外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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内角高め 148km/hのストレート

 

 

 ――駄目だったか。

 

 球審を務める野球部の監督、茂木林太郎が内心で小さく溜め息をついた。

 彼が今回の紅白戦を行うことを了承したのは、夏の大会を見越してエースの波輪以外にも使える投手を用意しておきたかったからでもある。秋ならばまだしも、真夏のマウンドは過酷極まりない。いくら波輪が優秀な投手だからと言っても、彼一人に頼りすぎるのはあまりにも危険なことだと考えていた。

 それはチームの勝敗というよりも、波輪の身体を気遣ってのことである。茂木は別段、野球部の勝利に対して然程執着があるわけではない。例え試合に勝てなくても、選手が怪我なく無事に三年間部活動を続けることさえ出来ればそれで良いと思っていた。

 茂木はかつて、現役時代ではプロ入り目前まで行ったほどの優秀な投手だった。しかしドラフトを前にしてそれまでの酷使が祟り右肩に致命的な怪我を患ってしまい、プロ入りを断念したという過去がある。

 そんな苦い経験をしてきた茂木だからこそ、自分が教える選手には怪我をしてほしくないのだ。だからこそ彼は、波輪の右肩を酷使し過ぎないようにと二番手に使える投手を捜していたのである。

 強肩がウリで、良くも悪くも負けん気の強い池ノ川貴宏には、能力と性格を含めて投手の適性があると考えていた。その為今年の二月からは彼に投手としての練習もさせていたのだが……結果は見ての通りの有様である。

 

 0回2/3を7失点。相手の攻撃は尚も継続中――。

 

 長い目で見れば初登板ならばこの程度でも仕方ないと納得出来るのだが、現時点の池ノ川は新入生の青山にすら遠く及ばない完成度だった。彼をこれから育成しようと思えば、年単位でも相当の時間が掛かるだろう。少なくとも、夏の大会まではまず間に合いそうにない。

 

(青山の制球はそこそこ良さそうだし、二番手はあいつに決まりか。けどなぁ……)

 

 夏の大会の二番手は、少々荷が重いが新入生に任せるしかないようだ。初回を見た限り青山の投球は思っていたよりもまとまっていたし、まだ入部したてと思えば球の質もそう悪くはない。だが現時点の実力では、他校の打線を相手に通用するとは思えなかった。

 後ろに控えている投手が心許なければ、波輪は「勝つ為に」どんなことがあってもマウンドを譲らないだろう。あれはそういう人種だ。

 問題は何かアクシデントが発生した時、そんな人種である彼をすんなりと交代させることが出来るかというところだった。

 

(いざと言う時は、監督権限で無理矢理にでも下ろすしかないか。そんな事態にならないのが一番だが……)

 

 いっそチームが一回戦で敗退してしまえば、彼が背負う負担は少なくて済むだろう。だが彼の存在はたった一人で弱小校を強豪校と渡り合えるレベルにまで押し上げている為、場合によっては多くの試合を投げることになる。それこそ本当に甲子園に出場するとなれば、その負担はより一層に跳ね上がることだろう。波輪は頑丈な人間だとは思うが、肩の怪我は一度でも発症するとかつての自分のように選手生命が絶たれる恐れがあるので、非常に不安なのだ。

 茂木は周囲の人間からは無気力でやる気のない監督に見られがちだが、選手の怪我に関しては過剰なまでに神経質な男だった。

 

 そんな彼の元に、一人の選手が声を掛けてきた。

 

「監督」

「ん、どうした鈴姫?」

 

 打線爆発によってこの回二度目の打順が回ってきた白組の四番打者が、打席に入る前に呼び掛けてきたのである。

 彼の名は鈴姫健太郎――一回表の守備ではヒット性の当たりをいとも容易く捕球し、先の一打席目ではたった一振りで池ノ川のボールをフェンスへと直撃させたこの選手は、未だ入部したばかりの一年生だと言うのだから末恐ろしい。打って良し、守って良し、走って良し。おまけに顔も良しという、竹ノ子高校の大半の男子生徒に対して喧嘩を売っているような存在である。性格は生真面目で、茂木が知るところかなりの努力主義者である。故に色々な意味で個性派揃いである他の部員達とのコミュニケーションが上手く取れているのか等、実力以外の部分で少々不安に思っているのがここだけの話だ。

 

「これでは練習にならないので、ピッチャーを代えてもらえませんか?」

 

 そんな彼が、現在マウンドに立っている赤髪リーゼントの男を指差しながらそう言った。打てて当然の投手を打っても、練習にならない――彼の生真面目な性格故に出てきた言葉であろうが、こうも直球に言ってくるとは思わなかった茂木は思わず目を丸くする。

 鈴姫の顔を凝視してみると、常の彼らしからぬ苛立ちの色が浮かんでいることに茂木は気付いた。

 

 

 

 

 ――全くもって、意義を感じない試合である。

 

 この時鈴姫の心を占めていたのは、現在マウンドに立っている存在に対しての深い侮蔑心であった。

 ストライクが入らず二人のランナーを出した後、ボールを置きに行く真ん中狙いの投球に切り替えたところを滅多打ちにされ、どうすれば良いかわからなくなったピッチャー――鈴姫にとって、そんな存在はもはや戦うに値しなかった。

 情けない投手の球をいくら打ったところで、何の練習にもならない。

 もし池ノ川が打ち込まれながらも何かを掴むことが出来る男ならば、これはこれで有意義な練習だと思えただろう。しかし、現在マウンド上で放心している彼の姿を見る限りでは、その願望は叶いそうになかった。

 たった一本の長打を浴びた程度でこうも歯止めが効かなくなるようでは、元々彼に投手としての適性はなかったのだろう。こればかりは、投げさせた茂木監督が悪いとしか言えなかった。

 だからこそ、鈴姫は進言したのだ。これ以上池ノ川に投げさせても意味がないから、早くまともなピッチャーを出してくれ――と。

 

 ――と、ここまでが建前の話である。

 

 練習にならないから交代してほしい。それも確かに理由の一つではあるが、鈴姫の本心はさらに個人的な部分で別にあった。

 

(なんで、アイツじゃない……!)

 

 すぐ近くに居る「あの少女」を差し置いて、池ノ川がマウンドに立っていることがこの上なく不愉快だったからだと――そのような、思った本人ですら苦笑を禁じえないほどの理不尽な理由だった。だがこればかりは、鈴姫にとって何よりも譲れないことなのだ。

 監督がこの紅白戦で二番手投手を見極めたいと言うのなら、最も試すべき人間は他に居る。

 すぐ近くのベンチから、ずっとグラウンドを眺めているのだ。

 

(そんなところで何をしているんだよ、君は……)

 

 鈴姫はその視線をベンチに向けようとして――途中で止める。今の「彼女」の顔を直視することに、鈴姫は拒否反応を起こしてしまうのだ。

 

(……くそっ、今更何を考えているんだ俺は)

 

 二、三回そこで素振りを行うと、鈴姫は心を落ち着けてからマウンドを睨む。その視線の先に、池ノ川の姿はなかった。池ノ川は、ピッチャーからライトへと守備位置を移していたのだ。

 どうやら「あの少女」のことでしばらく考え事をしていた間に、茂木監督が投手の交代を決めてくれたようだ。入れ替わって、先ほどまでライトを守っていた選手がピッチャーマウンドへと移っていた。

 

 ――それは竹ノ子高校のエース、波輪風郎が登板したことを意味していた。

 

 

 

 

 

 白組の一番矢部にライト前ヒットを浴びた後、続く二番小島にレフト前、三番外川にライト前へと運ばれ、それが連続のタイムリーヒットとなった。いずれも当たりが良すぎた為にランナーは各駅停車に留まったが、ランナー満塁の状態からきっちり一点ずつ奪われたことで、池ノ川はこの回七点目の失点を喫してしまった。

 打順が四番鈴姫の二打席目を迎えたところで、ようやく茂木監督が投手の交代を告げた。

 いや、あれは鈴姫が何か言ったのであろう。ベンチから眺めていた星菜の目にはそう映った。

 

「うーん、池ノ川君、とうとう見切られちゃったッスか……」

「このままでは手応えがなさすぎて白組のバッティング練習にもなりませんからね。妥当な判断でしょう」

「星菜ちゃんって、結構容赦ないッスね。意外に毒舌で、ちょっと驚いたッス」

「……すみません」

 

 何一つとして得るものがなく終わってしまった池ノ川の初登板に、ほむらが残念そうに眉をしかめる。だが彼女には星菜の口から飛び出してきた罵声じみた発言の方が衝撃的だったようで、そう言って星菜に向ける表情には若干の恐れの色があった。

 星菜は一度、冷静になって自らの発言を省みる。確かにあれは、問題発言もいいところだ。星菜は隣に居るほむらの気分を害したことと先輩に対しての行き過ぎた不敬な物言いに、深々く頭を下げた。

 

「試合中に他の人の意見を聞けるのは楽しいから、ほむらは嫌じゃなかったッスよ?」

「……ですが、池ノ川先輩に対して酷いことを言いました。後で謝らなければ……」

「別に本人に聞こえたわけじゃないんだから良いんじゃないッスか? でもほむらのことはあんな風に罵らないでくださいッス! 絶対トラウマになるッス!」

「し、しませんよ。あの……どうもすみませんでした」

 

 ほむらが懐の広い先輩で良かった――と星菜は心から思う。だがどうにも先ほどの態度が彼女を怖がらせてしまったようで、心から申し訳ない思いである。

 今度から内心で解説する時は、出来るだけその選手の良いところを探そう――と、星菜は心に決めた。

 

「……ピッチャーは、波輪先輩が投げるようですね」

 

 先までの自分のことを話題に続けるのは、お互いに居心地が悪いだろう。そう思った星菜は、新しくマウンドに上がった投手の姿へと視線を移した。

 波輪風郎。野球部のエースが、ようやくマウンドに上がってきたのである。

 ……いや、まだ一イニングも終わっていないことを考えると、「まだ」ではなく「もう」マウンドに上がってきたと言った方が正しいだろう。

 

「結局、大会は今年も波輪君に頼りっきりになりそうッスねぇ」

「弱小チームのエースの宿命でしょう。仕方ありません」

 

 波輪は自分がマウンドに上がることを待ちわびていたかのように、嬉々として投球練習に精を出している。

 現在塁上にランナーが居る為セットポジションから投じているその投球フォームは、流石に一年の青山や投手初心者の池ノ川とは比較にならない完成度を誇っていた。

 それを見て星菜の内心が下したのはいかにも本格派らしい、豪快なオーバースローという評価である。

 脚を高く振り上げたモーションから、テイクバックは白鳥が翼を広げるように大きく、上手から凄まじい勢いで右腕が振り下ろされている。投球練習に過ぎない今はそれほど力を入れていないだろうに、キャッチャーミットから響く音はこれまでの投手のものとは明らかに異なっていた。

 

「よっしゃ。しまっていこうぜ!」

 

 投球練習を終えたところで、波輪は後ろに振り向いて守備陣へと声を掛ける。一同はそれに対して勢い良く「オオッ!」と応えた。

 星菜にはただ彼がマウンドに立っただけで、周りの空気が随分引き締まったように感じた。

 

「いきなり鈴姫君との対決ッスか」

「見物ですね」

 

 竹ノ子高校最強の一年生対竹ノ子高校ぶっちぎりのスーパーエース。それはこの紅白戦で、星菜が最も見たいと思っていた対決だった。

 鈴姫が打席に入り、スクエアスタンスに足場を固める。肩から四十五度程度の位置にバットを構えた佇まいは、一切の無駄を省いたシンプルな打撃フォームをしていた。彼の打撃スタイルは基本的に質実剛健で、一発狙いの派手さこそないが常に基本を突き詰めたものだった。

 球審の茂木が試合再開を告げると、波輪がセットポジションに構えながらキャッチャーのリードに頷く。そして一球目を――投げた。

 

「ストライク!」

 

 まさしく糸を引くような、気持ちの良いストレートだった。

 豪快なオーバースローから放たれた一球は鈴姫の内角をえぐり、見逃しのストライク判定を勝ち取る。

 波輪はキャッチャーからの返球を受け取り次第、五秒と経たず投球動作に戻る。鈴姫もまた、無意味に打席を外すことはしなかった。

 そして二球目――今度も同じコースに、ストレートだった。鈴姫はそれを迷わず振り抜くが、バットはあえなく空を切った。

 

「凄い球……」

「あの鈴姫君が空振りするなんて、やっぱり波輪君は流石ッスねぇ」

「……140キロは出ていますね」

 

 ストレートが来るとわかっていても、振り遅れている。今の空振りは、そんな反応だった。

 実際の球速は定かではないが、少なくとも中学の試合では見ることの出来ないボールであろう。

 しかし鈴姫は怖じけるわけでもなく、寧ろ楽しそうに唇を吊り上げていた。その表情を見た波輪が、得意げに笑む。この時、二人の視線の間では「そうこなくちゃ面白くない」「まだまだこんなもんじゃないぜ」というようなやり取りがされていたことだろう。

 まさしくそれは、男と男の真剣勝負で。誰にも介入を許さない熱い空気に満たされていた。

 

「ファール」

 

 三球目に投じたのも、内角のストレートだった。それを鈴姫は、今度はバットに当てて三塁方向のファールゾーンへと飛ばした。

 

(楽しそうにやる……)

 

 四球目も内角のストレート。しかし今度は僅かにストライクゾーンよりも高く、鈴姫が見送った為にボール判定となる。

 

「ファール」

 

 そして次に投げた球も、内角のストレートだった。波輪にはこの打席において外角や変化球を使う気はないのだろうか、堂々と真っ向勝負を挑んでいた。

 しかし、そのストレートは投げる度に球速を増しているように見えた。

 

「去年の秋に私が見た時よりも、速くなっていますね」

「この間は全力投球で151キロを計測したッス。まだ春先のこの時期でそれッスからね。大会が始まる頃には155ぐらいは出るんじゃないッスか」

「……とんでもない方ですね。波輪先輩は」

 

 惚れ惚れするほど綺麗で、そして憎たらしいほど速いストレートである。そんな武器を持っている波輪風郎には軟投派投手のような小細工は一切不要だと、そう断言するような投げっぷりに星菜は息を呑む。

 

 ――なんて頭の悪い投球だろう。

 

 ――なんて格好良い投球だろう。

 

 ――なんて勿体無いピッチャーなんだ。

 

 ――なんて素晴らしいピッチャーなんだ。

 

 それは星菜が抱く理想の投手像とは掛け離れているが、敬意を抱かざるを得ないほどに圧倒的であった。

 規格外の投手とは、まさに彼のことを言うのだろうと思う。

 

「ファール」

 

 だがそんな彼のストレートを相手に尚も粘り続けている鈴姫もまた、普通のカテゴリには収まらないだろう。

 幾度も繰り返される甲高い金属音とファールの判定にグラウンド中の視線が支配され、他の部活の者すら手を止めて注視していた。

 もしかしたら波輪は、鈴姫のことを試しているのかもしれない。馬鹿の一つ覚えのようにストレートを投げ続けているその投球に、星菜は波輪の内なる意図を読み取った。

 これはあくまで味方同士による紅白戦に過ぎず、大事な試合ではない。だから今はフォークやスライダーを使って打者を抑えることを優先するのではなく、打者がこのストレートを弾き返せるかどうか試しているのではないかと。

 もし弾き返せるのなら、それは名門校のエース――例えば海東学院高校の樽本(たるもと) 有太(ゆうた)やあかつき大附属高校の猪狩(いかり) (まもる)と言った超高校級の怪物を相手にも対抗出来うる存在である。星菜には、波輪が鈴姫健太郎という後輩にそれを期待しているようにしか見えなかった。

 

 その期待に――鈴姫は応えた。

 

 粘りに粘った末の、十一球目のストレートである。内角低めに決まったそのボールを、鈴姫はバットの真芯で完璧に捉えた。

 その打球は唸りを上げて真っ直ぐにセンター方向へと飛んでいき――途絶えた。

 

 当たりは痛烈だったのだが如何せん打球が上がらず、波輪が伸ばしたグラブの中にすっぽりと収まってしまったのである。

 ピッチャーライナー――その結果に波輪が歓喜し、鈴姫が肩を落とす。男と男の真剣勝負に、一先ずの決着がついた瞬間だった。

 

「どうしてっ……!」

 

 その光景を目にした星菜が、胸を押さえて蹲る。

 

(……駄目だ……ここに居るのが、辛い……!)

 

 突如として、胸がズキリと傷み出した。星菜は堪らず、ベンチから立ち上がる。

 突然の行動にほむらが何事かと心配そうに問うてくるが、星菜は大丈夫だと帰す。だがお腹が痛くなったのでお手洗いに行ってくると言ってその場を誤魔化し、星菜はグラウンドを離れていった。

 

 

 


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