外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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※恥ずかしいシーンがありますのでご注意ください。


分かり合えた二人(後編)

 

 自身の体力の全てを注ぎ込むように本心を語った星菜は、その疲労感からかしばらく鈴姫の胸を借りることになった。

 最近は、以前よりも涙もろくなった気がする。自身の弱さを目の前の人間に曝け出したことに羞恥心はあるが、今ではそれも悪くない気分だった。

 まるでここが自分の居場所とでも言うように、不思議と彼の傍は落ち着くのだ。

 

(不思議、でもないか……あの日までは、いつもこんなだった。ずっと目を背けていたから、この感覚を忘れていたんだ……)

 

 彼と話し合って、自分でも気が付かなかった己の感情を振り返り、気付くことが出来た。心の中から余計な感情が抜けて晴れやかな気分になれたのも、その為だろう。

 星菜は微笑を浮かべ、彼の顔を見上げながら訊ねる。

 

「健太郎は、野球少女から野球を取ったら何になると思う?」

 

 彼の告白を受けて、星菜は一瞬だけ思ってしまった。

 野球と彼、どちらが好きなのか――その二つの選択肢を天秤に掛けた結果、茨の道である女子野球選手の道を行くよりは彼の為に尽くす人生の方が自分にとって幸福ではないか――と。彼に卒業までは待っていると言われて頭が冷えたが、あの時、星菜には確かに野球への未練が弱まっていたのだ。

 鈴姫健太郎という人物のことはよくわかっている。彼の一途な思いも十分すぎるほどに伝わり、自分もまた彼の気持ちに触れたことで、彼に対して友情以上のものを感じつつあることにも気付いている。

 だが、泉星菜はそう言ったことに関しては極端に不器用な人間だ。彼の想いに応えて交際しようものなら、きっと今までよりも野球が疎かになるだろう。逆にこれから本気で公式戦の出場を目指そうとすれば、彼とそう言った時間を過ごすことも少なくなる。少なくとも自分には川星ほむらや波輪風郎のように野球は野球、恋愛は恋愛と別々に割り切って励んでいくことは出来ないと考えていた。

 今の自分には、どちらか片方しか選べない。今までもずっと、そうだったのだから。星菜は彼の胸から身体を離すと、コンクリートの塊である適当な床に脚を伸ばしながら座り込んだ。

 

「ただの少女……になるのか?」

「……うん。私はまだ、そうはなれないかな」

「わかってる。だからこそ君は苦しんでいるんだからな。でも、君から野球を取っても君は君だ。俺の気持ちはこれからもずっと変わらないし、俺は君がどうしようと君を応援する。本当に、君がそうしたいって思ったことなら」

 

 星菜の隣に腰を下ろしながら、鈴姫は星菜の言葉を肯定して受け止める。

 そして、問うてきた。

 

「野球をやめるって言ったさっきの言葉は、君の本心じゃないだろ?」

「公式戦に出られない野球少女を続けるよりも、潔くお前の女になった方が幸せかもしれない……そう思ったのは、本当だよ」

 

 今までの自分自身を否定することは、ずっと恐れていたことだ。自分嫌いを装っていたのは単なる予防線で、有事の際に己が受ける傷を和らげる為。

 そんなことを続けてきたのは――今までの自分が好きだったからなのだろう。星菜は今ならば、先日の早川あおいに対してまともな答えを返すことが出来る気がした。

 

 ……ああも一直線に好意を向けられては、自分を見つめ直さざるを得ない。

 

 今までも何度か異性から告白を受けたことはあったが、思えばここまで深く考えたことは無かった。

 それが良い機会だったと言ってしまえば、あまりにも失礼だろうか。

 

「でもそうしたらそうしたで、お前の気持ちに対しても中途半端に返すことになったかもしれないな……」

 

 答えはもう、出ているのだろう。

 星菜は間近から隣合わせの場所に座っている鈴姫の顔へと目を移し、肩をすくめるように笑った。

 

「野球は、続けてくれるんだな?」

「……うん。だから当分は恋人になれそうにない。こんなんじゃ満足出来ないと思うけど……ごめん」

「いいさ。俺はただ、昔から変わっていない自分の気持ちを伝えただけだ。それをどうするか、決めるのは君さ」

 

 鈴姫が星菜の返した言葉に安堵の表情を浮かべる。悪意一つ無いその反応に、星菜は彼に対してまたしても大きな借りを作ってしまったと自身の行いに苦笑した。

 

「……そこまで言われて結局フッちゃったら、私は完全に悪者だね」

「ああ、俺もここまで言ってフラれたら立ち直れそうにない」

「……色ボケ野球馬鹿」

「色ボケでも努力する理由には十分さ。惚れた女の為に野球をするとか、よくある美談だろ?」

「あーあー聞こえなーい」

 

 彼との関係は借りすぎて、貰いすぎて、いつか絶対に破産してしまう。そう思ったからこそ自ら関係を断った星菜であったが、それを行うには未練がありすぎた。

 この場所は野球と同じく居心地が良すぎて、たった一度本気で向き合うだけでも離れたくなくなってしまう。 

 自分にはもう、二度とこの場所を離れることは出来ないだろう。そう思えるほどに。

 

「……しばらく、話そうか」

「……うん」

 

 時計を見れば残り数分で昼休みが終わろうとしていたが、星菜はいつまでも話していたいと思った。

 今までどんな思いで彼らの練習を見ていたか、どんな思いで野球をしていたか。交友関係や最近のプロ野球の話、くだらない話でも良い。今は一時でも空白だった時間を取り戻したいと――星菜はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 心の汚れが、また一段と取り払われた気がする。

 星菜も鈴姫も口が上手い方ではない為に会話は理想ほど弾まなかったが、それでも充実した一時間を過ごすことが出来たと思う。

 授業を放棄して充実も何も無いと言われてしまえば、全くもってその通りではあるが。

 

「……五時間目、サボっちゃったな」

「国語だったな。まあ、君なら予習済みのところだろう? 一時間程度、この学校なら期末にも内申にも響かないさ」

「これで不良生徒の仲間入りってわけだ」

「初犯だから多目に見てくれればいいけど……なんか、良い言い訳無いだろうか」

「うーん……二人して保健室で一緒に寝て過ごしていたって言うのは、アリバイが無いからきついか」

「……その言い訳、俺が男連中に殺されるからやめてくれ」

「なんで?」

「なんでも、だ。君はもう少し今の自分の容姿に自覚を持った方がいい」

「そう? よく言われるけど、今一つ自覚出来ないんだよなぁ……」

「……今の言葉、俺以外には言うなよ? 要らない嫉妬を買うから」

 

 本音を言えば六時間目も彼と居たかったのだが、星菜の理性は学生の本分全てを忘れるほど花畑な状態ではなかった。

 腰を上げて背伸びをしながら立ち上がり、その後でスカートの埃を払いつつ皺を直す。普段の上品ぶっている時の星菜は人前でそのような行動は見せないのだが、ここに居るのが鈴姫健太郎一人である以上何の躊躇いも恥じらいも無かった。

 

「星菜」

「なに?」

 

 六時間目の授業が始まる前に、教室に戻らなければならない。名残惜しいが屋上を立ち去ろうとする星菜に、後から立ち上がった鈴姫が声を掛けてくる。

 

「今日の練習が終わったら、本気で勝負してくれ」

「……言っておくけど、お前にはまだ負けないから」

 

 昔の星菜は、悩みがあれば野球で解決していた。六道聖と初めて会った日、リトル時代の恩師から言われた言葉だ。

 今の星菜にある悩みは当時抱いていたようなものとは比べ物にもならないが、それは全く抜きにして、星菜は彼と本気で戦いたかった。

 対話も大きな効果があったが、野球馬鹿同士最も心が繋がるのはきっと、同じグラウンドで野球をすることなのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親友である星菜から見ても、野球を始めた頃の鈴姫はお世辞にもセンスがあるとは言えない選手だった。

 力はひ弱で足も速くなく、身長は同年代の男子より大分小さかった。鈴姫という苗字の通り、見た目はまるで少女のような華奢な少年であった。

 小学校四年生当時、星菜は口には出さなかったが彼を野球に誘ったことを申し訳なく思っていた。星菜にとってスポーツを行う上で最もつまらないと感じるのは、自分が下手なことだと思っていたのだ。星菜自身は運動神経が他者より優れている為につまらないと感じるスポーツはほとんど無かったが、鈴姫もそうとは限らない。星菜は野球が大好きだが、彼の場合はこのまま上達しなければ野球をつまらないスポーツだと感じてしまうかもしれない。

 自分が誘った為に彼がつまらない思いをしているかもしれない――そこに考えが至る程度には、当時の星菜にも思いやりがあった。

 そのことを一度だけ、小学生らしい無遠慮な言葉で問うたことがある。

 

『ケンちゃんは、野球楽しんでる?』

 

 入団から数ヵ月経っても一向に上達せず、それどころか同時期に入団した同級生との実力の差は開く一方。そんな彼にとって、野球を続けている現状は苦ではないのか。なまじ彼が人一倍努力家であることを知っている為に、星菜には気になったのだ。

 鈴姫はそんな星菜の質問に、バットを振りながら返した。

 

『なんで、そんなこと訊くの?』

『だってケンちゃん、いつも必死であんまり楽しそうに見えないから』

 

 好きなものだから必死でやれるのだとも言うが、鈴姫の場合は傍目から見て危ういほど必死すぎたのだ。まるで何かに取り憑かれているかのようにがむしゃらに練習に打ち込む姿は、当時はあらゆる分野で努力以上の成果を発揮していた天才肌の星菜にとって共感しにくいものであった。

 そんな星菜に対して、鈴姫は当たり前ことのように言った。

 

『……必死でやんなくちゃ、みんなに追いつけないもん』

 

 頬を膨らませながら、自分自身に対する苛立ちを隠そうともしない。

 その姿はやはりと言うか、野球に対して楽しみを感じているようには見えなかった。

 

『僕は下手だから、たくさん練習しなくちゃ……』

『話しながら素振りしても、あんまり効果無いよ? まさるが言ってた』

 

 どうにも引っ掛かりを覚えた星菜は、鈴姫の言葉を途中で遮った。 

 

『それと、疲れで下半身がぶれぶれになってる。私の飲み物あげるから、一旦休憩しようよ』

『……うん』

 

 当時の星菜はそこまで深く考えていたわけではないが、幼心ながらその時の鈴姫を友達として放っておくべきではないと感じたのは事実である。

 故に休憩という言葉を使って彼と一対一で、話し合いの場を設けることにした。

 

 その時、溜息をつくように鈴姫が言ったのだ。

 

『星菜は凄いね……僕達の中で一人だけ、六年生の試合に出てて』

『えへへ、すごいでしょ! でも、私は前の学校で軟式やってたからね。ケンちゃんも練習すれば上手くなるって思うんだけどなぁ』

 

 鈴姫の言葉に含まれていたのはほとんどが星菜の才能に対する尊敬心であったが、少なくない嫉妬心もまた含まれていたのだろうと思う。

 万事が上手く行っていた当時の星菜にはわからなかった感情だが、年齢が上がっていくに連れて壁にぶつかってきた今の星菜には当時の彼の気持ちが痛いほどにわかった。

 どれほど練習を積み重ねても、一向に自身の成長が感じられない。その辛さを味わっている段階である者に、純粋に野球を楽しいと感じる余裕など無いのだ。

 

『全然、上手くならないよ……でも』

『でも?』

 

 だがそれでも、星菜は心から野球を嫌いになったことは無かった。それは鈴姫もきっと、同じだったのだろう。

 そして一向に上手くならなくても練習を続ける意味など、説明するまでもなく決まっている。

 

『星菜とやる野球は好きだし、練習をやめたら……もっと上手くなれないから……』

 

 好きだからやる。やらなければ上手くならないからやる。野球少年が努力を続ける理由など、たったそれだけで十分なのだ。

 それに加えて鈴姫は、こんなことを言い出した。

 

『上手くなれないと、星菜の友達じゃなくなっちゃうから……』

『え? なんで? なんで上手くないと私の友達じゃないの?』

 

 野球が下手なままでは、星菜と友達で居られない。

 その言葉の意味することが全くわからなかった星菜は、コテンと小首を傾げて聞き返す。

 それに対して鈴姫は、今にも泣き出しそうな目で地面を見下ろしながら震える声で応えた。

 

『……星菜の友達、みんな、上手い人ばっかりで。僕だけ下手くそなんだもん……こんな僕が友達じゃ、星菜は迷惑でしょ……?』

 

 当時星菜と仲の良かった友達は、次期キャプテンである小波大也を含めてチームのレギュラーを張るような実力者ばかりだった。当時の星菜としては補欠だろうと関係なくチームメイト全員とは仲良く接していたつもりだったが、鈴姫の目はわかりやすい実力者にばかり向いてしまったのだろう。彼らと自分を比較した際に強い劣等感(コンプレックス)を抱いてしまい、自分は星菜と友達である資格が無いのではないか――これは後に鈴姫自身から聞いたことだが、当時の彼はそんなことを考えていたのである。

 当時の星菜にはそこまで深く彼の気持ちを読み取ることは出来なかったが、彼が野球が下手という理由で自分の友達でなくなることを恐れていることだけは十分に理解出来た。

 

『ケンちゃんってさ……』

『な、なに?』

 

 その言葉を受けた星菜は、今年度に十六歳を迎える今よりもよっぽどあった母性本能がくすぐられ――

 

『可愛いなぁもう!』

『えっ、あ、ちょっと!?』

 

 いじらしくなって、思わず抱きついてしまったものだ。

 

『むへへ、コイツめ~』

『や、やめてよ! 撫でないでってばぁ!』

 

 当時身長が鈴姫よりも頭一つ分以上大きかった星菜は覆いかぶさるように彼の身体を腕に収めると、悪戯な笑みを浮かべて彼の水色の頭を撫で回した。

 五歳の弟も居た星菜であったが、この時の鈴姫はその弟並かそれ以上に可愛がりたくなる少年だったのだ。

 

 そうして撫で回すこと数分、始めはもがいていた鈴姫も観念したのか次第に抵抗を諦めた。小動物よろしく腕の中で大人しく撫でられる鈴姫に対し、星菜はそれまでと打って変わって真剣な眼差しを向けて言った。

 

『……馬鹿なこと、言わないでよ』

 

 そのスキンシップは、自分が母親からされて嬉しかったことを真似てみた結果だ。星菜は彼の内面の不安を取り払うように、真心を込めて己の気持ちを伝えることにした。

 

『野球が下手でも、これからも上手くならなくても、ケンちゃんは私の友達だよ。言っておくけどケンちゃん、結構友達ランク高いんだよ? なんて言うかアニメみたいな言葉だけど……お前とはこれからもずっと、仲良くしていきたいな』

『ほ……本当に?』

『本当に決まってるだろ、親友』

『しんゆう……』

 

 それは昔の友情がいつまでも続くとは限らない、という冷めた現実を知らないからこそ出すことが出来た言葉かもしれないが、彼と未来永劫「良い関係」で居たいと思ったのは本当のことだ。

 その気持ちが無事伝わったのか、幼い鈴姫の顔に近頃見られなかった笑顔が咲いた。

 

『……でも、僕もいつか星菜に追いつきたいな』

『言っておくけど私負けないよ? だってプロになるもん』

『……じゃあ僕も、プロになる。星菜と同じ試合に出て活躍するんだ』

『その前に、このチームでレギュラーにならないとね。私がエースでお前は四番ショート! うん、いい響き。そうと決まれば休憩終わり! また素振りもなんだし、私がバッティングピッチャーやるよ。一球も打たせないけどね!』

『むっ……今日こそ打つよ』

『クククッ、打てるもんなら打ってみよ』

『変な笑い方。似合ってないよ?』

『格好良いじゃん! ケンちゃんわかってないなぁ』

『……ごめん』

『いや謝らないでってば。ほら行くよ』

『あっ、待って星菜』

 

 

 ――今まで、忘れていた思い出だ。

 

 今になって思い出すことが出来たのは、励まし励まされる当時の関係が真逆になってしまったことへの感慨からか。

 だが彼と戯れていたその時間は、掛け替えのないほどに幸せだった。

 

 ――いや、過去形にしてしまっては駄目だ。

 

 今だって幸せなのだ。ただ自分は勝手に不幸ぶって、向き合おうとしなかっただけだ。

 これからの自分はもう迷わない、とは言えない。

 これからも今までと同じように、幾度も迷い続けることになるだろう。

 

 だが幼い頃から自分を慕ってくれた親友と共に迷路を歩いてみるのも――きっと、悪くないと思う。

 

 

 

 

 

 日は沈み、まだ真新しい照明が点き始めた校庭練習場。

 野球部の一日の練習が終了し、十分ほど過ぎた頃。後ろに誰も守っていない無人の野球部使用ペースにて、ただ一人マウンドに登った少女――泉星菜が帽子を締め直しながら打席を睨んでいた。

 そして更衣室で着替えを済ませて帰宅しようとしていた野球部員達の全員が、その光景を見て一様に足を止めている。だが今の星菜は、それらの存在を気にもしていなかった。

 その栗色の双眸に映るのは悠然と左打席に入った鈴姫健太郎――星菜の一番の友にして、最高のライバルの姿だ。

 

「おい、何してんだ星菜ちゃんと鈴姫の奴……?」

「見りゃわかるだろ、勝負するんだよ。多分」

「マジかよ。なんで?」

「んなこと俺が知るか」

「頑張れでやんす星菜ちゃん!」

 

 数多の戸惑いの声や事態を素早く飲み込んだ者の声が周囲から聴こえてくるが、今の星菜と鈴姫にとっては全てが雑音にしか聴こえない。

 ――否、もはや雑音にすら聴こえていなかった。二人の間にあるのは、ただお互いの存在のみ。完全に二人の世界に突入している今の星菜と鈴姫に、周囲の存在を感じることは出来なかった。

 

「お前と本気で勝負するのは、いつ以来だっけか?」

「リトル時代の最後の紅白戦以来だ。中学時代は一度も、君と勝負したことは無かった」

「お前、よく覚えてるなそんなことまで……」

「覚えているに決まっているさ。俺は一度だって忘れちゃいない」

「……嬉しいこと、言ってくれるよ」

 

 打席に立つ鈴姫と言葉の応酬をしながら、星菜はマウンドの付近に配置していたカゴの中からボールを一つ取り出す。カゴの中には野球部が保有する百球以上ものボールが全て詰め込まれており、一人の打者を相手にするには些か大袈裟すぎる準備が整えられていた。

 だが星菜と鈴姫にとって、足りるボールの数などありはしない。きっとこれから、どちらかが力尽きるまで勝負を続けるからだ。

 

「勝負どころじゃなかったもんな……私達はずっと」

 

 野球部の正規の練習によって、星菜の左肩は十分に温まっている。ライバルを打席に立たせた今になって行う投球練習など、彼女には必要無かった。

 左手に握ったボールをグラブの中でトンと叩き、星菜は全身に気迫を込める。

 

「いくぞ、健太郎……!」

 

 星菜が振りかぶり、鈴姫がバットを構える。

 あの日停止した二人の時間は絡み合い、動き始め、そして――加速した。

 

「……流石ッ!」

 

 一球目は星菜が外角に外した高速スライダーを鈴姫が空振り、ワンストライクとなる。最初はストライクゾーンに投げてくると予測していたのであろう、バットに当たらなかったものの鈴姫のスイングに迷いは無かった。

 

「まだ負けないって言ったでしょ?」

「一球ストライク取っただけで粋がるな」

「そっちこそ、日頃女の子にキャーキャー言われて自分の実力を勘違いしてるんじゃないか?」

「それは君にも言えるだろ!」

「お前と一緒にすんなぁっ!」

 

 二球目、鬼気迫る形相で勢い良く左腕を振るった星菜だが、彼女の感情を大きく逸脱した緩やかな軌道の――球速70キロ台で大きく曲がる超スローカーブである。

 だがそれを投げた瞬間、鈴姫の唇が僅かにつり上がった気がした。

 

「こんなものでッ!」

 

 思い切り右足を踏み込んだ鈴姫はその打撃フォームを一切崩すことなく、自らのタイミングでボールを線で捉え、豪快に振り抜いた。

 引っ張った打球は弾丸ライナーで飛翔していくと瞬く間にライトの守備位置を越え、グラウンドのサッカー部使用ペースへと吹き飛んでいった。

 だがその打球の行方を見届けた星菜は、ニヤリと口元を綻ばせていた。

 

「残念、三振前の馬鹿当たりでした」

「くそっ、ファールか!」

「狙い球が来たからって力みすぎ。お前のバッティングはシャープさが売りだってことを忘れるな」

「君が教えてくれた打法だ。忘れるわけないさ」

「……あっそ。三球目、いくよ」

「来い!」

 

 お互いが、童心に返ったようだった。

 お互いに認め合った投手と打者が、純粋に己の実力を競い合う。

 男も、女もそこには無い。

 泉星菜と鈴姫健太郎が野球選手として求めていたものが、そこにはあった。

 

「よし! 見逃し三振!」

「ボールだ。数センチ低い!」

「……チッ、選球眼良くなったじゃないか」

「言っておくけど、今の俺から見逃し三振は無理だ。君ぐらい遅い球なら、簡単にカット出来るからな」

「そんな言葉は、私を打ってから言ってみろ!」

 

 四球目、星菜が「故意に」胸元付近へと投じたストレートに対して、鈴姫が上体を仰け反らせて反応する。

 

「危ないぞ」

「ブラッシュボールは立派な投球術だよ。これがあるからバッターは、わかっていてもそう簡単に踏み込めない」

「120キロも出ないストレートにバッターがビビるかよ」

「私のストレートは体感140キロだ!」

「それは盛りすぎだ!」

 

 馬鹿になってみるか……――それは星菜が、もう一人の自分自身に対して宣言した言葉だ。

 この時の星菜はまさに、いい意味で馬鹿になっていた。

 まるでそう、野球を始めた頃のように。

 

「くっ!」

 

 バット先端から、いかにも芯を外したような鈍い音が響く。星菜の投じた五球目は外角低めのボールゾーンに落としたサークルチェンジ。しかしバットを振り切った鈴姫の打球は完全に死んだ当たりではなく、あまりにも微妙な速度を持って星菜の右側へと抜けていった。

 野手が守備に着いていない現在のグラウンドでは、結果を判定し難い打球だった。

 

「ショートゴロ!」

「違う、三遊間を抜けるレフト前ヒットだ!」

「打球が弱い! 健太郎がショートならアウト!」

「健太郎はここに居るだろ? だからヒットだ」

「うるさい! ショートゴロ!」

「ヒットだ!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

 

 ショートゴロともレフト前ヒットとも言えるその打球について、二人の内どちらかが折れることなど有り得ない。

 野球部員だけでなくまだ学校に残っていた誰もが、その光景を呆然と眺めていた。

 星菜と鈴姫は普段の学校生活で被っていた猫を投げ捨て、これまでの澄まし顔が嘘のように顔面を赤くしてお互いの主張を続ける。

 

「あんな当たりで満足するのかお前は!」

「これで抑えた気になれるのか君は!」

 

「「そんなわけないだろ!」」

 

 衆目を一切気にすることなく痴話喧嘩のように騒ぎ出した二人は、結局その打席を無かったことにしてカウントゼロから勝負をやり直すことになる。

 

 だが、それはこの勝負を続ける建前の理由に過ぎない。

 

 今の打球がショートゴロだろうとレフト前ヒットだろうと、二人の心がたった一打席勝負で満たされる筈が無いのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 結局二人の勝負はそのまま一時間以上続き、グラウンドでの異常に気付いた茂木監督が懇願するように止めるまで続いた。

 何打数何安打だったか、結局どちらが勝ったのか、それは曖昧なままだ。

 

 だが寧ろ、星菜はいっそ曖昧なままでいてほしいと思った。

 

 決着がはっきりしないままであれば、この先何度でも彼とぶつかることが出来る。

 自分と彼は、対等な関係で居られるのだから。

 

 

 

 ――友と分かり合えたその日。泉星菜は、やっと自分自身を取り戻した――。

 

 

 

 

 






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