月軍死すべし   作:生崎

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櫟VS天子 恋する盲目編

 靡く風に乗って流れる仙桃の香り。柔らかく、芳醇なその香りを辿り櫟はキツく目を引き絞る。眼球のない洞穴が向く先の気配を吸い込んで放さない。軽く腕を振って調子を確かめ、悪くないと拳を握った。何度目かも分からぬ相対。師と仰ぐ者から今日こそ答えを聞くために。

 

「決着をつけましょう天子さん」

 

 腕を組み片目を瞑った天人の姿が櫟には見えずとも見えている。布ズレの音は天子が腕を解いた音。欠片も天子から魔力が湧き出ることはなく、天子は今日もため息を吐いた。その姿が櫟の気に障ったのか、ムッと口を引き結んだ櫟の顔を見て、天子はより深いため息を零した。

 

「決着って……なんのよ」

「そんなこと決まっています! 今日こそ藤さんは譲ってもらいますからね!」

 

 これだ。

 

 修行のために顔を合わせれば第一声はいつもこれ。白煙を吐く新人死神にさっさと引き取って貰いたいのだが、煙に巻かれるばかりで全くそうはなってくれない。月との戦いが終わり、恋に生きると決めた櫟の行動力は凄まじく、死神に会えるかもという理由だけで天子と華扇の弟子となった。理由が面白いからと引き受けた天子の元にちょくちょく藤が顔を出していると知った途端からの毎日に、天子はウンザリと肩を落とすことしかできない。

 

 恋だの愛だの、およそ不老不死であり、遥かに長い時を持つ天子としてはどうだっていいこと。退屈かそうでないかがなにより大事だ。幻想郷を勝利へと導いた参謀の乙女チックさが眩しく鬱陶しい。そんなことのために優秀な頭脳を使っていいのかと天子は思わないでもないが、その無駄遣いする姿は面白いと、結局いつものように少しばかり相手をしてやる。

 

「そんなこと言われても、あっちから勝手に来るのに私にはどうしようもないでしょ」

「ずるいです! 死神になったからって藤さんも菖ちゃんも私には会いに来てくれないのに!」

「あの二人そういうところ真面目よね」

「そこが二人の良いところなんですよ、なんだかんだ言いながらもきっちりやるべきことを遂行してくれるんです!」

 

 二人を多少なりとも褒めるようなことを言えば、急に嬉しそうに語り出す櫟に天子の瞼が僅かに落ちる。そんな天子の呆れ具合に気付いているのかいないのか、「外の世界で犬神刑部に会いに行った時も」と勝手に話を続ける櫟に「凄いわねー」と適当な相槌を打つことで流した。

 

 天子だって藤に櫟や幽香に会いに行ったら? と言ったことはある。が、「俺死神だから」と、一言でばっさりだ。そんなことを言うくせに天子のところには週一、二回やって来ては天界を大騒ぎさせるのだから、変なところで融通が利かない。おかげで天子は対煙の死神特別外交官。天界には対煙の死神撃退部隊が組織されるまでになっている。

 

 最近は暖かくなって来たわねぇ、と幻想郷の空気に天子が肌を這わせる中で、一人で話藤熱が再燃したのか再び「だから天子さんはずるいんです!」と叩きつけられた言葉に天子は肩を竦めた。

 

「余裕ってやつなんですか? 天子さんは藤さんのタイプだからって負けませんよ!」

「いや、別に私は元からこの性格なんだしそこを突っ込まれてもね……。私幻想郷じゃあ問題児扱いだし、藤の方が変なのよ」

 

 人妖入り乱れる幻想郷の中で、必ずしも歓迎されない者はいる。天子はそんな問題児の一人。退屈を埋めるために異変を起こし、面白そうなことがあれば突っ込み、しかも天人の頑強な体を持つせいでゴキブリ並みにしぶとい。相手をする奴だいたい全員から鬱陶しがられていることは天子にだって分かっている。それを嬉々として一番側に置く藤の方が変わっているのだ。

 

 それが嫌なのかと問われれば、満更でもないので天子の方が困ってしまう。人は自分にないものに憧れる。おまけでいつのまにか天人になっていた天子と違い、短くも激しく命を燃やし尽くした藤に目を奪われたことがないのかと聞かれればないとも言えない。薄っすらと天子の体温が上がったのを櫟は見逃すことができず、頬を指で掻きそっぽを向いた天子に櫟は頬を膨らませた。

 

「なるほどそうですか……、それが天子さんの惚気方ですか……、別に特別なことは何もしてないんですみたいな……、小癪な! 天人!」

「もう! 拗ね方がめんどくさいわね! ぐちぐち言ってないでこういう時は勝負して勝ったら言うこと聞けとか言っときゃいいのよ!」

「そうですか……、分かりました」

 

 ゆらりと腕を振り拳を握った櫟を目にして天子は薄っすらと笑みを浮かべる。これまで頭脳労働担当として参謀に徹していた櫟だが、その才能が戦闘へと伸ばされた。キレる頭と、目で見えずとも視覚以上の情報を掴む感覚器官。力の流れを全て手に取れる櫟の心眼は、返し技や合気のような技を扱うのに最も向いていた。開花し始めた才能がいったいどれだけ伸びるのか、また今日も退屈な時間が埋まる時。笑みを深める天子に向けて、櫟は握った拳から人差し指を突き出し天子の顔に突き付ける。

 

「嫁比べで勝負です!」

「はぁ?」

 

 ずっこけそうになるのをなんとか堪える。ずり下がった帽子の位置を天子は直し、堂々と指差す櫟の顔にため息を吐くが、どこ吹く風で効きもしない。改めて同じことを聞いても無駄だと悟り、天子はただただ棒立ちすることしかできなかった。

 

 嫁比べ。

 

 古くは童話『鉢かづき姫』に出てくる、母が息子にその者が妻として相応しいか試したことに由来するとかしないとか。兎にも角にも櫟が掲げたのは妻としての能力勝負。全く意味が分かりませんと表情の死ぬ天子の腕を絡め取り、櫟は辻風のように駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「で? 私のところに来たわけね。その行動力はどこから来てるのかしらね?」

「櫟姉様……」

 

 困ったように笑う百六十五代目黴藤の横で、純狐は急にやって来た客人たちに片目を瞑り答え、顔の横の長い髪を掻き上げる。

 

 永遠亭の外れ。百六十四代目黴藤と純狐の約束によって、黴家の守り神的なポジションを引き受けた純狐と顔を合わせられる出島のような小さな屋敷。主に百六十五代目黴藤の修行の場として使われているその屋敷に踏み込んだ櫟と天子は、あまり興味ないといった純狐の視線を受けながらも堂々と胸を張った。ただし櫟だけ。

 

「素晴らしい格を持ちながらも結婚していた女性らしい方を私は純狐さんしか知りませんから。審判として貴女ほどうってつけな方はいないと思って」

「月夜見を打ち破った立役者の一人からのその評価は嬉しくはあるけれど、審判って、なにをするつもりなのかしら?」

「嫁比べです!」

「それは分かったから……、具体的によ」

 

 本気で呆れているように見える神霊の姿の珍しさに、百六十五代目と天子は目を瞬く。嫦娥さえ絡まなければ純狐は気の良いお姉さん。分かっていても実際に目にすると感じ方は全く違う。嫦娥と拳で殴り合っていた姿を遠巻きながら眺めていた天子からすれば、その時の姿との違いように別人だとさえ思ってしまう。純狐を戸惑わせる櫟の恐るべき乙女のパワーに百六十五代目と天子は力ない息を吐き肩を落とした。

 

「具体的にですか、純狐さん、良妻に必要な技術で大事なものとは?」

「そうね、必要なものは色々とあると思うけれど、一番はやっぱり料理でしょうね。食事は日々の活力。美味しい料理を作れないようじゃあ良い妻とは言えないわ」

「いやでも、今の世の中別に夫でも料理を「それですね! それでいきましょう! 流石純狐さんです!」あっ、はい」

 

 どうしても歳のせいか古い価値観である純狐の考えを訂正しようかと百六十五代目は動いたが、櫟の叫びに掻き消され口を挟むことを取り止める。「でしょう?」と満足気に微笑む師である純狐の顔を見てまあいいやと諦める百六十五代目の姿に、頑張りなさい! と天子は心の中でエールを送るが、微塵も届きはしなかった。

 

「と、言うわけで天子さん。料理の腕で勝負です!」

「料理で勝負って……決着方法は?」

「純狐さんと藤ちゃんに食べ比べて貰って勝敗を決めて貰いましょう! 負けても恨みっこなしですよ!」

「あぁ、もう、なんだっていいわよ。早く終わらせましょ」

 

 渋々頷いた天子に合わせて純狐が手を叩けば現れる食材の数々。どこから出したんだと突っ込む気力すら天子には湧かない。用意されたエプロンを着けて腕を捲る天子の動きを感じながら、櫟は静かに笑みを深める。

 

(勝ったッ‼︎)

 

 この瞬間、櫟は勝利を確信した。

 

 長い生を送っている古き時代から生きている純狐ならば、嫁に必要なものは? と聞けば高確率で『料理』と返ってくるであろうという櫟の予想通り。料理勝負という枠に嵌めれば、櫟も不得意ではあるものの、勝率が高いだろうと予測する。

 

 それもそのはず、天人である天子が相手が故に。

 

 苦のない生活を送っている天人は、歌や踊りにうつつを抜かし、酒を煽っているばかり。食べるものも仙桃といった具合であり、料理を作る機会などほとんどありはしない。するとしてもそれは召使いの仕事。おまけで天人になったとは言え、天子の位は低くなく、統領娘と言う通り、料理など天子の仕事ではない。

 

 天子はろくな料理を作れないと見越し、櫟は卵へと手を伸ばす。下手に凝った料理など作る必要はない。とは言え目玉焼きなど作っても仕方ないので、作るべきは卵焼き。日本の料理の中で、お弁当のおかずとしては定番の一品。ただの溶いた卵を四角く焼き固めたものだって馬鹿にしてはならない。

 

 寿司屋に行けば必ず置かれていると言っていい卵焼きは、その良し悪しで寿司職人の技量が分かると言われるほど昔は重宝された。上手く焼けなければ一流の寿司職人ではないと言われるほどだ。同じように西洋料理のプレーンオムレツも、料理人の腕が問われると言われるように、シンプルながらこの溶いた卵を美味しく焼き上げるということは大変なのだ。

 

 だが、そのシンプルさが櫟の勝利のための鍵。

 

 油の弾ける音。フライパンに通った熱。焼けてゆく卵の状態が目で見ずとも櫟には手に取るように分かる。薄く表面が焼けた段階で形を整え纏めてやり、蓋をして蒸すように焼けば中はトロッと、外はしっかりとした弾力を残した卵焼きの出来上がり。調味料さえミスらなければ、美味しい卵焼きの完成だ。

 

 悪い顔で笑う櫟をあわあわと悲し気な様子で百六十五代目は見つめ、天子は薄く微笑むと卵へと手を伸ばした。

 

(申し訳ありません天子さん! この勝負勝たせていただきます!)

 

 

 

 

 

 

 

 

「ば、馬鹿な⁉︎」

「い、櫟姉様……」

 

 床に手を付き拳を握る櫟の姿を百六十五代目が死んだ顔で見つめている。櫟らしからぬ言葉と姿を直視できないと、美味しかった方の札を上げてと言われ渡された天子の方の札を掲げながら、百六十五代目は櫟から目を反らす。純狐と百六十五代目の前に並べられた二つの料理は同じ卵料理。卵焼きとオムレツ。それ故に嫌でも優劣がついた。

 

「はっはっは! 残念だったわね櫟! 天人は料理ができないと思った? 師匠を舐めちゃいけないわね!」

 

 腰に手を当て背中を仰け反らし笑う天子のトドメの一撃に、へにょりと櫟の腰が曲がる。図星。天子の言う通り、天子は料理ができないはずと見積もっていた櫟の考えは無残にも木っ端微塵に吹き飛んだ。天子の出したオムレツは見事に型崩れることなく綺麗なアーモンド型をしており、上げられた札は二つ。純狐は迷いなく、百六十五代目は少し迷ったものの結局天子の札を上げた。

 

「な、なぜ?」と顔を上げる櫟を勝利に酔い痴れた様子の天子が見下ろし、これ見よがしに鼻を鳴らす。探偵が紐解いた謎を披露するように、胸を張り一度嚙み殺すように笑うとネタバラシをしてやる。

 

「日夜酒と桃しか食べない退屈な日々に満足する私ではないわ! 美味しいものを出来るだけ食べるため、私は私で料理の腕を磨いたのよ! 周りの天人からは桃があるのに馬鹿じゃない? なんて言われたけど、まさかこんなところで役に立つとは思わなかったわ! ふっふっふ、人間よ、己の無知を呪いなさい!」

「こ、こんな馬鹿な。ぐっ、私の策は完璧だと思ったのに」

 

 なんか悪役のようなことを言っている櫟に掛けられる言葉はない。天人に対する常識は天子に限って言えば通用しない。不良天人。天人でありながら、天人らしからぬ生き方を貫く天子の生き様に櫟は敗北した。

 

 よろよろと力なく立ち上がった櫟は、純狐と百六十五代目の前まで歩き二つの卵料理笑う見下ろした。櫟の卵焼きと天子のオムレツ。見た目はどちらも美味しそうに出来上がっている。スプーンを櫟は手に取ると、天子のオムレツを一掬いし口へとほうばる。

 

 卵の柔らかな香りと桃の香りが口の中に広がった。

 

 細かく刻まれた桃を包む半熟の卵。桃と卵という一見似合わぬ取り合わせではあるが、食べれば意見が百八十度変わってしまう。適度な塩加減で強調された桃の甘み。桃のフレッシュな舌触りがアクセントとなり、卵の柔らかさを引き立てている。天子の試行錯誤が垣間見える一品に、櫟の膝が崩れ落ちた。

 

「うぅぅ、ずるいじゃん! だって、だって私天界行けないからそんな情報集められないし! これまで料理の勉強する時間なんてなかったんだもん! だって、どーしても勝ちたかったんだもん! 藤さぁぁん!」

「い、櫟姉様……」

 

 子供っぽく、うがぁと叫ぶ櫟に百六十五代目はもうなにも言えない。ただ櫟が昔の口調に戻っただけなのだが、それを知るのは百六十四代目黴藤ただ一人、他の平城十傑がいても百六十五代目と同じように目を背けることだろう。月夜見に追い詰められた時でさえここまで取り乱さなかった櫟の姿に、天子も純狐も呆れるだけ。一頻り叫びぐったりした櫟を純狐は見下ろし、ゆっくり立ち上がり寄ると肩に手を置く。

 

「まあそこまで落ち込まないことね櫟、貴女の卵焼きも悪くはなかったわ。ただちょっと味が濃かったのが敗因かしらね。味付けさえ完璧だったら引き分けといったところでしょうね。ねえ藤?」

「は、はい! 確かに後は味の濃さだけです、櫟姉様なら次は完璧に作れますよ! 櫟姉様たちは千三百年の仕事を終わらせた方たちなのですから!」

 

 長いツインテールをぶんぶんと振って百六十五代目はなんとか櫟を励まそうと言葉を紡ぐ。「まあどちらも私には及ばないけれど」と、笑う純狐の姿に苦笑しつつ櫟はようやく立ち上がった。リサーチ不足は己の力不足。「……私の負けです」とそっぽを向いて歯軋りする櫟の姿は、負けを認めたくねえ! と言っているが、それで良しと天子は大きく頷いて強く一度手を叩く。

 

「さーて! 勝負は私の大勝利で終わったわけだし! 罰ゲームの時間よ! 敗者は勝者に従うべし! なにがいいかしらねー!」

「ふ、藤さんに近付くなとかはご勘弁を……」

「そんなつまんないこと言わないわよ……、だいたい藤をダシにしたくないし。そうね……、そう言えば貴方たちっていつもその学生服ってやつ着てるわよね? 着心地いいの?」

「まあ悪くはないですけど……」

 

 櫟のセーラー服をしばらく見つめて、天子はパチンと指を弾く。

 

「じゃあ今日一日服を私と交換しましょう! セーラー服? ちょっと着てみたかったのよ!」

「そんなのでいいんですか?」

「あら、他のがいいの?」

「いえ、それでいいならいいんですが」

 

 なら決まり! とぽいとすぐさま服を脱ぎ捨てる天子に櫟は目を丸くする。天子の行動力にはいつも櫟は驚いてばかりだ。藤が絡んだ時はお互い様ということは棚に上げ、櫟もいそいそ服を脱ぐ。天界に実る仙桃の香りが薄っすらと香る天子の服を手に取って、なんとも装飾の凝った服に袖を通した。天界製だけあって、異様に感触の良い布地に肌を這わせ、青いスカートを緩く揺らす。

 

「おー、これが学生服ねー。これで私も高校生ってやつね」

「天人、歳を考えた方がいいんじゃない?」

「うっさいわね! 何千年と怨霊やってる貴方には言われたくないわよ!」

 

 セーラー服を揺らす天子に服が見合っているかと言えば微妙であり、天人の格に服が追いついていない。服より青空を写し取ったような天子の髪の方に目が向く。未だ短い青髪を掻き上げながらポーズを取る天子の姿に百六十五代目は見惚れるように目を瞬いた。

 

「それにしても櫟、貴女に天子の服は合わないわね」

「うぅ、言わないでください純狐さん。言われなくても分かってます。それにちょっと胸が苦しいですし」

「遠回しに私を馬鹿にするのやめてくれる? どうせもう背丈とかいろいろ私は変わらないわよ! 悪かったわね!」

 

 すとーん、と決してふくよかではない天子の胸を見下し純狐は鼻で笑った。プロポーションという意味において、四人いる中で誰が一番かは自明の理。胸を張る純狐の姿に天子はギリギリと歯を擦った。純狐も天子もお互い歳を重ねようとも姿形が変わることはない。身体の差が埋まることは一生なく、二人を見比べて櫟は百六十五代目の肩を叩く。

 

「良かったですね藤ちゃん。私たちには未来があって」

「櫟姉様のその隙あらば誰にでも毒を吐くところ逞しいと思います」

「違いない違いない、櫟の根は結局昔から変わらないよなあ、そこがいいところだと思うがね」

 

 薄い男の笑いが部屋の中に木霊して、白煙が窓辺から滑り込む。空の中を揺らぐ薄煙のように気配なく、窓の縁に腰掛けるように佇む枯れ木のような人影に、四つの顔が集中する。

 

 櫟たちの見慣れた学ラン姿ではなく、男が着ているのは真っ黒いスーツ。地獄の暗闇で染めたような黒いスーツと、同じく真っ黒いネクタイを締めた姿は葬儀屋のようにも見える。その服の内側に詰め込まれた気配は人のものではなく死そのもの。どこか呆けたように、「あぁ、本当に人ではなくなったんだな」と櫟は男を二つの黒穴で見つめ納得する。ただ変わらずに人を小馬鹿にしたように口から長い機械仕掛けの舌を出す男に、櫟の口端が緩く歪んだ。それと同じように、百六十五代目も大きくツインテールを揺らす。それが心のゆらぎであるかのように。

 

「──お兄様ッ! あっ、私! 月で! ちゃんと!」

「分かってるさ鈴蘭。流石は新たな黴家の当主、お前のおかげで俺に未練はないよ。お前はお前の人生を描くといい」

「お兄様……っ!」

 

 百六十五代目になる前の名を呼ばれ、ふと涙腺が緩むも、零すものかと百六十五代目は目を強く腕で擦り先代へと笑顔を向ける。向けられた次代の当主の笑みに藤も笑顔を向けて、改めて櫟と天子の方へ顔を向けると、表情をころりと変えて爆笑した。

 

「はっはっは! 櫟、天子! お、お前たち似合わないな! 櫟、お前はアレだ、服に着られるって意味が理解できちまう格好だし、天子はなんだ? セーラー服のせいで正に不良って感じだな。髪色のせいかな? 小さな不良」

「うるさいわね! だいたい藤だって同じでしょうが! なによその黒スーツは! それで死神のつもり? 閻魔がよく許してるもんだわ!」

「新しい時代の死神の格好だよ。俺と菖の正装さ。悪くないだろうほら」

 

 黒いネクタイに付いている悪趣味な唇型のネクタイピンを見て、げんなりと天子は肩を落とした。藤以上に葬儀屋スタイルの似合い過ぎている菖のことを思えば、もう少し真面目に寄せろと天子は思わないわけではないが、ピンポイントな悪趣味な衣装が藤らしくはあると天子は思う。

 

 薄っすら垣間見える姉の面影に百六十五代目は鼻を啜り、櫟はただただ唇を噛む。

 

 言いたいことが多過ぎる。

 

 溢れた言葉が喉の奥でつっかえて言葉にならない。

 

 優れているはずの頭脳が機能しないことに櫟は歯噛みし、ただ藤の姿を見つめるばかり。

 

 そんな櫟のあるはずない視線を藤は受け止めながらゆっくりと足を動かし純狐の前へと歩を進めた。

 

「純狐殿、百六十五代目の師になってくれて嬉しく思うよ。純狐殿なら安心だ」

「怨霊が師なのに、そんなこと言うのは貴方ぐらいでしょうね藤。だから気に入ってはいるけれど。それより随分と体調良さそうじゃない」

「俺たち死神は『死』そのもの。死ぬことがない故に死神になってから絶好調。こんなことなら早く死神になっておくんでしたね」

「よく言うわ」

 

 死神とは死の形。小町なら斬殺。菖なら刺殺。藤は毒殺をそれぞれ司っている。死であるが故に死を振り撒き、故に生溢れる世界にほとんど介入しない。死神が本気で動く時は、死を与える時のみ。だから外でどれだけ大きな事象が起ころうと介入することはほとんどないと言っていい。月夜見が動いた時でさえ小町は静観していた程だ。正しき生者が命を賭ける場に死神は居てはならない。

 

 サボリ魔である小町も、勝手に一人動く藤も、死神のルールからは外れない。「なんで今日は来たのかしら?」と笑う純狐に、藤も笑ってあっけらかんと答える。

 

「日課の死から逃げてる天人狩りに。不良天人を今日こそ狩ってやろうと思ったんですけどね。天子の格好見たらやる気が死にました」

 

 なんだかんだと理由を付けて結局なにもせず話して帰るだけ。地獄から登って来て疲れた。三時のおやつだから帰る。閻魔様に呼ばれてるような気がすると藤の言い訳はバラエティー豊かだ。ただ今回の理由は一等酷い。ちらっと天子を見やりぷふっと笑う藤の口から溢れる白煙に青筋を立てて「悪かったわね!」と天子は牙を剥く。

 

「どうせ私に外の世界の服は似合わないわよ!」

「いや、そこまでは言わないが、天子にはいつもの格好が一番似合ってるよ、髪が短くても」

「ぅぐっ、ふ、ふん! 褒められたって死神なんかに絆されないわよ! 勝負よ勝負! 追い返してやるわ!」

 

 急に構え出す天子に藤は白煙をぶわりと吐いては笑い、後ろ手に机の上に置いた手がなにかのこつりと当たるのを感じて藤は手に当たったものへと目を落とす。手の両脇に並んでいる皿に乗ったオムレツと卵焼き。その二つを藤がしばらく見比べていると、どうぞと純狐が笑って手を差し出すので、「それじゃあいただきます」と藤はオムレツと卵焼きの切れ端を摘み口に放り込む。最後に指をペロリと舐めて電子タバコを咥え直すと細く長く息を吐いた。

 

「あら、はしたないわね、それで、どっちが口に合ったかしら?」

 

 悪い笑みを浮かべる純狐の顔を受けてしばらく藤は悩むが、結論はすぐに出る。あわあわと祈る百六十五代目に眉を顰めながら、ふわりと白煙を燻らせた。

 

「卵焼きの方が美味しいですね。俺はどうしても薬煙の影響で味覚が鈍くて、そこも死神になって改善されれば良かったんですけど、濃い味付けの方が好みです。この卵焼きは味付けが完璧。オムレツも美味しいんですけどちょっと味が俺には繊細すぎるかなぁ……とっ」

 

 

 味の感想の途中で突如背中に衝撃を感じ藤はふらりとよろめいた。

 

 

 背中に張り付いた少女の熱に一息遅れて口から白煙を零し口を噤む。

 

 

 死神に張り付いたまま、櫟の口は上手く動いてくれない。

 

 

 月との戦いが終わってから、よく知る二人が死神になったと櫟も聞いてはいたものの、真面目に不真面目な二人は全く櫟に会いに来てくれなかった。ようやく会えた男になんと言おうか、考えていた言葉も吹き飛んで、ただ嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになって言葉にならない。

 

 何も言わず動かない藤に、しかし何かを言わずにはいられず、藤の背に埋めていた顔をゆっくりと引き剥がして大きく白煙の匂いを肺に落とす。

 

 

 乾いてゆく唇を舐める余裕などありはせずに、

 

 

 ただぽつぽつと、

 

 

 小雨が降るように。

 

 

「あ、あの……ですね。私! その……藤さんに……藤さんが……えと

 

 死神は身動ぎ一つせず動かない。ただ口から白煙を立ち上らせるばかり。息遣いも聞こえない死神の体の冷たさに櫟は指を這わせて顔を上げた。

 

 

 追っていた男の後ろ姿を、ただただ時間を浪費して見つめる。

 

 

 結局追いつけなかった背中。

 

 

 藤はまた櫟よりもずっと早く先に行ってしまった。

 

 

 もう追いつけないかもしれないと思いながらも、

 

 

 櫟は藤の背中を握り、諦めることを諦める。

 

 

 

「し、死神になれば死なないんですよね? だ、だから! もし……もし私がその……死神にまでなれた時は……、その時は……、そうしたら! …………そうしたらですね……、そうしたら……」

 

「その時は、夫婦にでもなってみようか櫟。俺の刑期はおよそ5億7600万年、死ぬほど待つ時間はある」

 

 

 

 白煙は吐かず、ぽつりと零した藤の言葉によたりと櫟が後退る。薄く微笑む藤の横顔を見つめ、櫟は小さく頷いた。

 

 櫟に飛び込んでゆく百六十五代目を見送って、「これが……試合に負けて勝負に勝つこと」と呟く櫟に突っ込んでゆく天子を見て藤は再び大きく笑った。

 

「いいの藤、そんな約束をして。仙人や天人になるのはかなり大変よ。更に死神になるなんてどれほどの茨の道か」

「俺は知ってるんですよ櫟ならなんだってできるってこと。櫟の目は節穴じゃあないですよ」

「そう、貴方は櫟を選ぶのね」

「選ぶ? いやいや、逆だと思いますけどね。俺の初恋は確かに先代ですけれど、誰より強く生きる少女に目を奪われないはずもなし。それに、櫟と天子ってどこか似てません? だからつい気にしてしまう」

「それは誰かさんに対してだけだと思うけれど。貴方そういうところがいやらしいわよね。いつか刺されるんじゃなくて?」

「生憎死なないもんで」

 

 うわぁと、微笑を浮かべる煙の死神から純狐は突いた頬杖の上にある顔を背けながら小さく笑う。この死神の相手をする者の冥福を祈りながら、わちゃわちゃと笑い合う人と天人の少女たちを純狐は死神と二人静かに眺め続けた。

 

 

 

 

その3

  • レミリア、さとり、椹、たった一度の盗賊編
  • 百六十五代目 黴藤の日常編
  • 地底で鬼と酒盛り編
  • 楠と桐 新たな刀を手に入れろ編
  • 月夜見が遊びに来やがった編

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