第一夜 夕
「月が綺麗ですね」
夜空に月が浮かんでいる。満月には程遠い欠けた月。そんな月を見ながら、一人の男がふらふらと長い階段に立っている。無造作に目元まで流された長めの髪を掻きながら、背後に振り返りふにゃりと笑った。その男の視線の先に立つ一人の少女。薄く透明な尾を引く塊が少女の周りをゆっくり周っている。その薄い膜の向こうから、少女は目をきつく引き絞り、男を警戒してその一挙動に注視する。
男は月明かりに照らし出された少女の白銀の髪に目を這わせて、よりふにゃりと笑う。緑色の服を揺らしながら、少女、魂魄妖夢は、背に背負った長い長刀をするりと抜いて地に沿わせた。白玉楼への侵入者。それに妖夢が気がついたのはほんの少し前。いつもなら誰かが白玉楼に近づけば、スキマを操るような例外を除きすぐに分かるのだが、この男は別だった。
空を飛んで来たわけでもなく、白玉楼へと続く数えるのも嫌になるような階段をずっと上って来たらしい。それも霊力も妖気も持たぬ人間が。ただの人間。妖夢が自分の目で見てもそう思う程に、人里で目にする人々と変わらない。だが、着ている服が異質だ。青っぽい学ランを着て、手には長い筒のようなものを男は持ち、腰を曲げて杖のように筒先を地につけ肩に掛けている。そんな男を妖夢が白玉楼を出てすぐに見つける事ができたのは、白玉楼のすぐ下の階段で男が座っていたから。何がしたいのかよく分からない。
そんな男は妖夢が刀を抜いても表情を変える事はなく、月の光が妖夢の『楼観剣』を舐めるのを目で追って、一人頷くと視線を外す。白玉楼を囲う大きな塀と、周りの木々を男は見て、再び気を張っている妖夢へと目を戻す。
「不思議な場所ですね、秋なのに桜の香りがするようだ」
男の気の抜けた声に妖夢の肩が一段下がる。闘争心の欠片もない。白玉楼の周りに生えている桜の木を見てそう言ったのか。だが、その男の自然体な様子が逆に不自然だと妖夢は刀を握り直した。
「ここは白玉楼。あなたのようなただの人間が来るところではありません」
そう妖夢は言うが、白玉楼には結界が張られている。ただの人間ではそうやすやすと白玉楼には入って来られない。何より冥界の冷気に当てられて、健全な状態ではいられないはず。だが事実男は入って来ている。男は妖夢の鋭い声の忠告にも顔色を変えず、ふにゃりと笑ったまま、「ここにお姫様が居ると聞いたのですが」と間延びした声で言った。
「居たとしてどうする?」
妖夢の声に低さが加わる。白玉楼で姫と言えば一人しかいない。西行寺幽々子。冥界に住む幽霊達の管理人。ただの人間が気にするような相手ではない。だが男は長い階段を延々と上り白玉楼までやって来た。妖夢の質問に男は階段を一段上りながら考えるように小さく唸る。
「んー、ちょっとお話をしたいと思いまして」
「駄目だ、帰れ」
短い否定の言葉で妖夢は斬り捨てるが、気にした様子もなく「困った困った」と言いながら男はまた一段階段に足をかけた。その足の一寸先、風を切る音と共に深い線が刻まれた。この先進むべからずの指標。それを男も理解し一瞬足が止まったが、変わらず足を差し出して線を超えた。
「愚かな」
「人は誰もが愚かなんです」
音が切れる。薄い空気に綺麗に線が入り、男の手前で弾けた。目を見開いたのは妖夢の方。男の手に持った筒に妖夢の斬撃が上方に弾かれた音。長い筒の外装が破けて中身が外気に触れて白く光った。男が手に持つは白い鞘に収まった大太刀。痩身の男には似合わぬ得物。
それよりも驚いたのは、霊力の刃を弾いた技術。鞘から刀も抜かずに軽く男は大太刀を振ったようにしか妖夢には見えなかった。より鋭くなった妖夢の目に、男は笑っていた口を閉じて口をむにむにと動かす。やる気なのかと妖夢は身構えるが、男の目は変わらず笑ったまま、妖夢の視線から逃げるように顔をふいっと背けた。怪訝に思う妖夢を気にせず、明らかに隙だらけな男の様子は闘いの空気ではない。
「そう、あんまり見つめないでください。惚れてしまいます」
「は?」
ポツリと男は言い、余計に空気が柔らかくなる。男は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、再び妖夢へと視線を送る。
「だってそうでしょう? 貴女みたいな美人さんにそう見つめられては、好きになってもしょうがない」
男が何を言っているのか分からないと妖夢は眉間にシワを寄せる。いや、言っている事は妖夢にも理解できる。だが、明らかに場に不釣り合いな言葉。今言うべきことではない。心情を乱し集中力を欠かせるための口八丁、そう捉えて妖夢は刀の切っ先を向けた。
「言葉で惑わそうとしてもそうはいかん!」
「いやいや、惑わすなんてそんな。私も自分の惚れ症には困っているんですがね、でも我が一族の性分なので仕方がないのです」
暖簾に腕押し。妖夢の引き絞られた剣気を受けても全く男は変わらない。闘いの気配を滲ませすらさせずに、ただ妖夢に向かって笑顔を送る。しばらく二人は睨み合っていたが、段々と妖夢は馬鹿らしくなってきた。ただ妖夢を見つめるだけの男に、一人熱心になっている状況が煩わしい。
「……その大太刀は飾りですか?」
「ああこれですか、山を登ったりするのに便利なんですよね」
「……そうですか」
変な男だ。身なりも変だが、言うこともおかしい。幻想郷で春を集めた異変の際に、多くの変人達と妖夢も出会ったが、その者達と比べても遜色ない変人だ。軽い頭痛に眉間を歪めながら、妖夢は楼観剣を鞘へと納める。
「はぁ、何にせよ、闘う気もないのなら帰ってください」
「いやいや」
「いやいやじゃなくて」
「まあまあ」
「まあまあじゃなくて、って何手を握ってるんですか!」
いつの間にか妖夢の目の前まで階段を登っていた男が、いやいや、まあまあ言いながら妖夢の手を柔らかく握り手の甲を摩る。足音もせず気配もなかった。闘う気もない癖になぜこんな事に実力の一端を披露しているのかと、男の手を強引に払いながら口角を下げる。
「綺麗な手ですね。剣客の手だ。それも相当やり込んでいるでしょう」
「……まだまだですよ」
男から手を隠すようにしながら、妖夢は男から顔を背けた。僅かに照れて頬が赤くなる。剣の腕を褒められた事によってではない。綺麗な手と言われた妖夢の手は、お世辞にも少女が仕える幽々子のように綺麗なものではない。日々の家事で手はかさついているし、剣の修行の成果を表すように、左手の小指の付け根の手のひらには大きな剣ダコがある。そんな剣客少女の手を握り臆面もなく挨拶するように綺麗と口にする男の気が知れない。
「そう照れないでくださいよ。そう可愛らしい姿を見せられると余計に好きになってしまうでしょう」
「全くあなたは、誰にでもそんな事を言ってるんじゃないですか?」
「そうですけど」
「否定しないんですか⁉︎」
少女の叫びを受けても当たり前と言うように男は肩を竦めるだけ。さっき照れた自分を叩っ斬りたいと背の剣に手が伸びそうになるが、手を軽く握り妖夢はその想いを押し留めた。こんな男に振り回されるなどごめんだと言うように妖夢は会話を打ち切り男の肩を手のひらで強く押す。
「もういいから帰りなさい! ここに用はないでしょう!」
「いやまだ姫様に会ってないですし、それに今帰ろうと思ったら朝になっちゃいますよ。徹夜はちょっと」
「知りません!」
もう一度強く男を押そうと妖夢は腕を突き出すが、スルリと避けられ男は階段に足をかける。闘う気はなかろうと、わざわざこんな怪しげな男を幽々子の従者が合わせるわけにはいかない。背の楼観剣の柄を再び握り振り抜く。相手は名も知らぬ侵入者。それも女たらしの変人だ。一度斬ると決めたなら、斬る事に半人半霊の剣客に躊躇いはない。
音を置き去りにして空を駆ける銀の閃光。人でも妖怪でも関係なく、気づかぬうちに首が落ちるような光速の刃。だが、男の握る大太刀が僅かにズレたように妖夢の目に映った瞬間、男の首、薄皮一枚まで迫っていた刃が弾かれる。驚きはしても先程一度見はした男の動き。奥歯を噛み締め、身を捻り返しの刃を妖夢は振るう。再び弾かれる剣。三度四度と繰り返すが、男はただ階段を上りながら命に伸びて来ようとする剣先を弾く。
おかしい。妖夢の一撃は軽くはない。加えて人の短い年月を嘲笑うように鍛えてきた妖夢の剣技は、剣士同士ならばこそ、並であれば受ける事も難しい。それを体も向けずに弾き続ける男は異様だ。
「いい音だ。綺麗な剣筋の音。貴方は大変良い腕をお持ちですね」
「くっ! 嫌味か!」
「それこそまさか、ただ私が得意なだけですよ。ただ前に進むのが。相手を斬り捨てるのは苦手なんですが、弾くのは得意で、いや弾く事しかできないんですけどね」
「なんだそれは!」
何だと聞かれても説明がしづらいと男はまた迫る剣を弾いて額を掻く。
男の一族は大昔帝の書状を届ける役職に就いていた。現代の外の世界で言う郵便屋さん。江戸時代、鎌倉時代で言う飛脚。ただ帝の書状と言う通り、民間で使われるものよりも重要性は遥かに高い。平城京の中から、遠く離れた土地にまで。時には帝の書状を狙いやってくる刺客を払いのけ、必ず書状を届けなければならない。二の足を踏む事は許されない。遅れるなど以ての外だ。幾つかの家が帝直属の飛脚としてその役職に就いていたが、ただの一度も遅れずに全ての書状を届けたのは男の一族のみ。時には妖怪が治める土地すら踏破し書状を届けた実力を讃えられ、ただの配達人でありながら、男の一族は平城十傑に名を連ねた。
だが、ただの一度、一度だけ男の一族が届けられなかった命がある。かぐやの姫君には届かなかった。それを届けるために千年以上も男の一族は前に進んだ。その目的地は未だ見えず、どこかも分からぬ場所を目指して男は足を進める。昔から変わらずそれは今も。終わらぬ旅を終わらせるため。そのために。
溜息のように気の抜けた息を男は吐き、足は止めずに銀髪の少女の方へと足を向ける。引き返すのではない。転進、前に進む事しか男は知らない。スルリスルスルと弾き振られる剣の隙間に男は一歩足を入れる。目を見開いた妖夢の顔を真正面から男は見るが、ゆっくり眺めている時間はない。前に足を出す動きに合わせて白い鞘で剣を弾く。上に手が伸びた妖夢の胸元へと体を屈め、転進、妖夢へと背を向ける動きに合わせて大太刀を引き抜き妖夢の胴へと振り抜いた。
風が唸り、妖夢の小さな体が空を飛ぶ。刀で男の大太刀を防ぐ時間はなかった。白玉楼の堀に妖夢は体を叩きつけ、口から空気が漏れ出ていく。少女を追って宙を滑る半透明の人魂が少女の元へ向かうのを男はゆっくり見届けてまた階段に足をかけた。
「ぐっ」
壁にめり込んだ体を起こし、妖夢は己が腹へと手を伸ばす。骨まで感じた刃の感触。だが、身は離れ離れにはなっておらず、服も変わらずそこにある。腹に当たった感触は、峰のように固いものではなかったのに、どういうことだと妖夢は視界のおぼつかない頭を軽く振り、男の方へ目を向ける。
五尺はあるだろう大太刀の刀身。六尺近い痩身の男がそれを握り肩にかける姿は、そのまま男が一本の刀になったようにも見える。男は目を白黒させる少女の視線に気がつくと、変わらず顔をふにゃりと笑顔に変えた。
「ね? 弾くしかできないでしょう?」
「いや、おかしいでしょう。その刀、刃は」
「入ってますよ。兜割りもできるらしいんですけどね。私の使う技はどうも斬る事には全く向いていない」
前に進めればそれで良い。手で触れられるものも触れられぬものも、斬り捨てるのではなく遠くへ弾ければ、気にせず前へと進む事ができる。それによって生まれた副産物的不殺の剣。闘いにはあまり向かないが、男はこの一族の技を気に入っている。綺麗な少女を斬り捨ててしまうよりもずっと良い。
だが、その普通ではない剣術が、妖夢の剣士としての心に火をつける。ただの人間とは思えない。全身全霊技をかけて斬り捨てる。目の前の男には剣士として全力を出しても構わないと、白玉楼の門前に立った妖夢は楼観剣を背後に向ける。寄って斬る。必要なものはそれ。前へと身体を傾けて、男と同じく前へとただ突っ込むと分かる姿勢。
男の元へ飛び込む。そんな姿を男は見て口角を上げた。柔らかな笑みではなく、鋭い笑み。大太刀の兼房乱の刃文を身に写したようなそんな笑み。
それを覆い隠すように背を丸め、男は大太刀を背負うように丸めた背中に大太刀の背を合わせる。右足は曲げて大きく前に出し、伸ばし切った左足は体の重心を支えるため。残りの部位は全て前に進むためだけに躍動させる。
『一刀背負』。
これぞ男の流派が千年以上も変わらずにただ研ぎ続けた前進の構え。これしかないが、だからこそこれだけを極めれば良い。そしてやる事もただ一つ。目の前に立ちはだかる障害を弾き前へと進むためだけだ。
静かな彗星のように緩やかな妖夢の構えに対し、柔らかな空気を纏っていながら、ギチギチと音がする程に全身の筋肉を引き絞る
階段の下と階段の上。突き下ろすならまだしも、斬り払う動きならば、階段の下に位置取る男が有利。それが分かっているからこそ、妖夢は聞こえないように舌を打つ。一撃目でかち合うのは無理がある。刀同士をぶつけ合い、二撃目を突き下ろすのが上策。だが、それが分からぬ男ではない。二撃目がないように一撃で少女を弾くしか男にはない。お互いが飛び込む合図を探し、ジリジリと二人の身体だけが前のめりに動いていく。
それが最大限まで倒れ込んだ瞬間、「待ちなさい」と柔らかな声がその場を包んだ。二人の視界に人の姿は映らない。ただ二人の間にひらひらと、夜桜色の光の蝶が横切っていく。
「妖夢、剣を納めなさい。面白そうじゃない。客人として招きましょう」
「幽々子様! ですが!」
勢いよく身を起こして、姿は見えずともどこかにいるらしい幽々子を探して従者の少女は主人へと声をかける。その声に反応するように、木の隙間、屋敷の奥、月明かりの下から多くの光蝶が姿を現し、白玉楼の門上に集まっていく。数多の蝶が交差して、それが通り過ぎた先、青い夜色の着物が夜空に映えた。
桜色の髪を黒い背景の上に揺らし青い袖を口元に当てて白玉楼の主人は柔らかく微笑む。妖艶な空気を存分に振り撒いているが、その中に潜む少女のあどけなさ。そんな主人へ向けて妖夢は顔を上げると視界の端に銀閃が滑り込んだ。
向かう先は違えない。代々の技を存分に振るい、男は目的地に向かって一足飛びに前へと進む。
「幽々子様‼︎」
妖夢も足に力を入れるがもう遅い。男は幽々子の手前で足を止めると大きく背まで振りかぶっていた大太刀を勢い良く振るい、幽々子の手前、自分の横へと突き立てた。
「探しましたよ姫様。私は貴女に会うためだけにここまで来ました」
「あらぁ」
西洋にいるという騎士のように、男は優しく下から幽々子の手を掬い上げ、その手の甲へと小さく口をつける。満更でもないと言うように幽々子は自分の頬へと手のひらを当て、柔らかな笑みを男へ送った。
「月と見間違う美しさ。いえ羞花閉月、月も貴女の美しさには敵いますまい」
「あらお上手ね。でも誰にでも言ってるんでしょう?」
「まさか、貴女にだけですよ」
「あらあら」
柔らかく笑い合う二人は楽しそうで、二人だけで独特な空気を作っている。それを妖夢は眺めて一度目を伏せ、
「ふん‼︎」
一足飛びで男の横へと降り立ち、その頭に向かって楼観剣の峰を落とす。硬いもの同士が打つかり合い、黒い夜空に赤色が混じる。
「痛たた、私じゃないと死んでますよ。何するんですか」
「何じゃない‼︎ 何が貴女にだけですよですか! 幽々子様に嘘を言うな!」
「嘘じゃないですよ、今の台詞は今初めて使いました。ほら初めてでしょう?」
「それは屁理屈じゃないですか! いけませんよ幽々子様! こんな女好きに惑わされては!」
「あら妖夢、殿方のお誘いをそう無下に断るものでもないわ。取り敢えずお食事でもいかがかしら? 白玉楼でも良ければだけどね」
「貴女と一緒ならどこへでも」
「ふん‼︎」
二度男の上に峰が落ちる。赤い噴水が夜空に上がり、男は今度こそ崩れ落ちた。
***
「あらそう、かぐや姫を探して千年以上も。大変だったわね」
「いえいえ、これも全て貴女と会うための道だったのでしょう」
「あらあら、困った子ね」
ふふふと笑う幽々子に合わせて、胡座をかき、頭に包帯をぐるぐる巻いた男も同じく笑う。不死身かこいつはと呆れながら、何故か男にまで夕餉を作る羽目になった妖夢は、おひつから白米を茶碗へと盛る。それを横目に見た幽々子は口には出さないがもう少しと手で従者へとジェスチャーを送り、妖夢はため息を零しながら茶碗にもう一段白米を盛った。
「はしたないかしら、たくさん食べる女性はお嫌い?」
「いえそんな事はありません。健康な証ですよ素敵です」
「だそうよ、妖夢?」
「別に量は増やしませんからね。幽々子様楽しんでるでしょう? 何言っても肯定されると思って」
笑う幽々子の対面に座る男に向かって妖夢は睨みつけるが、男はどこ吹く風でふにゃりと笑うのみ。出会って一刻も経っていないというのに、妖夢はもうこの不可解な男が苦手になっていた。何よりも、男の話が怪し過ぎる。
千年以上も昔の話。本として広まった竹取物語。その場にいたという平城十傑と呼ばれた猛者達は、姿の消えたかぐや姫を探すため、月軍を倒す術を極めつつ、世界中を代々駆けずり回っていたと男は言った。
かぐや姫なら妖夢も幽々子も良く知っている。永遠亭にいる月の姫。それを探して幻想郷くんだりまで足を運んで来た外来人などこれまでいなかった。かぐや姫こと蓬莱山輝夜からも、同じく平城京から幻想郷までやって来た藤原妹紅からも平城十傑の話など、妖夢も幽々子も聞いた事がない。故に男の姿は妖夢の目には不気味に映ったのだが、男は気にした様子もない。
「それでどうするんですか? かぐや姫は幻想郷にいますけど」
「みたいですねえ。困ったなあ」
「困ったなあって……」
極め付けはこれだ。男の話を聞いて、幽々子はすぐに男の求めている答えを言ったのだが、男の歯切れが悪い。「そうですかぁ」と少し困ったように目尻を下げて、味噌汁を口へと運ぶだけ。その歯切れの悪さがより不気味であると妖夢は目を顰めるのだが、幽々子は変わらず笑うだけだ。
「あなたは蓬莱山輝夜を探してここまで来たんでしょう?」
「いやそうなんですがねえ」
「何なんですか? 何か不都合な事でも?」
そう言われても、男には別に不都合な事はない。あるとすれば、この千年以上も当主の誰も成し遂げて来なかった事が自分の前に転がって来て現実味がなく困ったといったところだ。蓬莱山輝夜に会えば、男の役目は終わる。旅も終わる。すると一体その先どうすればいいというのか。降って湧いた幸運のようなそうでないような状況が手に余ると男は唸る。
「そうなると共に来た三人の仲間にも伝えないといけないですしね。いやあこうなんと言いますか、初めて女性に会うのが怖いなあって」
「何ですかそれは」
「いやあ、かぐや姫様といえば絶世の美女、一目で骨抜きに惚れてしまいそうで」
「もう早く行ってください」
馬鹿らしいと男の相手をするのを諦めて、妖夢も食事に意識を移す。この女好きはどこまで行っても変わらないらしいと白米を口に放り込み、飲み込むのに合わせてため息も飲み込んだ。
「それで? 結局貴方はどうするのかしら? 面白い話を聞かせて貰ったお礼にしばらくここに泊まっていってもいいけれど」
そんな幽々子の言葉に妖夢の喉が詰まる。気まぐれな主人の相変わらずなぶっ飛んだ提案が嘘であってくれと味噌汁を喉に流し込んで呼吸を整え主人に向かって目配せするが、それで得られた結果は妖夢が望まぬもの。「どうかしら?」と言うように袖から取り出した扇で口元を隠しながら幽々子は微笑む。
「ちょ、幽々子様」
「いやあそれは渡りに船です! 貴女のような美人さんと一つ屋根の下に居られるなど。それに聞いた話では幻想郷には美人さんが多いと。かぐや姫様に会う前に美人さんに慣れておかねばいけないでしょうし、是非お願いします!」
「あなたは! 何が美人さんに慣れておくですか! ただのあなたの趣味でしょ!」
こんな女好きの変人と数日も一緒に居ては気が滅入ってしまうだろうと妖夢は断固反対の意志を見せるが、男には全く聞き入れられず、従者の事など手に取るように分かると笑う幽々子に口を挟まれる。
「でも妖夢、彼はかなりの剣の腕を持っているようだし、ここに居てくれればあなたの修行相手にもなってくれるんじゃないかしら? あなたと対等の剣士を探すのは大変だもの。彼とやった時楽しかったんじゃない? 弾幕ごっこより本当は剣で斬り合いたいのでしょう?」
むぐ、っと妖夢は口を噤んだ。確かに幽々子の言う通り、男との剣術勝負は剣客少女の心の内を躍らせた。弾幕ごっこで弾幕を打ち合うのではなく、一振りの剣で命の取り合いをするあの感触。弾幕ごっこと比べれば綺麗さなど比にもならない無骨で血生臭い勝負。肌をひりつかせる剣気の感覚、視界を切り裂く煌めく銀閃。
だが、妖夢としては不完全燃焼。男のやる気がなかったから。最後に最後で嵌りかけたが、それは幽々子の声で中断された。もし幽々子の声がなければどこまで行っていたか。その瞬間を得られるものなら得てみたい。チラリと妖夢は男を見て、そして肩を落とす。あの一瞬とは似ても似つかない柔らかいとも言えないふやけた笑顔。男のやる気が感じられない。
「はぁ、駄目ですよ幽々子様、この男からやる気のやの字も感じません」
「む、そんな事はないですよ、だいたいやる気がなければこんなとこまで来ません」
「それだってどうせ美人なかぐや姫が見たかったからとかそんな感じなんじゃないですか?」
「おお、よく分かりましたね。その通り、何たって私は誰より『愛』の力を信じていますから」
「何ですかそれは」
この男とまともに話し合う事は不可能だと妖夢は男から視線を切る。何にせよ主人が認めたのならば、従者がそれを覆す事などできない。鬼気迫った問題ならばまだしも、そうではない。気に入らない男でも、主人がここに居ていいと言うのなら従うまで。主人の変わった者好きには困ったものだと妖夢は一度目を伏せ、手に持った茶碗を見つめて食欲によって誤魔化す。
「妖夢も了承してくれたようで良かったわ。たまには環境を変えないと飽きてしまうもの。ここにいる条件として妖夢の手伝いと、たまに私の相手もして貰う事になるけれど」
「全く問題ありません。美人さん二人の相手なんていくらでもしますとも。私は家事はあまり得意ではないのですがね。蹴鞠や琴なら弾けますよ」
「あらそうなの? 意外ね。私と趣味が合いそうだわ」
そう言って幽々子はまた微笑む。男は自分の家に感謝した。帝直属の配達人。仕事がない時はたまに帝の相手をする。そのために唄から蹴鞠といった公家の嗜みも共に男は積んで来た。現代の外の世界では物珍しさから気を引けても、一時的なものでしかなかったが、幽々子程の美人と話が合うなど、これまでの苦労が報われた気分に、男は何もない虚空に手を合わせた。そんな男を馬鹿を見る目で睨む妖夢は間違っていない。
「あなた本当にここにいる気ですか?」
「ええ、かぐや姫様もここに居るなら逃げないでしょう。とはいえいつまでもここにいるわけにもいきませんがね。かぐや姫様が居着いた土地をしばらく見させて頂きましょう。千年以上も探したのですから数日くらいはいいでしょう。それに勿体振りたいですから。あの時はそういう時代でしょうからね」
また意味の分からない事を男が言うので、もう何も言わずに妖夢は男の話を聞き流す。そんな二人の様子を幽々子は楽しそうに眺め、扇を閉じて手に打った。
「さあ、話は纏まった事ですし、そろそろ聞かないといけないわね。順番が前後してしまったけれど」
「聞くって何をですか幽々子様」
聞くべき事は聞いたのではないかと小首を傾げる妖夢に、幽々子はカラカラ笑い男に向かって扇を向ける。ここまでおかしな状況で下手に話を伸ばしたせいで、全く気にしていない妖夢に向かって、「彼の名前よ」と呆れたように言葉を投げた。
「そう言えばそうでしたね。どうだっていいので忘れていました」
「ど、どうだっていい……」
美人な少女にどうだっていいと言われたのがショックだったのか、初めて男は気落ちした様子を見せる。しかし、すぐに一度咳払いをすると、スッと背筋を正し、崩していた足を正座にまとめ、床に軽く拳をつける。ふやけた空気に一本柱が立ったように、男の雰囲気に鋭さが混じる。
「