外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
竹ノ子高校初回の攻撃を圧倒的な力でねじ伏せてみせたのは、噂を遥かに上回る朱雀南赤の投球であった。
特筆すべきは何と言ってもその剛速球である。万全な状態の波輪と比べても遜色の無いレベルの剛速球は、星菜のスローカーブのような緩急すらつける必要も無く、竹ノ子高校の上位打線を三者三振に切ってみせたのだ。
球速はもちろん、彼の完成されたトルネード投法――打者に背中を見せるまで大きく捻りを加えながら並進運動を起こし、上体の回転を利用して一気にボールを放つ投法――はボールに対して絶大な球威を与えている。彼はまさに、投球の「剛」を体現した投手と言えた。
「……超高校級投手のバーゲンセールだな」
150キロを超える剛速球投手をこうも頻繁に見かけるようになった現代の高校野球に対して、星菜は驚きよりも呆れを滲ませた声でそう呟いた。「前世」の高校時代では140キロオーバーの投手すらそうそうお目に掛かれなかったというのに、時代の移り変わりとは何とも激しいものである。
全くもって、つくづく自分のコンプレックスを刺激するのが上手い連中だ。彼らのような剛速球投手に対して星菜には思うところが多くあったが、そう言った私情はマウンドでは一切切り捨てることにする。
相手は相手、自分は自分だ。自分の身体が力勝負では指一本で弾かれてしまうほどに脆弱なことを誰よりも理解している星菜は、勝負の場において相手のペースに巻き込まれることなく己を保つことに掛けては一流だった。尤も、それは今のように心に何の「迷い」も抱えていない本来の精神状態であれば、の話である。
――そう、今の状態こそが泉星菜の本来の姿なのだ。
「ストライク! バッターアウトッ!」
スローカーブの調子が最高に良い。星菜は二回表の先頭打者、ときめき青春高校の四番鬼力を僅か四球で空振りの三振に仕留めると、早々にワンアウトを取った。
朱雀の剛速球を目の当たりにしたところで、星菜が「軟投」という自分の持ち味を見失うことは無かった。
「ショート!」
「任せろっ」
続く五番打者
そして迎えた六番打者はときめき青春高校の主将、青葉春人だ。彼の本職は投手だが、ほむらの調査によれば登板していない時は部員数の関係からライトを守っているらしい。彼は朱雀と同じくこのチームでブランクの無い数少ない選手の内の一人であり、星菜のスローカーブに対しても前打者のようにタイミングを大きく崩されることはなかったものの、センター方向に打ち返された打球は投手星菜のグラブに無事収まり、ピッチャーゴロのスリーアウトとなった。
(生憎、打球反応の良さには自信がある)
苦々しげな表情でベンチへと引き下がっていく青葉の姿にほくそ笑みながら、星菜は自軍のベンチへと駆け戻っていく。
試合は早いテンポで二回裏へと進み、そのイニングにおいて竹ノ子高校はノーアウト二塁のチャンスを作ることとなった。
その切っ掛けになったのはこの回の先頭打者、四番鈴姫の打席だ。150キロを超えているであろう朱雀の剛速球に対し、鈴姫はボールに逆らうことなく流し打ちし、バットの芯で捉えた打球を巧みに三遊間方向へと運んだ。
レフト前ヒットになるか……そう思った星菜の目に映ったのは、打球を外野に抜ける手前で逆シングルで捕球してみせた、ときめき青春高校の
ポジション取りが見事だったと言えよう。ときめき青春高校のショートを守る
しかし彼がその直後に起こしたプレーに、星菜の彼に対する拍手は即座に鳴りやんだ。
送球ミス――茶来は捕球したボールの送球を誤り、一塁手がジャンプをしても捕れない位置へと暴投してしまったのである。
その結果一塁を蹴った打者走者鈴姫の足は二塁へと到達し、ときめき青春高校にとってファインプレーとなりかけた守備は一転して痛恨のエラーとなった。
「すざっち悪い! くっそ……雅ちゃんのようにはいかないな」
「今は慣れぬポジションだから仕方あるまい。だが同じ過ちは繰り返すなよ?」
「オッケ! 次はバッチリ決めてやるぜ」
ほむらが記入しているスコアブックを横から覗き見ると、記録上はワンヒットワンエラーとされていた。三遊間をそのまま抜けていればシングルヒットで済んだところを、皮肉にも彼が鈴姫の打球に追い付いてしまったことで被害が拡大してしまったことに、ときめき青春高校側としては面白くない展開だろう。だがマウンドを任された朱雀の姿に動揺は見えず、それどころか彼は鈴姫の後を打つ池ノ川に対してより凄まじい威力のボールを放っていた。
「ああっ!」
「なんだありゃ……」
周囲のチームメイト達が漏らす驚愕と落胆の声が耳に入る。
クロスファイヤーで内角を抉る彼のストレートを前に、池ノ川はノーアウト二塁のチャンスで進塁打すらも打てずに空振り三振を喫することとなったのだ。
「……こういうところが攻撃の課題だな、ウチのチームは」
呟かれた茂木監督の言葉に、星菜は内心で同意の言葉を返す。
ドラフト候補でもない高校生にとって、あれほどの剛速球をヒットにするのはあまりにも難しい。故に星菜も、タイムリーヒットを打つことまでは出来なくても仕方が無いと思っていた。
だが最低限、どのような形であれ二塁走者を三塁へと進めて、次の打者が内野ゴロでも点が取れる状況を作る打撃を彼にはしてほしかったのだ。
打撃力の無いチームだからこそ、勝つ為にはそう言った細かい野球が必要になっていく。得点能力の乏しいチームである以上、竹ノ子高校の勝ちパターンは必然的に「守り勝つこと」へと絞られていくことになるからだ。
相手のミスに付け込んで一点をもぎ取り、敵の攻撃は無失点に抑えて最終的に1対0で勝つのが理想的である。ロースコアのゲームを物に出来るチームであれば、打撃力は弱くとも強豪校と渡り合うことができるのが野球の面白さでもあった。
尤もそれは、こちらの投手がきっちりと試合を作ることが最前提になるが。
(……もし私が公式戦に出ることがあったら、それだけ責任は重大ってことか)
竹ノ子高校の打線で勝利を得るには、投手の好投が何よりも必要不可欠だ。だが幸いにもこのチームには鈴姫や六道、池ノ川に時々ポカをやらかすが矢部と言った守備力のある選手が多く揃っていた。察するに、既に茂木の頭の中ではチーム作りの方向性がはっきりと定まっていることだろう。
(実際、鈴姫と池ノ川先輩の三遊間は頼もしい。後はセカンドに良い選手が居ればセンターラインも磐石なんだけど……無い物ねだりは出来ないか)
星菜の考える当面の課題は一点を取る細かな攻撃と、守備面――特にセンターラインの強化と言ったところだ。星菜は投球の際、出来るだけ鈴姫と池ノ川の居る左方向に打たせるように気を配っている。それはチームの現二塁手である小島には失礼かもしれないが、それだけ右側の守備が頼りないということでもあった。
(なんてね……)
だが、成長の余地が無いとまでは考えていない。
小島に限らず他の選手達も、まだまだこのチームは発展途上だ。これからの練習次第では幾らでも上達する可能性があり、星菜もまたそれを信じていた。
既に野球選手として技術的に「完成されてしまった」自分とは違い、未熟な彼らには未来があるのだ。
(みんなを導くなんて偉そうに言える立場じゃないけど……星園渚から受け取った物は、出来るだけ生かしてみよう)
グラブを右手に着けると、星菜は颯爽と三回表のマウンドへと向かっていく。
池ノ川が三振に倒れた後、六番の青山と七番の石田もそれぞれキャッチャーフライ、見逃し三振に倒れてスリーアウトとなったのだ。
攻守交替の合間二塁ベース上から一歩も進めなかった鈴姫とのすれ違い様、星菜は慰めるように彼の背中をトンと叩いた。
「ナイス内野安打」
「……なんだか、楽しそうだな」
「わかる? そりゃもう、今は人生が楽しいよ」
「そうか……」
声を掛けた時、鈴姫は苦笑を浮かべながら言葉を返した。長い付き合いだからか、彼には今の自分が抱いている胸の高鳴りを見抜かれていたようだ。
今の星菜には、自分がこの練習試合を誰よりも楽しんでいるという自信があった。もちろんそれは、この試合を遊び感覚でやっているという意味ではない。練習試合は監督に対するアピールの場だとか、そう言った打算的な感情を一切抜きにして、星菜は純粋に野球というスポーツを楽しんでいるのだ。
「これも、お前のおかげだ。ありがとう」
「……どういたしまして」
無論、今の自分が誰のおかげで野球を再び楽しむことが出来ているのかは忘れていない。
鈴姫はもちろん、最初に野球部のマネージャーとして誘ってくれた川星ほむらやこんな優柔不断な女を快く迎えてくれた波輪を始めとするチームメイトの皆、それまで逃げ続けてきた自分自身と向き合わせてくれた早川あおいや六道聖、リトル時代の恩師である田中まさる等、多くの人々との関わり合いの中で泉星菜はこの場所に帰ってくることが出来たのだ。
「お前のところに打たせていくから、しっかり守れよ」
「あんまり俺のとこばっかに寄越されてもな。それじゃあ他の人の練習にならないだろ」
「あー……それもそうか」
「まあ、こっちの打球は全部捕るから任せてくれ」
「はは、頼もしいショートストップが居てくれて助かるよ」
陳腐な言葉だが、自分は良い仲間を持ったと思う。
彼らと出会うことが無ければ、きっと自分は、今とは違う人生を歩んでいたことだろう。
それでは駄目なのだ。この泉星菜にとって、野球を続けている今こそが何よりも幸せな時間なのだから。
幸せがいつまでも続くと思っていたら大間違いであり、この幸せも一秒後には無くなっているかもしれない。経歴的には成功した星園渚という「前世」もまた、人生の幕引きには幸せとは言い難い最期を迎えたものだ。
詳しくはここで語ることはない。
ただ、彼は――
――彼は、野球を続けていたが為に命を落とした人間だった。
だがそれでも、彼は自分が不幸だと思ったことは一度も無いと言っていた。
好きなことをやって、好きなことの為に死んだ。そんな素敵な人生が送れて、僕は満足だったと――いつだったか、彼は星菜に話してくれたことがある。
「……今なら私も、その気持ちがわかる気がするよ。腐っても貴方の来世ってことなのかな? 私も多分、命が懸かっていたとしても野球を捨てたくないんだと思う」
己の中に居るもう一人の自分に語り掛けながら、星菜は一球ずつマウンドを踏みしめて投球練習を行う。
気のせいか、目の前にそんな星菜の言葉を聞いて微笑む長身の青年の幻影が見えた気がした。
「……つくづく思うよ。私は馬鹿になれないつもりで居ながら、どうしようもない馬鹿だったんだなって。今じゃ考えられないよ。例え一時で終わるんだとしても……こんな幸せから、離れようとしていたなんて」
投球練習を終えると、星菜は左肩を大きく回しながら小声で呟いた。
「……よーし、お姉さん完封しちゃうぞ~」
誰に聴こえる声でも無かったが、心に思ったことを素直に出すというのは随分と気の晴れる行為だと思う。
監督がこの試合どこまで自分を引っ張ってくれるかはわからないが、星菜としては言葉に偽りはなく任されたイニングは全て無失点に抑えるつもりだった。
そしてそれを実現出来るだけの実力が、万全な精神状態の泉星菜にはあった。
三回表のマウンド。星菜はこの回も下位打線を打者三人でピシャリと締め、初回から掛けてときめき青春高校の打者一巡をノーヒットに封じることとなった。
同時刻、恋々高校の練習場は不穏な空気に包まれていた。
――それは早川あおいにとって、悪夢のような光景だった。
女子選手ながら彼女の実力は高校野球中堅レベルには十二分に通用するレベルにあり、アンダースローから放られるキレのある変化球は正捕手である小波大也もお墨付きである。
実際、これまでに行ってきた練習試合では先発した全ての試合で勝利投手になっており、失点も三失点以上したことは一度も無かった。
自分の実力は男の子にだって負けていないと、その自信に満ち溢れた彼女は試合や練習の度に着々と実力をつけており、残る心配は運営から公式戦の出場を認めてもらえるかという球場外での問題ぐらいだった。
少なくともこれまで、彼女には野球の実力面での心配は無かったのだ。
――そう、これまでは。
「嘘……だろ?」
その光景を見ていた誰かが、愕然とした表情から信じられないとばかりに呟く。
彼女のボールを受ける捕手の小波すらも、その表情を驚きに染めていた。
だが彼女自身は――マウンドに立って正面から「彼」と対峙している早川あおいの方は、もはや驚きだけでは到底済まない心情だった。
「はぁ……はぁ……っ!」
呼吸を荒げながら、あおいは目の前の左バッターボックスに立つ少年の姿を睨む。
少年の身長は170センチにも届かない程度で、166センチのあおいよりもやや低いぐらいであり、体つきも野球選手とは思えないほどに華奢な身である。
腰に掛かる長さまで下ろされた長い金髪は美しく艶やかであり、身体全体から放たれるしなやかな雰囲気も相まってか彼自身は男性を自称しながらもどこか育ちの良い女性のような気品を纏っていた。
だがその外見だからこそ、彼の頭部全体を覆い隠している特撮物の変身ヒーローのようなマスクが酷く異様に映った。
そんなふざけた格好をしている彼だが、名前はわからない。彼自身は己のことを「野球マン」と名乗っていたが、それが実名でないことは考えずとも明らかだった。
「……来なよ」
肩を上下させて息を切らし始めたあおいに対して、左のバッターボックスに佇む「野球マン」がバットを左肩に担ぎながら右手でクイッと手招きしてあおいを挑発する。
「こ……こんな……っ」
右手でボールを握り締めながら、あおいは「野球マン」を睨む眼光をさらに険しくする。
だがマスクに隠された「野球マン」の表情は、バットを構えに入ったその仕草からでしか反応を読み取れなかった。
「気丈だね。でもわかるよ。ボクも君と同じだからね……そんな風に強がったって、心の弱さは隠せないんだよ」
「っ!」
スクエアスタンスに立ち、バットを身体の正面でゆったりと構える。神主がお祓いをする姿に似たその打撃フォームは「神主打法」と呼ばれるものだ。全身から無駄な力を取り除いた状態で構え、スイングの瞬間にのみ全身の筋肉を動かすことでより大きな力を発揮するという理論に基づく打法である。
その打法はオーソドックスな打法よりも長打が望める反面、バットコントロールが非常に難しいという欠点を持つ。構造上、タイミングの見極めにも熟練が必要とされる非常に難度の高い打撃フォームなのだ。
しかしその打撃フォームを、この「野球マン」は完全に自分の物にしていた。そしてバットコントロールが難しいという欠点など全く感じさせないほどに、彼はあおいの投じた球種を全て左右自在に打ち返してみせたのである。
――彼女の最大の決め球である、シンカーでさえも。
全く、通用しなかったのだ。
今まで磨き上げてきた変化球が、何一つ。
どれも制球に間違いは無かった。あおいの投じたボールは確実に狙った高さ、コースへと決まった筈だった。
それが、打たれた。
一打席目も、二打席目も、三打席目も、四打席目も、五打席目も……左打席に死神のように佇む「野球マン」は、何打席勝負しようとあおいのボールをことごとくヒットにしてみせたのである。
何を投げても打たれてしまう。それはあおいの野球人生の中で、初めてのことだった。
「うわあああああっっ!!」
自分のやってきたこと全てを否定するような男を前に、あおいは咆哮を上げ、アンダースローから右腕を全力で振るう。
闇雲に力任せに投じられたストレートは瞬く間にストライクゾーンの真ん中――「野球マン」の振り払ったバットの真芯へと吸い込まれていった。
「あ……」
引っ張り、高々く打ち上がった打球はライトの柵を覆いかぶさるように越えていき、文句の無いホームランとなった。
マウンド上で愕然とその打球の行方を見届けたあおいに、「野球マン」がバットを地に下ろしながら言った。
「笑わせるね……」
それは打たれたあおいに対して、はっきりと侮蔑の色を込めた言葉だった。
「そんな程度で秋の公式戦に出る気だったのかい? 非力なボクにホームランを打たれる程度の球威で、よく夏はおめおめとマウンドに上がれたもんだよ!」
そして次に放たれたのは、彼女の存在を嫌悪するような眼差しと、激しい憎しみの篭った言葉だった。
顔を覆うマスクの中、彼は動きの見えない口から糾弾の叫びを上げる。
「野球はアイドルのステージじゃないんだよ! 君程度のピッチャーがいくら頑張ったところで、高野連が本気で動くわけないだろ!」
言葉が鋭利なナイフのように、あおいの胸へと突き刺さる。
何も言い返せないあおいに何を感じたのか、「野球マン」は踵を返し、小波の制止の声も聞かずその場を立ち去っていった。
「……夢なんか語る前に、君はもっと現実を見るんだね」
彼が最後に吐き捨てるように言い残した言葉が、沈黙する恋々高校のグラウンドに重苦しく響いた。