外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
あれだけのことを言っておきながら。
今更、野球をやりたいと言って。
彼の心中は、決して穏やかなものではないだろう。
だが、それでも自分が野球をすることに反対しなかったことを、星菜は感謝した。
しかし、彼の許しを得ただけで目的は果たせない。次は野球部の監督である茂木林太郎と、主将の波輪風郎に報告しなければならないのだ。星菜は少々気が重かったが、ここに来て彼が説得を手伝ってくれると聞いて幾分か気持ちが楽になった。
自主トレーニングを切り上げた二人は教室ではなく、そのまま職員室へと向かう。
朝の職員室には既に何人かの教職員達が各々のデスクについており、目当ての人物である茂木の姿もまたそこにあった。
「茂木監督」
その両目を今にも眠たそうに瞬かせている彼に向かって、星菜は大きくも小さくもない声で呼び掛ける。茂木はパチッと目を開くと、椅子を反転させてこちらを向いてきた。
「おはようございます」
「お、ああ、おはよう……珍しい組み合わせで驚いた。どうした? 何か用か?」
「部活のことで、お話したいことがあるのです」
「ふーん、話してみろ」
「はい。実は……」
重い口を開き、星菜は話した。
自分が幼い頃から中学二年の春まで投手をやっていた、野球経験者であることを。
退部の経緯などここでは不要と判断した情報までは明かさなかったが、適度にへりくだりながらかつての自分が並以上の実力を持つ投手であったことを茂木に語った。
まるで面接に使う自己PRのようだなと、星菜は内心で苦笑を浮かべる。
するとその話に対して、横合いから鈴姫がかつてのチームメイトとして口を挟んだ。
「彼女の言ったことは全て本当です。リトル時代から彼女を見てきた俺の見立てでは、彼女は今でも相当な実力を持っていると思います」
「……貴方は、わざわざそれを言う為に着いてきたのですか?」
「証人は必要だろう。君の見た目でそんなことを話しても、普通は信じてもらえない。どう見ても野球選手には見えないからな」
「……そうですね」
付け加えられた補足は、星菜にとって非常にありがたいものであった。
悔しいが彼の言う通り、自分が自分の実力を語るだけではその話に説得力が無く、茂木からは胡散臭さ故に信じてもらえないだろう。彼が隣に居ることは精神的なことを抜きにしても、今の星菜にとって大いに役立っていた。
(……懐かしい感覚だな)
友人だった頃は、こうして勝手に突っ走っていた自分を良くフォローしてもらっていたものだ。無論自分が助けられるだけの関係を望まなかった星菜は同じぐらい彼のことを助けてきた記憶があるが、常にお互いを助け合える関係は非常に居心地が良かったことを思い出す。
だが、今はそんなことを考える時ではない。首を左右に振り、星菜は意識を切り替える。
見れば鈴姫が中学時代の星菜がいかに優れた投手だったかという話を、具体的なエピソードを交えながら話していた。
「――ということで、野球部にとって彼女の能力は選手としても有用だと思います」
「……なるほど、泉が凄いピッチャーだったっていうのはよーくわかった。にしても知らなかったな。クールなお前にも、そういうところがあったとはな……」
「何のことですか?」
「さあ、何のことだと思う?」
「はあ……」
話の内容は客観的な視点から見た星菜の武勇伝であり、決して余計な脚色を入れているわけではないのだが当人としては背中がむず痒くなるものだった。
だが星菜は無表情を装い、あえて口を出さなかった。これから本題に入る上で、野球部の監督である茂木には自分の実力を少しでも高く評価してもらわなければならないからだ。
星菜が知るところ、茂木林太郎という監督としては軽い性格の男である。星菜は決して話術が得意なわけではないが、上手く言いくるめれば自分でも説得は可能だと思っていた。
「……それで、お前はどうしたいんだ?」
そして、彼が問うてくる。これからが、本題の始まりだ。
鈴姫と茂木の視線が、一点して星菜の元へと注がれる。緊張をその身に感じながら、星菜はゆっくりと口を開いた。
「どうか監督には、今日から私が野球部の練習に参加することを認めていただきたいのです」
星菜はたった一つ、それだけを頼みに来た。その頼みこそ、彼女が過酷な現実を踏まえた上で下した最大の妥協点であった。
連盟の規定を無視して、女子である自分を試合に出せなどとは言わない。今は自分が野球部の一員としてグラウンドを使うことが出来れば、それで良かったのだ。
「女子選手は公式戦に参加出来ない為、野球部の戦力としてはお役に立てないでしょう。しかし私達の野球部はただでさえ投手が不足している上に、バッティングマシン等の練習設備が充実していません」
どれだけ練習しようと、女子選手は公式戦に出場することが出来ない。だが、それでも星菜は構わないと――本気で野球をすることを心に決めていた。
「私は、制球力には自信があります。戦力にはなれなくても、バッティングピッチャーとしてならば部のお役に立てると思うのです」
星菜がそうまで強い気持ちを抱いたのは、やはり早川あおいや六道聖に触発されたからであろう。同じ女子選手として、二人には負けたくないと思ったから。そう言った単純な競争意識が、再び星菜の中で燃え上がっているのだ。
結局のところ、話は難しくなかったのかもしれない。
「川星先輩の負担を増やすわけにはいきませんので、ある程度はマネージャーの仕事も兼業します。なので……大変厚かましいお願いですが……」
「ああ、よろしくな」
「え?」
話を難しくしていたのは、他ならぬ自分自身だったのかもしれないと。
あまりにもあっさりとした茂木の対応に、星菜はそう思った。
「お前、俺のことを鬼か何かと思っているんじゃないか? 何も悪いことしてないんだから、そんな申し訳なさそうな顔するなよ。おかげで俺が、さっきから周りの先生から恐ろしい顔で睨まれているんだが」
「……あ、すみません。そんなつもりは……」
「大体役に立つからとか厚かましいとか、そんなことを高一の女の子が言うなよ」
茂木は困ったように笑うと、常と変わらない砕けた口調で言った。
「野球がやりたいんだろう? なら、それでいいじゃないか。決めるのは俺じゃなくて、お前自身なんだからさ」
彼の言葉は星菜が今まで気を張っていたことが馬鹿馬鹿しく思えるほどに簡単で、呆気ないものだった。
「お前がそうしたいって言うなら、俺は歓迎するよ。でも無理はするなよ? お前に怪我なんかされたら俺が他の先生や部員達から袋叩きにされちまう」
「え、あの……」
喜びよりも先に、星菜はこんなにも簡単に望みが叶って良いのかと都合の良すぎる状況に虚をつかれていた。これまでの経験上、今のように女子である自分が野球をすると言えば大半の人間が良い顔をしなかった記憶があるからだ。
その点、この茂木林太郎という男は不思議そうな顔一つすらせず、星菜の頼みを受けるのが当然のように受けてくれた。
たったそれだけ。星菜にはたったそれだけのことが、幸せに感じられた。
――どうやら自分は、思っていたよりも恵まれた環境に居たらしい。
「何だ? まだ何かあるのか?」
「いえ……その……ありがとうございます」
「おう。そろそろ授業始まるから早く教室に戻れよ」
彼が野球部の監督だった幸運に、心から感謝したいと思う。
クスッと、思わず笑みが漏れる。確かな前進を感じた星菜は、心無しか肩が軽くなったような気がした。
感謝を込めて深々く頭を下げた後、星菜は鈴姫と共に教室へ向かおうとする。すると、茂木が思い出したように「ちょっと待った」と言って背中を呼び止めてきた。
「律儀なお前達のことだ。次は今の話をキャプテンに伝えるつもりなんだろ?」
「はい、そうですが……」
「なら、ついでに伝言を頼んでもいいか?」
「はい、どうぞ」
間もなく朝のHRが始まってしまう為、主将の波輪への報告には昼休みを使うことになる。既に監督から許可を貰った以上、彼にまで話す必要性はやや薄いかもしれないが、何も報告しないよりは心象が良いだろう。
「土曜日の予定を変更したんだが……」
茂木からの伝言を前置きとして利用すれば、普通に切り出すよりも幾らか話しやすくなるかもしれない。そんなことを考えながら彼の言葉に耳を傾けていると、その口から予想だにしない言葉が飛び出してきた。
「山の手球場で、恋々高校と練習試合をすることになった」
その言葉を耳にした瞬間、星菜の顔は驚愕に染まった。
セットポジションから大きく踏み出した足に体重を乗せ、オーバーハンドの右腕から力強いボールが放たれる。
バシンッ!――と、爽快な衝撃音がキャッチャーミットから響く。目測では良いところ140キロ程度だろうか。高校野球の地区レベルでは文句なしに剛速球と呼べる、見事なストレートだった。
多くの強豪校が大会に参加する激戦区として有名なこの地区でも、彼のストレートは十分に通用するレベルにあると見ている。そしてオーバースローの速球派である彼に加えてアンダースローの技巧派である彼女を有する恋々高校は、既に名門校に対抗しうる投手力を持っていると主将は考えていた。
「ナイスボール!」
捕手として投手のボールを受ける主将――小波大也はキャッチャーボックスに座ったまま返球し、受け止めた彼の一球を賞賛する。投手の奥居は良くも悪くも単純な性格をしている為、こうして褒め称えることで長所を引き出すことが出来るのだ。その長所とは言うまでもなく、高校二年生にして140キロを超えてくるこのストレートであった。
「ははっ、今日のオイラ、中々やるだろ?」
「そうだね。今日は随分走っていると思う。ただ、三十球中二十一球がボール球なのはどうかと思うよ」
「うっ、それを言われると返す言葉もないぜ……」
逆に短所を上げるとすれば、思うように定まらない制球力の悪さである。彼の投球はストレート、変化球共に構えたところにボールが来ることはほとんどなく、練習試合でも頻繁にフォアボールを連発している。さらには低めを狙ったボールが甘い高さに浮いてしまい痛打を浴びることがある為、捕手である小波は非常に頭を悩ませていた。
本職は野手である彼に対しては、恋々高校のエースを張るもう一人の投手ほど高い制球力は要求していない。だが、それでも彼の現状の投球を享受出来るほど小波は甘くなかった。
「奥居君の場合は下半身が出来ていないわけじゃないから、リリースポイントの問題だね」
「それが一番難しいんだけどなぁ……あおいちゃんとかどういう仕組みでコントロールしてるんだろ?」
「彼女の場合は今まで投げ込んできた量が尋常じゃないからね。いつ肩肘を壊してしまうかわからないほど投げ込んできたから、今の制球力があるんだと思う」
荒れ球ならば荒れ球で、制球力の高い投手よりも打者が的を絞りにくいという長所がある。プロの世界でもそう言ったタイプの投手が活躍していること自体は珍しくない為、小波とて一概に制球力が悪い投手イコール使い物にならないとまでは考えていない。
だが、何事にも限度というものがある。アバウトでもせめて狙ってストライクカウントを稼げる制球力を身につけてもらわなければ、捕手としても
「じゃあ次、フォーク行ってみようか」
「おう」
小波にとって、自分の構えたところにボールが来る投手ほど頼もしい存在は居ない。ある人物の影響からか小波には制球力こそが最大の武器という信条があり、狙った場所に寸分の狂いもなくボールを放れるのなら、極端な話140キロのストレートなど不要だと考えていた。
「おらぁっ!!」
「っと」
奥居が投じた変化球がホームベースを越えた直後の位置でバウンドすると、小波が全身で覆いかぶさるような態勢で捕球する。幾度となく繰り返してきた練習によって、反射的に染み付いた動きであった。
「ナイスキャッチ! いやあ、お前がキャッチャーじゃなかったら何度ワイルドピッチしてるかわからないぜ~」
「……それは、お互い様だよ」
「うん?」
ボールに付着した土をユニフォームで拭った後、小波は先ほどよりも速いスピードで返球する。暗に「ちゃんと投げろ!」という意図を込めてのものだ。奥居はその意図に気付いてか申し訳なさそうに帽子を外すと、小さく頭を下げた。
だが彼も自分もまだ高校二年生だ。至らぬことが多々あるのは仕方が無く、問題はそれを今後どう補っていくかにある。
「君やあおいちゃんがこの学校に居なかったら、僕がこうしてまた野球をすることもなかった。それは多分、村雨君達も同じだと思う」
目を閉じて、小波は自身の過去を振り返る。
今までの人生の中で、自分は多くの人間と出会った。そしてそれらの存在に、重ね重ね助けられてきたのだ。
幼馴染の影響を受けて野球を始めた頃の小波はキャッチボールすらまともに出来なかったものだが、多くのチームメイト達や優秀な指導者との出会いを経て、人並み以上の実力をつけることが出来た。
自分一人ではこうして野球をすることもなかったとは、今になっても思う。
「……僕達はきっと、この巡り合いと助け合いの中で成り立っているんだ」
だからこそ、自分もまた周りの人間に良い影響を与えられる存在になりたいと思う。
この恋々高校野球部の一員として共に野球をすることで、自分にも何か出来ることがあるのなら――小波には何一つ、惜しむ気は無かった。
「ホント、お前ってアレだな……。色々凄い奴だよ、本当に」
「君ほどじゃないよ、打率八割君」
「うるせぇ、得点圏打率十割野郎。次の試合はオイラが勝つからな!」
「練習試合から本気になってどうするって、この前
「なにー? あの自称台湾の至宝め。男はいつでも全力勝負だぜ」
小波がこのチームで主将を務めるという大役を引き受けたのも、そう言った意志が何よりも強かったからだ。そしてその決断は、間違いではなかった。今の彼は、心から充実していた。
様々なことで苦渋を味わってきた中学時代の経験があるからか、近頃は特にこんなことを思ってしまう。
――野球はこんなにも、楽しかったのかと――。
今更になって中学校を卒業した喜びを感じるのも可笑しな話だが、環境が変わったことによって少なからず周りに対する見方が変わったように思える。
これが「成長した」ということなのかどうかはわからないが、悪い気はしていないことだけは確かだった。
ならば、と思う。
「あの子」は、同じリトル、中学校で野球をしていた幼馴染は今、どうなのだろうかと。
噂では今週の土曜日に練習試合を予定している「竹ノ子高校」の野球部で、マネージャーを行っていると聞いているが……果たして彼女は今充実しているのだろうか。
(……僕が心配しなくても、健太郎君が居るなら大丈夫か)
もしかすれば、土曜日は彼女と会うこともあるかもしれない。その時はどんな顔をすれば良いのかわからないが、出来ることならば試合が終わった後にでも話したいと思った。
それは小波にとって、竹ノ子高校のエース波輪風郎と一戦交えること以上の楽しみであった――。