みに話題のがやるんだって! 梍好きでしょう? 二人で行こう!」

「え? ああいやおれ映画は……」

 

 嫌いではないが、感情を揺さぶるような作品を梍はあまり見れない。一人でならいいが、映画館などの多くの人が居るところではダメだ。この敵役クソ野郎だな! と想った瞬間画面や銀幕に穴が開く。そうでなくてもマナーが悪い者がいてイラつくだけでいろいろヤバい。唸る梍にこころは大きく首を傾げて、ただ顔を見つめてくる。そんなこころの悲しげな顔に、なに考えてるんだと強く梍は首を振る。

 

「……いや、行くだにか、映画」

「ああ行こう! ついでに買い物とか食事もしよう!」

 

 表情をコロコロ変えて喜ぶこころが微笑ましいと梍は笑うが、何かが引っかかる。そんな梍の顔を相変わらず見つめてくるこころに梍は気まずそうに頭を掻いた。

 

「ふふっ、そんなに秦さん映画行きたかっただに?」

「え? ああいや、その、相棒と同じものが見たいんだ」

「……おれと同じ?」

「同じものを見ている時はきっと同じ想いだろう? 私は相棒と同じものを感じたい」

 

 口を開けたまま梍は固まり、ふと目へと手を伸ばす。そんな梍の背後からまた男子生徒たちに頭を叩かれ、笑うこころと共に昼を過ごした。

 

 同じものを見ながら、同じものを感じて。

 それがずっと、ずっと梍が感じたかった……。

 

 

 

 

 

 ❤︎

 

 

 うんっ、と伸びをして櫟は席を立つ。ようやく学校の授業が全て終わった。あまり得意でもない体育の授業に、パソコンを使った授業が続き肩と目が疲れた。目頭を軽く揉んで鞄を手に、櫟は友人に軽く手を振って教室を出る。向かう先は文芸部。先輩二人と櫟だけの廃部寸前な部活であるが、櫟はそんな部を気に入っている。スキップするように廊下を通り抜け部室の扉を開けば、昔から知っている幼馴染の二人が既に椅子に座っていた。

 

「菖ちゃん! 藤さん!」

 

 んー、と言葉にならない相槌を返して手を挙げる藤と菖のやる気なさそうな顔を見て、櫟はやれやれと首を振った。いっつも椅子に座っているだけで動かない二人を動かすために、櫟はなんとか一日頭を回したのだ。

 

「もう二人ともまたそんな顔をして、五月病ですか? もう秋ですよ! そろそろ新入部員の募集に力を入れなければ、栄えある我らが文芸部が潰えてしまいます!」

 

 そう言って櫟は椅子に座り、注目を集めるために机の上へと強めに鞄を置いた。

 栄えある文芸部。

 江戸時代寺子屋の時より続くと実しやかに噂されている文芸部は、一応本当に百年近い歴史がある。それが今やたったの三人。ここで手を打たねば存続が危うい。櫟の声に藤と菖はちらりと目を向け、藤は頭を掻いて背を正した。細められた瞼の奥で輝く翡翠の色を櫟は宝石を見るように見つめ、藤の言葉を待つ。

 

 ぶわりと白煙は吐かず、藤は櫟と目配せすると、疲れたようにため息を零した。

 

「あのなあ櫟、もう秋だよ? 無理だって、諦めるのが吉だね」

「なに言ってるんですか! まだ文化祭があります! ね! 菖ちゃん!」

 

 黒真珠のような菖の瞳を見つめて櫟は静かに返事を待つ。菖は静かな雰囲気、というか死んだようにぐったりとした覇気のない空気を振りまいて、机の上に頬杖を突いた。そんな姿に少し櫟の気が抜ける。

 

「文化祭はもう間近だろう? なんの準備もしていないのにどうするんだ? 無理だ無理」

「今から頑張れば私たち三人なら大丈夫です! 三本の矢というやつですよ!」

「私たち三人? 三人でなにができる。櫟、貴様の目は節穴か?」

 

 困った奴だと呆れて肩を竦めた菖の姿に、櫟の口からただ息が零れ言葉にならない。椅子の上で固まった櫟に藤も菖も手を振って、椅子に深く沈み込んだ。

 

「別に私は文字を書くなんて得意じゃないし、得意じゃないことをやろうとも思わん」

「そうそう、ここで頑張ってなにになるよ、人生は長いんだ。諦めよく行こうじゃないか、なあ?」

 

 翡翠色の瞳と黒真珠のような瞳が櫟に流され、柔らかく微笑んだ。藤の顔と菖の顔。その二つを見比べて、櫟は小さく肩を落とす。そんな顔を向けられてしまうと、強い言葉が櫟の内から出てくれない。

 

「で、でも、それじゃあ私たちの文芸部はどうするんですか?」

「別にどうもしないさ。文芸部が潰れたって死ぬわけじゃないし」

「い、いやそうですけど……」

 

 それでいいのか?

 今手を伸ばせる位置に自分がいるのに見送っていいのか?

 藤も菖も手を出す気は微塵もなく、ただ椅子に座し本を読むばかり。その席を立つのかどうかも分からぬほどに動かない。ただ櫟が見たかった笑顔を浮かべてそこに居る。だが……。

 

「……いいんですか? 何もしなくても」

「そう言うがね櫟、それじゃあなにができるんだい? 櫟、君にはなにができる?」

「……私に?」

 

 藤の問いに櫟は自分の手を見下ろす。目に映った両手でなにができる? 不思議と目に映った途端、マネキンのように自分の手がチープに見える。それでいて生気溢れた空気をどうにも気持ち悪く感じ、酷く櫟の顔が歪む。肌に触れる空気も心地良いだけ。耳を澄ませても藤と菖の心音が聞こえたりしない。匂いも紙の匂いだけ、目には見たい景色を写して。それだけで、目で見ているはずなのに何も見えない。

 

「まあなんだ、来年になれば俺の先輩の妹が新しく入って来るし大丈夫さ。来年の新入生に任せるとしよう」

「それがいい、無理に動いて何になる、私たちが何をしたところで何が変わるわけでもない。ただこうして日々を過ごすのも悪くないだろう?」

「……そう、ですかね」

「そうとも、どうせうちの学校大学までエスカレーターなんだ。三人でゆっくりしようじゃないか」

 

 藤と菖とただ時を過ごす。

 見たかったものだけを見てただ時を。

 そんな時間が少しでいいから櫟は欲しかった。

 

 

 

 

 

 ♦︎

 

 

 

「やろうか梓」

「やろう勇儀」

 

 鬼の笑みに梓も笑みを返す。これぞ現代の鬼退治。鬼と殴り合うなどという途方も無い夢の中に今まさに身を置いている。笑顔で腕を振り被る勇儀の動きに合わせて、呼吸を合わせるように梓も腕を振り被る。交差する拳。その擦りあった衝撃で梓の腕が捻じ切れ、飛んで来た拳が顔半分を拳の形に千切り取った。

 

 崩れ落ちた梓の顔を見下ろす勇儀の顔からは笑顔が消え、とても残念そうでつまらなそうで……。何故そんな顔をするのか聞きたくても、もう激痛で口は動かない。身を翻し去っていく勇儀の背に言葉は掛けられず、ただ地面に転がったまま意識は薄らいでいく。

 

「これは……」

「蒙昧な人間ですねえ」

 

 妖怪の山にやって来た愚かな侵入者。天狗の責め苦に耐えられるはずもなく、腕は捩じ折れ、足はへし折れ骨は飛び出し、片目は抉れ地に落ちている。何しにやって来たか終ぞ言わなかったが、絶叫と血肉を滴らせ、今まさに絶命する寸前だ。

 

 残った片目を小さく動かして、入ってきた鴉天狗を梓は見る。つまらなそうに腕を組みペンを回す文の心中を伺うことはできないが、ただその落胆の表情が心に刺さる。部屋を出て行こうとする文に梓は手を伸ばしたくても動かない。ただ離れていくその背を見送るしかない。黒い翼が視界を覆うように暗幕が落ちる。

 

「終わりにしよう大将。新しい竹取物語を描いて」

 

 そう白煙と共に吐き出された言葉に、梓は大きな夢を見た。ただ季節を繰り返すだけの人生。それが変わる瞬間。その一言で全てが変わる。進むべき道を見出したように、初恋のような煌めきを持って。

 

 壁を透け抜ける奴がいる。誰より早く走る奴がいる。なんでも奪う奴がいる。殺すことを突き詰めた奴がいる。目の見えぬ最高の参謀。白煙を燻らす陰謀家。悪夢に折れぬ最強の術師。あらゆる武器を繰る絡繰師。脅威を脅威で捻じ曲げる邪眼師。

 

 そんな者たちが共にいる。それを喜ばずして一体どうする。梓が持たないものを誰もが持っている。技と業と術。その輝きに並ぶものを梓は持っていない。

 

 どれだけ走ろうと桐には追いつけない。壁を抜けることなど出来ず、空間を掴むこともできない。居合など上手くいかず、目を瞑れば何も見えない。術なんて理論がさっぱりだ。

 

 才能ナシ。その烙印を自ら押せるほどに何もできない。

 鬼に潰され、天狗に削られ、玉兎に身を穿たれる。

 強固な体、ただそれを取られてしまえば何もできることがない。並び立つことさえ難しい。

 

 耐え忍ぶこと、それこそ人生。

 

「やろうか梓」

「やろう勇儀」

 

 鬼の笑みに梓も笑みを返す。何度潰されようと、言葉は変えない。その笑顔に笑顔を返し、変わらず拳を結ぶ。鬼の拳に体が弾ける。腕が千切れほとんど半分になった梓を見下ろす勇儀の冷たい目。

 

「まだ、だ」

 

 滴る血に力が抜けていく。それでも立ち上がろうと腕を動かす。僅かに揺れた勇儀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなるのを見て梓は立ち上がる。打ち出される鬼の拳に返す拳は出せず、体が潰れ吹き飛んだ。ただ、呆れた目を見たくなくて、何度だろうと、勝てなかろうと梓は立つ。

 

 初めて見た夢だから。

 

 才能がなかろうと、完成された肉体がなかろうと関係ない。ただ並びたい。共に居てくれる九人と共に。そのためなら、繰り返せるなら泥を飲もうと、血を吐こうと、何度だって立ち上がる。何度だって挑んでみせる。

 

 鋼の肉体がなかろうと、梓の鋼の心は奪えない。

 

「諦め悪いね、諦めればいい夢が見れるのに」

 

 鬼の拳、天狗の爪、何度切り替わったかも分からない意識の隙間を繋ぎ合わせるように、サブリミナル効果のように、意識の切り替わるその一瞬に浮かぶ少女の姿。赤いナイトキャップを被る白黒ワンピースの少女。眠たげな目を擦りながら、記憶を繰り返しては潰れてを繰り返す梓を見る。

 

 頭の中に突如浮かんだ少女の姿に梓は目を見開き、勇儀の拳に頭を潰される。「ぴったし三万回目」と、夢の支配者、ドレミー=スイートは手を合わせ、困ったように首を傾げた。

 

 夢は現実以上に心を蝕む。そのはずなのに、未だに一人抗っている者がいる。そのせいで、どうにも夢のバランスが悪い。永遠に繰り返される悪夢に抗い続ければ、いずれ心は磨耗し擦り切れる。それを避けて神子すら夢に堕ちたのに、なぜか人一人がまだ抗っている。鬼や天狗、玉兎や菖、それらに梓が殺されること数万回。なぜ諦めないのかドレミーには分からない。

 

「別に命を取ろうなんて思ってないわ。このままただ夢を見て眠るだけ。なのになぜ諦めないの? このままじゃ貴方の心が死ぬわ」

 

 鬼に潰され、天狗に飛ばされ、声にならないが梓は笑う。繰り返される死の中で梓が目指す先は一つ。

 

 

「夢は見るのではなく追うものだ」

 

 

 夢の中で九人と並びたいのではない。夢のような光景を、現実の中で九人と共に並びたい。

 

 梓がブレずにいられるのは、九人がいてくれるから。九人が支えてくれるから。だからこそ、今支えるのは梓の番。何度悪夢を繰り返そうと、自分にないものを持つ誰かが必ず立ち上がると信じているから。

 

「数万、数億繰り返そうと僕は絶対折れてはやらないぞ、首を洗って待っていろ。稀神サグメに言った通り、必ず殴り抜けてやる」

 

 梓の言葉に口を引攣らせてドレミーは姿を消す。頑固過ぎて相手をしたくない。千、二千と積み重なっていく死の落ち葉から逃げるように、ドレミーは大きく目を外らす。

 

 

 

 

 

 ♧

 

 

「あれ?」

 

 ふと漆は耳を擽る音に振り返る。

 夕焼けの空の向こう側、学校の帰り道、ビルとビルの間に伸びた小道を睨み、漆は動かしていた足を止めた。目に映る薄暗い路地には何もなく、ただ室外機のファンが回る音が小さく路地の中に反響していた。首を傾げて目を細める漆の肩を叩く手が二つ、その柔らかな感触に漆は路地から顔を戻した。

 

「蘆屋さんどうかしたの?」

「ああ悪い、なんか今女の泣き声が聞こえた気がして」

「ええ⁉︎ そんな人居ました? ひょっとして幽霊だったり!」

「いや気のせいだったよ、だからテンション上げんな。行こうぜ菫子、早苗」

 

 友人二人と並んで歩く帰り道。途中寄った肉屋で買ったコロッケをほうばりながら歩く。学校の先生の悪口や、早苗が先輩に告白されたとからかいながらしばらく歩けば、何かに気づいたように菫子は短な声を上げて鞄へと手を突っ込んだ。そして引っ張り出したのは一枚の紙。悪い笑みを浮かべて、漆と早苗の前に掲げる。

 

「言うのが遅れたけど遂にやったわよ! 私たちの秘封倶楽部が今日から正式に認められたわ! これで部費が下りる!」

「おー! やったじゃんか! 流石会長! よく認められたな!」

「これこそ私の努力の結晶よ! もっと讃えなさい!」

「わー! じゃあ副会長は私で!」

「なんでだよ!」

 

 早苗と小突きあいながら漆は笑う。高校に入り、部活どうしようかと悩んだ結果漆は色々と道を間違え変な部活を選んでしまったと後悔したのも遥か昔。代々続く陰陽師という不気味な境遇を早苗も菫子も嫌な顔せず寧ろ両手を上げて喜んでくれた。喜んでくれたのは微妙だが、なんにせよ受け入れれくれたのは事実。今ではすっかり気のいい友人である。

 

「それより冬はどうする?」

「冬も合宿するのか……」

 

 菫子の笑みにげっそりと漆は肩を落とした。秘封倶楽部の合宿と称して行われた夏の合宿は、洩矢の末裔という怪しい経歴を持つ早苗の実家で行われた。諏訪子が近く涼しく、花火大会もあったため非常に楽しめたが、東風谷の資料を漁る女子高生三人の姿は非常に怪しかっただろう。約一ヶ月早苗の実家に泊まったという事もあって、漆としては頭が上がらない。

 

「冬は漆さんの実家で合宿しましょう!」

「それいいわね!」

「え〜あたしん家か? まあ夏は早苗の家に世話になったし大丈夫かな?」

「次は陰陽師の資料を漁ってみましょう!」

 

 急急如律令‼︎ と声を上げる二人に、なんも起きねえよと漆は肩を竦めて小さく笑った。授業が終われば放課後こうして三人で部室に集まりあーだこーだオカルトチックな話題で騒いだ後帰路につく。部活の内容としては怪しさ満点であるが、歴史のテストの点数が上がったりと悪いことばかりでもない。それに帰りにふらりとゲーセンに寄ったりカラオケに寄ったりするのも悪くなく、早苗と菫子が騒ぐ中、また一人漆は笑みを浮かべた。

 

「そうだったわ蘆屋さん、昨日撮ったプリクラの写真送ったけど変更した?」

「変更?」

「秘封倶楽部正式化を記念して待ち受けにです!」

 

 二人して携帯の待ち受けを向けて来る早苗と菫子の笑みに苦笑して、漆も学生鞄へと手を伸ばし、五芒星と蛙とルーン文字のストラップのついた携帯を手に取った。それと同時に、漆は小さく目を開けると携帯と共に鞄の中のものをいくつか外に零しながら、手を引き抜き、隣にあった家と家の間に走る細い路地へと顔を向ける。

 

「わわ⁉︎ どうしました漆さん!」

「いや、今また泣き声が聞こえたような……」

「何も聞こえないけど、うーん、空耳の伝承とか追ってみる?」

 

 本気で心配してくれる早苗と菫子に悪いと謝りながらも、どうもおかしいと漆は頭を掻いた。アスファルトの上に散らばったメモ帳や筆箱を慌てて拾う中、「あれ?」と共に拾ってくれていた早苗が首を傾げた。何かおかしいものでもあったかな? と同じく首を傾げる漆に早苗は笑みを浮かべて、拾ったものを漆に突きつける。

 

「これなにかのカードゲームのカードですか? 私も昔いろいろ集めてましたよ! 漆さんもそういうの好きだったんなら言ってくれればいいのに!」

「カードゲーム?」

 

 そんなもの漆は持っていない。早苗に突き出されたカードを受け取り、漆の中でなにかが弾ける。

 

 

 ──漆さぁぁん‼︎ 凄いスペルカードが完成してしまいました! どうですか! 封印解除(レリーズ)! 

 

 

「……これじゃあ、捕獲者(カードキャプター)じゃなくて決闘者(デュエリスト)じゃねえかバカ、オタク娘め

 

『友情』

 と銘打たれた薄い一枚のカードには、呆れて笑う菫子を背景に、早苗と漆が漢らしく握手している姿が描かれている。どういうつもりで作ったのか意味不明だ。月軍襲来前に早苗と揉みくちゃになった際に勝手に紛れ込んだと見えるスペルカードを握り込み、心配そうな顔で見つめてくる早苗と菫子を一瞥すると、漆は素早く携帯を操作して待ち受けを変え、数秒それを見つめた後携帯を二人に向けて漆は放った。女子高生三人で肩を組んだ女子高生らしくない写真に苦笑して。

 

「蘆屋さん?」「漆さん?」

「悪い! ちょっと野暮用思い出しちまったから行ってくるわ! 早苗! オメエあんまりカラオケで古いアニソンばっか歌うなよ! それと菫子! オメエはまあ、マントと三角帽子、あたしはナシだと思うけどオメエにはまあ似合ってると思うぜ!」

 

 急に走り出した漆に早苗と菫子は顔を見合わせ、二人揃って肩を竦める。菫子はマントなどしていない。漆がなにを言っているのか二人には分からなかったが、去り際の気持ちのいい笑顔を思い出し行ってらっしゃい! と手を振った。

 

 それに見送られ漆は家々の間に伸びた細い路地を全力で走る。向かう先は分かっている。早苗のスペルカードを握り締めれば、聞き慣れすぎた泣き声が聞こえる。工場の横を通り抜け、家の姿が減り、田園風景の中ずっとずっとその先を目指して。稲穂の揺れる田園の先、森に入る手前に立った古ぼけた蔵は、小さな頃に漆がよく逃げ込んでいたものそのものの姿。重い扉の取っ手である輪を力任せに引っ張って、暗闇から流れてくる啜り泣く声に、漆は肩で呼吸したまま大きく息を零した。

 

「……よぉ」

 

 蔵の中に反響する声に、蔵の隅で丸まった小さな背はピクリと跳ねてゆっくりと振り向いた。まだ七歳くらいの小さな少女は、漆の昔の姿に似ていたが、髪は全て黒く外側に跳ねたりしていない。

 

「ウルシ」と少女の名を呼ぶ漆の声に合わせ、小さな少女は漆の元に走り抱きついた。その軽さに蹌踉めくこともなく漆は受け止めると、膝を畳み少女の頭に手を乗せる。

 

「……友達ってのはいいな、すっげえ楽しかったぜ。あたしもこれは、一度手にしたら手放せないかな」

 

 ウルシは涙の枯れない目を擦りながら、ぽたぽたと雫を零し続ける。そんな姿に漆も顔をうつ向けて、スペルカードを握り締めた。

 

「でもこれは夢だ、そうだろ? 現実であたしたちの友達が困ってる。だから行かなきゃよ」

 

 早苗と菫子と、櫟と菖と、それに輝夜も。そう続ける漆の言葉に、ウルシはびくりと顔を上げると、小さく後ろへ足を出した。そんな小さな少女の襟元を漆は掴み引き寄せる。優しく手を伸ばしたつもりであったが、漆の手は血が垂れるほどに握り締められ、少女を掴み離さない。

 

「あたしが気付いてねえと思うかっ……!」

 

 ウルシは恐れている。唯一姿形を残している初代当主でありながら、誰より月軍を恐れている。その相手から輝夜を守れなかった。輝夜にどんな顔を向ければいいのか分からない。月に帰りたくないと言った輝夜の初めての願いを叶えられず、更に千三百年前よりも強いと見える者が今回の相手。

 

 また負けたら? 

 

 と考えられずにはいられない。それが恐ろしいから、輝夜を目の前にしてもただ気付かないふりをして、ウルシは終わらない悪夢に逃げている。

 

「あたしはなッ! あたしはまだ一度も、一度もアイツらに友達だって言ってねえんだよ‼︎ 菫子にも! 早苗にも! 櫟にも菖にも! テメエだってそうだろウルシ!!!!」

 

 ウルシに傷付けられないように、漆が素っ気なくしていても側にいてくれる者たち。そんな者たちに、悪いと謝っても、ありがとうとお礼の言葉を渡したことはほとんどない。

 

 そしてウルシが友に手を出そうとするのもまた、友のことを考えてのこと。願われても友人のお願い一つ叶えられない己が身ができることなど、期待する前に自分に見切りをつけて貰うことだけ。

 

 初代から続く不器用さに苦笑もできない。

 

「あたしが優しく手を引いてテメエを悪夢から引っ張ってくれるとでも甘えんならふざけんな! 輝夜はテメエの友達だろうが! 昼間見たあの笑顔を壊したくねえから今までやって来たんだろ! なのにこんなとこに引きこもって! オメエだってあたしの……あたしの初めての友達だから、一人で何もできねえなら手を貸してやる! ただしあたしは優しくねえぞ‼︎ テメエみてえなしみったれはぶん殴って立ち直らせる! テメエはあたしで、あたしはウルシだ! ここでやらなけりゃ、できなけりゃ女が廃んだよ! いい加減目え覚ませバカ‼︎」

 

 早苗のスペルカードを握り締めた右手をウルシの首元から放し、思い切り拳を小さな少女目掛けて漆は振った。快音を響かせ壁に吹っ飛んだ少女は、壁にぶち当たるとズルズルと腰を落とし紅い目を瞬かせる。ただ眼に浮かぶ雫はもう品切れ。枯れた目元を一度拭い、口をいつもの形に動かす。

 

「かぐやさま」

 

 小さな少女が影に溶けるようにその身を伸ばす。十尺に上ろうかという巨体を揺らし、長い黒髪は、敵への敵意からか大きく外側に跳ね、紅い瞳をルビーのように輝かせて大きな手を拳に握る。

 

「行くぜウルシ! 百人分超えた悪夢舐めんな! あたしらの友達を助けに行くぞ、あたしたちが‼︎」

 

 勝つ。

 今度こそ。

 二度目はない。

 

「夢から覚める時は今だ! 急急如律令ォ!!!!」

 

 漆の指の動きに合わせてウルシは強く拳を出す。どこに向けるかなど分かっている。千三百年悪夢と向き合った拳だから。伸ばされた悪夢の拳は、卵から雛が孵るように、小さなヒビを世界に穿つ。

 

 

 

 

 

 ♤

 

 

「ん?」

「どうした相棒?」

 

 こころと映画館へと向かう道中、ふと梍は足を止めた。不思議そうに首を傾げるこころを視界の端に捉えながら、遠く梍の目に映る一つの人影。大きく外へと髪を跳ねさせた少女の影。すぐに人混みの先へと足を伸ばし消えた少女の影が、どうしても梍の目についた。

 

「今、見たことある影が見えたんだにが」

「影? 見えないわよ? 幻覚だったんじゃないか?」

「幻覚? ……でも確かに」

「相棒しか見てないとしたら幻覚と同じじゃない? 他に誰も見てないなら。それより映画だ! 共に同じものを見よう!」

 

 こころに手を引っ張られ、梍はもう目の前の映画館へと入っていく。こころがチケットを買うぞと手を上げる横で、一人梍は黙り込んだ。梍しか見ていないなら幻覚と一緒。こころの言葉が身の内で反響する。それがどんなに綺麗でも、それを感じられるのは梍一人。それが実在してるか、本物なのかどうかなど、証明のしようがない。

 

「ふふーん、なあ相棒、前の席がいいか? それとも後ろ?」

「あ、ああ。そうだにな」

 

 生返事を返し慌てて梍は笑顔のこころに目を向ける。分かりやすく表情を顔に出すこころに同じように笑みを向けて梍は返事をしようと思ったが、口から言葉は出なかった。

 

 こころの背後のガラス張りの壁に目玉が二つ浮かんでいる。ただじっと梍を見つめて浮かぶ暗黒の瞳。その眼の恐ろしさに梍の足が僅かに下がる。

 

「相棒? どうした? 何を見てるんだ? 恐いぞ」

 

 こころの言葉を聞いて梍は目を瞬いた。二つの暗黒の眼は梍にしか見えていない。外を歩く人々も、映画館の他の客も、誰も気にした様子がない。一度梍が目を擦っても、ガラス張りの壁に浮かんだ瞳は消えず、一歩足を出した窓に映った梍の姿と瞳が重なる。漆黒の瞳の梍の姿は、なぜか全く違和感がなかった。その不思議さに目を瞬いた梍の視界の中に、九つの後ろ姿が映る。一人ひとり全く異なる宝石のような輝きは感情の色。見惚れ呆けた梍の腕をこころが引っ張り強引に振り向かせた。

 

「おい相棒大丈夫か? 具合でも悪いのか?」

 

 心配してくれるこころの顔を見下ろして、少し残念そうに梍は顔を俯く。感情豊かなこころの顔は可愛いが、なぜか輝きを強く感じない。

 

「秦さんには何も見えなかっただに?」

「え? 何がだ……?」

 

 口端を引攣らせるこころに頷き、梍は一度強く目を閉じた。

 

「なあ、秦さん、秦さんはなんでおれを相棒と呼ぶだに?」

「え⁉︎ い、今それを聞くのか⁉︎」

「教えてくれ」

 

 梍の真面目な顔にこころは顔を赤らめて前髪を弄り、仕方ないと小声で話しだす。その声を聞き逃さないように、また見逃さないように梍はしっかり目を開けた。

 

「は、初めて私の全部を見てくれたから。梍なら同じ所に行ってくれると思って」

「同じ所……ふふっ」

「な、なんで笑うんだ!」

「いや、悪いだに。なあこころ、もしおれがさっき見た影を追おうって言ったらついて来てくれるか?」

「え、いや……まあ相棒が本気なら」

 

 こころの答えに梍は心の底から大きく笑う。

 見えるものが違うからなんだと言うのか。

 見えるものが違っても、同じ場所に進んでくれる者がいる。

 別に同じものを見なくても、同じことを感じなくても、進む先は信じる者と同じ。

 それなら自分が見たいものを見て何が悪い。

 それが梍一人にしか見えていなくても、梍だけがその輝きがなにか知っている。

 幻覚だったとして、それが本物ではないという証明もまたできない。

 ならば……。

 

 自らの眼へと指を突き入れる梍にこころは息を飲み、声にならない悲鳴を上げた。これは自分の見たいものではないと目玉を潰したその先で、暗黒の中に光が瞬く。誰もと同じものを見るのもいいが、梍には梍だけが見て追ってきたものがある。その素晴らしい輝きたちに近づくため、自分の輝きだけは梍は見えないが、見えなくても同じ所を目指して歩いている。忌み嫌われる瞳を持った梍が、誰より最高だと思う先輩たちと同じ道を。

 

 虚空から浮かび上がって来た邪眼を瞬いて、梍は顔を青くさせたこころを見つめた。その髪色は鮮やかなピンク色。その色に優しく吐息を零し梍は微笑む。頬に垂れた血を拭い笑う梍に、こころはなにも言えずに固まった。

 

「ありがとう、それと悪いだにこころ。おれは行かなくちゃあ、見たいものがあるんだ。それにこころ、おれは別にこころと同じものを見たいとは想わない、同じ感情を抱きたいとは想わない。こころ見てる方が楽しいし綺麗だ。それでも同じ所へ行けるし同じことがやれるだに。おれはいろいろなものが見たい、おれだけに見れるものを! そしてきっとおれはそれと同じ方へ歩くだに! そんなおれは変だにか?」

「変だ‼︎」

 

 こころに断言され、梍は頭を掻く。

 こころの内に見える困惑の色。その多彩な色に目を細める梍に、こころは困ったように腰に手を当て、どんな瞳よりギラギラと輝く穴にような漆黒の瞳を覗き込んで小さく息を吐いた。足が竦むような視線を飛ばす梍の姿は恐ろしいが、その堂々たる梍の立ち姿が言っている。

 

 目を向けた先が進む先。

 

 忌み嫌われようが、恐れられようが、確固たる自分を持ち歩く者の目指す先がなんであるか、こころもそれは見たいと想う。自分には見えない景色を見て歩みそこに至った理由が知りたい。

 

 相手を知る、それが感情の第一歩。ただ自分の感情を振りまくのではない。相手の感情を知りたいと思ってこそ、感情は先へと歩みを進める。それが正しい方向ならば、いろんな感情を持ち行き着いた先にきっと希望が待っている。

 

 だから変だと叫び口を噤んだこころは、少しの間を開けて再び口を開ける。

 

「でもだからこそ梍は相棒なんだ!」

「そうだにか……、きっとやろう、おれとおんしで演目を! 偽りでも普通の生活は悪くなかった! でも、おれが見たいのはそれじゃない! おれはもう追う背中を決めている!」

 

 そしてその背に並び同じ場所を目指す。

 見たいものを見るために! 

 

「おれはもう目を開けた! 見たいものは夢じゃない‼︎」

 

 夢のヒビから邪眼が覗く。不良少女の後ろ姿を追うように、その先を目指して瞳を絞る。邪悪な瞳が脅威を撃ち込む。悪夢より恐ろしい悪意を持って。

 

 

 

 

 

 ♡

 

 

「俺は黴家第百六十四代目当主 黴 藤って言うんだ、よろしくね」

 

 櫟の元にやって来た少年は、とても命の音が小さな少年だった。その音よりもなお命の音が小さい一六三代目と共に度々櫟の元を訪れる少年が、櫟は最初とても苦手だった。生まれながらに目を抉られ、小さな頃は聴覚が優れているぐらいで、周りのことがそこまでよく分からない。そんな中、多くの命の中で、特に小さな二つが一番忙しなく動いている。その危なっかしさについつい耳を澄ませてしまう。いつ消えてしまうか気が気でない。だから櫟はもっと気をつけて生きろと言ったのに。

 

「やだ」

「なんで? 私も君も体が強いわけじゃない。なにができるかも分からないんだから、命くらい」

「俺はもうあと二十年生きれるか分からない。その間になにができるって、なんだってできるさ!」

 

 強がりか無謀なのか。どちらにせよ、そう言った通り藤はなんだってやった。将棋や囲碁といった遊びから、普通の子と同じように野球やサッカーまで。時に血を吐きながら、何か満足していないようであらゆるものに手を伸ばす。

 

「なにしてるの? 馬鹿じゃないの?」

「師匠にはヘビメタがあるんだ。俺にはまだ何もない」

「だから?」

「俺も何かに命をかけたい」

 

 短い生を何故そう早く消費しようと言うのか。彼らは言わば命の蝋燭が短いのだ。それも望んでそうなのではない。もっと我儘になればいいのに、自分を試すようにわざわざより大変な道に足を伸ばす。

 

「決めた。俺は竹取物語の続きを描く」

 

 そう少年が言ったのは、櫟が藤と出会って一年後。その頃にはもう一六三代目の黴の当主はあまり唐橋の家にはやって来なかった。体の崩壊が始まっている。そんな中で先代の近くにいればいいのに、唐橋の資料を漁りに藤は連日やって来る。時には徹夜し、血を吐いて。これまでどの当主も終わらせられなかったことを終わらせるという少年の言葉があんまりにも無謀過ぎて、櫟は鼻で笑ってしまった。

 

「無理だよ、できないって」

「できるできないじゃなくてやるんだよ」

「はあ? なんで? わざわざ寿命を削ってやることがそれなの? 無理よ無理」

「それは俺が決める」

 

 すぐに藤は諦めるだろうと櫟は思っていた。なのに黴の修行で体を壊しながら毎日毎日資料を漁りにやって来る。十の一族の千年以上続く資料を漁り、一年が過ぎようかという時、いつも資料室に篭っていた藤がひょっこり櫟の前に顔を出した。

 

「……なに?」

「いや面白い資料を見つけてさ、幻想郷だって! 幻想の集まる秘境らしい! ひょっとしたらかぐや姫はここにいるんじゃないかって走り書きがあったんだけどまだ誰も行ってないみたいでな。これは当たりを引いたかも!」

「……あっそ」

 

 そんな喜ぶ藤の姿を櫟は滑稽に感じた。かぐや姫がなんだと言うのか。櫟は存在しない視界の代わりに、別のものでものを見るための訓練でいっぱいいっぱいだ。わざわざ寿命を削ってかぐや姫なんて夢物語を追ってなにになる。終わらせたところで、寿命が戻って来るわけでも、目が戻ってくるわけでもない。それなのに……。そして更に一年、藤と櫟が出会って三年経ち、櫟も九歳になった頃。色のない世界に絶望する櫟の端で藤は笑った。

 

「幻想郷の行き方分かったよ、場所もね。ただ見つけた月に関する資料が不審だよ。月の監獄の資料なんてよくあったもんだ。先代たちもやるよなあ。ただ軍事基地の資料なんてのもあるし、先に一度月の情報を洗った方がいいかもしれないよね」

「……あのさ、なんで私に言うの?」

「なんでって、櫟も来るだろう? 櫟だけじゃない、北条も五辻も袴垂も足利も坊門も蘆屋も岩倉も六角も、終わらせるならみんな欲しい」

「いや、行かないから」

「え? なんで?」

「なんでって、私には目がないのよ? 普段の生活送るだけで大変なの! そんな私がなにかできるはずないじゃん!」

 

 それが全て。

 他の人より大事なものが一つない。

 それだけで途端にできることが減る。

 それは藤も同じはず。

 櫟と同じはずなのに、藤はいつも笑っている。

 

「櫟ならなんだってできるさ! 一緒に竹取物語の続きを描こう! 誰にもできなかったことを俺たちで終わらせちまおうぜ!」

 

 櫟はなにも言えなかった。それからまた毎日毎日。日に日に命の鼓動を小さくしながら藤はやって来る。あーだこーだとたった一人で資料を漁り、ふと気になって寄った櫟を拒むことなくあーだこーだと。

 

 何故諦めない? 

 何故続けられる? 

 

 そしてある日の夜。藤は大量に血を吐いた。

 

「もうやめた方がいいって、君このままじゃただ死ぬだけだよ。これになんの意味があるの? もう諦めなよ」

「別にかぐや姫を放っておいても死ぬわけじゃない。俺が何かやったところで何も変わらないかもしれない。でも諦めない。諦めることなんて一番に諦めた。何も変わらないとしたら、何をやってもいいだろう? 俺が当主だ。俺は黴の最後の当主になる。先代ももう長くない、先代たちの命の炎に負けたくない。ほかの奴らは悔しがるぞ、あいつらが終わらせたんだってな。ほかの奴に譲りたくないだろう? 櫟、大事なものを持ってないなんて言う君だから、一番大事なものが誰より見えてる筈だ。君の目は節穴じゃあないだろう? 俺は今生きてるだろう?」

 

 なんじゃそりゃ。

 あまりの可笑しさに櫟は噴き出した。

 生きてるかって、そんなの生きているに決まっている。

 目がないから誰より見えているとは矛盾してはいないか。

 誰より命の鼓動が小さいのに、誰より激しく燃える命。

 目はなくても、その命の輝きが見えた気がした。

 一気に視界が開けたように、櫟の鼓動が速くなる。

 目がなくたって、寿命が短くたって、誰にもできなかったことをやってみせる。

 その夢の輝きを長く見つめていると、目が離せなくなってしまうから櫟は目を逸らしていたのに。

 藤より大分遅くなったが、まだ手を伸ばすのに遅くはないか? 櫟が藤に聞けば答えは決まっている。

 どうせ夢を掴むなら、自分の手で掴みたい。

 目がなくても手は伸ばせる。

 

「…………藤、次はどうするの?」

「坊門家の九十八代目当主に会いに行ってみよう、裏の事情に詳しい者の話を聞きたい。俺たちと歳が近いらしいしきっと話合ってくれるよ。ちょっと塞ぎ込んでるらしいが、なに、諦めずに続ければどうにかなるさ」

「……、なら、それを利用してバックアップを取りに来たとでも言う? そうすれば……、すぐに会える、かも?」

「そいつはいいな! 流石櫟! 頼りにしてる!」

 

 そう言って笑う男の顔を櫟は初めて見たいと思った。

 それもまた一つの夢、だけど本当に見たいものはそれじゃない。

 

「私はなんだってできるんです」

「なに?」

 

 文芸部の一室で、首を傾げる藤の顔を見つめて微笑み、櫟は自分の目へと手を伸ばし力任せに瞳を抉る。脳に電流を流されたような鋭い痛みに歯を食い縛って、掴んだそれを握り潰した。

 

「櫟⁉︎ なにしてるんだお前⁉︎ 気でも狂ったか⁉︎」

「……目がなくたって大事なものは見えます。藤さん、貴方が教えてくれたんですよ」

 

 その命の輝きが眩しかった。なにも見えないはずの櫟の視界を照らしてくれる。同じように誰より死に近いはずの友人も、静かに激しく燃えていた。その輝きを分けて欲しい。隣り合えば、藤と菖の命の蝋燭に灯った輝きが、櫟の蝋燭にも火を分けてくれるようで。

 

 なのに、火の消えた二人など見たくない。燃えるのではなく、腐って落ちる蝋燭なんて見たくない。火を灯してくれた彼だから、そんな彼の火が消えたなら、再び火を灯すのは自分でありたい。

 

「生きてるのに死んだような顔なんて見たくない! 例え顔は見えなくても、誰より生きてる貴方が見たい! 菖ちゃん! 藤さん! 歯食いしばってください! 私だって握る拳は持っています‼︎」

 

 見えなくたって目指す先は分かっている。

 彼の隣に。

 彼女の隣に。

 振るわれた櫟の拳は、迷い無く空を走る。

 ヒビから覗く視線を辿り、そのヒビを広げるように櫟は手を這わす。例え目がなかろうと、大事なものは見えているから。

 

 

 

 

 ♢

 

「うっそ」

 

 ドレミーの呟きを吸い込むように、ピキリッ、と夢に走ったヒビが勢いよく伸び穴を開ける。小さな拳一つ分の穴に呆け、急いで塞ごうと手を伸ばしたドレミーを、穴から邪眼がギョロリと睨んだ。その射殺すような視線にドレミーの手は固まり、その間にポロポロと、夢の殻が剥がれてゆく。

 

 決して大きくはないその穴から手が伸びる。ただ一人夢に堕ちなかった頑固者。誰よりドレミーの近くにいた人一人、変わらぬ瞳の輝きを持って、足取りに迷いなく一歩を強く踏み出した。

 

「ちょ、ちょっと待って。私は頼まれて手を貸しただけで月軍とは関係ないって言うか、貴方たちを無力化するだけで戦う気だってないし、その手に握る鏃痛そうだから殴られたくないって言うか……、貴方みたいな大男が女の子を殴るなんていうのも絵面的にちょっと、ね? それでも殴るの?」

「然り」

 

 迷いなく固まったドレミーの土手っ腹に梓は右手を振り抜いた。蛙の潰れたような声と共に、風船が弾けるようにドレミーの身は弾け、「もう月の言うこと聞いてやんないから⁉︎」と悲痛な叫び泣く声を残して消え去った。

 

 崩れていく景色から浮き上がるように、意識が浮き上がるのを梓は感じた。夢の中で暗幕を下ろせば、別の暗幕が呼応して上がる。枝の上に座る天探女を見上げて立ち上がった梓に合わせて同じく立ち上がる影が三つ。それが誰であるかなど、梓は見なくても分かる。他の三人もまた立った影には目も向けない。見つめる先は誰もが同じ。

 

 サグメは己を見上げる四つの顔を見回して、ゆっくり一度目を閉じる。腰に括り付けていた結界装置の『目』の箱を手に取り、人間たちに見せつけるように掲げた後躊躇することなく握り潰した。

 

「……それは降参という意思表示ですか? それとも寝返る気なのでしょうか?」

「……そうでは無い。幻想郷には神霊を追い払って貰った借りがある。それを今返しただけ。千三百年前の敗北を殴り抜いた貴方たちがどこまで行けるのか見たくなったわ。この先は舌禍も届かぬ領域。どうなるのか私にも読めない。夢の中にいた方が良かったと泣いてももう遅いわよ?」

「は! バカ言え! 悪夢なんて見飽きてんだよ!」

「それに、今まさに夢を見ているようなものだに」

「歩く道は違えん」

「初心忘れずと言いますか懐かしいことも思い出せましたし、この先なにがあろうとも、一度灯した火は消しません」

「そう、……運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。その手に持つ札で後悔はしないで」

 

 飛び去って行く月人の意味不明さに四人顔を見合わせ肩を竦めた。サグメにどういう思惑があるのか分からないが、砕かれた結界装置の『目』の箱が本物だということは、櫟と梍には分かる。四人以外の周りの者たちが、起きて来るには少し時間が入りそうだと櫟は頷き、携帯を取り出す。

 

「……参りました。天探女が来てから一時間が経っています。戦局が今どうなっているか……」

「少なくともあたしらが捕まってなかったり怪我がねえとこを見ると負けてはいねえみたいだけどよ」

「梍、どうだ? なにか見えるか?」

「いや、……これは」

 

 周りに目を移した梍の目に映る少なくなった輝きたち。幻想郷の半分を覆っていた白煙も既に消え、戦闘音もほとんど聞こえない。そんな梍の視界の端で光が瞬いた。

 

 呼吸も忘れて梍は瞳を空へと向ける。

 

 月が二つ浮かんでいる。そう錯覚するほどに眩しい月光色。

 

 梍の輪郭を伝って落ちる冷や汗を感じて櫟が続いて顔を上げ、漆と梓がその後に続く。

 

 遠く、月に重なるように浮かんだ一人の少女の後ろ姿から誰も目が離せない。

 

 月夜見。

 

 月が幻想郷に浮かぶ。

 

 その身を少し朱に染めて。

 

 

 


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