外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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燃え尽きたエース、燃え尽きれなかったエース

 

 彼を知る人間に「波輪風郎とはどういう人間か?」と訊ねれば、大抵は評判の良い言葉が返ってくる。

 小学校教師いわく勉強は全く出来ないが興味のあることには驚くほど吸収力が良く、体育のように身体を動かす時間ではいつもヒーローだったと。

 シニア時代のチームメイトいわく味方としては居るだけでも周囲に好影響を与える頼もしいキャプテンだったと。

 高校のクラスメイトいわく野球漫画の主人公みたいなスペックを持っている上に可愛い彼女まで持っているとんでもない野郎だと。

 他校のライバルいわく追い込まれれば追い込まれるほど実力を発揮してくる、呆れた根性の持ち主だと。

 傍から見れば波輪風郎の人生は順風満帆その物であり、誰もが羨むほどの恵まれた境遇であろう。

 しかしそんな波輪風郎とて、昔から現在まで万事が順調だったわけではない。

 体格や運動神経こそ並より優れていたが、練習も無しに最初から今のように投球も打撃も万能にこなせていたわけではないのだ。当初は守備に着けばその度にエラーし、打席に立てば三振だらけ。投手として初めてマウンドに立った頃は緊張で投球どころではなく、一球もストライクが入らないという惨状であった。

 チームメイトとは意見の食い違いから些細なことで喧嘩し、仲間割れを起こしかけたこともあった。今のように部員達全員から慕われる主将としての姿は、昔からあったわけではないのだ。

 しかしそう言った多くの挫折を乗り越えた結果、今の波輪風郎がある。生まれ持ったものは確かに恵まれていたのかもしれないが、波輪とて人一倍の努力を怠らずに行ってきたからこそ、今こうして堂々とマウンドに立つことが出来るのだ。

 

 しかし過去に乗り越えてきた挫折の中に、非外傷性肩関節不安定症――「ルーズショルダー」があった。

 

 ルーズショルダーとは肩関節が柔らかすぎる為に投球時に肩が痛み、もしくは肩が抜けそうな感覚を催すと言った症状が出る障害である。

 投球動作を繰り返すことで肩の前後方向にストレスが蓄積し、小さな傷が肩の関節包に起きる。そして元々の関節包の緩みが増幅され、肩が不安定になるという――生まれつき関節の柔らかい選手ほどなりやすいとされている、投手にとっては致命傷になることもある厄介な障害である。

 波輪の右肩をルーズショルダーが襲ったのは、中学三年生の頃のことだ。違和感を覚え始めたのは練習中のことで、ボールを投げ終わった後に右肩から疼くような痛みと妙なだるさを感じたのである。

 その違和感を不審に思った波輪は、中学時代の監督の勧めにより後に行きつけの病院となる加藤接骨院にて診断を受けることにした。

 そこで非外傷性肩関節不安定症、即ち「ルーズショルダー」との診断を言い渡されたのが、全ての始まりだった。

 

 右肩に爆弾とも言える痛みを抱えた状態では、過酷な高校野球の環境では投手は務まらない。しかしこんなことで投手をやめる気になど到底なれなかった波輪は、診断されたその日からすぐに治療を行った。

 治療法として行ったのは、内側の筋肉であるインナーマッスルを鍛える運動療法である。もう一つの確実な手段として「手術」という選択肢もあったのだが、そちらの場合は術後のリハビリに多大な時間を浪費する上、完治した後も以前と同じ球威のボールを投げることが出来ないリスクが高いと言われ、波輪には踏み切ることが出来なかった。

 我が儘ではあるが、速いボールを投げられなくなるのも、長期間野球が出来なくなるのも嫌だったのだ。

 最短の期間で右肩を治し、これからも痛める前と変わらないボールを投げ続けたい。その一心で、波輪はしばらく治療の日々を送った。

 その際、波輪のルーズショルダーを知ったあかつき大附属高校のスカウトからは投手ではなく野手としての入部を勧められたものだが――あくまで投手に拘った波輪は、その誘いを断ることにした。そもそもが投手として名門校を倒したいという目標を持っていた波輪には、野手として名門校に入学する気など微塵も無かったのである。

 

『良かった。君みたいな熱血馬鹿が入部したら、僕のチームが暑苦しくなってしまうところだったよ』

 

 そのことを同じくあかつき大附属高校に入学する予定だった猪狩守に言うと、嫌味な性格の彼らしく波輪の入学拒否を喜ぶような言葉が返ってきた。思った通りと言ったところかその言葉から残念な気持ちは全く感じられず、自惚れでないのなら、むしろ彼もまた自分とライバルとして戦えることを喜んでいるように聞こえた。

 

 

 徹底したスケジュール管理の下治療を続けた結果、竹ノ子高校に入学するまでには右肩の違和感は無くなっていた。試しに投げてみるとボールのスピードはブランクの分だけやや遅くはなっていたが、痛める前と比べても極端に衰えてはおらず、その球威も数週間の練習によって無事取り戻すことが出来た。

 高校野球デビューとなる最初の大会では中学時代の自己最速145キロを更新する147キロを計測し、投球中は自分がルーズショルダーであることなどすっかり忘れてしまうぐらいだった。

 実際、高校に入学してからは一度として右肩の痛みがぶり返すことはなかった。寧ろ中学時代よりも肩が良く動き、二年生にして150キロを超える剛速球投手にまで飛躍したほどである。その順調な成長ぶりには何より波輪自身が驚いており、もう右肩の心配は要らないものだと思っていた。

 

 ……そう、思っていたのだ。

 

(鎮まれ! 鎮まれ俺の右肩! ふはははは、はぁ……笑えねぇよ……)

 

 七回裏、ワンアウトを取ったものの、依然変わらず走者を二三塁に置いたピンチの場面。このイニングが始まる前から感じ始めていた痛みは広がり、波輪の右肩を酷く蝕んでいた。

 その痛みは極力表情には出していないつもりだが、波輪は星菜ほどポーカーフェイスが得意ではない。いつ周りにバレてしまうか、気が気でなかった。

 

(何だかなぁ……昔は怪我に強い方だったのにな……)

 

 グラブの中でボールを弄びながら、波輪は六道のサインを窺う。先の五番木崎には執念で150キロ超えのストレートを投じたが、既に波輪の右肩は悲鳴を上げており、とてもではないがそのようなボールを何球も投げられるような状態ではなかった。

 

(大人しくあかつきに入ってれば、ここに来て痛み出すことはなかったんだろうなぁ……)

 

 サインに頷いた波輪が、セットポジションから左足を大きく振り上げ、打者に対して一球目を投じる。

 球種はストレート。波輪の持ち球の中で最も精度の高いボールは、六道の構えたミットよりも真ん中へと向かってしまったものの、空振りを奪うことが出来た。

 

「危ないぞ」

 

 結果的にストライクを取れたが捕手の六道明はナイスボールと声を掛けることはせず、見たままの正直な感想を述べてボールを返してきた。印象や結果に囚われず本質を捉えてくれるところは、波輪がバッテリーを組んで以来この捕手のことを信頼している理由の一つでもある。少々空気が読めないのが玉に傷だが、今この状況下においてはむしろ望むところだ。

 今の波輪には、優しい言葉よりも厳しい言葉が必要だった。

 

(……でもまあ、ここに入って良かった。ああ、そうだ! こんな痛みに負けてどうする! 俺は何の為にここに来た!? 猪狩や樽本さん、そして阿畑さんみたいな凄い奴と戦って、勝つ為だろうが!)

 

 痛みで思い通りのボールが投げられない? 甘ったれるな! それでもピッチャーを続けたいから、また痛むことも覚悟して竹ノ子に入ったんだろうが!

 心の中で自身の考えの甘さを叱責し、波輪は六道から受け捕ったボールを潰すように強く握り締める。

 こんなことでこの勝負を終わらせたまるかという、その一心であった。

 

「行くぞっ!」

 

 肩が痛くても、まだ肘と手首がある。

 その全身に気合いを込めると、波輪は六道のサインも見ずに二球目を投じた。

 

 しかし溢れ出る気迫に反して、指先から放ったボールはハエの止まるような緩い軌道を描いていた。

 

 そのボールを投じた瞬間、キャッチャーマスクの中で目を見開く六道の「おい」という声が聴こえたような気がした。波輪が今しがた投じた球種は、彼の出したサインとは全く異なるものだったのだ。

 球種の名は泉星菜直伝の、超スローカーブである。山なりの軌道でキャッチャーミットへと向かっていくその変化球は、阿畑のアバタボールよりも球速が遅かった。

 泉星菜の投げるそれはストレートと全く同じリリースから放たれる為、打者にとって非常にタイミングが取りにくい。しかしそれに対して波輪のスローカーブは投げる瞬間腕の振りが極端に緩くなるという欠陥を持っており、練習こそしたが実戦では危なっかしくて使えないと落第点を受けた変化球である。無論、試合前にも六道からは「アレを要求することはない」と事前に伝えられていた。

 だがそれでも、波輪はあえて彼のサインを無視してこのボールを投じた。決して肩よりも肘を主に使うこのボールならば右肩の負担も少なく済むだろうという自分本位な理由ではない。この状況下で、ただでさえ速球派投手のイメージの強い波輪に対して相手打者が遅い球を待っていることなどまず考えられず、今は正直にストレートを投げるよりは抑えられる自信があったのだ。

 

 その博打は、成功した。

 

 この試合初めて投じた変化球に相手打者は六道以上に驚き、そして一流投手である波輪が投げたものとは思えないほど不格好で粗末な完成度のボールに身体が反応してしまい、思わずバットを出してしまったのである。

 ボールはバットの芯を大きく外した先端部にちょこんと当たり、前進したサード守備位置の真正面へと転がっていく。その間三塁走者はホームベースに進むことが出来ず、無事ボールを捕球したサードの池ノ川は手堅く一塁へと送球した。かくして波輪は二三塁に置いた走者を釘付けにしたまま、アウトカウントを二つに増やすことに成功したのである。

 

「……おい、エース」

「ハイ、スミマセン!」

 

 ツーアウトと二本の指を立てて守備陣に声を掛ける波輪の耳に、氷のように冷たい正捕手の声が突き刺さってくる。理由は聞くまでもない。一打先制のピンチでこの試合一球も投じたことのない変化球を、それも実戦で使用出来ない小便のようなスローカーブをサインを無視して投じたのだ。結果的に抑えたから良いものの、捕手の六道が激怒するのは当然であった。寧ろ波輪としては殴られても文句は言えないと思っているぐらいだ。

 

「……そういうことは、さっき集まった時に言ってくれ」

 

 しかし次に六道の口から吐き出されたのは冷たくはあったが激怒は感じない、何かを悟ったような一言だった。

 

「六道、お前……」

 

 彼が何を考えているのか、波輪はその声音から察する。

 思えば今まで入学して以来、彼とはずっとバッテリーを組んできた。正妻と言える立場である六道にとっては、元々ポーカーフェイスの得意でない波輪の表情から彼の状態を察するのは、そう難しくなかったのだろう。

 

「……散々、お前に支えられてきたチームだからな。絶対に肯定はしないが、一度ぐらいの我が儘は聞いてやる」

「……悪い。この試合からは逃げたくないんだ」

「わかった……」

 

 ――今すぐにでもマウンドから降ろしたいところだが、お前のことだ。意地でも降りないだろうから今は黙っておいてやる。

 

 その言葉が、口に出さずとも聴こえた気がした。

 

(ほんと、自分勝手なピッチャーで悪いな……)

 

 マウンドを後にし、六道が捕手の守備位置へと戻る。その後ろ姿を申し訳ない思いで見送る波輪だが、心なしか今のやり取りで心が軽くなった気がした。

 しかし心は軽くなっても、右肩は変わらずその重みを増していく一方だった。

 

 

 

 

 

 

 ――結果から言えば、波輪はこのピンチを無失点で乗り切ることが出来た。

 

 ストライクゾーンの高めに抜けたストレートを真芯で捉えられ左中間へと運ばれたものの、センターの矢部が敢行したイチかバチかのダイビングキャッチが成功し、辛くもスリーアウト目をもぎ取ることに成功したのだ。

 

 

 

 しかし、代償はあまりにも大きかった。

 

 

 ボールを放した瞬間から、波輪は右肩から先の感覚を失っていたのだ。

 

 竹ノ子高校監督の茂木が有無も言わせず交代を告げたのは、次のイニングが始まる前のこと。

 

 波輪風郎はこの大会一点も失うことがないままマウンドを去り、そして戻ってくることはなかった。

 

 

 この日、竹ノ子高校は不動のエースを失ったのである――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そろそろ、竹ノ子高校とそよ風高校の試合が終わった頃だろうか?

 

 時刻が十六時を過ぎ、日の暑さが少しずつ和らぎ始めた空を仰ぎながら、恋々高校のグラウンドの中小波大也は離れた場所のことを思う。

 波輪風郎、阿畑やすしがそれぞれ率いる両校の試合はどちらが勝ってもおかしくはない。大会屈指の好投手の投げ合いにはライバル校の選手としても興味があり、出来ることならば直接球場へ観に行きたいぐらいだった。

 しかし、恋々高校は明日に二回戦を控えているのだ。他所の試合と自チームの試合、どちらが重要かは答える必要の無い愚問である。故に今日はチーム全体で調整に専念し、明日の試合に対してなるべく万全を期する必要があった。

 

「一番ショート佐久間。

 二番レフト球三郎。

 三番サード奥居。

 四番キャッチャー小波。

 五番セカンド陳。

 六番ライト天王寺。

 七番ファースト小豪月。

 八番センター村雨。

 九番ピッチャー早川。

 ……明日はこのメンバーで行く。相手はパワフル高校で、練習試合では勝ったけど今度は本番だ。相手もこっちの情報を知っているから、一筋縄ではいかないだろうね。でも第一に、相手がどうこうよりまず自分のプレーをすること。相手は優勝候補だけど、僕達だってあの白鳥学園を倒してきたんだ。自力では決して負けていない。実力を出し切れば、勝てない相手じゃない。萎縮せずに自信を持っていこう」

 

 この日は調整日として利用し、練習は早めに切り上げた。そして最後に部員全員の前で明日のスターティングメンバーを発表し、小波は緊張した空気の中でそう締めた。

 勝負は時の運という言葉があるように、勝負事に関して「絶対」は無い。その日まで万全を喫したつもりが試合当日になって何らかのアクシデントが発生することなど野球においては珍しくなく、だからこそ小波は注意事項を述べるように言ったのである。

 しかし周囲の顔を見回した限り、この恋々高校野球部の面々に対しては要らぬお節介だったようだ。

 

「自分達の野球をすれば負けないって? サッカー日本代表みたいだね、それ」

「フッ、何も心配することはないナ。この台湾の至宝が居る限り、俺達は無敵ダ」

「萎縮~? お前、このメンバーの頭にそんな言葉があると思うか? それよりこっちが強くなりすぎてて油断する心配をした方がいいと思うぜー」

「はは……頼もしいね」

 

 部員達の軽口に頬が緩む。

 明日の試合に対して不安を抱えている様子の者は、誰一人として居はしない。皆が自信満々と言った様子であり、誰も自分達が負けることなど考えていないのだろう。

 無論、小波もその一人である。人数は少なく歴史も浅いチームだが、それでも自分達の実力が対戦校に劣っているとは思っていない。

 

(僕は良い仲間に恵まれたな……いや、この言葉は来年、引退する時が来るまで取っておこう)

 

 過去も今も、つくづくチームメイトには恵まれてきたと思う。そんな彼らを主将として率いることが出来ることに、小波は喜びと誇りを感じていた。

 小波は微笑を浮かべてもう一度周囲を見回すと、目に止まった緑色の髪の少女の方へと顔を向ける。この場に居る誰よりも華奢な彼女こそが明日の試合の行方を占う先発投手であり、恋々高校のエースである。

 

「調整は大丈夫? あおいちゃん」

「うん、バッチリだよ。星菜ちゃんから教わったスライダーも、それなりに使えるようになったしね」

「ウチのバッターにも通用していたからね。キャッチャーが使い方を間違えなければ、実戦でも問題なく行けるよ」

「ちゃんとしたリード頼んだわよ、キャプテン」

「プレッシャー掛けてくるね。頼まれたよ、エース」

 

 早川あおい――筋力も体格も男子の選手に劣る女性投手であるが、彼女の存在を見下している者はここに居ない。チームメイトの誰もが彼女の能力の高さを認めており、140キロを超えるストレートを投げる奥居を押しのけてまで恋々高校の背番号「1」をつけるに足る選手であることを全員が受け入れていた。

 野球に対する姿勢は誰よりも熱く、ここに居る男達は小波含めそんな彼女に心を惹かれた者ばかりであった。

 

 それこそ彼女が居なければ、チームとして成り立たないほどに。

 

 名目上野球部の主将は小波ということになっているが、チームの中で最も重要な存在は他でもない早川あおいなのだ。彼女は恋々高校野球部の中で、差別的な意味を含まずして特別な存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――だからこそ、その手紙を監督の加藤を経由して受け取った時、一同は激昂を隠さなかった。

 

 

 

 

《恋々高校様へ。

 日々御健勝のことと思います。

 

 

 (中略)

 

 

 今回の大会において、本来出場させることの出来ない女性を参加させた件を大会本部では重く受け止め、貴校を公式大会出場停止とする旨をお伝えします。

 つきましては……》

 

 

「ふざけるなっ!!」

 

 部員の誰かが上げた叫びは、手紙を書いた者達へは届かない。

 それでも一同は、叫ばずには居られなかった。

 

 恋々高校の長かった暑い、そして熱い夏が終わりを告げようとしていた――。

 

 

 


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