外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
――怖かったのだ。
野球部の中で孤立していた自分に、それまで傍に居てくれた親友の優しさが。
その優しさが自分だけに向けられていることに気付いた瞬間、怖くなった。
それまでに周りの人間に多大な迷惑を掛けてきた自分。
小波大也に至っては、自分が野球部に居た為に彼の進路を狂わせてしまった。
そして次は、自分の存在が彼の――鈴姫の進路にまで悪影響を与えようとしていた。
多くの強豪校の推薦を蹴って、ただ自分の為だけに無名校に入学しようと言った彼。
その優しさは、正直に言えば嬉しかった。
嬉しかったが――重すぎたのだ。
泉星菜のあまりにも小さな手では、その想いを受け取ることが出来なかった。
自分と一緒に居れば、それだけで本来彼を待っていた筈の輝かしい将来が離れてしまう。
自分に優しすぎる為に、彼は彼の人生を台無しにしてしまう。
――そんなことが、耐えられる筈が無かった。
彼の告白まがいな言葉を受けて、そんなことをいの一番に考えてしまった自分自身にも失望した。
彼の優しさが自分に対する庇護心から来るものだと悟った時、もはや自分達はライバルどころか対等な存在ですらなくなっていたことに気付いてしまったのだ。
そんな自分に彼の隣に立つ資格があるなどとは――泉星菜には思えなかった。
「……それは、違うと思う」
早川あおいに対して一言ずつ語る度に、胸の内が痛んだ。だが星菜には決壊したダムから溢れ出てきた水流のような言葉の群れを、途中で止めることなど出来なかった。
星菜が当時の自分が抱いた怒りの思い全てを吐き出した時、最後まで黙って聞いていたあおいが言った。
「今、君が話していた時……ここのところが痛かったよね? 苦しかったよね?」
あおいは真剣な眼差しを向けると、自らの左胸に手を当てながら質してくる。その言葉に星菜は、無言で首肯した。
「それってさ、君の中にある何かが傷ついているってことだよね。……鈴姫君に言った言葉を、後悔しているってことでしょ?」
「違うっ……それは、違います……! アイツは……アイツも他の連中と変わらなかった! 誰よりも守りたい人だって……私が欲しかったのは、そんな言葉じゃなかったのに! アイツだけは私のことをずっと対等に見てくれるって、信じてたのに!」
別れた日の話をしている間、心が痛かったことは事実だ。しかしその痛みが自分の下した決断に対する後悔から来るものだとは、とても思いたくなかった。
あおいに話したのは、失敗だったかもしれない。
星菜はこれ以上内心をさらけ出さないように、作り笑いの仮面で素顔を隠した。
「……だから、始めから間違っていたんですよ……私のことを対等に見てくれる人なんて、どこにも居なかった」
彼を突き放したことを後悔しているなどと認めてしまえば、今の自分自身を否定することになる。自分にとって対等な人間などどこにも居る筈が無いと、そう諦めたことが無駄になってしまう。
竹ノ子高校の皆には諦めて、始めから期待せずに接していたから今まで上手く付き合っていくことが出来ていた。しかし自分が本当は今でも対等な存在を欲していると認めてしまえば――またあの時の自分に戻ってしまう。それでは、同じ過ちの繰り返しだ。
だから星菜は、自ら本心を隠し続けていたのだ。
「……駄目だよ、そんなんじゃ」
そんな星菜と向き合って、あおいが正面から否定する。
「君は、今の自分が好き?」
「……嫌いです」
「じゃあ、昔の自分は好き?」
「……嫌い、です……」
自分の殻に閉じこもって、言いたいことも何一つ言えない今の自分も、傍に居てくれた大切な友人さえ突き放した過去の自分も――どちらも嫌いだ。
こんな自分なら、いっそ居なくなりたいとすら思っていて――それでも、蔑ろにされることは人並みに不愉快に感じて。
本当のところ、自分のことが好きなのか嫌いなのかもわからない。我ながらあまりにも面倒で、自分勝手で、不器用な人間だと思う。でもそれを、自分から治すことは出来ない。それが、星菜が認識している泉星菜という人間だった。
「なら今度は、違う自分を捜そうよ。自分を好きになろうよ、星菜ちゃん」
心では周りから認めてもらいたいと強く思っていながら、自分自身を肯定出来ず好きになれないでいる。そんな星菜のことが、あおいには他人事に思えなかったのだろう。親身に応じたその言葉は、他の誰よりも星菜の胸に響いた。
「ボクは言ったよね? 待っているだけじゃ駄目だって、君のことを受け入れてくれる人はどこかに居る筈だって」
「……居ないですよ。そんな人は」
同じだけ苦しんできたあおいの言葉には、説得力がありすぎていた。
自分の心が無意識に受け入れてしまう彼女の言葉が今は怖く感じ、星菜はこれ以上聞くまいと耳を塞ごうとする。しかしその両手は思うように動かず、自身の震える肩を押さえるばかりだった。
「鈴姫君は、君のことを受け入れようとしてくれたじゃない。なのにどうして、そんな言葉を掛けたの?」
「……私はアイツから貰ったたくさんのものを、何一つ返せなくて……そんな私じゃ、アイツと……対等になんかなれないと、思っていたんです……!」
「本当にそう? 星菜ちゃん」
気付けば星菜は、今まで自分自身すらも知らなかった己の本心を吐き出していた。
大粒の涙を溢しながら、星菜は言葉を紡ぐ。
「私だって……私だって本当は、守りたいって言われて、嬉しかったんですよ……! アイツとなら対等じゃなくても、あのまま守られる関係でも良いと思っていた……!」
誰よりも大切な、守りたい人だと――年頃の少女なら、親しい仲だった男からあのような言葉を掛けられて嬉しくない筈が無い。それが本当に欲しかった言葉でなかったのだとしても、星菜の心はあの時確かに満たされかけていたのだ。
だが、だからこそ星菜は拒絶しなければならなかった。
「……でも、そんなことを言ったら私は……その瞬間から野球に対する未練も何もかも無くなってしまいそうで……」
それまで星菜は、何も気にせず野球に打ち込んでいる時の自分こそが本当の自分だと思っていた。
だが鈴姫に対してそれまでに無い感情を抱いてしまった星菜は、どちらが本当の自分なのかわからなくなってしまったのだ。
「……だから私は、アイツの優しさが怖かった……! 嫌いになったんじゃないんですッ……! 私は……!」
決して鈴姫のことが、あの一件で嫌いになったわけではない。星菜はただ、彼に対し特別な感情を抱くのをやめて――
「それまでの自分が……ずっと打ち込んできた野球よりも、アイツのことを好きになってしまうのが怖かったんです……!」
――それまでと違う、変わりかけていた自分自身から逃げ続けていたのだ。
「冷たいよ、それは」
「……わかってます。でもそうなったら私は、もうそれまでの私じゃなくなってしまうから……」
野球以外のことで満たされてしまったら、その時は野球に対する情熱も未練も完全に失ってしまうだろう。
猫を被るのではなく心の芯までも普通の少女になってしまったら、それまでに歩んできた野球少女としての人生を否定することになる。
過去を否定することを恐れたが、決して過去の自分が好きだったわけではない。
それからは過去を否定しない為に表面だけ取り繕った野球好きの少女を演じていたが、中途半端な現状の自分も嫌いだ。
過去の自分も今の自分も嫌いで――その上変化を恐れ、自分がどこに居るのかもわからない。
「……君ってさ、なんて言うか不器用なんだね。……ボクと一緒。だからわかるよ、君の言うことも」
そんな星菜に対して、あおいが己にも覚えがあるのか自嘲気味にそう言った。
しかしすぐに真剣な眼差しに戻り、あおいは確かな厳しさを持って星菜に問うた。
「星菜ちゃん、また聞くよ。君は、どうしたい?」
一度目は「わからない」と答えた、二度目の質問である。
その時は野球に関する質問であったが、今回では意味合いが異なっている。しかし何についての質問なのかは聞き返すまでもなかった。
「私は……」
どうしたいのか――このまま、今まで通りで良いのか?
「私は……!」
それでは駄目だと、思い始めている。
二度と引き返せないと、そう決めていた筈の道だ。
そんなことをすれば、どうなるかわからない。
しかし星菜には、たった一つだけ決心したことがあった。
「……もう一度、アイツと話したい……」
あの日から敬遠し続けてきた彼と、向き合わなければならない。
肩に不安を抱えながらも夢を追った波輪や、苦しくても諦めず公式戦出場を目指す早川あおいのように、己にとって直視したくない現実とも対峙する。
泉星菜は二人のように強くはないが、強く在りたいと思う気持ちだけは失っていなかったのだ。
「うん……鈴姫君言ってたよ。まだ星菜ちゃんのこと、待ってるって」
星菜の言葉に、あおいは満足そうに笑った。
彼女が居てくれて本当に良かったと、星菜は改めて思った。
試合をしている時、鈴姫健太郎は常々思っていた。
何故この場所に、彼女が居ないのだろう? と。
誰よりも実力のある筈の彼女は、ただ女子だからと言う理由だけでベンチにも入ることが出来ず、スタンドからグラウンドを遠目に眺めている。そしてそのことに対し、彼女は不満そうな顔一つすることなく現状を受け入れている。
――いや、あれは受け入れているように見せかけているだけだ。
今まで、どれだけ彼女の顔を見てきたことか。笑った顔も、怒った顔も……泣いた顔も見てきたのだ。例え彼女がポーカーフェイスを装おうとも、その奥底にある感情を察することの出来ない鈴姫ではなかった。
彼女は決して、現状を受け入れているわけではない。受け入れざるを得ないから、諦めているだけだ。
彼女の居ないグラウンドでは、試合に勝ったところで喜びは無かった。
優秀な投手からヒットを打った時も、特に高揚感があるわけでもない。淡々と、作業をこなしているようなものだ。
……我ながら、女々しすぎる男だと思う。これではまるで、読んだことはないが少女漫画に登場する乙女のような恋愛脳ではないか。
だがそれは、彼女の居ない試合をつまらないと感じているのは間違いなく、鈴姫の本心だった。
だから所属チームの大黒柱である波輪風郎が右肩を壊し、下手をすれば二度とボールを投げることが出来ないかもしれないと知った時も、他の野球部員達のように落ち込むことはなかった。
それには、彼ならばどうせ復活するだろうと割と楽観視しているという部分もあるが、結局のところ鈴姫がこの高校に入学したのは彼女とまた野球をしたいと思ったからで、甲子園を目指す気持ちはそれほど強くなかったからなのだろうと分析する。
純粋な波輪を見ていれば、それがいかに不純な動機かは鈴姫自身がよくわかっているつもりだ。
――それでも、だ。
(俺は一体、何の為に……)
鈴姫は彼女を目標に野球に打ち込み、あくる日も努力を続けてきた。
しかし肝心の努力を発揮する場所に彼女が居ないのなら、一体何の為の努力だったのか。
何の為に、自分は野球をしてきたのか……。
そよ風高校に敗北してから、鈴姫はある日駅前にて恋々高校が大会運営に女子選手の公式戦出場を認めさせる為の署名運動を行っていることを知った。
それ以後、鈴姫が起こした行動は迅速だった。
『俺も署名運動に、参加させてください』
彼女と同じ野球少女である早川あおいからは動機を問われたが、彼からは特に何も言われることなく了承を貰えたものだ。
しかしそのようなことを勝手に行ったと彼女が知れば、また怒られるだろう。彼女は強い人間で、庇護されることを良しとしない性格だ。別れた日はそのことを完全に失念していた鈴姫だが、今ならば彼女があの日見せた涙の理由も理解出来る気がする。
だがどうせ、一度は盛大に嫌われた身だ。これ以上失うものなどありはしないだろうと思い、鈴姫は恋々高校の署名運動に参加した。
彼らの運動に参加する日は部活動を欠席することになるから、監督の茂木と主将の波輪には大方の事情を話している。この件に関して怪訝そうな顔は見たくなかったから、彼らには署名運動に参加すると決めた動機を洗いざらい話してやった。
波輪に対しては話の流れからか、彼女に対する気持ちまで語ってしまった。
その時の鈴姫は、彼自身が思っていた以上に精神的に参っていたのだ。誰かに話したい思いはずっと持っていたが、親友と呼べるほど深い仲の人間が居ない鈴姫にはそれまで誰かに本心をさらけ出すことはしなかった。
しかし機会さえあれば、鈴姫自身が驚くほど躊躇い無く話すことが出来た。
『……なるほど。お前とあの子がそんな関係だったなんて知らなかったよ』
それに波輪風郎は聞き上手である上に、話し相手としては理想的な相手だった。
彼とはお互い踏み込むには深すぎも浅くもない関係であり、個人としても少々抜けている部分こそあるものの時と場を弁えられるほどには誠実で、一定の信用は置ける先輩だ。
彼が相手ならば、話したところで下手なことはしないと思ったのである。
『でもな、鈴姫。お前は、嫌われてなんかいないと思うぜ?』
そして別れた日の話を語り終えた時、波輪は自分の言葉で意見をくれた。
『別にさ、怒られたって良いじゃねぇか。一度も喧嘩しないで、対等な関係になんかなれるかよ』
それは、考えてみれば当たり前のことで。
『話を聞くに、お前はちょっと傷付けることを怖がりすぎだ。もっとあの子のことを信じてみろよ。後はカッコつけずに腹割って話し合って、お互いの気持ちを確かめてみろ。俺も体験したことだけど……まあ、俺が言えるのはそれだけだな』
今の鈴姫にとって、それは何よりも必要な言葉であった。
波輪から掛けられたその言葉には、鈴姫自身同調出来る部分があったのだ。
喧嘩もせずに対等な関係にはなれない――思えば彼女とは、あの日までまともに喧嘩したことは無かったように思える。
だからたった一度の衝突でどうすれば良いかわからなくなり、気が付けばあの日から一年近くの時間が過ぎてしまった。
――今度こそ、俺に向き合えるだろうか?
違う、向き合わなければならないのだ。
彼女に対するこの気持ちに。
午前の授業が終わった昼休み時間。
そよ風の吹く竹ノ子高校校舎の屋上にて、鈴姫は自身の心を落ち着けるべく深呼吸を繰り返していた。
野球の試合でチャンスの場面で打席が回ってきた時よりも遥かに緊張しているのが、自分でもわかる。
「……決着を、つけないとな」
この日、鈴姫は彼女との過去に決着をつけるつもりだ。
あの日のことについて彼女がどう考えているのかわからない以上、自分一人の空回りに終わってしまうことも十分に考えられる。だが、鈴姫にはやらなければならないのだ。
竹ノ子高校には入学してから、少しずつだが彼女と話すことが増えてきた。その関係は他人行儀でぎこちないものだが、一応の改善は見せている。
今腹を割って話したことで、また口も聞けない関係に戻ってしまう恐れもある。だが彼女を公式戦の舞台に立たせる為には……自分が彼女の隣に立つ為には、避けては通れない道だった。
ガチャッ――と、ドアノブの回る小さな音が響く。
その瞬間鈴姫は背筋を正し、息を呑みながら一人の少女を出迎えた。
癖のないセミロングヘアーの黒髪に、鈴姫の知る何者よりも澄んだ栗色の瞳。端正整った輪郭の触れればかすれてしまいそうな少女の姿は、普段にも増して儚げに映った。
「
「……!」
その少女の名を、鈴姫はかつて友だった頃と同じように呼んだ。
苗字にさん付けで呼ぶ他人行儀な呼び方ではなく、気安く下の名前を呼び捨てにする。たったそれだけのことで声が震えていることを、この時の鈴姫は自覚していた。
「呼び出して悪い。今更……本当に今更だけど、言わなければいけないことがあるんだ」
「……私も、
まるで昔に戻ったような鈴姫の口調に対して、星菜が同じように崩した口調で返してきた。
表情には出していないが、鈴姫はそのことに喜びを感じる。彼女が学校生活で他の人間に向けている丁寧な言葉遣いよりも、鈴姫は自然体であるこちらの方が好きだったのだ。
――そして、二人による約一年ぶりの対話が始まった。