外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
数秒間の沈黙は、鈴姫にとって何倍にも長く感じられた。
泉星菜の吸い込まれるような澄んだ栗色の瞳は鈴姫の視線を掴んだ離さず、ただじっと彼の言葉を待っている。
この場所に呼び出したのは自分だ。ならばまず、自分から話すのが筋というものだろう。意を決し、鈴姫は口を開いた。
「あれから、一年ぐらいか……」
「………………」
鈴姫は元来人付き合いが得意な方ではない。口下手な為にこういった場合どのような会話運びをすれば良いのかわからず、しかし不器用なりに切り出した。
「……俺、あれから君と向き合うことが出来なくて……ずっと、逃げ続けていて……」
まともに彼女と向き合って「あの日」のことを話すのは、言うまでもなくこれが初めてである。二人にとってそれは、この時まであえて触れずにいた話だった。
そうやって、お互いに逃げ続けてきた。
だが、逃げ続けた結果手にしたものなど、どこにも無かった。
だから今、鈴姫は決着をつけたいと思ったのだ。
「それで、決めたんだ。俺は君と……話さなきゃならないって」
あまりにも時間が長く掛かりすぎてしまった。
彼女にとってはいつまでも触れて欲しくない、忘れたい思い出なのかもしれない。
そう考える度に、鈴姫には一歩が踏み出せなかった。話をした結果彼女を傷付けることを、ずっと恐れていたからだ。
だがこの空白の期間で、鈴姫はそれでは駄目だと思い知った。
彼女が隣から居なくなったまま変わらない世界など、とても耐えられなかったのだ。
平静を装うのも限界で――彼女に対する思いの丈をぶちまけてしまった先輩の波輪からは、今一度しっかりと話し合うべきだと言われた。
故にもはや、迷うことなど無かった。
「星菜、俺は……!」
「……その話をする前に、鈴姫さんは私に何か言うことがあるのではないですか?」
鈴姫が話をする――前に、星菜が出鼻を挫くように問い掛けてきた。彼女の表情を正面から窺えば僅かに柳眉が逆立っていることがわかり、どこか不機嫌な様子である。
その隠し事を見破ったような言葉から、鈴姫は即座に彼女が何について質しているのかを察する。
「……早川さんに聞いたのか……」
「昨日、聞きました。その口ぶりからすると、貴方が私の為に署名運動をやっていたって言うのは本当なんですね?」
「ああ、本当だ」
彼女の丁寧な言葉遣いが、胸に痛く突き刺さる。
そんな態度は、望んでいなかった。
「……どうして、私に教えてくれなかったんですか?」
星菜が一歩ずつ詰め寄り、鈴姫の顔を間近で見上げながら問う。その真剣な眼差しもまた鈴姫が逃げ続けてきたものの一つであり、今はしかし、受け止めなければならないものだった。
「俺が勝手にやっていることだから……いや、違うな」
どうすれば、納得してくれるか。
野球の能力が全く役に立たない状況の中、鈴姫は己の脳内で最善と判断した言葉を選び、そのままに返す。
「あの時、君は俺から哀れまれたことを……自分が俺に庇護される立場になることを、許せなくて怒った」
ズキッと、胸が痛くなる。あの時のことは話す方も話される方も辛いのだと、話しながら改めて実感した。
だが、言葉は最後まで言い切ってみせる。
「今俺がやっている署名運動も……君から見ればあの時と同じなのかもしれない。そう思うと、君に伝えるのが怖くなったんだ」
自分の練習時間を割いてまで、彼女の為に署名運動を行っていた。鈴姫の行動は考え方によってはそう受け取れてしまうものであり、その事実は己の為に誰かが迷惑を被ることを嫌う彼女としては非常に耐え難いものだろう。
やはりまた、あの時の二の舞か。鈴姫は何一つ進歩の無い自身の行いに内心で苦笑を浮かべるが、心の中は不思議と晴れやかだった。
それはある種の諦めか、或いは開き直りの精神か。この時の鈴姫は、今更失う物など何も無いという思いだった。
ただ今は、これまで抱え続けてきた自分の想いをはっきりと伝えたかった。
「……すまない。でも俺は、どうしても君と一緒に野球をやりたいんだ。この気持ちは、一年経ってもずっと変わらなかった」
「今だって、一緒に練習しているじゃないですか」
「あれは君にとって、本当の練習じゃないだろう? 練習の為の練習……俺達の補佐をするのがメインで、試合の為の練習とはほど遠い」
自分の想いと彼女の想いが同じなどと、思い上がったことを考えているつもりは毛頭ない。
ただ、そうで在ってほしいとは思っていた。自分が彼女の帰還を待っていることに対して、彼女にもまた少しでも帰りたい思いがあるのだと。
だから、言った。
「……俺は、君と一緒に公式戦に出たい。俺はずっと、その為に野球をやってきたから」
彼女がこの言葉をどう受け取ろうと、鈴姫に発言を撤回する気は無かった。
彼女に教わった野球。彼女の隣に居る為に続けてきた野球。彼女が居たから自身の才能の無さにもめげず、あくる日も努力を継続することが出来た。
だから今の自分が一定の実力者になれたところで、彼女が同じ場所に居なければ意味が無いのだ。
「……変わらないな、お前は」
鈴姫の言葉に、星菜は俯きながら言った。
呆れの混じったその声すらも、鈴姫には愛しかった。
彼女は続ける。
「どんな時だって私のことを一番に考えてくれて……そのせいで自分が不利になることも厭わなくて。私が人間不信になっても、お前はいつだって優しくしてくれた」
気付けばいつの間にか、彼女の口調は学校生活で見せているような言葉遣いではなくなっていた。
お姫様のような容姿に反して親しみやすく、至って庶民的な口調は――紛れもなく鈴姫の知っている泉星菜のものだった。
「本当はね? 嬉しかったんだ。誰も信じられなくなっていたあの時の私に、お前はいつも着いていてくれた。私はお前に救われたんだ。お前が居なかったら、私は……」
重たそうに紡がれた彼女の言葉を、鈴姫は一句たりとも逃さずに聞き取る。
あの日から一度も聞くことが出来なかった彼女の本心を、ようやく聞くことが出来たのだから。
「でも私の方は、そんなお前の優しさに何も返すことが出来なかった……それに気付いた時、私はお前と対等な関係になれないって思ったんだ」
「星菜……」
星菜にとっては、あの日までの関係は鈴姫が自分に与えてくれるだけの一方的な関係に見えていたのだ。
あの時の状況と彼女の性格を考えるならば、積もり溜まった感情の爆発によって激怒してしまうのも無理もないことだった。
「……始めから、対等な関係なんか望むべきじゃなかったのかもしれない。私が受け入れさえすれば、丸く収まった話だったのにな……」
諦観したように言いながら、星菜が目を伏せる。
鈴姫には、どんな言葉を掛けて良いかわからなかった。
その時である。
「健太郎」
鈴姫の――かつての呼び名である下の名前で、星菜が呼び掛ける。
鈴姫は目を見開き、自身の目前に立つ星菜の姿を見下ろす。
それに対し、星菜が顔を上げ――
「ありがとう」
そう言って、笑った。
「私の居場所を、ずっと守ろうとしてくれて。ずっと……私を待っていてくれて」
それは淀みなどどこにも無い、正真正銘の笑顔で。
苦労も知らなかった小学生時代のような、純真無垢な目で。
太陽の光に照らされていたことも相まって、神々しさすら感じるほど華やかで、眩しい笑顔だった。
「……ふふっ」
もちろん単に彼女のその表情に見とれていたのもあるが、そんな顔が今の自分に向けられるなどとは露ほども思っていなかった鈴姫は、間抜けにも口を開けて硬直してしまった。
普段の彼らしからぬ表情を前にして、星菜が腹を抱えて笑う。
「はははっ、なんだよ? そんなに驚くことないだろ! 私が礼を言うの、そんなに意外だった?」
「……あの時のように、拒絶されるかと思った」
署名運動に参加したことも、全て拒絶されることを覚悟して話したことだ。彼女の古傷を抉るようなことをしてしまった以上、如何なる批難も受け入れるつもりだった。
それが礼と、あのような笑顔で返されるなどとは思いもしなかったのである。
「……そうだね。あの時も、お礼を言えれば良かったのにな……」
「不器用なのは、知っていたさ……何でも出来るように見えて、一度上手くいかないことがあると途端に頑固になる。君は、昔からそうだった」
昔の彼女のような笑顔を見て、心まで昔に戻ってしまったようだ。
鈴姫は先ほどまでの緊張が嘘のように、全身がほぐれたように感じた。
――今ならば、伝えられる気がする。
「でも俺は……」
変わっているように見えて、心根の部分は何一つ変わっていない。
それがわかった、今ならば。
「そんな君だから、ずっと傍に居てやりたいと思った。……こんなことを言うと君は怒るかもしれないけど、誰よりも守りたいと思ったんだ」
何も隠さなくていいと、そう思えた。
「……私は、性格悪いよ?」
本心だろう、星菜が心から思っていると見受けられる己の短所を述べる。
「自分嫌いぶっているくせに無駄にプライドが高くて、過ぎたことをネチネチ言うし人の好意すら素直に受け取れない……」
「俺だって、至らないことだらけさ。なのにあの時の俺は、自分が君の隣に居ることを当然だと思っていた。そうやって、思い上がっていたんだ」
誰にだって至らない部分はある。ありふれた言葉かもしれないが、鈴姫は自嘲気味に笑みながらそう返した。
「一年近く経った今だって、心の中はあの時と変わっていない。君が隣に居れば、他に何も要らないって思っている」
彼女の至らない部分など、鈴姫にとっては気にもならない。寧ろ彼には、それすらも愛しく感じていた。
これが、病だと言うのなら――
「星菜、俺は……君が好きだ」
――きっと、恋の病とでも言うのだろう。
「……いや、そう言うのも何か違うな。そんな気持ちは、何年も前からとっくに超えていた気がする」
それを何年も患ったままでいいと思ってしまうのは、やはり可笑しいだろうか。
だがそれが自分だと、そう思えるほどには胸を張って生きてきたつもりだ。
これまでも。
これからも。
「知ってたよ。始めは、私の自惚れなんじゃないかって思ってたけど……」
星菜が鈴姫の目を見つめながら、間も空けずにそう返す。普段の冷静さを保っており、頬も全く赤くなっていないのは想像の範囲内だ。
彼女がこうも正面から異性からの告白を受けても動じないのは、昔からのことである。これまでも彼女は、そう言った少女らしい少女の反応は見せなかった。
それが異性として認識されていないだけだとしても、鈴姫にはそれで良かった。己の告白がどう取られようと、泉星菜が昔のままで居たことに安心出来たのである。
「お前の気持ちは、多分あの時も知っていた。……でも、受け止めるのが怖かった」
星菜が自身の制服の袖を掴んで、身をよじらせながら言った。
「お前にずっと守られることを受け入れたら、対等な野球選手としての関係がなくなってしまうから……野球に対する感情全てが、お前に向いてしまいそうだから……」
鈴姫はただ、その後に続く言葉を待つ。
「だから私は……」
そして、星菜が――
「私は、野球をやめるよ」
今にも泣き出しそうな表情で、そんな言葉を放った。
それは、鈴姫にはある程度予測の出来た言葉である。
「これからは野球に対する執着を、今度こそ完全に無くすように努力する。お前だけをちゃんと見れるようにならなくちゃ……お前の想いに応えられそうにない」
このどうしようもなく不器用で可愛い野球少女ならば、野球も恋も両立しようとは思わないだろうから。
「健太郎、だから……」
「……だったら、今はまだ応えないでくれ」
「えっ?」
予測出来たからこそ、鈴姫にはさらに続く筈だった星菜の言葉を遮ることが出来た。彼女にとってはそれが予想外だったのか驚きに目を見開いていたが、鈴姫は彼女がまた何かを言い出す前に手早く己の言い分を述べた。
「もう待つのも慣れたし、君がまた傍を離れさえしなければ、少なくとも高校卒業までは待っていられるよ」
「健太郎?」
自分も大概不器用なつもりだが、彼女の不器用さはそれ以上である。
鈴姫が自分の気持ちを伝えたのは、彼女に野球をやめさせる為などでは断じてないのだ。
「だから俺の為に野球をやめるなんて言わないでくれ。君が自分の為に俺が不利になることを嫌がるのと同じぐらい、こっちだって君に気を遣われるのは嫌なんだ」
「……ごめん」
「謝るなよ。俺が勝手に言ってるだけだ」
「私の方が勝手だよ……」
野球と自分を天秤に掛けて一瞬でも自分を選んでくれたのは、正直言って嬉しい。だが、野球をやめると言ったその言葉が彼女の本心でないことは悲痛な目を見ればわかった。
彼女はまだ、燃え尽きていない。
野球への執着心を捨てるには、やり残したことがあまりにも多すぎるのだ。
「こっちはそういうところも含めて好きになったんだ。あまりに勝手が過ぎたら俺が止める。だから、それまでは安心して勝手をしてくれ」
「そんなこと、お前に出来るの? お前、私の言うことにはほとんどイエスしか言わなかったじゃないか」
「あの時は、下手に反発して君を傷付けることを怖がっていたからな。でも君が許してくれるのなら、今からだって出来るさ」
星菜に限らず、自分もまた勝手なことをするだろう。それが悪いことだった時は、彼女に止めてほしい。
彼女が苦しんでいた時は助けたいし、こちらが悩んでいる時は相談にも乗ってほしい。
一緒に居て、本心からぶつかり合える関係を彼女が許してくれるのならば――
「……許すよ。お前になら、傷付けられてもいいから……だから言いたいことがあるなら、はっきり言い争おう」
「ああ」
「それと……今までずっと、振り回してごめん」
「振り回されるだけ、いいさ。傍に居てくれるなら……」
振り回されることすら無くなったら、その時こそ本当に自分達の関係が終わる時だと思う。
わだかまりが解けた今ならわかる。あの時、自分達は決して「別れた」わけではないのだと。
「私は、自分の居場所がわからなかった……」
「俺も、君がどこに居るのかわからなかったよ」
「……馬鹿だよね、私は。対等になりたいなんて我が儘言って、一番の友達を裏切って」
「いや、対等だよ。俺と君は」
「健太郎?」
きっとまだ誤解している彼女に、鈴姫は力強く言った。
「君がどう思おうと、誰がなんて言おうと……俺は君を、対等だと思っている。俺は君が思っている以上に、たくさんのものを君に貰ったんだ」
「……健太郎のくせに、クサいこと言ってるんじゃない」
再び俯いた彼女が放った声には、涙が滲んでいて。
その場で泣き崩れてもおかしくないのに、自分に弱さを見せたくないが為に気丈を装っていて。
だから鈴姫は、「勝手に」その身体を抱きしめることにした。
「ああ、そうか。ならこの際だから俺も言わせてもらうけど、星菜のくせにお嬢様ぶった話し方をするなよ。アレ、中学時代の君を知っていると不気味にしか見えないよ」
「うるさい……私だって似合わないことしてるって思ってたよ!」
彼女は、拒まなかった。
震える背中を割れ物を扱うように撫でながら、鈴姫は自身の胸から漏れてくる言葉に耳を傾けた。
「……人から嫌われるのが、怖かったから……」
「……わかってる。いいさ、当分は周りにいい子ぶっても。俺の前では、素顔の君で居てくれれば」
「簡単に言うなよ、ばか……」
その日――
二人の不器用男女は、ようやく分かり合うことが出来た。