外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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通じ合えなかった日の話

 

 試合の結果だけを見れば、前評判通り名門校である海東学院高校が順当に勝利を収めた。

 しかしその内容は全くもって、二人の予想を大きく裏切るものだった。

 

『思ったより接戦……って言うか、後一歩で竹ノ子が勝てた試合だったね』

『そうだな。あの波輪って人の前にもう少しランナーを溜めて、守備のミスさえ無ければわからなかったかもしれない』

『何だかんだ言っても、結局はチーム力の差かぁ。やっぱりエース一人で試合に勝つのは難しいってことだね』

 

 プレイボールからゲームセットの瞬間まで、終始緊迫していた熱い試合であった。

 試合は竹ノ子の波輪、海東の樽本の両投手とも一歩も劣らぬ好投を披露し、2対2のまま延長十二回までもつれ込んだところ、最後は竹ノ子高校のショートが犯したタイムリーエラーが決勝点となり、海東学院高校の勝利に終わった。

 敗れた竹ノ子高校としては、後一歩のところで大会優勝候補を倒せたかもしれない惜しい試合であった。

 

『今年は波輪のワンマンチームだったけど、竹ノ子は今後が楽しみなチームだね。今日の試合、健太郎が居れば勝てたんじゃない?』

『そんな簡単じゃないだろ。……まあ、自信はあるけど』

『さすが』

 

 絶対に敵わないと思われていた前評判を覆し掛け、強敵を後一歩のところまで追い詰めた。その試合から鈴姫は、勝敗という結果以外に重要なことを教わった。

 何事も、諦めなければたどり着けるかもしれないのだと――そう言った「勇気」を、微量だが竹ノ子高校から貰えた気がした。

 

 ――ならば、彼女はどうなのだろうか?

 

 鈴姫は帰宅の道中、横目から星菜の顔を覗った。思った通り、彼女は何かを思い悩んでいるような目で虚空を見つめていた。

 試合開始当初こそ、彼女は鈴姫が来年度入学する予定である海東高校を応援していた。しかしイニングが重なるごとに徐々に竹ノ子高校の野球に惹かれ始めて行き、本人は気付いていないかもしれないが最後の攻撃では声に出して応援するようになっていた。

 相手チームよりも圧倒的に戦力が劣りながらも負けじと奮闘する竹ノ子ナインに、彼女は人よりも感じることがあったのだろう。敗北が決まった瞬間は、肩を落としながらも惜しみない拍手を送っていたものだ。

 その姿から、鈴姫は彼女の野球に対する真摯な思いを受け取った。彼女は内部の事情によって野球部を退部したが、野球という競技に関しては今も変わらずに愛している。それどころか今の彼女は、離れているが故に野球部に居た頃よりも野球への愛が高まっているように見えた。

 先ほど彼女は竹ノ子高校に鈴姫が居れば――と言ったが、本当にあの場所に居たいと思ったのは他でもない自分自身であろう。彼女もあのグラウンドに立って、選手として共に戦いたいに決まっている。

 彼女はその気持ちを隠そうとしているようだが、一番の理解者である鈴姫には手に取るようにわかった。

 彼女が今、何を悩んでいるのかが。

 

『……野球、しよう』

 

 だから、言った。

 彼女の気持ちを知っていたから。

 彼女の内面をわかっていたから。

 

 ……それが思い上がりであることに気付かぬまま、この時の鈴姫は良かれと思って彼女の心に入り込もうとしたのである。

 

『隣の地区に、(セント)ジャスミン学園って高校がある。何でもその高校は、今年から共学になったばかりの学校らしい』

 

 その言葉に黙って耳を傾けている彼女に対して、鈴姫は以前から調べ集めていた情報を話した。

 

『その高校の野球部は部員のほとんどが女子選手で、君と同じ境遇の人がたくさん居るって聞いた』

 

 全ては、心からの善意であった。

 

『だから、そこに入学しよう。俺と、一緒に』

 

 彼女ならばその提案を、喜んで受けるだろうと思っていた。

 そのような浅はかさな考えが、直後の事態を引き起こしてしまったのである。

 

『……健太郎と一緒に? 私が入学したら、健太郎もそこに入るつもりなの?』

 

 掛けられる彼女の問いに、鈴姫は力強く頷く。鈴姫にとって彼女の存在は、それほどまでに大きかったのだ。彼女の為ならば海東学院高校からの推薦を蹴り、全くの無名校だろうと喜んで入学しよう。こればかりは幼い頃から変わらず、鈴姫の行動原理は彼女にあったのだ。

 

『俺は君と一緒に野球がしたいんだ。その為なら甲子園に出られなくても、プロになれなくてもいい』

 

 去年まで女子校だったと言う聖ジャスミン学園の野球部には、ほとんど女子部員しか居ない。そして高校野球は規定上、女子選手の公式戦出場は許されていない。

 無論、それが何を意味するのかわからない鈴姫ではない。現状聖ジャスミン学園は無名どころか大会に参加することすら出来ない高校なのである。

 だが、それでも良かった。

 彼女と共に野球が出来るのなら、他のものは全て些細な問題だと思っていたのだ。

 

『でも、そんな……』

『今度は小波なんかに頼らない。ずっと、俺がついている。それなら大丈夫だろう? もうあんなことにはならない。俺がさせない』

 

 事件以来、鈴姫は今後何があろうと自分が彼女を守るのだと決意していた。だからこそ高校も自分と居ることは、彼女にとってもプラスに働くと信じて疑わなかった。

 それもまた、今にしてみれば酷い思い上がりだった。

 

『……私は健太郎にとって、何なの?』

 

 彼女が数拍の沈黙を置いた後、面と向かってそう問い掛けてきた。言葉こそ短いが、鈴姫の中では非常に重い意味を持つ質問だった。

 

『誰よりも大切な、守りたい人だ』

 

 彼女の目を見つめ返し、鈴姫は何の迷いも無く言い切った。

 その言葉に嘘偽りは微塵も無い。鈴姫は彼女のことを本気で想っていたのだ。

 

 しかし。

 

 その言葉を受けた彼女は――悲しんだ。

 

『……そう……なんだ……。もう私と貴方は…………じゃないんだね……』

『星菜?』

 

 自分にとっての彼女の大きさを、ありのまま言葉に込めて伝えた筈だった。

 しかし彼女の表情は鈴姫が望んでいたものとは程遠く、まるで全てを諦めたような――希望を失った者の、絶望に染まった表情を浮かべていた。

 

『なんで、泣いているんだ?』

 

 彼女は俯き、涙を流していた。

 鈴姫が二度と見たくないと思っていた――事件以降二度とさせないと心に誓っていた筈の顔が、目の前にあったのだ。鈴姫にはこれを狼狽えずには居られなかった。

 

 ――何故、泣いている?

 

 ――誰が泣かせた?

 

 ――泣かせたのは……俺?

 

『……放っておいて。目に……ゴミが入っただけだから』

 

 それは断じて嬉し涙などではなく、深い悲しみによる涙であった。

 原因は自分にあるのだろう。しかし一体自分の何が彼女をそうまで悲しませているのか、鈴姫には全くわからなかった。

 鈴姫は彼女にとって最大の理解者になったつもりが、この時の彼女の心情を何一つとして理解することが出来なかったのだ。

 

『そんなわけあるか! なんで君はそうやって……』

 

 そして彼女が今その涙の理由を誤魔化そうとしていることに、鈴姫は憤りを感じた。

 他の人間相手にはそれでも良いが、理解者である自分にだけはしっかりと説明してほしかったのである。

 

 ……その考えが、間違っていたのだ。

 

 誰にだって隠したいことや、話したくないことはある。それは仲の良い友人の間であったとしても同じであり、必ずしも心の内をさらけ出さなければならない義務など無いのだ。

 この時まで気付かなかったが、鈴姫は彼女の心の中に強引に入り込み過ぎていた。それが他ならぬ彼女の心を追い詰めていたことを、当時の鈴姫にはわからなかったのである。

 

『放っておいてよ! もうっ!!』

 

 その時である。

 鈴姫が彼女の左肩を掴もうとした手を、彼女は振り払った。

 顔を上げ、キッと鈴姫の目を睨むその眼光は、長い付き合いである鈴姫すらも見たことがない感情に彩られていた。

 

『……何だよ……!』

 

 それは、明確な憎悪だった。

 一度として自分に向けられることのなかった感情。その瞳に鈴姫は声も出せず、彼女は溜まりに溜まったそれを爆発させるように叫んだ。

 

『何だよ! そんなに哀れかよ! 実力があるのに皆と野球が出来ない私が、そんなに可哀想なのかよっ!!』

 

『同情なんかたくさんだっ! いつから私はお前に庇護される立場になった!? ふざけるなよ! 馬鹿にするな!!』

 

『何が一緒に野球がしたいだよ!? お前はまた私に恥をかかせたいのか!? ふざけるなっ! ふざけるなぁ……!』

 

 幼い子供のように喚き散らし、その場に崩れ落ちて大粒の涙を流す。

 それは、鈴姫が知らない泉星菜の姿だった。

 

『違う……! 星菜、俺はそんなつもりで……』

『うるさいっ! いつもいつも、健太郎はお節介なんだよ! 人の気も知らないで、なんでいつもそうなんだ……! なんでいつも私のことを見下すんだ!!』

 

 彼女は自分が同情されたことを、哀れみを受けたことを怒っているのだろうか?

 この期に及んでも彼女の心情を掴めない自分に鈴姫は焦り、そして初めて思い知らされた。

 自分は彼女のことを勝手に、一人でわかった気になっていたのだと。

 

『あの時だってお前が私にボールをぶつけなければ……! 私がこんな記憶を思い出すことさえなかったら、諦めることが出来たのにっ! そうやって……そうやって私に……期待させるようなこと言うなっ!!』

 

 だが、一つだけわかったことがあった。

 

『もう嫌なんだっ! そうやって見下されて、みんなに邪魔されて! どんなに努力したって認めてくれなかった……! 全部、監督の言う通りだった……! ……私なんて最初から、あそこに居ちゃいけなかったんだ……』

 

 自分もまた彼女の心に傷を負わせ、苦しめていた者の一人だったということだ。

 

『……お前にだって、私の気持ちはわからない。だからもう、同情するのはやめてくれ……』

『同情なんかじゃない! 俺は本気で……!』

『やめろって言ってるだろっ!』

『じゃあ君は……君にとっての俺は何なんだ!?』

『言わなきゃわかんないのかよ! 馬鹿っ!!』

 

 自分にとって心から大切な存在が放つ憤怒の叫びは、鈴姫の心にどこまでも重く突き刺さった。

 

 ――鈴姫健太郎は、泉星菜に拒絶されたのだ。

 

 当時の彼女が何を思い何故泣いていたのか、今になってもはっきりとはわからない。

 ただ鈴姫は、この時を持って自分は彼女と共に居る資格を失ったのだと思った。

 自分では、彼女の理解者になれない。彼女を泣かせてしまった自分は、もう彼女の隣には居られないと。

 

 

 だが、だとしても――。

 

 

 諦めなければ、また彼女と共に野球が出来るかもしれない。その期待は今もまだ、鈴姫の中に残っている。

 

(だから、俺はこの高校に入ったんだ。君と同じ高校に居ればいつか君が戻ってきた時、一緒に野球が出来ると思ったから……)

 

 今しがた彼女から告げられたもう一度野球がやりたいという言葉は、心から待ち望んでいたものだった。

 しかしその筈が、今の鈴姫にはどこか面白くなかった。

 彼女は何かがきっかけとなって復帰を決意したのだと思うが、かつての鈴姫は自分こそがそのきっかけになるものだと信じていた。

 彼女を野球のグラウンドに連れ戻せるのは自分しか居ないと――そのような勝手な幻想が呆気なく打ち砕かれたことが、心のどこかで気に入らないと感じていたのである。

 そんな理由で彼女が戻ってくることを素直に喜べない自分に、鈴姫は激しい嫌悪感を抱いた。口では彼女の為だ何だと言っても、所詮お前は自分本位で動いているだけなのだと――そう突きつけられているような気がして、耐えられない。

 

「泉……さん」

 

 彼女を泣かせてしまった自分に、今更彼女と向き合う資格は無いのかもしれない。

 だが出会った頃から抱き続けてきたこの感情ばかりは、どうしても捨て切れなかった。

 

「職員室、一緒に行きましょう。監督の説得、手伝いますんで」

 

 もう、かつての関係には戻れない。だがそれでも、鈴姫は彼女の味方でありたかった。

 

「……はい」

 

 その時、思い違いでなければ――鈴姫は微笑以外の彼女の笑顔を、久しぶりに見た気がした。

 

 


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