月軍死すべし   作:生崎

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月軍死すべし ⑨ 月夜見 参

 世界に生命の息吹が返ってくる。

 偽りの幻想郷の姿は消え、いつも通りの世界に戻る。

 

 ──ただし大量の死体を携えて。

 

 秋の清々しい空気に突如混じった生々しい匂い。遠く灯りの灯った人里から流れてくる多くの悲鳴を聞き流しながら、霊夢と楠は月の神から目を離さない。呼吸は浅く、瞬きはせず、肩に置いたお祓い棒で霊夢は肩を小突いてリズムを取り、楠は短い大太刀を両手で握りゆらりと揺らす。強く足は蹴り出さず、擦るように動かしながら月夜見を中心に二人で挟んだ。

 

 少女と少年の顔を見比べて、月夜見は小さく息を零すと目を瞑る。自らに向けられた視線と気配を探るように、差し向けられる気に意識を繋いだ。

 

 凍てつく冬のような鋭さを持った刃の気と、どこまでも透明な呼吸をするのも憚られる霊気。

 

 どちらも手に取ることが難しい透明度の高い二色に、月夜見は顔には出さず切歯扼腕する。八雲紫、蓬莱山輝夜、平常十傑、幻想郷が送り込んできた人ふたり。多くの人妖が立ちはだかってきた中で、おそらく最後だと見える人間たち。時間を稼ぎ、満を持しただけはあると、忌々しくも嬉しく思い一人納得した。

 

 これまでの者たちとは空気が違う。掴み所がなく妖しい瘴霧のような空気を纏っていた藤や、微動だにブレない六方晶金剛石(ロンズデーライト)のような気を放っていた梓、月夜見の前に立った者で特に独特だったのはこの二人。その二人と同等以上であり、より手に取れない気配なのに確固とした形がある。そして静かだ。

 

 霊夢も楠もただ今に没頭し、目に映る月夜見だけに全てを向けている。呼吸を月夜見に合わせ、一足一挙動を見逃さない。勝利や未来など、先を見据えず今だけを見る人間二人に声を掛けることさえ憚られ、月夜見は小さく微笑んだ。余計な雑念のない視線は、一種の信仰とも言える。人智を超えた異様な集中力を可能とするものがなんであるのか、歩んできた人生か、力か、才能か、背負うものか、あるいはそれら全てか。いずれにしろ、敵意や畏れもない純粋な人間たちに言葉は不要と言うように、初めて月夜見は構えを取る。

 

 ただ緩りと両腕を軽く広げたそれだけで、一気に空気が張り詰めた。拳は握らず、手を開き指を揃えた手刀。その形は人が鍛えたどんな名刀よりも鋭い。万象を返す月夜見の手に弾けぬものはなく、一度振るわれれば、世界を断つ境界線すら両断する。派手さはないが、静かな必殺を孕む姿に、霊夢と楠は細く息を吐いた。

 

 目を閉じ腕を広げ立つだけの月夜見を前に動けない。恐怖で足がすくんだわけでは勿論ない。顔を動かさず、瞼もあげない月夜見だが、霊夢も楠も確かにじっとりと全身を舐め回すような視線を感じた。月夜見は月で場を見ている。夜空に輝く満月が瞳となり、片方しか見れぬなど勿体無いと、天から同時に二人を見る。胸の内の鼓動さえ見透かすような視線を受けて、僅かに楠は足を前へと滑らせるものの一歩を踏めない。

 

 音もなく静かに息を吸い吐く二人の人間と神の姿は、絵物語に一幕を切り取ったように動かず、離れたところだ窺う第三者の目を釘付けにさせる。動き出せばどうなるのかがまるで見えない。ただ一人大地からそれをのぞむ輝夜の呼吸だけが荒くなり、張り詰められている糸を伸ばしてゆく。

 

 息を吸い、吐く。息を吸い、吐く。

 

 輝夜の呼吸の感覚が加速的に短くなり、楠の目が険しさを増す。始まりも終わりも分からず、ただリズムの速まってゆく呼吸が場を支配する中で、ふいに輝夜は大きく息を吸った。

 

 

 ────ぷつりっ。

 

 

 緊張の糸は強引に千切れ、その音を理性が拾うよりも速く本能が楠の足を踏み込ませた。動こうと動くまいと変わらぬのなら、足を出すのが北条楠、ずるりと地を這う楠に、僅かに片眉を跳ねさせた月夜見の顔が楠ではなく霊夢へと向く。

 

 ちくり、と首を刺す衝撃は視線によるものではなく、動いていないとさえ勘違いするほどの最小限の動きで放たれた一本の針。突き刺さらず、月夜見に反射された針を霊夢はほとんど動かずほんの少し首を捻ることでそれを避ける。頬の皮膚を引っ張って、血が出ないギリギリの距離で通り過ぎる針を見送り、霊夢もまた大地を蹴った。

 

 肉薄を終えた楠の大太刀が、動きに合わせて無駄なく振りかぶられた。動作のつなぎさえ分からぬ滑らかな動きに、月夜見は小さく笑うと、広げていた手を円を描くように優しく回す。手刀回し受け、受けの基礎足るその動きは、基礎だからこそ、完璧に描ければ絶大な効果を発揮する。満月を囲む月の輪と同じ、月に届く前に、描かれた円がその絶対反射の丸みを持って凶刃を容易に滑らせる。

 

 防御こそ最大の攻撃。一撃を貰わずとも、完成された受けに形を崩される。そして生まれる隙こそが命の隙。受けに回された手刀は、動きの中で鋭さを帯び、三日月の先端のように空さえ貫く。突き出された月夜見の刃に、楠は怯むどころか短く息を吐きより深くに足を踏み出した。

 

 刃が突き抜け楠を貫く。

 

 スルリと楠を通り抜け空だけを裂く刃に月夜見は微かに瞼を開け、その背中を見送った。当たった実感はほんの僅かでまるで手応えがない。知っているのと実感するのではまるで違う。櫟が月夜見を見て評したそれを月夜見も噛み締めながら、壁を透ける妙技に感心し同時に怒りとは違う熱を抱く。

 

 人の身で神の手さえ透ける芸当。それはある種の賛美に近かったかもしれない。通り過ぎる楠の背を目で追う中で、楠の背からスルリと少女が顔を出す。紅白の着物を揺らし、手に持つ針を躊躇なく薄く開いた月夜見の瞳へと突き立てる。

 

 迫る針を避けることもなく、淡い瞳でそれを受け霊夢の腕ごと弾き返す。震える針に霊夢は動揺することもなく、小さく目を細めると再度針を握る腕を突き出す。身動ぎせずにそれを見受ける月夜見の目の前で、霊夢の手から針が消失し、首の裏に衝撃を感じた。

 

『亜空穴』

 

 空間を超えて飛来した封魔針に、月夜見は口角を上げて腕を突き出す。霊夢の胸元に深く突き抜けた月夜見の腕は、まるで雲の中に腕を入れたかのようになんの感触も手に取れない。ふわりと浮くように身を翻し空に踊る巫女の姿に今度こそ月夜見は瞼を開き、立ち並ぶ人間たちを目に焼き付けた。

 

 浮く女と透ける男。

 

 文字に起こすとなんとも間抜けな響きであるが、形を得ればそれも変わる。月夜見でさえただでは触れられぬ傑物がふたり。少女と少年へ突き入れた手を軽く振り、再び形のない刃の切っ先を向けた。他のことに気を回せば足元を掬われるかもしれない存在、元に戻った幻想郷の中にいて、そちらに気を割く余裕がない。

 

 だが、それは霊夢と楠にとっても同じことだ。

 

 月夜見の刃を避けられても、同じく月夜見へと振るう技が意味を成さない。当たるもののことごとくが反射さえ、月夜見の肌に牙が刺さることがない。そして、月夜見の技がその難易度を更に引き上げている。

 

 振られれば必殺の刃、守りに入られればなお硬い。

 

 月夜見こそ三貴神の誇る絶対防御の盾。全てを染め上げる陽光を繰る天照と、およそあらゆる武の極致であろう須佐男という強過ぎる二つの矛がいるが故、月夜見はただ強固な盾であればよかった。研ぎ澄まされた盾は、敵の首さえ刎ねる鋭ささえ持つが、盾であることに変わりはない。その盾をどう抜くかは、これまでの戦いの軌跡が教えてくれた。

 

 

『天照の陽光を放っている時は月夜見の身に刃が通る』

 

 

 スキマを通って向かう際に渡された情報が勝利への鍵。分かってはいるが、それも容易でないのは事実。霊夢と楠は顔には出さず、内心で舌を打つ。単純な力のぶつかり合いの方がどれだけ楽か。無闇矢鱈と突っ込んだところで、終わりの来ない戦闘が続くだけ。お互いの刃が通らなければ、ただ舞踏しているのと変わらない。

 

 故に動かず、視線同士の擦り合う拮抗状態に踏み入ろうかというところで、月夜見は力を少し抜き手を緩く握る。

 

 

 

 

 

「やめだ」

 

 

 

 

 

 短く零された月夜見の言葉に、霊夢たちはまゆを顰めるも気は抜かない。月夜見の気配に変化はなく、口から出た言葉は当然闘争をやめるということではない。永遠に続くかもしれない千日手に入る前に、月夜見自らそれをやめる。時間を賭ければ賭けるだけ月夜見の勝ちは確実にはなる。だが、時間で勝っても意味はない。力で勝たねば意味がない。

 

「当たらないのに腕を振り続けるのは馬鹿らしい。私も賭けてやろう」

 

 月夜見の瞳に浮き上がる陽光。ただ乱暴に放つのではなく、淡い月明かりのように薄く零す。神の手のひらに浮かんだ光球を目に、霊夢と楠の目が見開いた。初夏の辰野の夜景のように、淡い光球が宙を舞う。無数の光が空に光線を引くのを目に留めて、楠は大きく背後に跳んだ。光に粒は触れるものを消失させながら、縦横無尽に空を走る。木々には蜂の巣のような穴が空き、焦げ付いた穴は黒く変色していた。

 

「場が悪過ぎる! どうする巫女さん、輝夜たちに気を配ってる余裕もねえぞ!」

「なんとか肉薄してあいつの動きを抑えて! できたら私がなんとかする!」

 

 どうやってなどと聞いている時間も惜しい。小さな燈でもそれは天照の威光。蛍の群れのように月夜見を中心に花開いたプラネタリウムを見据え、楠は強く奥歯を噛んだ。

 

 天照の威光ならもう一度見ている。一度月夜見を挟んでいるからか、霊夢に降ろされた天照の陽光より幾枚か落ちていてもそれが神の威光であることに変わりはない。ゆらゆらと体を揺らしながら、ランダムに宙を回る陽球ぬ当たらないように躙り寄るが、横を通り過ぎる陽球の放射熱だけで息が詰まる。チリチリと肌を焼く熱に舌を打ち、それでも足を前に出す中で、楠の目の先で月夜見の口端が持ち上がった。

 

 横に手を振る月夜見の動きに、好き勝手に動き回っていた光の粒が統制される。一斉に楠に向かい横に動いた陽球は壁となって迫って来る。大きく息を吐き出し足は止めず、楠は壁に向かって足を踏み出した。硬さのない光の壁と衝突し、その中をずるりと透り抜ける。

 

「ッぐ⁉︎」

 

 物理的に通り抜けられようと、熱まで避けることはできない。体に穴は開かずとも、身の内を焼く陽熱をの鋭さに、堪らず楠の口から空気が漏れ出る。体の中に熱せられた溶けた鉄が流れたような気持ち悪さに膝が折れ、床に転がりながらも楠は月夜見から目を離さない。大きく息を吸い込みながら大地を蹴り、再び陽球が踊り狂う前に距離を詰める。

 

 地を這う楠に再度月夜見は腕を振り、光の粒が付き従う。揺れ動く光の壁に楠の足がほんの少しばかり鈍ったが、それでも足は止めずに迫る壁へと突き進んだ。

 

「ッアッちぃな! クソが‼︎」

「はっ! それでも足を止めないか楠‼︎」

 

 壁を越えるのに苦痛を伴う。体がやめろと鳴らす警鐘を、歯を食い縛り楠はそれを磨り潰す。

 

 

 前へ、前へ。

 

 

 体も崩れない熱の痛みに臆して止まる足など楠は持っていない。それより熱い炎を知っている。神の火の壁を前に、楠のように透け通ることができないのに誰より早く壁へと突き進んで行った一人の男。その男の背を追うように、大太刀を揺らし幾枚にも折り重ねられるように迫って来る光の壁へと楠は突っ込む。

 

 壁を透ければ痛みが襲う。無理矢理肺から空気を抜き取るような耐えることのできない熱痛。肌に浮かぶ玉のような汗は、浮かんだそばから蒸発してしまう。呼吸をするのも苦しい壁越えを、だが楠はやめるわけにもいかない。友のため、仲間のため、そして自分のため、足を動かさなければ壁を透けられない。

 

 北条の技は動かなければ使えない。ただ災害が過ぎ去るのを隠れて待つように突っ立っていては、脅威に食い散らかされてお終いだ。壁を透けるには、壁に向かって自ら突っ込まねば透けられない。恐かろうと、痛かろうと、前に進むために楠は自ら突っ込む。頭のネジが外れているかのように前に進み続ける人間の姿に、月夜見の笑みが深まった。

 

 転がるように地を進み、大地に沿わせて大太刀を握る手に力を込める。月夜見へと飛び掛った楠は、神の瞳が陽光を消し迫る人間の姿を写したのを目に余計に一歩足を踏み込む。月夜見と楠の瞳がカチ合い、そのまま重なるようにずるりと透り抜けた。大太刀だけを背後に残し、体が全て透過し終えた後、鉤爪のように月夜見に刃を引っ掛け大太刀ごと抱え込むように羽交い締めにする。

 

「やったぞ巫女さん‼︎ なんとかしてくれ‼︎」

「ッ、小癪な!」

 

 抱え込むように貼り付けば、漆の式神のように長くは持たずとも弾かれるまでに一瞬の間ができる。いつ陽光を反射されるか分からない恐怖を、ギリリッと歯を擦り合わせることで誤魔化す。未だ宙に残る光の粒の隙間から、紅白の影を探すが楠の目にはなにも映らず、目を細める楠の背後から聞き慣れた少女の澄んだ声が飛んで来る。

 

「よくやったわ楠‼︎ 吹っ飛べっ‼︎」

「────────痛ッ、このやろぉ⁉︎」

 

 結界を纏った霊夢の足が、楠の背を柔らかく突き飛ばした。楠に押されるがまま吹っ飛んだ月夜見と楠は、空間に開いた黒穴に吸い込まれるように姿を消す。景色を切り貼りしたような視界の転換に楠は目を回し、見慣れた神社の姿を捉える。そのまま床を転がるよりも早く、月夜見に投げ飛ばされ楠は神社に突っ込んだ。賽銭箱に背を打つ楠に月の光が集中し、そのまま神社へと力任せに押し込む。

 

「──ッ⁉︎」

 

 少年の叫びを残し、ガラガラと音を立てながら船体がへし折れ沈没する豪華客船のように地に沈む神社を一瞥して、月夜見は背後で聞こえた足音に向け身を翻した。顔を顰めた博麗の巫女が、お祓い棒で肩を叩きながら立っている。不機嫌に小さく息を零しながら、崩れる神社を背に立つ神を睨んだ。

 

「また神社が……、どうしてくれるのよ」

「ここに送ったのは霊夢、お前だろうに。幻想郷と外の世界の境界に立つ博麗神社なら大きな力は使えないと見たか? 確かにそうだが、それで勝てるのかな?」

「うるさいわね、異変解決が博麗の巫女の仕事。……だけどそんなのは関係なくあんたは殴るわ! 神社の修理にこき使ってやる!」

「修理? これからなくなる幻想郷とお前には関係ないだろう!」

 

 陽の光が膨れ上がるのを目に霊夢はお祓い棒を参道へと放り捨て、空いた両手を緩く振った。神の陽光は霊夢をして浮きづらい。日ノ本なら誰もが天照の加護を少なからず受けている。神の威から浮けようと、天照からだけは逃れられない。宙に舞った光の粒子が、博麗神社の境内に細かく穴を開けていく様に目を鋭くさせながら地を蹴った霊夢の姿に月夜見は小さく目を見開いた。

 

 ほう、と思わず息が溢れる。空間を埋めるように蠢く光に粒の間を、踊るように最小限の動きで飛び交う少女の姿は称賛に値した。弾幕ごっこという遊びの中で培われた技術は、決して無駄なものではない。遊びと言っても、その相手は人より勝る妖怪、亡霊、蓬莱人、天人、神である。同じ土俵で遊ぶためのルールと言っても、本来ならば人と魔のどちらが勝つかなど火を見るよりも明らかである。そんな中で勝ちを拾う霊夢や魔理沙、咲夜や早苗はやはりおかしいのであり、その筆頭とも言える霊夢の流麗な動きに思わず月夜見も見惚れてしまう。

 

 その一瞬の隙に反応できぬ霊夢ではない。針の穴程もない僅かな隙間に寸分の違いなく差し込まれた封魔針の煌めきに、思わず前に差し出した左手に針が突き刺さる。宙を彩る血飛沫に顔を歪めた神の顔へと霊夢の蹴りがめり込んだが、右足を軸に縦に回り力を完全に後方に流す。返しの月夜見の蹴りの熱に脇腹を擦らせた霊夢の体は地に転がり、火傷となって薄く煙を吐き出している左の脇腹に軽く手を置いた。お互いの牙が突き刺さる。それを理解した上で二人は同時に動き出す。

 

 ここまで来ればどちらの牙が先に相手の命に突き刺さるか。より全てを差し出した方が勝利を得る。激しさを増す陽の粒子に、霊夢は躊躇わず空を飛んだ。目指す先が目の前にある。依姫、豊姫、天探女、嫦娥。霊夢が向かった時にはどこも遅く、既に戦いは終わっていた。

 

「勝て」

 

 と、両腕の焼け落ちた吸血鬼が笑って言った。

 

「任せた」

 

 と、満身創痍の友人がとんがり帽子で顔を隠しながら零した。

 

 寝息を立てて転がっていた者たちの顔に苦痛はなく安心したような顔で、迷いの竹林跡の更地には、焼け溶けた電子タバコが舌を出し落ちていただけ。

 

(……わけわかんない)

 

 厄介ごとを他人に押し付けるならまだしも、大切なものを他人に託すということが霊夢はあまり理解できない。全ては自分だけのもの。それも大切なものなら尚更だ。霊夢の仕事は異変解決、わざわざ託されなくても霊夢は戦う。それが博麗の巫女として選ばれた霊夢の役割だから。

 

 だと言うのに会う奴会う奴、誰もが「頼む任せた」と好き勝手零す。勝手に背中を押してくる。それがどうにも虫に刺されたように痒く気になる。掻いても掻いてもその痒みはなくならない。どうすれば痒みがなくなるのか、それがどうにも分からず霊夢は背中の痒みを振り払うように前に進む。

 

 チリッ、と服の袖先を掠める陽球に左の袖が焼け落ちた。振りほどくように袖を前へと捨て、月夜見の視界を僅かに隠す。目の前に飛んできた服の切れ端を手で払った月夜見の視界から霊夢の姿が音もなく消えた。だからこそ、月夜見は目を見開かずに瞼を閉じた。天から見下ろす大きな瞳が、空気の穴を通り月夜見の背後へと身を躍らせた巫女の姿を確かに捉える。

 

 能力の切り替えが間に合わずとも、向かってくる方向と姿さえ分かればどうとでもなる。動きは円。背後から突き出される霊夢の拳を力点に、反転した月夜見の膝が霊夢の腹にめり込み、骨の軋む音と肉の焼ける音、空気が口から吐き出される音が重なり合い、地に伏せた博麗の顔を月夜見は見下ろし眉を寄せた。

 

 霊夢の口元に浮かぶ笑み。息の詰まった月夜見の静まった耳に届くパチリ、という音。小さな稲妻の爆ぜる音へと月夜見が目を移せば、腰に垂れた結界装置の箱を貫いている針の姿。その淡い光が活動を停止し消えるのを目にした月夜見の顔が酷く歪んだ。博麗の巫女へと目を戻せば、突き出されている拳から中指で伸び、馬鹿にするように口から舌が伸びている。

 

「霊夢ッ‼︎」

「あら、神でもそんな顔するのね」

「お前は‼︎」

 

 笑う人間の顔を塗り潰し消すため、月夜見は拳を握り締める。

 

 今になってこんな人間たちが立ち塞がる。

 なぜもっと早く、なぜ今になって。

 浮かんでは消える焦りと怒りと悲しみと喜び。どれを掻い摘んでも正解であり不正解。確固とした答えを得るために月夜見は今ここに居る。月でどれだけ頭を回しても結局答えは出なかった。

 姉の言葉の真意を理解するため、人の強さを知るために。

 

 振るわれる神の拳から目を離さず、霊夢はふわりと宙へ舞う。柔らかな羽毛のように身を反らし、放つ拳は月夜見の回された腕に流され横に反れた。開けた霊夢の顔へと放たれる蹴りを押し流される風に乗るように霊夢は躱すと、脚を折り畳み、地に触れると同時に蹴りだす。

 

 流され返し、

 返し躱される。

 

 互いに避ける技術と守りの技術は一流だが、逸早く削れ出すのは霊夢の体。紙一重の繰り返される攻防は、決定打を生まなくても陽の熱に人の身が削られる。ヒリヒリと身を焦がす陽熱に細かく息を吐き出しながら、突き出された霊夢の拳が神の腹部を捉えその体をくの字に折った。

 

 

 ──いや、折れ過ぎる。

 

 

 月夜見の薄笑いとともに漏れ出た吐息に霊夢が反応するよりも早く、人の体を巻き込みながら宙を回った月夜見に霊夢は地へと叩きつけられた。衝撃に硬直するその隙は大きな隙。見開かれた霊夢の瞳の先、静かな夜空に陽が昇る。球状に広がる光を手に集め、指向性を持った陽光が博麗の巫女へと降り注いだ。

 

 全てを染め上げる白い光。

 

 身を包む灼熱の中で霊夢は────。

 

「くはっは! 終わりだ霊夢‼︎ 私の──」

 

 勝ちだ。

 

 と続くはずだった言葉を飲み込んで、笑い声も萎み鳴りを潜めた。

 白光の中に沈んでいる影がいつまで経っても失くならない。どころか、次第にその濃さを強めて浮上してくる。

 

 

 天照の陽の大河から、するりと小さな手が伸びた。

 

 

 音もなく、

 

 

 煙も上げず、

 

 

 浮き上がって来る少女の影。

 

 

 陽の光をまるでそよ風のように身に受けて、揺れる黒髪を霊夢は指で流す。ふわふわと月夜見の目前までせり上がって来た人の少女に、神の身を冷たい汗が一気に覆う。

 

ありえない……」

 

 月夜見の口からぽろりと、出したくもない言葉が転がり落ちた。

 

ありえない、ありえるわけがない⁉︎」

 

 人の姿をしていても目の前の少女が人に見えない。

 人ならば、人であるからこそ天照の光からは逃れられない。

 朝昼陽の光を身に受けて、夜も月を介して陽の光を受けている。

 地上に生きているからこそ、誰にでも天照の加護はある。

 だが、それすら受け付けないということは、神の手から完全に脱したということ。世界の理から浮き出たということ。

 

(だってそんなの⁉︎ それは⁉︎)

 

 神の力を必要としない人として完全に独立した個。その姿は正に新時代の人の姿。

 

 解脱。輪廻の輪からすら浮き出た存在。

 

 認めたくなくても、現実として目の前に存在する。それから逃れるように、追いやるように、月夜見を中心に広がった陽光を受けても、博麗霊夢は染まらずそして崩れない。

 

 雲霞のようにゆらゆらと揺らめく幻のような霊夢の手が、月夜見の胸に伸び沈み込む。

 

「────ぁ」

 

 呼吸の止まった月夜見の内側で、時が止まったように意識が一瞬停止する。胸に埋め込まれている少女の腕がするりと抜けてゆき、そのまま少女の手の跡へと月夜見の手が伸ばされた先には、何もなかった。

 

 傷も、痛みも。

 

 何もされていないように何もない。

 

 月夜見の顔を上げた先、変わらず徐々に浮いてゆく霊夢の姿を見て、歪んでいた神の口端が小さく弧を描く。

 

「……くは、そうか、そうだな、そのはずだ! 霊夢お前は浮きすぎた‼︎」

 

 世界の全てから浮き上がれば、世界に居られるはずもない。水能覆舟。強すぎる力は使用者すらも滅ぼす。安堵の高笑いを上げる月夜見の顔を、霊夢は傍観者のようにただ眺めた。

 

 別に驚きはしない。霊夢自身どこかでいつかこうなるんじゃないかと思っていた。少なからず、負けるのが嫌だからではなく、純粋に勝ちたいと思ったが故の能力の上昇。今まで出さなかった本気の結果。

 

(……ぁあ)

 

 結局こうなるんだな、とどこか他人事のように心の中で独り言ちる。

 

 霊夢の能力は、まるで霊夢の人生のよう。

 

 親の顔だって知りやしない。気にしたこともあったが、わざわざ先代や紫に霊夢から聞くこともなかった。深海の泡のように、どこからか浮き上がってきたようにいつの間にか幻想郷に居る。誰もが持つ自分の始まりを、霊夢だけが持っていない。どこから来て、始まりはどこなのか。それがどうしようもないズレなのだ。一人だけ異世界の住人のように、同じ場所にいながら同じ場所にいないような感覚。だからどこに居ても誰と居ても霊夢はいつも孤独の中。

 

 霊夢と違い、霊夢の一番の友人は、人里でも大きな道具屋に生を受け、やろうと思えば、何もしなくても箱入り娘として一生をなに不自由なく謳歌することができた。それを自ら全て投げ出して一人、魔法に没頭していても、未だ特になにかしているわけでもない霊夢に届かない。

 

 神さえ顔を引攣らせる自分がいったい何者であるのか、そんなことは霊夢が一番知りたいのだ。

 

(……──勝ちたかったな)

 

 それでも霊夢の後ろ髪を引くのは勝利への執念。背中の痒みは結局消えない。頭に浮かぶのは後悔よりも友人たちが笑っている顔。

 

いやだなぁ、……いやだ、いや!」

 

 勝利を前に負けたくない。どこから来たのか、自分が何者かなどどうでもよく、結局霊夢も──。

 

 

幻想郷(ここ)が好きなの……ッ!!!!」

 

 

 困った居候たちに困った友人たち。万象から浮き上がる霊夢にも好き勝手にならない者たちが愛おしい。彼らがいるから自分でいられる。

 

 それでも振られる霊夢の腕はなにからも浮き上がるばかりでなにも掴めず、勝手に体が浮いてゆく。

 

(誰か……ッ⁉︎)

 

 目を強く瞑り、手を握り締める霊夢の体が不意に何かに引っ張られる。錘がぶら下がったような衝撃に、恐る恐る霊夢は瞼を開ける。

 

 ぼやけた視界のその先で、顔を踏み台にされ地に飛ぶ月夜見の姿が映り、霊夢の手を人相の悪い男が掴んでいる。

 

 幻のように世界との境界線があやふやで、今にも消えてしまいそうな少年は、体のあちこちを白く染めながら、それでも笑い霊夢の顔を覗き込んだ。

 

 

「アンタがいないとよう、帰れねえだろ、なあ?」

「楠っ……‼︎ なんで……」

 

 

 よりあやふやに、

 どんな先にも進めるように、

 ただ強く足を出し壁にぶつかる。

 その分実体が不確かになり、進む勢いに体が追いつかず零れ落ちるのも気にせずに、伸ばした少年の手が少女の手を確かに掴んだ。

 

なんであんたなのよ……っ

「へっ、力がうまく入らねえ、おかげで刀がうまく持てなくてな。重さは俺が出してやる。だから刀を代わりに握ってくれ」

 

 少女の目の端から溢れている心の粒から視線を切り、楠は顔を抑えて地面に立つ月夜見を見下ろした。後ろから聞こえる目を擦る音には何も言わずにただ少女の返事を待つ。

 

「……刀の振り方なんて知らないわよ、あんたも握って!」

「──はっは! なら行こうか‼︎」

 

 楠は隣にゆらりと並んだ少女を身に寄せて、四つの手が大太刀を握る。重さに任せて落ちてくる少年少女を睨みつけ、月夜見は強く歯を噛み締めた。

 

「ぐぅっ! 認めない、お前たちを認めるわけにはいかない! 認めてしまったら私はッ‼︎ 消えろ霊夢! 楠! お前たちだけは!!!!」

 

 月夜見の咆哮が陽光となって天に伸びる。今なら当たる。満身創痍の霊夢と楠ならば、二度も天照の威光は超えられない。

 

 そのはずなのに──。

 

 二つの影が三つに増える。

 

 少年と少女の後ろにもう一つ。

 

 長い黒髪を靡かせて、全身を血と砂に塗れながら、両足と右手がないはずなのに──。

 

「輝夜ぁぁああ!!!! なぜお前がそこにいる⁉︎」

「──くくっ。おいおい輝夜、アンタここまで来るのにどれだけ時間掛けたんだ?」

「──さぁ? でも……そう、きっと……貴方たちより長くはないわ……行って」

 

 月の姫が背中を押す。

 

 ようやっと追いついたその背中を。

 

 その一押しが、

 

 陽の光よりも少しだけ早く少年と少女を前に進ませる。

 

 

「アンタ最高だかぐや姫‼︎ 行くぜ霊夢ッ!!!!」

「ええ、行くわよ楠ッ!!!!」

 

 

 少年と少女が落ちてくる。それでも「まだだ‼︎」と月夜見は叫び、噛み締め過ぎた奥歯にヒビが入った。

 

 ──パキンッ。

 

 と、同時に上げようとした右腕が垂れ下がる。梓の貫いた鎖骨がへし折れた音。

 

 ──カツッ。

 

 と、逃げようと踏み締めた足の膝が折れた。淡い青紫色の痣に引かれるように。

 

ああ…………、そうか……、人間たち、お前たちの勝ちだ」

 

 ずるりと体に滑り落ちた刃の感触が、不思議と暖かいような感じがした。着地もうまくできずに、落ちたまま地に転がる三つの影を見回して、月夜見はふらふらと立ち上がると血が滴るのも気にせずに歩き出す。

 

「そうか、私も……、私も前に……」

 

 差し出し続ける足は止まらず、足音だけがいつしかすっかり消え去った。静まり返った境内の中に流れるのは三つの荒い吐息だけ。身を起こそうにも指先一つ動かない。一度大きく息を吸い込んで、楠は首だけをなんとか動かし二人の少女へ目を向ける。

 

「……終わったか?」

「さあ……、どっちにしても、今襲われたら負けね。もう動けないわよ、輝夜は?」

「ここまで這って来たのにまだ動けって? 冗談っきっついわ」

「這って来たのか? そりゃあ、見たかったな」

「うっさい楠、ばーか」

 

 輝夜の子供っぽい罵詈雑言を鼻で笑い飛ばし、楠は心の底から息を吐き出し天を仰ぐ、始まりは唐突に、終わりもよく分からない。ただ今分かることは一つだけ。

 

 

「「「夜明けだ」」」

 

 

 白んできた空に三つの声が重なった。その後誰から始まったのか薄ら笑いがしばらく続き、声が途切れると同時に静まり返る。長い夜更かしは終わりを迎え、三つの寝息が神社に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 長い夜がようやく明けた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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