外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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背番号のない二番手と美しきエース

 

 それはアクシデントが発生し、波輪風郎がマウンドを降りた時のことである。

 

 それまで観客席から試合を観ていた猪狩守は、これ以上この場に用は無いとばかりに球場を立ち去ろうとしていた。

 二人のライバルが順調に調整出来ていることを十分に把握した以上、猪狩にはこの場に留まり続ける理由がない。波輪の膝の状態が夏の大会までに間に合うかどうかは気掛かりだが、自分が心配することでもないのだ。今の猪狩には、彼ならば無事間に合わせてくるだろうと信じるしかなかった。

 そうして猪狩が踵を返しグラウンドに背を向けると、ふと声が聴こえた。

 

《ピッチャー、波輪君に代わりまして――泉さん》

 

 場内アナウンスの声が響くと同時に猪狩は思わず足を止め、再びグラウンドへと目を向けた。

 何の気なしに振り向いただけで、特別な理由があったわけではない。

 しかし猪狩は次の瞬間、驚きに目を見開くことになる。

 波輪が立ち去ったマウンドには、屈強な選手達が揃うグラウンドの中で際立って華奢な体つきの少女(・・)の姿があったのだ。

 

「女性投手……?」

 

 猪狩の視力は両目とも2.0とすこぶる良い方だ。観客席からでもマウンドに立っている人物の姿ははっきりと捉えることが出来る。故にたった今マウンドに上がってきた竹ノ子高校の二番手投手が女性であることを、ぱっと一目見ただけでも認識することが出来た。

 

(……泉……泉星菜?)

 

 そして先ほど場内アナウンスがコールした泉という名前から、猪狩の頭にはいの一番に一人の人物の姿が浮かび上がった。

 幼い頃から天才ともてはやされてきた猪狩守だが、これまでの人生で一度も挫折を経験しなかったわけではない。挫折と言って思い返すのは今から五年前の出来事であり、彼の頭の中に初めて刻まれることになった敗北の思い出の中に、「小波大也」と「泉星菜」という存在があった。

 

「……まさかね……」

 

 向かうところ敵無しだった当時の自分の前に現れた、最強のバッテリー。天才である筈の自分達兄弟を打ち破った、最大の好敵手。

 女性投手自体珍しい存在だが、「泉」という苗字も同じとなると気にならないこともない。

 だがしかし、あそこに居る投手は間違いなく自分の知る少女ではないと、猪狩には彼女の投球を見ずともその確信があった。

 

(あの泉が……僕と進を倒した泉星菜が、あんなに儚いわけがない……)

 

 何せ猪狩の知るその人物とは、身に纏う雰囲気があまりにも異なっているのだ。今しがたマウンドに上がった少女の表情からはかつて自分達を苦しめた闘志も覇気も感じられず、その身に纏っているのはグラウンドには不釣り合い過ぎる、今にも消えてしまいそうな儚さだった。

 

「ふっ、つまらないことを思い出したな」

 

 ――さて、ランニングに戻るか。心の中で呟き、猪狩は彼女の投球を見ることなく球場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二塁走者の牽制死によってスリーアウト。相手投手が一球も投げることなく恋々高校のチャンスが終わってしまったという六回表のイニングの結末に、小波はしばらく打席上で呆然とするしかなかった。

 相手からしてみればピンチでの緊急登板なのだから、一旦緊張を解す為にも牽制球を入れるのは正しい判断である。故に二塁走者としては、投手の動きを警戒しておかなければならない場面だった。

 

「君らしくないミスだったね、球三郎君」

「すまない。真剣勝負に水を差したな」

 

 打席を離れ、ベンチに戻る途中で二塁走者の球三郎と合流した小波は、皮肉でもなく純粋に思ったことを口にする。

 恋々高校の二番を打つ球三郎はチーム内でセンターの村雨と一二を争う瞬足の持ち主であり、走塁のセンスも抜群に良い。中学時代では名門のシニアで主力を張っていた実績がある彼は、高校でもその実力を遺憾なく発揮しており、小波には今までに彼が初歩的なミスを犯した光景は見たことがなかった。確かに先ほどの星菜の牽制は見事であったが、それを差し引いても普段なら有り得ないことだったのだ。

 

「なんであんなミスをしたんだい?」

「いや……つい、あのピッチャーに見とれてしまったのだ」

「あー」

「美しいものを見るとつい呆けてしまう癖がな。しかし、あのような不意打ちは反則だ」

「まあ、驚く気持ちはわかるよ……でも、試合中にそれは勘弁してほしいかな」

「すまない。全ては美しいものを愛する我が性故」

「そ、そうか」

 

 投手の容姿に見とれている間に牽制で殺されるとは、心に空いた隙を完全に突かれた形である。本人に言及してみれば、小波にも男として理解出来ないことはないが何とも情けない理由だった。

 小波はあえて、ドンマイとは言わない。無論彼には主力である為に切り替えてもらわなければ困るが、今回のミスは大いに反省してほしいと思ったからだ。

 

(……そう言えば、球三郎君が野球部に入った理由はアレだったな。あおいちゃんが頑張っている姿が美しかったからとか。はぁ……)

 

 恋々高校の野球部には、こう言っては悪いが変人が多い。この球三郎の他にも坊主頭の前頭部に「天」の文字が浮き上がっている奇抜な髪形をしている天王寺や、侍かぶれな口調の村雨は特に変人であり、台湾の至宝を自称する陳においては重度のナルシストであり、彼らが練習中に起こす奇行には数少ない常識人である奥居らと共に日々胃を痛めているものだ。

 だがそんな彼らではあるが、野球の試合においては頼もしい存在である。小波は他でもない彼らが居るからこそ、恋々高校野球部はチームとして成り立っているのだと思っていた。

 

 そして、誰よりも頼もしいのは彼女――。

 

「頼むよ、エース」

「任せて」

 

 このチームで最も大きいのは彼女――早川あおいの存在だ。

 何せ小波を含む恋々ナインの大半が、彼女の存在に惹かれて集まってきた者達である。ベンチに戻り捕手用の防具を装備した小波は、彼女と共に軽い足取りでグラウンドへと向かった。

 六回裏の守りからは、チームのエース投手であるあおいがマウンドに上がる。彼女の球を受ける小波は、竹ノ子高校の打者陣にヒット一本すら与える気は無かった。

 

 

 

 

 

 

《恋々高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャーの奥居君がサードに入り、サードの陳君がセカンド。セカンドの茂武君に代わりまして、ピッチャー――早川さん》

 

 六回表の時は恋々高校のベンチ前で準備をしていた姿を見たが、思った通りその名がアナウンスから告げられた。

 おさげに伸ばした緑色の髪を靡かせ、マウンドに上がった彼女は颯爽と投球練習を始める。下手からボールを放つアンダースローは星菜がバッティングセンターやパワフル高校戦で見たフォームと同じであり、それまで恋々のマウンドを守っていた奥居とは投手としてのタイプがまるで違うことが一目でわかった。

 そんな彼女の姿に安心した後、星菜は横目から自軍ベンチの反応を窺う。

 

「あれが噂の女の子ピッチャーか」

「可愛いでやんす!」

「おいおいこの試合は女の子祭りか」

 

 純粋に彼女の投げるボールに感心する者に、彼女の容姿に関心を示す者、高校野球界で希少な女子選手がこの試合に二人も出場したことに驚いている者と、実に三者三様の反応だった。

 一方で元々早川あおいと面識のある星菜は今更彼女が登板したことには驚かず、ただ彼女が竹ノ子打線を相手にどれだけ魅せてくれるのかということだけに興味があった。

 

(……でも、一番見たかった波輪先輩との勝負が見れないのは残念だな)

 

 最大の見所だった竹ノ子高校一の打者である波輪風郎の打席には他ならぬ星菜自身が入ることになってしまったが、それはそれで楽しみでもある。ブランク明け最初の対戦相手があの早川あおいであれば相手にとって寧ろこちら側が不足だらけという有様であるが、星菜はその時が来ることを心待ちにしていた。

 

《六回の裏、竹ノ子高校の攻撃は、六番サード池ノ川君》

 

 彼女が投球練習を終えると、この回の先頭打者である池ノ川が右打席に入る。

 奥居を相手にしていた頃の池ノ川は一打席目はツーベースヒットを放っており、二打席目はフォアボールを選び、いずれも出塁している。今日好調な彼が彼女のボールにどう反応するのか、それも見所であった。

 

 ――しかし今回の三打席目は、たった三球で終わった。

 

 一球目は、外角低めコーナー一杯に決まったストレートを見逃しストライク。

 二球目は、内側から大きく曲がってきた90キロのカーブを見逃しストライク。

 三球目は内角高めに外された120キロのストレートを空振りし、あえなく三振を喫するという形で。

 

「くそっ、全くタイミング合わねぇ!」

 

 首を傾げてベンチに引き下がった池ノ川が、苛立ちを口にしながらバットを置く。その言葉に興味を抱いたのか、横から六道明が声を掛けていた。

 

「荒れ球の速球派の次に、あのサブマリンはきついか?」

「ああ、この俺様が打てないんだからそういうことだ。女の子だからって甘く見るなよ、特にそこのメガネ!」

「も、申し訳ないでやんす……」

 

 ――と、そんなやり取りに耳を傾けつつ星菜はグラウンドから目を離さない。

 足腰と右腕をしなやかに動かし、マウンドの少女はテンポ良くストライクカウントを稼いでいく。賞賛すべきはその制球力である。先発の奥居が投げていた時とは極めて対照的に、捕手小波が構えたミットはピクリともその場を動かなかった。

 

「バッターアウトッ!」

 

 そしてまた三球でフィニッシュを決める。七番小島の打席で投じた球種は全てストレートであったが、彼は三回振るったスイングの内一球もバットに当てることが出来なかった。

 

(今試合に出ている人達は、アンダースローを相手にしたことはないだろうからなぁ。それもあそこまでリリースの低いサブマリンじゃ、タイミングが合わないのは当然か……)

 

 投手が奥居の時も働くことが出来なかった下位打線であるが、今回の打席に関しては星菜にも責め立てる気は無い。先の回に自らがマウンドに上がったことで苛立ちが薄れたというのもあるが、彼らが早川あおいに手玉に取られるのは仕方の無いことだと思ったのだ。

 寧ろ竹ノ子高校の下位打線が対応出来るような彼女であってほしくないというのが、星菜の思いだった。

 

(……やっぱりは私ってば嫌な奴。どうにも評論家気取りで、上から目線で考えてしまう)

 

 竹ノ子高校の打線を圧倒してこそ自分が見込んだ投手と、そう考えてしまう己の尊大な思考に呆れる。

 今の泉星菜は、相手をどうこう言える立場に無いと言うのに。

 

(さっきマウンドに上がった私は、投げるどころか緊張で一杯一杯だったクセに……)

 

 そう、星菜は六回表のピンチに登板した時、思考が真っ白になっていたのだ。

 あまりにも実戦から遠ざかっていたが為に、マウンド上での心構えを忘れてしまっていた。表面上こそポーカーフェイスを装いあたかも落ち着いているように見せかけていたが、内心は怯え固まっていたのである。

 あのまま投球を行っていれば制球が定まらずにフォアボールになっていたか、高めに浮いた球をスタンドに運ばれていただろうことは想像に難くない。

 しかし、そんな星菜を救ってくれた者が居た。

 

「……泉さん、水は飲まなくて良いんですか?」

「……あ、はい。必要無い……です」

「……そうか」

 

 あの時牽制球を投げると決めたのは、投手の星菜ではない。そして、捕手の六道でもなかった。

 今現在ベンチで二人分ほど離れた位置に座っている男、遊撃手の鈴姫健太郎だったのである。

 星菜が投球練習を終えた後、彼はこう言ったのだ。

 

『……少し緊張しているなら一球、牽制を入れればいい。二塁ランナーは何故かさっきからボーッとしているから、多分刺せますよ』

 

 星菜は日頃から努めている為に他人に悟られぬよう己の心情を隠すことは得意なつもりであったが、どうやら彼には見抜かれていたらしい。策が成功するかしないか以前に、星菜はその言葉を聞いて少しばかり緊張が和らいだような気がした。

 

(また、お前に助けられるなんてな……)

 

 選手として復帰すると決めた日から、彼には助けられてばかりいる。何か恩を返したいところであるが、星菜には今のところこの試合を無失点に抑えるぐらいしかその方法が見つからなかった。

 だが取り敢えず今抱いている気持ちだけは、先に伝えておいた方が良いのかもしれない。

 

「……鈴姫さん」

「……何ですか?」

「前の回は助かりました」

「何が……?」

「その、声を掛けていただいて……」

「声? ……ああ、あれか」

「ありがとうございました」

「あ、ああ……別に……」

 

 本当は守りが終わった時に言うべきだったのかもしれないが、今からでも遅くないと星菜は礼を言った。出来るだけ頬を緩めて笑顔を浮かべたつもりだが、どうにも彼を前にすると表情筋がぎこちなくなってしまう感覚が否めない。案の定、鈴姫の反応は微妙だった。

 

(はぁ……一番下手くそなのは私の人付き合いだよな、やっぱり……)

 

 星菜とて「あの出来事」からもうじき一年が経とうと言うのに、彼とこのままの関係で良いとは思っていない。元の関係まで戻れるとは思わないが、それでも今はチームメイトなのだ。お互いのプレーに支障を来すようなわだかまりは、近い内に無くしておくべきだと思っている。

 しかし、それを許したくない自分が居ることも確かだった。

 

(でも私は、あの時の言葉だけは謝れない)

 

 早く解決したいとは考えているが、上辺だけでなあなあで終わらせることもしたくない。

 単に意地を張っているわけではなく、自分が謝るだけで解決出来るとは思えないのである。

 

(さっき私の緊張を見抜いたように、あの時もお前が、私の気持ちをわかってくれたら……)

 

 当時のことを思い出す度に、星菜の心から堪えようのない悲しみと憤りが沸き上がってくる。それ故に普段は彼を前にしても極力思い出さないようにしているが、それは単なる「逃げ」であることも自覚している。

 自覚はしているのだ。しかしこの問題について自分がどうすれば良いのか、星菜にはわからなかった。

 

 そうして星菜がグラウンドとは関係の無いことで悩んでいる間に、早くも六回裏の攻撃が終了した。池ノ川、小島と連続で三球三振に切られた後、八番義村もまた空振りの三振に取られたのである。

 つまりは三者連続三振。この回の攻撃は下位打線であったが、奥居の時以上に打てる気配が無かった。星菜は先輩女子投手が披露した見事な投球に思わず拍手を送りたくなったが、流石にそれを実行することは出来なかった。

 

(流石、あおい先輩だ。私も負けてられないな……)

 

 彼女の惚れ惚れする投球内容に口元を弛緩させると、星菜は七回表の守りに着くべくマウンドへと向かう。

 緊張は相変わらずあるが、今回のそれは身体が固くなるほどのものではない。寧ろ余計な感情を払拭出来るという意味では、理想的な緊張度合いだった。

 そこで星菜は、登板前に言われた「彼」の言葉を思い出す。

 

「マウンドに上がれば自然と余計なことは考えられなくなる。だから何も怖くない、か……」

 

 先ほどの回にマウンドに上がり鈴姫に声を掛けられるまでは、皆が皆お前のように心が強いわけじゃないんだよと言いたくなったが、早川あおいの投球をも見た今ならばその言葉の意味を理解出来る気がした。

 


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