外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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野球人生は終わらない

 

 七月も下旬になろうと言うのに気温ほどの暑さを感じないのは、胸の内の心の部分が酷く冷めているからだろうか。

 授業合間の休み時間中、星菜は感傷に浸りながらぼんやりと窓越しに外の景色を眺めていた。太陽の光が降り注ぐ空は澄み渡る青をしているが、今の星菜にはその全てが色あせて見える。

 

「星菜ちゃん、最近元気無いね……」

 

 その横顔を傍目に見ていた友人の亜美が、星菜の浮かない表情から体調が悪いのかと窺ってくる。だが実際には、身体に関しては寧ろ好調なぐらいだった。

 

「……いえ、少し考え事を」

 

 無用な心配は掛けまいと微笑を作り、星菜はそう返す。嫌なことは引きずりやすい性格だとは自覚しているが、今回の件には全く関係の無い亜美にまで気に病まれたくはなかった。

 

「考え事?」

「努力ってなんなんでしょうって、そう考えていて」

「……それって波輪先輩のこと?」

「それもあります……」

 

 ずっと、考え続けていた。

 いや、星菜にとってそれは、また(・・)考えるようになったと言った方が正しいだろう。

 一つのことに真剣に打ち込む人間の「努力」というものの意味が、あの試合以来星菜にはわからなくなっていた。

 

 

 ――そよ風高校との試合は、結局4対1で竹ノ子高校の敗北に終わった。

 

 竹ノ子高校は波輪が右肩の負傷によって降板した後、八回表の攻撃は相手投手阿畑に疲れが見え始めたものの、アバタボールとアカネボールの二つの魔球を相手に手も足も出ないまま三者凡退に打ち取られられてしまった。

 均衡を破られたのはその後の八回裏、この試合二番手としてマウンドに上がった青山が、そよ風高校の打線に捕まってしまったのだ。四球絡みで出してしまった走者を四番の阿畑にタイムリーヒットで返されるなど、先制点を含む一挙四点を失ってしまったのである。好投の波輪の後を受け継ぐプレッシャーを考えれば、まだ一年生投手である青山を責めることは誰にも出来なかった。

 九回には先頭矢部のレフト前ヒット、二盗成功からの六道進塁打、鈴姫の犠牲フライによって一点を返したものの反撃はそこで打ち止めとなり、終わってみれば試合は三点差で敗れることとなった。

 だがそれ自体は、星菜は重く考えていなかった。

 竹ノ子高校のメンバーは二年生が最高学年だ。その負けがただの敗北であったのなら、まだ来年に望みを繋げることが出来たのである。

 

 しかし試合終了後、波輪風郎の右肩の状態を知った星菜はそんな望みすらも失うこととなった。

 

 これは川星ほむらから聞いたことだが、試合が終わった時点で波輪の右肩はもはや手術する以外治療法が無いほど深刻な状態に悪化していたらしい。その診断を受けた波輪はやむを得ず手術を決断し、今は無事手術を終えているが今後のリハビリには数ヵ月単位の時間を要することになり、仮に完治したとしても投手として元通りのボールを投げられる状態になるまで回復するのは絶望的とのことだ。

 

『波輪君がルーズショルダーだったことも知らなかったなんて……ほむら、マネージャー失格ッスね……』

 

 その話を聞かせてくれたほむらは星菜などよりも遥かに悲しい思いをしていただろうに、彼女は気丈にも部を休むことなく皆勤を続けている。

 

『あんなことになっても、ほむらは信じてるッスから。波輪君なら絶対復活するって』

 

 投手として再起を目指すか、心機一転野手に転向するか。どちらにしても右肩が壊れた程度で彼の野球人生が終わる筈が無いと――それが自分が惚れた波輪風郎という男だと、彼女が僅かに頬を染めながら熱弁していたことを思い出す。

 ほむら以外にも矢部明雄や六道明など、彼の復活を信じて希望を抱いている者は何人か居る。

 しかしその一方で、明らかに意気消沈している者も居た。

 

(……練習の鬼だと思っていた鈴姫まで、ああなるなんて……)

 

 そちらには、鈴姫健太郎が最も当てはまるだろう。

 入部以来他の誰よりも自分に厳しく猛練習を続けていた彼が、波輪の右肩の状態を知ってから何日か練習に参加しない日が出始めたのだ。

 それには波輪の怪我によって甲子園に行ける可能性が無くなったことに絶望し、竹ノ子高校よりも練習環境の良い他校に転校しようとしているのではないかという噂もある。

 誰も本人に確かめたわけはないので信憑性は全く無い話だが、大黒柱を失った今の竹ノ子高校に戦力的な魅力が無いことは悔しくも事実であった。

 波輪を追って竹ノ子高校に入ったという彼の入学経緯を考えれば、その噂もあながち冗談ではないかもしれないと思ってしまう。

 星菜自身ポジティブなほむら達よりもネガティブ気質な鈴姫寄りの心境で、試合前までと比べて幾分精神を憔悴させていた。

 

「あんな形で負けてしまって、先輩方は一体何の為に努力してきたのか……なんだか、今までやってきたこと全てが無駄になってしまったみたいで……」

「星菜ちゃん、野球部の練習を一緒にやったり、ずっと傍で見てきたもんね……」

「一番辛いのは先輩方なのでしょうから、私がいつまでも落ち込んでいては駄目なのですが……」

 

 努力した人間が報われることなく終わってしまうのは、傍で見ていても心苦しいものだ。それが勝負の世界と言ってしまえばそれまでだが、あまりにも不完全燃焼に終わってしまった光景には思うものが多い。

 なまじ自分がそうであったからと、余計に重ねて見てしまう。

 そんな己の心に、星菜は思う。

 

(つくづく弱くなったな、私は……)

 

 以前の自分ならば、もう少し冷めた考え方をしていた筈だ。

 投球中に右肩を壊した波輪に対しても、周りに肩に爆弾を抱えていることを隠してろくな控え投手もいない環境で強豪と戦うなどという無謀を冒した彼の自業自得だと――そう考えて、鼻で笑っていたところである。

 

(あの人達の投げ合いに、無茶をやっていた頃の自分を思い出してしまったんだ……だから波輪先輩の気持ちも、わかるような気がして……)

 

 しかし自分の居場所を失いたくないと――痛みを我慢してでもマウンドに残りたいと、ライバルとの勝負を最後まで戦い抜きたいという彼が抱いていたであろう思いは、かつては星菜の心にもあったものだった。

 その頃は野球という競技を今よりもずっと純粋に見ていて、周りの人間と同様に特大のホームランと剛速球に憧れていて、何の苦しみも知らなくて――。

 ルーズショルダーを中学三年の頃に患ったと言う波輪は、現実問題の苦しみも十分に理解していた筈だ。それでも尚幼少時代から持っていた熱血を最後まで貫き通してみせる根性は、愚かしいと思うと同時に尊敬したくもあった。

 それは自分がしたくても、出来なかったことだから。

 

「……亜美さん」

「なに?」

「もし、ですよ? もし今までの自分の行動が全て無駄になってしまったら……亜美さんなら、その時はどうしますか?」

「えっ? ……うーん、怖い質問だね」

「すみません。でも参考にしたいので、亜美さんの意見を聞かせてほしいんです」

 

 何をやっても上手くいかない事態に陥った時、それでも前に進むことは出来るのか。右肩を故障した波輪と、もう一人――今大会で夢も希望も踏みにじられることになった一人の女性選手のことを考えながら、星菜は亜美に問うた。

 この時の星菜は無意識であったが、そうやって直面した疑問に対し素直に人から意見を貰えるようになった点だけは、星菜の自己完結しがちな性格が少しずつ変わっている証だった。

 亜美は解答に時間を掛けながらも、休み時間が終わるまでには答えてみせた。

 

「答えになってないかもしれないけど、全部が全部無駄になる行動なんて無いって思うよ。失敗したことの中にも、何か一つでもこれで良かったって思えることがあるんじゃないかって……」

 

 その解答は星菜には無い前向きな言葉で、星菜が欲しかった明確な答えとは違ってこそいたが自然と腑に落ちるものだった。

 それこそ「ああ、この人に訊いて良かった」と思えるほどに。

 

「それに……そんなことばかり考えていたら、結局何も出来ない、何もしない人間になっちゃうと思うから。私は無駄だからって言って何もしないのは嫌だって思う」

「……ありがとうございます。とても参考になりました」

「ごめんね、こんなことしか言えなくて」

 

 彼女にそんなつもりはないのだろうが、星菜にはその言葉が今の自分のことを正確に指しているように聴こえた。故に綺麗事と笑わず、真摯に受け止める。

 如何なる形になろうと、目標に向かって努力をしたという事実は変わらない。その事実が彼らにとって何らかの形で成功へと結びつくことを、星菜には信じたかった。

 

 ――でなければ、あまりにも可哀想だ。

 

 

 

 

 

 

 

 性格が明るいことは美徳である。今の星菜にそれが足りていないように、誰もが努めようとして簡単に明るくなれるものではない。

 そしてこんな状態にあってまだ、最も辛い立場に居る筈でありながらも普段の明るさを失っていない人間は極めて稀だった。

 

「おっす、星菜ちゃん!」

 

 放課後の部活動時間。女子用の更衣室で練習着に着替えた星菜は、男子部員達よりも一足早くグラウンドに出ていた。そんな彼女に左手を振りながら何食わぬ顔で近づいてきたのは、竹ノ子高校野球部主将の波輪風郎その人であった。

 

「こんにちは……大丈夫なのですか?」

「まあこの通り、大丈夫じゃないけどね。でも右肩以外は普通に動くし、今日から俺も練習に戻るよ」

 

 右肩を庇うように巻きつけているギプスが痛々しく見えるが、当の本人の表情は平常その物だった。彼と会うのはこれが試合の日以来であったが、そのあまりにも変化の無い様子に星菜はどこか拍子抜けしてしまった。もちろん、良いことなのだとは思っているが。

 

「………………」

「いやあ、あの……そういう顔しなくても大丈夫だからね、うん。手術は成功したし、これで二度と野球が出来なくなったわけじゃないしね」

 

 しかし投手として生命線である右肩を怪我してしまったのだ。いくら彼が明るい性格とは言え、そのショックは計り知れなかった筈である。

 それでも今までと変わらず明るく振舞っているのは、内面を隠して平静を装っているだけなのだろうか。そう思いながら波輪の右肩を見つめていると、彼は頭を掻きながら苦笑を浮かべた。

 二度と野球が出来なくなったわけじゃない――確かに彼ほどの才能があれば、最悪投手として復活することが出来なくても野手に転向することでプロを目指すことも十分に可能だろう。星菜が思っていたよりも右肩の怪我を悲観的に感じていないように見えるのは、その為かもしれない。

 

 ――だが、だとしても解せない。

 

「……先輩は、悲しくないのですか?」

 

 解せないのだ。確かに彼個人としてはまだ、これで野球人生が終わったわけではないだろう。しかし彼がこれまで投手として行ってきた全ての努力が、あの試合で無駄になってしまったのだ。

 これから先仮に怪我が治ってボールを投げられるようになったとしても、完全に元の状態に戻ることはないだろう。それどころかリハビリを行っても状態が一向に良くならないという可能性も十分にある。

 二度とマウンドには戻れないかもしれない。そうなれば彼の悲願である甲子園出場など、もはや夢に描くことすら出来なくなるだろう。彼を待っているのは、希望よりも絶望の方が圧倒的に多い。それにも拘らず明るい表情を浮かべていられる波輪の気持ちが、同じ投手として星菜にはわからなかった。

 この時、星菜は今の彼が陥っている状況をどこかかつての自分と重ねていたのだ。

 

 長年続けてきた努力を運命に否定されたこと。

 夢を追いかけることが出来なくなったこと。

 自分の居場所が無くなってしまったこと……。

 

 故に星菜は、この時平常心では居られなかった。

 そんな星菜の言葉に波輪は困ったように笑い、そしてはっきりと返した。

 

「そりゃあ、俺だって悲しいさ。悲しくて悔しくてしょうがないし、リハビリしても本当に投げられるようになるか不安で、夜だってあんまり眠れやしない」

「……あまり、そうは見えませんが」

「まあ、後悔なら十分したからね。後はそう、前に進むだけだ!」

 

 左手でポンッと星菜の右肩を叩きながら、波輪はそう強く言い放つ。彼は星菜の過去など知らない筈だ。しかしその言葉が自分のことを励ましているように聴こえたのは、きっと自惚れだろうと星菜は思う。

 だがそれでも、その言葉が自分に向けられたものではないにしても少しだけ元気づけられたように感じた。

 波輪は口を開き、言葉を続ける。

 

「悲しんでばかりじゃいつまで経っても進めやしない。こうなることも覚悟して選んだ道だし、これから頑張って、何とかしてみせるさ。甲子園だってまだ諦めちゃいないよ。それに……」

 

 言って星菜の肩から手を離すと、波輪は星菜の後方へと視線を移す。

 星菜がそれに釣られて背後を振り向くと、竹ノ子高校指定の緑色のジャージを身に纏った桃色の髪の少女がピョコピョコと駆け寄ってくる姿が目に映った。

 

「……こんな馬鹿な俺でも見捨てないでいてくれて、傍で応援してくれる女の子が居るんだ。応えてやれなきゃ、男じゃねぇよ」

 

 彼女――川星ほむらを見つめる波輪の横顔は穏やかで、優しげで。

 この男と自分を重ねて見ていたことが、星菜にはあまりに恥ずかしく思えた。

 

「強いんですね、先輩は……」

「弱いよ、俺なんて全然。あの子が慰めてくれなかったら、多分ずっと沈んでた。あっ、このことはアイツらには内緒な! 絶対殴られるから」

「……ぷっ、あはは! 私には話せるんですね、そういうことっ」

「……ん?」

「はははっ、心配して損しちゃった。やっぱり、貴方は強いですよ」

「あ、ああ……」

 

 傍に居る存在からの慰めを受け入れて、立ち直ることが出来たのが波輪風郎である。

 そして傍に居る存在からの慰めを拒み、今も立ち直りきれないでいるのが泉星菜だった。

 

 良かった――星菜はそう、心から思った。

 

(この人は絶対、私のようにはならない。……絶対に)

 

 自分には無い強いモノを、波輪風郎は持っている。そして彼自身は、それを良い意味で当然のことのように思っている。

 その姿を見て、星菜の心から一つの不安が解消された。安心のあまり、思わず素の口調が出てしまったほどだ。

 

「あのさ、星菜ちゃん……」

 

 あまりにも自分と違っていることが嬉しくて、笑いが止まらない。

 後輩のそんな態度が無礼に映ったのか、波輪が掛けてきた言葉に星菜はハッと口元を押さえながら、彼の顔を上目遣いに窺った。

 何を言われるのかと内心怖々としていた星菜だが、波輪が浮かべていた表情は微笑みだった。

 

「やっぱり、元気に笑っている顔の方が似合うよ」

 

 そう何事も無いように言ってくれるところも、彼の美徳なのかもしれない。星菜はこの時、僅かに彼の顔から目を背けながらそう思った。

 

「……そういうことは、川星先輩にだけ言ってください」

「え、なんで?」

「……なんでも、です」

 

 これが彼に好意を持つ女性であれば、下手に勘違いしていたところだ。見た目通りこういった方面には鈍い男なのだろうと星菜は思った。

 ……それがどこか、小波大也と似ているように思う。星菜は多数の女子生徒から好意を寄せられていた中学時代の先輩を思い出しながら、そんな他愛の無いことを考えた。

 程なくして、駆け寄ってきた川星ほむらが二人の元に合流する。

 

「星菜ちゃん! 波輪君と何話してたんッスか?」

「先輩に口説かれていました」

「ちょっ、ちが」

「波輪君……それはどういうことッスか」

「うわーい! 待ってくれ、いや待ってください。おい星菜ちゃんなんてこと!」

「……先輩」

「ハイ!」

 

 この男の手綱を握っておくのも大変であろう。これはそんなことを考えた星菜の、ほむらに対するささやかな手助けだ。

 

「川星先輩のことを泣かしたら、私許しませんから」

 

 二人にはどうか、これからもお互いに必要な存在同士で居てほしいと思う。完全な部外者である自分がそんな口出しをするのも何様かと言う話でもあるが、それでも星菜は言わずには居られなかった。

 

(……私もお前の気持ちを受け入れていれば、この二人のようになれたのだろうか……)

 

 彼ら二人の姿を「有り得た筈の自分達の姿」のように見てしまったのもまた、自惚れなのかもしれない。

 だがこれも、星菜には考えずに居られなかった。

 

(いや、そういうことを考えている時点で、私はもう駄目なんだろうな……)

 

 過去に戻りたがっていると――そう気付いてしまった自分に、これ以上前に進むことが出来るのだろうかと。

 

(後悔なら十分、後は進むだけ……か)

 

 波輪の言った言葉は、星菜にとって共感出来るものではあった。しかしそれでも、星菜と彼とではあまりにも立場が違い過ぎているが為に、元気づけられる以上にその言葉を素直な心のまま受け止めることは出来なかった。

 

 前に進んだ筈の道が行き止まりに終わった野球少女――早川あおいの姿が脳裏にちらつく。

 自分も同じ野球少女である以上、どれほど前へと突き進んだところで、結局行き着く先はあそこしか無いのだから――。

 

 


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