妖怪の山を覆っていた風の盾は、緩く煽がれた扇子の一撫でで剥がれてしまった。ぼふっ、と薄手のシーツが靡いたような間抜けな音を響かせて、月の重弾さえ通さなかった触れられぬ壁をいとも簡単に捲ってしまう。行き場を失った風の流れは、酒を失った蟒蛇のように暴れ狂い、幻想郷を覆っていた白煙と、細い枝葉や落ち葉妖怪や死体も関係なく、一切合切を吹き飛ばす。
足元に転がって来た誰のものとも知れぬ腕や木の枝を足で小突き避けながら、豊姫は忌々しそうに鼻を鳴らし扇子を閉じた。
空間移動のズレ。妖気などに作用する白煙が微量ながらも幻想郷の大気中に含まれているせいで精密操作の邪魔をする。風を操る火を操る、単純な力ならまだしも、スキマや空間移動という強力ながらも細かな操作を要求される技はどうしてもズレが出る。白煙の外であった月から幻想郷への移動だから多少のブレで済んだものの、これが幻想郷からとなれば、無理に移動した場合どこに出るか分かったものではない。だいたい点から点に跳ぶような豊姫の能力は、重なるはずのその点がズレれば跳ぶことすらできないのだ。
白煙の持続時間がどれほどのものか豊姫には分からず、長くはないが短くもないだろうと当たりをつけて、閑散としている妖怪の山に目を細めた。扇子をたったの一扇ぎ。それだけで暴風ドームの暴風の中を走っていた天狗たちの大部分が、血肉すら残さず消し飛んだ。月の扇子が起こした風を自らの風に乗せられて。自滅のような状況に残った天狗の多くはわけも分からず地に堕ちるだけ。
風によって葉のなくなった少ない木々の間を悠々と豊姫は歩き目当ての場所へと足を進める。目指す先は暴風ドームの中心。姿のなかった八雲紫や蓬莱山輝夜。幻想郷に一度は広く分布した玉兎たちから一度も報告がないとなればいる場所は一つ、早々に風の盾で覆われ中の様子を伺えなかった妖怪の山しかありえない。
元々逆巻いていた天狗の風と、月の扇子の風によって大きく削られた山の肌の丘へと豊姫は足を掛け、なだらかな下り坂の岩肌の上に立った幾つかの人影を見つけると、扇子を広げ口元を隠すこともなく運がいいと笑みを浮かべた。
「御機嫌よう、八雲紫、それに輝夜様。お元気そうでなによりですわ」
「あら豊姫、地上に足を着けたのね。地上を罪の地と言った貴女が」
柔らかな笑みには柔らかな笑みを。お嬢様たちの対面と絵面だけを見れば言えなくもないが、二人から滲む魔力と妖力の衝突と、笑みの下に隠された暗い気配が吹き飛んだ山の空気を埋めるように充満するのを端から見れば、笑顔など浮かべられるはずもない。顔を苦くする輝夜の顔は紫にも豊姫にも気にされず、紫の言い草に豊姫は目を細めた。
「スキマ妖怪、流石地上では気が大きいわね。もう地に額は着けないのかしら?」
「地に頭を着けるのは死ぬ時だけ。平城十傑の親書は見たのでしょう? 誰も貴女に頭は垂れない。払う礼などありはしない」
もう道は決めていると瞳を輝かせる地上人たちに目を細め、豊姫は緩りと扇子を開きふせに持つ。扇子に描かれた目玉のような満月の柄が地上の者を睨み付けた。
八雲紫、蓬莱山輝夜、天魔、上白沢慧音、射命丸文。
五つの顔へ順番に目を流し、最後に口元を扇子で隠し目を細める紫を豊姫は見た。口元を隠そうと、苦々しい紫の表情が手に取るように分かった。豊姫の広げた扇子はただの扇子ではない。森を一瞬で素粒子レベルで浄化する扇子。小さな月の超兵器。一度煽げば穢れは例外なく霧散する。
それが命ある者ならば、そのたった一つの扇子に全てを消される。豊姫と紫がお互いの能力を妨害しあい、更に白煙のおかげで空間移動もスキマを開くのも手間取るような状況で、輝夜の能力も使えないとなれば、豊姫の手を止めるものは何もない。扇子の風と天狗の風、どちらが上か比べるしかないかと張りつめられてゆく天魔と文の目の先で、軽く動いた豊姫の手から扇子が弾けた。
──チィィィィィン。
金属の小刻みに震える高い音色が山に木霊し、荒い岩肌の上にこつりっと音を立て落ちる。一度目を瞬いた豊姫の目が弾けた扇子の方向とは反対の方へと動いた。ひゅるりと蠢く風に紛れて運ばれて来たように立っている薄い人影。その“穢れ”の濃度の深さに豊姫の目が引き絞られる。
「丈夫だな、穿つつもりで放ったが傷も付かんか。ただの扇子ではないと見た」
「──何者です?」
「……菖」
豊姫の問いに誰より早く輝夜が口を開いた。その小さな呟きに一瞬豊姫の目が輝夜を見たが、すぐに現れた人間へと戻される。影のように静かに佇む濃い穢れ。その姿に小さく笑みを浮かべた。名を聞くなら本人から。豊姫と菖は瞬きもせずしばらく見つめ合い、菖は一度目を瞑るとゆっくり口を開いた。
「平城十傑、坊門家第九十八代目当主 坊門菖。我らが姫に手は出させん。天魔、文、我らが姫と賢者たちを任せた。行け」
「い、行けって⁉︎ 菖! 貴女一人じゃ!」
「一人じゃねえやな」
ふわりと風に流され綿毛が飛ぶ。地に落ちた月のお宝をしっかりと手に掴み、無意識と破壊を引き連れ盗賊がやって来た。不敵な笑みの向く先は月の使者。その先に立つ暗殺者の傍に音もなく仙人が降りる。包帯に包まれた右腕と左腕で緩く腕を組み、望まぬ来訪者を睨む。
豊姫は左右に立つ地上の民へと目を向けて、耳を叩くキリキリとした音を追い背後にも目を向けた。人の背に隠れるように豊姫を見る河童、河城にとりを貼り付けて、三人目の外来人が腰に手を当て立っている。一人、二人、七人と豊姫は頭の中で数を数え口元に浮かべた笑みを深める。そんな豊姫の表情に僅かに目を顰めながらも目は外さず、菖は静かに言葉を紡ぐ。
「行け。八雲紫と上白沢慧音を失うわけにはいかん。この場は私たちに任せろ」
射殺すような菖の視線を受けて、文は頷き、そんな文の姿に仕方がないと天魔はため息を零した。険しい顔の紫と慧音、口を引き結んだ輝夜を二人の天狗は掴むと、背の翼を目一杯に伸ばす。能力さえ関係なければ最速の運び屋たち。その純粋な力を信じて、菖も他の者も豊姫へと焦点を絞る。
「菖! 椹! 菫! 絶対勝ちなさい! 貴方たちは私の、……私のものなんだから! 勝手に居なくなったら怒るんだから‼︎」
天狗の羽ばたきが輝夜の言葉を地に残す。黒い羽を数枚落として天へと風のように消え去った総大将を三つの微笑が送りだし、ただ静かに気を高める。そんな人間たちを見回して、豊姫は一度肩の力を抜くとホッと息を吐いた。張り詰めた穢れを祓うように。その穢れに身を浸すように。
「──名を聞いておきましょう地上の者たち。私に挑むという愚者たちの名をせめて私が覚えておいてあげましょう」
そう言って豊姫は心の底から柔らかな笑みを浮かべる。その笑みに誰もが少し見惚れてしまう。
豊姫の佇まいは戦闘者のそれではない。
華奢な見た目は見たまま華奢で、刀や槍といった見たまま武器を持つような姿は似合わない。桃源郷の空気をそのまま引き連れて来たかのような柔らかな空気を振りまいて、刺々しい空気も、怪しい空気も、全て関係なく包み込む。豊姫のいる場が舞台というように、誰が近くにいようと主演が誰かは一目瞭然。華が違う。誰がスターか見れば誰もが理解する。視界に入れば絶対に目で追ってしまうそんな存在。
その空気感に絆されそうになった空気を盗賊が奪う。拾った月のお宝をお手玉し、パシリと強く掴み音を上げ、豊姫の視線を自らに向けた。舞台役者のような豊姫の流し目に椹は笑いを噛み殺し、獰猛な笑みを返した。
「平城十傑、袴垂家第九十二代目当 袴垂椹。覚えておけ、月から勝利を奪う盗賊の名を!」
「その子分そのいち、古明地こいし!」
「子分その二、フランドール=スカーレット!」
盗賊。下賤の中でも更に下賤。穢れらしいその色に豊姫は首を回し背後を見た。ただし言った通りしっかりとその名を忘れぬように頭の中で三つの名を繰り返し、豊姫は河童と男を見る。鼻を擽る鉄と油の匂い。それを弄る汗の匂いに片目を瞑り小さく頭を振った。
「平城十傑、岩倉家第十二代目当主 岩倉菫。よろしゅうな」
「か、河城にとり。お、覚えなくてもいいよぉ〜」
柔らかく笑いながらも、時を追うごとに目が鋭くなっていく菫と、大胆不敵な発言のようにも聞こえなくないが、その実誰より逸早く帰りたいと考えているにとりにも豊姫は微笑みを与えて、扇子を飛ばしてくれた暗殺者に顔を戻す。そしてその隣に立つ仙人の元へ。一度言ったと口を噤む菖に肩を竦め、華扇が組んでいた腕を解く。
「仙人、茨木華扇」
「そう、それで全員ね、あと一人教えてくれないかしら。私たちを引きずり出してくれた者の名を。貴方たちと遊んでいたら妹が先に殺してしまうかもしれないから。それともそれは八雲紫?」
笑う豊姫の姿に、誰より早く菖が鋭い目を返した。豊姫の妹、依姫なら菖も知っている。月の都で一度見た武神の姿。真正面から殺り合えば、どちらが死ぬことになるか嫌でも菖は理解した。単純な武の競り合いなら、平城十傑であろうと単身では敵わない。豊姫の到来は依姫の到来。それに眉を寄せながらも、豊姫に親友たちの名を聞き逃すことがないように叩きつけた。
「一人ではなく二人だ月の使者。平城十傑、黴家第百六十四代目当主 黴藤。同じく平城十傑、唐橋家第八十一代目当主 唐橋櫟」
平城十傑。何度も出て来るその俗称に豊姫は静かに目を瞑った。ある意味スキマ妖怪に一杯食わされるよりも煩わしい。人間の、それも外の世界の人間の智慧で引き摺り出された。それがどうにも豊姫の心を揺さ振る。
薄く笑みを浮かべて周りを取り囲む地上の者の顔を忘れぬように、豊姫は今一度その並んだ顔を脳に焼き付ける。顔と名を違えぬように頭の中で名を口遊みながら。足を止め、そして返すは己の名。地上の者が死の瞬間まで忘れぬように、この刹那をせめて長く感じるように。
「月の使者が一人、綿月豊姫。地と月を繋ぐ唯一の使者。この名を胸に刻みなさい」
名には名を。
お互いの名を噛み締めて、飲み込む間も無く暗殺者が動いた。
平城十傑として正々堂々と相対してはいても、菖の本質は暗殺者。必要なことが終わればもう刃を抜く以外にすべきことは何もない。豊姫の言葉の終わりと同時に足を広げ西洋剣の鍔に手を添えれば、射出準備はすぐに整う。空気の層に穴を開ける音の速度を超えた剣針をゆったりと豊姫は眺めたまま、その豊姫の体がくにゃりと揺れた。
直線で突き刺さる空気の棘に押し退けられるように、その隙間へと豊姫の身が滑る。小さく菖の瞳孔が開き、その右手の速度が上がる。響き続ける鍔の音をBGMとするように、豊姫は降り掛かる空の針の雨の中ひらりひらりと舞い踊った。
擦り抜けているように豊姫の背後に蜂の巣のような穴が空いた。飛び散る岩肌の破片は次第に細かく砕けていき、轟音と共に大きな破片が一つ混じる。豊姫の背後ではなく豊姫の前方。針の雨はいつの間にか止み、鍔のかち鳴る残響を、仙人の震脚が蹴り飛ばす。鬼と見間違うような仙人の踏み込みは、一瞬で月の使者との距離を潰し包帯に包まれてはいない左腕が撃ち込まれる。
空気の層を力尽くでカチ割る華扇の左腕の一撃が豊姫の体に沈み込んだ。
──ぼふんっ。
その音の力の無さに華扇は大きく目を見開いた。菖よりなおも柔らかく、薄手のシルクに手を落としたような感触。華扇の力を完全に受け流し、追撃の一撃を打ち込むようなこともなく豊姫はただ背中を押すように華扇を背後へと押し出した。
華扇に当たると固まった菖の代わりに、別の方向から豊姫に鉄礫が撃ち込まれる。キリキリと歯車の音を上げ菫の背と前腕の内部から四つの鉄筒が顔を出した。歯車の振動を含んだ鉄礫は、螺旋によって空気を裂き、振動によって衝突したものを砕く。それに合わせてにとりの背の鞄から伸びたロボットアームが、水の銃弾を共に吐いた。鉄礫の螺旋が水の銃弾を引っ張るように迫る武器の壁。
それに小さく笑いながら豊姫は舞う動きを変える。螺旋に合わせて踊るようにくるりくるりと身を回して、身を穿つはずの鉄礫を背後に流す。振動と水に服を破れさせながらその身には全く傷を付けず、豊姫はただ踊りを続ける。その妙技に菖も葉扇も菫もにとりもついつい目を奪われた。
豊姫は戦闘者ではない。
ただ優れた踊り手である。
浦島太郎が迷い込んだという竜宮城、そこで最高の踊り手であった乙姫の如く。武を豊姫の妹依姫は極めた。師、八意永琳よりも優れた剣技。最高の武人がいるからこそ、姉、豊姫は安心して芸に手を出せた。永遠を埋めるために月の娯楽は発展していると言える。ただそれは踊りや音楽などの類のこと。それを千年以上嗜み、また才ある豊姫の踊りもまた一つの極致である。妹が武の極致なら、姉は芸の極致。極限に至った技術はどんなものであろうとも、無限の可能性を見せてくれる。
空を裂く刃の音も、大地を抉る足音も、血が噴き出す流血音も、荒い息も浅い息も、早い鼓動遅い鼓動、悲鳴、絶叫全てが音楽。で、あればこそ豊姫はそれに乗り踊れる。どんな色にも豊姫は乗れる。
その動きを目で追って、盗賊がその動きを盗む。違う動きで避けられても、同じ動きなら当たらぬものも当たるようになる。自分の動きと呼吸を合わす人間に驚き目を瞬いた豊姫の顔に歯を見せて、豊姫に向けて椹は扇子を広げた。
月の兵器。踊り手である豊姫に合わせられたが故にその形。穢れを祓う扇子の風は月人に効果が薄く、その一撃で消え去るようなことはない。が、それを向けられるのは面白くないと豊姫はくすりと小さな笑い声を上げて手を叩いた。
人のような大きなものを送るのは今は不可能。また視界よりも遠くへ運ぶのも難しい。だが長年愛用している小さな扇子一つなら、手の中に呼び込むことくらいは未だ造作もない。人に妖に能力を制限されようと月と地上を繋ぐ唯一の月の姫、その能力は甘くなく、豊姫の合わせた手が離れたその間に、見慣れた扇子がふわりと落ちた。盗賊の手から一瞬で奪われた月の扇子に誰もが口を開き叫ぶ。
その言葉はどれもが同じ。
「避けろ!!!!」
緩りと回り振るった扇子の凪いだ風が、豊姫を中心に逆巻いた。豊姫と同じく柔らかに流れた風は、その柔らかさとは裏腹に絶対の牙となって全てを喰い千切る。地に生えた雑草一本に至るまで、元の姿も分からぬほどに細かく崩して風と共に無に運ぶ。
パチリッ、と扇子を閉じて豊姫が吐くのは感嘆の息。人妖の上げた叫び声に呼応して躊躇なく逃げの一手を打った者たちが、一人も消え去ることなく未だ視界に留まっている。
「菖! 貴女腕が!」
「お頭‼︎」
「す、菫⁉︎ な、なんで‼︎」
菖の左側面が削り取られる。腕一本と西洋剣の鞘を二度と届かぬ場所へと運ばれた。ゆらりと揺れた菖の体を華扇が支え、菖は痛み無く消え去った左腕に目を向けて、噴き出す血を右の服の袖を噛み千切ると急いで肩口を縛り上げた。
こいしとフランドールを抱えて右足一本が消し飛んだ椹。にとりを庇い下半身が完全に消え歯車が見えている菫。その二人を一瞥し、菖は歯を食い縛り、右手に持った西洋剣を肘を曲げて豊姫へと剣の切っ先を向けた。絵に描いたような西洋剣の構え。華扇も椹も菫も見たことない居合ではない形に疑問を持つも、菖だって居合しかできないわけではない。休む事なく足を出し、右手の刃を前に出す。
「まだ続けますの? 元気ね菖」
「まだ腕一本! 足は動く! ならばやめる道理はない!」
居合ほどの速度はなくても、突きの速さならば日本刀よりも速い。相手の動きを制限するように振るわれる剣技は見事だが、最速の居合を避けた豊姫には当たらず、ひらりと避けた豊姫に閉じた扇子で左腕の断面を叩かれる。その痛みに顔を歪めるも、呻くことすらなく菖の動きは止まらない。
菖に笑顔を向ける豊姫の視界に人影が増えた。誰が来たのか目を動かした豊姫は飛び込んで来た人物を見て口角をなお上げる。
「貴方足がないのに来たの?」
「たかが足一本よ! 両手が空いてりゃオレには関係ねえ! オレから奪ったこと後悔しろ!」
豊姫の柔らかな動きが二つに増える。足一本を失ってなおその身体能力は健在。伸ばされた盗賊の拳が豊姫の頬を擦り、僅かに崩れた豊姫の動きを刺すように菖の刃が伸ばされる。それを扇子の先で受け止めるも威力を殺すことは叶わず。大地を転がった豊姫は、頭から落ちた帽子も気にせず立ち上がり向かってくる人間二人に微笑む。
第一次月面戦争は依姫がただ武力で潰した。第二次月面戦争は豊姫も動いたが、なんら遊びと変わらない。
だが今回は違う。
豊姫も戦場を踏んでいる。
昔から豊姫の役割は、その能力が故に後方支援。誰々をどこに送れ、アレをあっちにこれをそっちに。誰かが攻めて来たところで、優秀な妹に誰も勝てず豊姫まで届かない。そして繰り返される退屈な仕事。送り迎えた玉兎などは、地上でアレをこうしたなどと楽し気な話を聞かせてくれるが、豊姫はそんな話をいつも聞くだけだ。
第二次月面戦争で八雲紫と対面した時も、ようやくなにかできる機会がやって来たかと想って期待してみれば、目の前で地に額を擦る始末。それがどれだけ退屈だったか。追い返すのが仕事故に、喧嘩を売って豊姫の方から火を起こすこともできない。
そしてようやく機会を得た。
豊姫の師である八意永琳も、妹である依姫も、月の神である月夜見も、その姉である天照も、誰かに聞かせ自慢するだけの心踊る話がある。豊姫が嫌いな嫦娥でさえ純狐という宿敵がいる。豊姫には誰もいない。だから八雲紫こそ宿敵だと思っていたのに、やって来たスキマ妖怪と戦わず土下座させた、ただ酒瓶一本取られたなんて自慢できるようなものでもない。
それがようやく覆る。
現れたのは平城十傑。
それが宿敵の名前。
宿敵らしく、腕を失おうと足を失おうと突っ込んで来る。それがとても喜ばしい。豊姫が望んだ敵の姿。隙を埋めるために芸を嗜むこともない。宿敵を倒し、豊姫が誰にでも語れる英雄譚を描くため、豊姫も迫る宿敵に突っ込んだ。
「さあ来なさい人間たち! 私の元へ!」
豊姫の動きをトレースする椹。豊姫の動きを乱し、その間を菖が埋めてくる。肌に赤い線を引く菖の刃に豊姫は笑みを深め、伸びて来た椹の腕をくぐり抜け残った盗賊の足を払う。足一本分トレース不可能な動きの隙で一歩豊姫が先を行く。振るわれた菖の一撃を問題なく避け体を寄せて動きに巻き込み地に転がす。
「もう終わり?」
下から伸びて来る椹の腕を残念そうに眺めながら余裕を持って避けた豊姫の顔が驚きに変わった。芸は超一流でも絶対的に豊姫は戦闘経験が足りていない。伸ばされた盗賊の腕は豊姫を狙ったものにあらず、椹が掴むは暗殺者。豊姫の動きに沿わせるように動かされた菖の刃が、豊姫の喉に向かって伸びた。
──避けられない‼︎
迫る死に豊姫の意識が働かない。
突き出された菖の腕が伸び切って刃が豊姫の髪を喰い千切る。
ズリィ、と滑るような音。菖が足を踏み込んだ音でも、椹が地に転がった音でもない。菖の刃は豊姫の頭上を通り過ぎ不発に終わった。地に転がっていた豊姫の帽子を豊姫が踏み付け足が滑った。
運がいい。
幸運に喜ぶべきか、豊姫は引かれ曲がっていく菖の腕を目で追って、慌てて椹と菖の間に滑り込むと二人を少し遠くに弾き飛ばした。そして広げるのは月の扇子。その姿に平城十傑は目を細め、妖怪たちは肩を跳ねる。
その違いを見て僅かに豊姫は落胆した。菖と椹と違い、乱戦の中飛び込んで来なかった妖怪たち。それは豊姫の扇子を恐れてのこと。勿論平城十傑もそうだが、存在がより穢れに近い妖怪の方が、なんの感情もなくただ相手を無に帰す扇子を恐れている。その姿に落胆のため息を零しながら、一番初めに邪魔な暗殺者を消そうと菖の方へと豊姫は振り向いた。適当に扇いではまた避けられる可能性がある。故に扇子の先の相手を絞る。体の正面を向けて扇子を構えた豊姫の姿に、菖は弱々しく歯を食い縛った。
────あぁ、死ぬな。
長らく死と隣り合って来た菖だから誰より早く理解した。避けられない死だ。どう動こうと、誰が助けに飛び込んで来ようと自分は死ぬだろうという確信。そんな中で想うのは、藤や櫟の姿ではなく、離れたところにいる他の六人は大丈夫そうだという安堵。走馬灯すら浮かばない己が内に、ふと菖の口が弧を描く。
自分はなにができただろうか。
ただ玉兎たちを死に向かわせただけ。藤や櫟の力にはなれたか。不安は尽きない。自分が何か残せたのかそれだけが不安で堪らない。
走馬灯は見えずとも、脳内で暴れる生存本能が菖の意識を加速させ目に映る景色を緩やかなものにした。スローモーションの景色の中、目に映るのは豊姫の姿。それが菖の死神。こんな美人な死神に殺されるなら悪くもないかと自嘲する菖の中で意識した死が菖の意識を弾く。
そんな死を友に向かわせていいのか?
ここで死ねば先を見ることはない。
だが、豊姫という死が友の元へ向かうかもしれない可能性。
それが菖の内に火を灯す。
それは嫌だ。それだけは嫌だ!
ここで何かしなければ死んでも死に切れない。
だからなにか。
少しでもなにか。
なにか。
なにか‼︎
極限の状況で、菖の体は無意識に最も形にして来た形をとる。坊門が誇る居合の形。右手に持った刃を左の腰に差し向けたものの、鞘は既になく、あったとしても狙いをつける左腕はない。
なにしてるんだ。と、小さく呆れて笑う菖の笑みがふと引っ張られる。
笑みを消した菖が左の腰へと目を落とせば、刃を掴む腕がある。鞘の代わりと言うように細い刃を掴む包帯だらけの右腕が菖の刃を掴んでいる。
前に顔を向けた菖の視界に映る前垂れへと右手を差し込んだ仙人の姿。穢れを祓う扇子に強く本能が警鐘を鳴らし脂汗を浮かべる中で、再度右腕が犠牲になると分かっていながら力を貸してくれる仙人に菖は心の底から感謝した。
その感謝に報いるために、ここで豊姫を必ず倒すための一手を穿つ。
自分はもう駄目だろうが、それでも残った者のためになるように。
「華扇、輝夜……、藤、櫟…………達者でなっ」
菖と豊姫の動きは同時。
緩やかな風が菖を包む。
豊姫の頬を擦って開いた穴が魔法の森へと消えていくのを豊姫は見送り、姿の消えた暗殺者に豊姫は小さく息を吐いた。
そして振り返る先は片足で立ち上がっている盗賊。
再び扇子を構えた豊姫を見て、椹は深く笑みを浮かべ両手を軽く握る。
「貴方もまだやる気なんですか。平城十傑の一人が今消えたというのに」
「……ああ、想像以上に今苛ついててオレも驚いてるよ。菖の姉御は、オレが一番苦手な命を奪うのが得意なやつでさ。どうせやるならこれが最初で最後の比べる機会だって思ってたんだがよ……まあそりゃあの世で続きをやるさ。菖の姉御と同じようにオレがテメエの命を奪う」
「私の命? ……はて、菖は失敗したでしょう? それに貴方も失敗するわ、ねえ!」
振られる扇子の動きに合わせて、椹は両腕を前に出し強く空間を捻った。掻き混ぜられた空間は緩く全てを包み込む扇子の風を散らすが、前に手を出す椹の腕は別だ。右の指先が塵と化すのを睨み、椹は右へと風をいなして腕一本犠牲にする代わりに左腕を残す。また一つ四肢を失い倒れた椹を次こそ消すため豊姫は扇子を構えるが、その前に二つの影が割り込む。
「待ってお願い! 椹を消さないで! お願いだから!」
「壊さないでくれたらなんだってするわ! だから……椹だけは!」
無意識と破壊が堪らず飛び出した。穢れを祓う扇子より、なお怖いものがそこにあるから。
無意識を掴んでくれた人がいる。
狂気を掴んでくれた人がいる。
これまで誰も手に取ってくれなかったものを手に取ってくれた男。
それを失いたくないから。
覚の涙と吸血鬼の涙を目に留めて、豊姫は扇子を閉じるとポンと手に落とした。
「泣けば全てが許されるなどということはありません。これは戦いなのですよ?」
「わ、分かってるけど……でも……」
「お願い、お願いします。やだやだやだやだ!」
顔を俯かせるこいしと、頭をがりがりと掻き血を垂らすフランドール。妖怪がこれほど人間を気にするかと思案して、「人へのものの頼み方があるでしょう?」と妖しく豊姫は笑う。頭を垂れろ。頭を地に落とせ。八雲紫が言っていた、頭を地に落とすのは死んだ時だけ。だから額を地に着けろ。そう言う豊姫の言葉に膝を折った二人の少女の背に、笑った盗賊が寄りかかった。
「フラン、こいし、やめろ」
「で、でも椹!」
「こうしなきゃ椹が壊されちゃう! それだけはイヤだ‼︎」
「いいからやめろ。じゃなきゃテメエらクビだ」
笑みを消した聞いたことのない椹の低い声にフランドールとこいしの動きが止まった。そんな三人を見て、豊姫はつまらなそうに口を尖らす。
「やめろって、貴方死にたいの? 二人が頭を下げるなら本当に見逃してあげてもいいけど?」
「な、なら‼︎」
「だからやめろって言ってんだろうが!!!!」
牙を剥いた椹の声は死に掛けの人のそれではない。覚と吸血鬼の肩を大きく跳ねさせて、どんどん力の抜けていく椹の鼓動に少女二人が泣きながら盗賊の身を支えた。
「オレたちは盗賊だぜ、なあ。慈悲だのなんだの言って上から捨てるように零されたものは受け取んじゃねえ。それも自分を捨ててはダメだ。絶対ダメだ。盗賊なら自分から掴まなきゃあよ……。フランとこいしなら絶対大丈夫だ。なんたってこの天下の大盗賊の初めての子分だぜ。こいし、お前が本気になれば誰の心だって絶対盗めるぜ。フラン、お前が本気になれば、破壊以外のものがなんだってその手に掴める。信じろオレを。他でもねえオレが言うんだぜ。信じろ。それが盗賊の心得その五かや」
「お頭……」
「椹……」
「はあ、悲劇ねつまらないわ。向かってくるのをやめるならもうお終いよ」
豊姫が扇子を広げて緩く扇ぐ。
それを目に笑うと椹は残った左腕でこいしとフランを背後に放り前へと手を伸ばした。空間を捻り後ろにだけは風がいかないようにその身に受けて。
背に掛かる少女二人の叫びに椹は笑みを返す。
自分よりも優秀だろう子分たちに。
奪ってばかりの人生だった。
だが月相手にこれだけ多くの者と同じものを奪おうなんていうのは初めてで、幻想郷に来てから椹は奪われてばかりだ。
そんな椹から初めて孤独を奪った二人ならなんだってできるとただ信じて。
平城十傑とは違う仲間の形。
それが何より嬉しいから、椹は自分が持つ最高の宝を奪わせない。
ふわりと気づけばそこに居るような盗賊は、同じくふわりと消えてしまう。
消え去った二人目の宿敵を惜しみながら、豊姫は周りを今一度見回す。
ただでさえ繋がりの薄かった右手を吹き飛ばされ、その痛みに顔を歪め膝をついた仙人。呆然と突っ立っている覚と吸血鬼。壊れかけている絡繰を治すためかかちゃかちゃと手を動かしている河童。十分にも満たない戦闘で随分と様変わりした光景に、これが勝利か。と豊姫は肩透かしを食らった気分だ。
菖と椹との戦いは心を揺さぶられたが、得られたのはそれだけ。戦闘経験がなさすぎて、良し悪しの判断もつけ辛い。ため息を零し向かって来る者もいないならと場を後にしようと足を出した豊姫の視界の端で揺れる人影。突っ込んできた影の動きに合わせてひらりと踊り、人影の勢いを殺し対面する。
「あぁ、今更動くのですか仙人さん。いえ、鬼だったのね」
「私は茨木華扇、それだけでいい、種族などどうでも。貴女をここから先にやるわけにはいかない」
「たかが一つの扇子を恐れ動けなかった妖怪が何を言うの? 貴方たちの賢者八雲紫さえこの扇子を恐れ戦わず頭を垂れた」
シニョンキャップが外れ角を隠すことなく豊姫に突き付ける華扇の姿に呆れたように広げた扇子の先を向ける。脂汗を垂らしながらも華扇は薄く笑い、退く気はないと足を踏ん張り大地にヒビを走らせる。残った左手の指を扇子へと突き付けて。
「それはもうこの場では使えないのでは?」
華扇の笑みに小さく豊姫は眉を寄せた。図星。強度の落ちた博麗大結界。同じ場所で何度も扇子を振るっては穴が空いてしまう。使えないということはないが、この場ではあと煽げて一回がいいところ。それを分かっていると笑う鬼に向かって、豊姫は強く扇子を閉じ音を響かせる。
「──扇子が使えないと分かれば立ちはだかると。臆病者の発想ですね、勇ましいと讃えられる鬼が落ちたものだ」
「なんとでも。だがここから貴女は逃がさない。……友が命を賭けたのだから」
菖の最後の一撃。外れたわけでも外したわけでもないはずだ。冷徹な暗殺者が命を賭して放った一撃を外すわけがない。ならば必ず意味がある。それが何か華扇には分からないが、菖が刃を抜いたならここで仕留めると決めているはず。だから華扇は今立ちはだかる。
左拳を軽く振り骨を鳴らす鬼を見てため息を吐くと豊姫もゆるりと閉じた扇子を構える。
大地を砕き迫る華扇から目を外さず、豊姫はその力に乗る。多対一でも舞えた豊姫が、一対一で舞えぬ道理はない。技を極めた菖や椹の方が相手としては鬱陶しく、ただ力が強かろうと動きが粗雑なものならばより楽に避けられるというもの。振り回される力の流れは、更に腕一本分の隙があり、その隙を埋めるように華扇の体に豊姫は閉じた扇子を打ち付ける。
扇がずとも穢れを祓うために作られた兵器。より穢れに近い妖怪であればこそ、その影響を強く受ける。鬼の鋼の肉体など関係ないと骨にヒビを入れる扇子の衝撃に顔を歪めながら、それでも華扇は引かない。地を砕く足を出し続け、豊姫に向かい残った左腕を振るう。
(しつこい……)
ぐだぐだぐだぐだ勝利がどちらのものとなるか聡明と見える鬼が分からぬわけがなかろうに、負けると分かっていながらなぜ続けるのか。勝利を得るなら華々しく。まるで寝物語のように。菖と椹は良かったが、こんな泥々とした勝利を豊姫は望まない。右腕の隙に潜り込み、強く華扇の右足に向かい扇子を振るった。枝を折るような音に華扇の右膝が崩れるが、それでもなお鬼の拳が振るわれた。
「……しつこいですね貴方、なぜ拳を握る? 何故まだ立とうとするの? 勝てぬと分からぬ者ではないはずだ」
「それが勝利に繋がると信じるが故。くくっ、お前は戦いがどういうものか分かっていないらしい。踊りと戦いは違う。それは優雅さとは対極のもの。それがお前の敗因だ綿月豊姫!」
「ッ! 戯言をっ‼︎」
強く振られた扇子の一撃に頭を跳ね上げられて華扇は地に転がった。ヒビの入った角を持ち上げることなく動かない鬼が勝利を吠える意味が豊姫には分からない。予想は予想の通り豊姫の勝利。なのに何故華扇は笑みを浮かべたまま倒れているのか。その笑みが腹立たしい。頭を踏み砕いてやろうと足を出す豊姫の前に七色の宝石が揺れた。
「ッ、泣き喚いてた吸血鬼が! 貴様も今更立ちはだかるか!」
涙の跡を拭うことなく、小さな狂気が揺れている。ゆっくりと手を握り締めてフランドールが拳を構えた。形を見れば豊姫には分かる。華扇よりもなお雑な構え。その瞬間にどちらが勝つかは予想できた。だからこそ、よりそれが腹立たしい。歪んだ豊姫の顔をフランドールは睨みつけ、握る拳に『目』は握らない。ただ自分の想いを握る。
「……おまえの『目』なんていらない。よくも私が壊せなかったものを私より早く壊したなっ! この手でおまえの勝利を奪ってやる‼︎」
「吐かせ妖怪風情が!」
突っ込んでくる狂気の煌めきも所詮は鬼と同じ。吸血鬼の方が鬼より速さで勝ろうと、一対一なら関係ない。雑な吸血鬼の動きに舌を打ちつつ、無防備な小さい頭目掛けて豊姫は扇子を横薙ぎに振るった。
「フランちゃんしゃがんで‼︎」
鋭く差し込まれたこいしの指示を疑うこともなくフランドールは実行する。虚空を薙いだ扇子に豊姫は目を見開いて、遠く座り込んでいる覚を睨んだ。
ぽたぽたと垂れた三つ目の瞳の涙が、その瞼を優しく押し上げる。
僅かに開いたその隙間から瞳を覗かせ、ただじっと豊姫の姿を追った。
慣れない見たくもない相手の心を覗き、膝が言うことを聞かなくてもこいしはその場を動かずただ豊姫の心を奪う。
「フランちゃん右! 屈んで! 左足を一歩前! 二歩下がって!」
「貴様らッ‼︎」
こいしの絶え間ない指示に、吸血鬼の聴覚と身体能力で無理矢理合わせフランドールが揺れ動く。豊姫の動きを直接覗き先読みされる鬱陶しさに豊姫は歯噛みするが、予想される結果は変わらず。すぐに得られるだろう勝利が伸びただけ。その証拠に一瞬一瞬身を削られてゆくフランドールは血を振り撒き、次第に動きは精彩を欠く。
なぜ続ける?
なぜまだ戦う?
結果は変わらないのになぜ意地汚く勝利を汚す。
心の乱れは動きの乱れ。
誰にも見られないはずの心は、ただ一人の少女には奪われる。
「フランちゃん今! 掴んでぇ‼︎」
「うわぁぁぁぁ!!!!」
扇子の下を潜り抜けて小さな腕が伸ばされる。すぐに身を捻り返した豊姫の蹴りに弾かれてフランドールはこいしを巻き込み転がった。心を盗まれようと負けはない。
笑みを浮かべる豊姫に二つの笑みが返される。
小さな吸血鬼が掲げた手に掴まれている光る箱。
結界装置の箱を見事盗み取った盗賊の笑みに豊姫の笑みが握り潰される。
「──キュっとしてどかーん」
「このッ! 穢れどもが‼︎ 私の邪魔ばかり!!」
フランドールに握り潰された箱を見て面白いように豊姫の顔が歪む。けたけた笑う二人の少女に青筋を立てて、迷いなく月の扇子を広げ腕を伸ばす。だが、少女二人を睨む豊姫の視界から少女の姿が掻き消えた。
フランとこいしが動いたわけではない。ただ豊姫の視界が光に塗り潰される。魔法の森から豊姫目掛けて魔力の大河が放たれる。
その根元、いつも顔の横で揺らしている金色の三つ編みを暗殺者の針に食い千切られた魔法使いが、強く歯を食い縛っていた。どこからか飛んで来た暗殺者の針は、それに腕を穿たれたこそ魔理沙はよく知っている。その死の気配に意識を手繰り寄せられて魔法使いの目が月人を捉えた。
ならば魔理沙のすべき事はただ一つ。いつも最後は理不尽さえ打ち払って来た自慢の巨砲を放つのみ。当たらなければ意味がないなら当てれば済むだけのこと。
迫る魔力の輝きに強く顔を歪めて豊姫が魔力の大河に向き直る。避ける暇も盗賊たちを気にする余裕もない。ただ迫る敗北の光を追いやる為に扇子を振るう。その豊姫の膝が扇子を構えたまま地に落ちた。強く大地を凹ませて。
「流石やにとりちゃん、幻想郷一の技術屋やね」
「へへっ、ま、まあね」
「きっさまらぁぁぁぁ!!!!」
「ひゅい⁉︎」
豊姫の身に降り掛かる重力。加重銃の機構を用いての即興の改造。加工は菫が、組み立てはにとりが。簡易故にその動力を菫が賄っての即興兵器。胸に妖しげな光を灯して手を差し向けて来る絡繰を睨み、それでもなお豊姫は重い体をなんとか動かす。
「うそだろ──ッ‼︎」
八卦炉を構えたまま、魔理沙の頬に汗が伝う。振り切られていない僅かな豊姫の扇子の風に、光の川が削られる。進む先から消失していく魔力の閃光が途切れてしまわぬように、あらん限りの魔力を総動員して小さな八卦炉を掴み足を踏ん張る。ここで仕留められなければどうなるか。そんなことは魔理沙も分かっている。光の影に転がっている血濡れの華扇とフランドールとこいしの姿が、敵の脅威を教えていた。
だから魔理沙がすることはただ一つ。
今ここで月の使者を仕留めること。
魔法使いの嬢ちゃんが必要になる時が来るさと笑って言った男の言う通り、今がその時だと歯を噛み締め。
霊夢のような才能はない。
咲夜のように器用でもない。
妖夢のように技に長けているわけでもなく、
早苗のような神秘性も、
魔法使いとしても半人前。
それでもやらなければならない時は分かる。
弾幕はパワー。単純なただそれだけは一番になってやると、霊夢に並ぶためにコツコツ磨いて来た魔理沙だけの大砲。全身全霊で魔力を注ぐその一撃を、一扇ぎにも満たない扇子の一撃に相殺されている。
「くそっ! ……私には無理なのか? 」
魔力に震える八卦炉の照準がズレないように両手で八卦炉を押さえ込み踏ん張ったまま動けない。
これが本当に精一杯。
強く目を瞑った魔理沙の周りに見知った魔力が静かに降り立つ。
火水木金土日月、自然的な色。
どこまでも精密な糸を張ったような繊細な色。
白い中に妖しい輝きを隠した色。
小さくも純粋な濃い生命の色。
いずれも方向性は違くても己の色を秘めた魔力の色。その色の輝きを見たいがために魔理沙の眼は開かれる。
「全くこんなに無駄に魔力を垂れ流して、見つけて下さいと言わんばかりね」
「戦争なんて興味もないのに家が火事になれば動かないわけにもいかない、さっさと終わらせるとしましょうか」
「正道だと信じるなら俯いてはなりません。これは恥ではありませんよ」
「これも衆生の救済のため。力を貸すわ魔法人間」
喉から零そうとした魔理沙の声は急激に膨れ上がった魔力に塞き止められる。霧雨魔理沙、パチュリー=ノーレッジ、アリス=マーガトロイド、聖白蓮、矢田寺成美。星を描く五つの頂点が揃う。色の異なる五色の魔法使いが、己の色を混ぜ合わせ魔力を紡いだ。数多の色を混ぜ合わせ白く輝いた魔力が魔理沙に収束し、その膨大な魔力に目を顰める。
「ぐぅっ⁉︎」
力が膨大すぎて吐き出せない。人の身に引っ掛かった魔力の結晶が内から魔理沙を焼いていく。魔力のバランスが崩れないように他の四人も動けない中、魔理沙の背後から影が伸びた。秋だというのに魔法の森の緑で染めたような深緑の髪が魔理沙の視界の端に流れる。
「み、魅魔様!」
「悪霊を誘うなんて酷い人間の男もいるもんだと思わないかい魔理沙。前だけ向いてな、背は押してやるよ」
黒が白を優しく押し出し、極光が極光を塗り潰した。光の線を光が追う。何十倍にも膨れ上がった魔力の瞬きに吹き飛ばされそうになる魔理沙の体を悪霊が悪霊らしからぬ柔らかさで受け止めて、光の向かう先を決して違えぬように魔理沙の手の甲に手のひらが重ねられる。
「マスタァァスパァァァァクッ!!!!」
白い閃光が世界を両断する。視界を塗り潰す魔力の白光に大きく目を見開く豊姫の頭の中を短い言葉が占領する。
敗北。
その短くも決定的な言葉が、胸の内から喉を伝い競り上がり、大きな叫びとなって豊姫の腕を動かした。
「イヤだ!!!!」
負けたくない。
ずっと望んで来た瞬間なのに。
高天原で神と戦った天照たち。
月面戦争で勝利を掴んだ依姫。
誰もが自信と輝きに溢れているのは勝ったからだ。
勝ったから。
目に分かる形で自分たちの力をぶつけ合い勝ったから。
負けては何にもならない。
初めて全てをぶつけ合い、それで負けるなど死んでも嫌だ。
それで負けてしまったらお前はちっぽけだと言われるようで。
幸運、運だけでここにいると思いたくない。
師である八意永琳のように、妹の依姫と同じように、
豊姫だからそこにいるんだと言いたいから。
だから豊姫は、
「負けたくないっ‼︎」
骨が折れるのも構わず豊姫は腕を振る。この一瞬を凌いでも負けるかもしれない。それでも、目前に迫る地上の輝きには負けたくない。
少しづつ動いてゆく豊姫の腕を見つめ、「ああダメや」と呟くのは壊れかけの絡繰人間。自分を支えてくれる河童の技術屋の顔を下から見つめて小さく笑った。
「にとりちゃん、他の子たちのこと頼むな」
「……え?」
「こういう時こそ武器の出番や」
菫の背から伸びた腕がにとりを引っ掴み投げる。もう一本の腕は勝利を掴むため。大きく菫は身を跳ねさせて、光の壁と対面する豊姫の元へ飛ぶ。少し呆れて笑いながら、菫は己が名を呼ぶ河童がロボットアームを伸ばして三人を引っ張るのを目に止めると視線を切った。
「ありがとな、にとりちゃん。イト切れたわ」
誰かの為に命を捨てるなんて馬鹿げたことを機械ができようか。自分で自分のイトを繰り、菫は豊姫の長い髪を引くように勢いを止めた。豊姫が何度も扇子を振った場にこんな極光が通り抜け結界にでも当たれば幻想郷の最後。後先考えない無鉄砲さは正に人のそれだと、同じ人間に大きく笑い、にとりが最後に菫にくれた加重装置の光を強める。それを輝かせるものこそ菫の心。
「月の技術は凄いなぁ、落ちる方向変えられるなんて。僕ら目掛けて落ちて来る光。消せるもんなら消してみい」
「ふざけ、イヤだ、私は‼︎」
「僕らの勝ちや」
白い閃光が菫に落ちる。突き抜けるはずの魔力の奔流は、菫を中心に満月のように膨れ上がった。妖怪の山を消し飛ばしゆっくり広がった魔力の恒星は、次第に収縮し幻のように消えてしまう。
ぽっかり空いた妖怪の山跡の大穴の淵で三人の少女を下ろしへなへなとにとりは膝を折った。
同じように光が消えたと同時に転がるのは魔法使い。誰も魔力を絞り尽くし、干からびた体を落ち葉の上に落とす。夢だったのか魔理沙を支えていた悪霊の姿はどこにもなく、ただ手のひらに残った熱を魔理沙は握り、とんがり帽子で顔を覆う。
「To say Good bye is to die a little. *1だからさよならは言わないぜ……またいつか……」
薄れていく意識の中、魔理沙はただ暖かさを握り締める。
目が覚めたらきっと明日が来るから。