外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
――豪腕が唸る。
上体を捻り、全身をバネのように使って放たれたボールはドリルのような凄まじい回転で空気を切り裂いていき、キャッチャーミットへと到達する。
そのミットから響き渡る衝撃音も、まるで大砲が着弾したかのような重さだった。
一球、そのボールを自分の間合いで見送った金髪の少女――打者である小山雅は思わずピューと口笛を吹き鳴らした。
「平成最高の逸材と言われるわけだ。中学時代とは比べ物にならないね」
雅は端正整った唇を不敵に歪め、マウンドに佇む「天才」の姿を見据える。
世代ナンバーワンと呼ばれている圧倒的な実力と、アイドルばりの甘いマスクを持った男。天からニ物を与えてもらったとしか思えないような完璧超人――それが彼、猪狩守という少年だ。
今自分は打者としてそんな彼の前に立ち、たった一度だけの勝負を許されている。千載一遇の機会を前に、雅は内なる興奮を抑えきれなかった。
彼こそが、本物の天才だ。野球をする為に生まれてきた神童だ。やがてプロの世界に羽ばたき、日本最高の投手として世界にすら君臨していくことは想像に難くない。
彼より球の速い投手は他にも居る。
彼より鋭い変化球を放る投手は他にも居る。
しかし彼よりも野球の才能がある人間を、雅は他に知らなかった。
「わざわざ君のランニングコースを調べておいた甲斐があったよ!」
たった一球ボールを見ただけで気分が最高潮に達した雅が、バットを大きく振り回して構えを直す。
神主打法。小山雅がその野球人生でたどり着いた、彼女の中で最も効率良くボールを弾き返せる打撃フォームだ。
雅は女子であるが故に非力で、単純な筋力ではその辺の高校球児にすら劣っている身である。しかし、その少ない筋力を限界以上に引き出すことの出来る技術を彼女は持ち合わせていた。
故に彼女には、本来女子選手の誰もが感じる筈の身体的ハンデを感じたことが、野球を始めてから一度として無かった。
猪狩守が天才ならば、小山雅もまた同じ天才なのだ。
そこに小難しい理由など何も無い。二人とも、ただ天才だから天才というだけだった。
「ふっ!」
投の天才、猪狩守がワインドアップの左腕から二球目のボールを投じる。
コースは内角、球種はまたもやストレート。彼が得意とする対角線上の速球、クロスファイヤーだ。
ボールが彼の手元から離れた瞬間、即座にその配球を見抜いた雅は左足を開き気味に踏み込むと、インサイドに食い込んできた剛速球をレベルスイングで振り抜いた。
「っ!?」
快音と同時――猪狩守のボールを受ける捕手、猪狩進の息を呑む音が聴こえてくる。
それも無理は無い。誰よりも優秀で、誰よりも天才である筈の守のストレートが、初対面の打者のたった一振りによってバットの真芯に捉えられたのだ。
尤も、ややタイミングが早すぎたらしく、低い弾道で弾き返された打球は弾丸のような速さで三塁線の左側を転がっていった。
「まさか……どうやら僕は、君のことを見くびっていたようだ」
「今はどうなの?」
「気に入らないけど認めるしかないね。中学時代、君が僕からマルチヒットを打てたのはまぐれじゃないみたいだ」
「なんだ、覚えててくれたの」
彼の方もファールとは言え、自信を持って投じたクロスファイヤーが一球で真芯に捉えられるとは思っていなかったのだろう。雅の顔を見つめる彼の表情には、確かな驚きの色が浮かんでいた。
そんな彼に対してしてやったりと言った表情で、雅が笑む。
「今時は、140キロを投げる高校生も珍しくないからね。ボクのチームメイトにも居たんだよ、150キロの剛速球を内角にポンポン投げ込んでくるサウスポーが。まあ、君ほど真っ直ぐの質やコントロールは良くなかったけどね」
今のボールはざっと見て142km/h程度というところだろう。事前の調整も無く投げたにしてはそれでも十分すぎる球速だが、生憎にも雅にとっては初見で対応出来ないほどの速さではなかった。
雅がかつて所属していたときめき青春高校というチームには、彼と同じ豪腕左投手である朱雀南赤という男が居たのだ。彼とは何度か練習であいまみえたこともあり、その経験上140km/h台の剛速球にはある程度目が慣れていた。
そう言った以前の経験則を即座に実戦で活かすことが出来るのもまた、小山雅の才能の非凡さを示していた。
「面白い」
小山雅の打撃に確かな才能を感じた猪狩守が、その頬を引き締める。彼の闘志に火がついたというところだろう。
三球目、カウントツーナッシングと追い込んだ彼が投じたのは、遊び球ではなくストライクゾーンだった。
それも、外角低めギリギリ一杯のコースだ。ゾーンの角をピンポイントで攻め込んだ伸びのあるストレートである。
これに対し、雅は迷うことなくバットを繰り出した。
「ふう、えぐいコントロールだね」
神主打法から放り投げるようにして振り放たれたバットは彼のストレートをまたも弾き返し、打球は今度は一塁線の右側へと転がっていく。
外角低めに完璧に制球された140キロ台のストレートは、プロの打者でもそう簡単にはヒットに出来ない。雅もまたそのボールは待ち球でも無かった為、バットの先に当てることによってファールで逃れたのである。
140キロ台で完璧なコースに決まったストレートを、事も無げにカットしてみせたのだ。ごく自然的に、何の苦も無く。そのバット捌きは一見地味に映るかもしれないが、並大抵の技術ではなかった。
勿論、雅とて余裕でそれをこなせたわけではない。ほんの少しでも反応が遅れていれば、あえなく見逃し三振となるほどのボールだった。
「ピッチャーの生命線はコントロールだよ。僕はそのことを思い知らされた」
「樽本有太にかい?」
「ああ、あの人も今年の夏は剛速球への拘りを捨てて、ツーシームを低めに制球するスタイルにモデルチェンジしてたね。あれはまるで、一ノ瀬先輩を見ているようだったよ」
マウンドの猪狩守は雅のカットに挑発的に笑むと、軽口に応えた後で続く四球目を投じる。
球種は尚もストレート。そしてコースと高さも、先ほど投じた三球目のボールと寸分の狂いも無かった。
瞬間、乾いた金属音が鳴り響く。雅の振り抜いたバットが、彼のボールを捉えた音だ。
鋭い打球はライト方向へとライナー性に伸びていくと、空中でスライスしていき、惜しくもファールゾーンへと切れた。
「惜しいっ、絶対またそこに来るとわかってたのに……!」
ボールの行方を見届けた雅はバットの芯を叩き、悔しげに呟く。
打ってもそう簡単にはヒットにならない難しいコースへと何度も正確な精度で投げることが出来るのが、猪狩守投手の強みだ。その制球力を見せつけるようにもう一度同じコースに投げ込んでくると雅は読み当てていたのだが、今度もまたヒットにすることは出来なかった。
ファールになったのは、彼の特殊な球質が要因だ。彼のストレートがこちらが思っているよりも手元で伸びることは予めわかっているが、それでも尚予測を超えてくるのである。
そして、今回は彼も力が入っていたようだ。以前の三球よりも、格段に速いと感じさせるストレートだった。
「……驚いたな、僕のライバルがまた増えたみたいだ」
あわや長打コースという痛烈な打球が消えていったファールゾーンの方向を一瞥した後、猪狩守がマウンド上で呟く。
雅が猪狩守の投球を手放しに賞賛している一方で、彼もまた小山雅という打者を強敵と認識していた。
ただそこに、相手が女子選手であることに特別な感情は一切挟み込んでいない。ただ純粋に、一人の好打者として守は雅に敬意を払っていたのである。
「でも、これならどうだ!」
だが、猪狩守はプライドが高く、負けず嫌いな男として有名だった。
彼は生まれながらの天才であるが、自分が天才であることを理解しているからこそ、その才能を最大限に生かすべく努力を重ねることが出来る男だ。
そしてそんな天才の名を欲しいがままにしている彼もまた、これまでの野球人生の中では数回に渡って挫折を味わってきた。
その一つがリトルリーグ時代の泉星菜、小波大也への敗北であり、最も記憶に新しいのは樽本有太擁する海東学院高校への敗戦である。
しかし、それらの挫折が彼の未熟な心を鍛え上げた。負けたという経験を忘れることなく、次なる舞台への糧としていくことによって、猪狩守という選手からは才ある者にありがちな慢心や油断と言った付け入る隙が次々と無くなっていったのだ。
――敗北が、彼を強くした結果である。
五球目、尚もツーナッシングから猪狩守は投球動作に移り、その左腕から豪快にボールを解き放った。
今までよりもさらに速い、雅が未だかつて見たことの無いほどに伸びのあるストレートだった。
変化球を一球も使わないのは、彼の意地であろう。ストレートに強い打者はストレートで仕留めたいという、プライドの高い彼らしい配球だ。
しかしそれは、決して油断や慢心の類ではない。彼は現在の持てうる全力を出し、このボールを投じていた。
コースは
ボールが、まるで閃光のようだ。一瞬にも満たない打席の中で雅はそんな感想を抱いたが、それからはただ無心に、研ぎ澄まされた感覚でボールを追い――狙いに合わせた軌道に沿ってバットを強振した。
――そして、二人の勝負に決着がつく。
「ピッチャーフライ、僕の勝ちだ」
いつの間にかボールは、猪狩守が右手に着けたグラブの中へと収まっていた。
いや、決着の行方は雅もその目で見届けた。
ドンピシャのタイミングで振り抜いたバットは猪狩守のストレートを捉え――打球はマウンドにふわりと落ちる小フライとなった。
打席結果はピッチャーフライ。文句のつけようのない猪狩守の勝利であり、小山雅の敗北だった。
しかし、雅には解せなかった。
決して、この勝負の結果が認められないわけではない。
負けは負けであり、今の打球が言い訳の出来ない凡打であることは疑いようもない。
しかしただ一つだけ、雅には納得出来ないことがあったのだ。
腑に落ちない表情で、雅はそのことについて彼に訊ねた。
「さっきのボール、何? ボクとしては完璧に、センター前に弾き返せたと思ったんだけど」
勝負を決定づけた五球目のボール――インパクトの瞬間、雅の中では確かにバットに捉えた筈だった。
彼のボールの威力に力負けしたとは思えない。タイミングは完璧であったし、バットは最後まで自分の形でしっかりと振り抜くことが出来た。
しかし、あの打撃の感覚は何だと言うのか?
ボールの芯をバットの芯でジャストミートしたのならば、本来感じる筈の手応えだ。中途半端で、肩透かしを喰らうような不愉快な感覚である。
あれは、そう。ボールの芯ではなく、ボールの下を擦る感覚だ。
雅の問いに対し、猪狩守は数拍の間を置く。
そして得意げな表情を浮かべ、高らかに言い放った。
「僕のオリジナルストレート、「ライジングショット」だ! 光栄に思うといい。この球を見たのは、進以外では君が初めてだ!」
ストレートであって、ストレートではないストレート。
いや、これこそが本来のストレートだと言うべきなのかもしれない。
何故ならばそのボールは猪狩守の手元を離れてから、「真っ直ぐ」に突き刺さってきたのだから。
「凄いボールだよ……このボクが、歴史の立会人になったってわけだ」
ライジングショット――誰が命名したのかは知らないが、悪くないセンスだと雅は思った。
あのストレートは、ストレートでありすぎるが故にストレートとは言えない未知のボールだった。
極限まで増やしたボールの回転数によって空気抵抗をほとんど受けない為に下方向に沈むことがなく、打者の目からは上方向に浮き上がってくるように見えるボール――それが雅が分析する彼の投じたオリジナルストレート、「ライジングショット」の正体だった。捉えたと思った筈が実際はボールの下を擦っていたのも、恐らくはそのためだ。
……これは、今後の猪狩守の野球人生の中で大いに役立つ武器となるだろう。それこそ高校野球やプロ野球の世界に、伝説を残していくほどの。
そんな時、自分の存在が偉大なる猪狩守伝説の始まりとしてマスコミから取り上げられてみればどうだろうか。それはそれで嬉しい……筈がない。
――そうだ。それじゃあ私が、いいかませ犬じゃないか!
この時、雅の中に湧き上がっていた感情は、彼女が彼に挑んだ当初の目的として得たかったものとは真逆にあるものだった。
それは野球選手として、スポーツ選手として当たり前の――悔しいという感情である。自分の限界を知ることによって野球を続けることに諦めをつけたかった思いとは対極に位置する、貪欲に「勝利」を求める感情だった。
「続きをやりたかったらうちと試合すればいい。別に、僕は逃げも隠れもしない」
一打席勝負で終わるのが物足りない。そう言いたげな表情の雅に対して、猪狩守がマウンドを下りながらあっけらかんと言い放つ。
だがそれは、雅にとって既に不可能なことだった。
「……わかってて言ってるでしょ、それ」
「気に障ったなら謝るよ。でも、練習試合なら女の君だって出れるだろう? うちの監督が取り合ってくれるかはわからないけどね」
「練習試合で大人しく満足していろって言うのは、今更無理な話だよ。ボクだって満足出来ていれば、こうして君に勝負をふっかけることもなかった」
「そうかい」
エース破りとして、野球マンとして、雅は自分が野球を諦める為に自分を叩きのめしてくれる高校生を求めて旅回ってきた。
我ながら勝手な行動だ、と雅は思う。
しかしそんな中でも「小山雅」として猪狩守と全力で勝負して負けることは、彼女にとって最高のシチュエーションである筈だった。
自分のことを天才だと思っていた哀れな女が、猪狩守という本物の天才の才能を体験し、絶望する。一丁前の才能を持つ人間が野球を引退するには、何とも納得の行く筋書きである。
しかし実際にこれを実行出来た後になっても、未だ雅の中では何の解決にもなっていなかった。
(そっか、これでもまだ諦められないのか、私は……)
この程度では、負けを認められない自分が居る。
雅の中にある野球人としてのプライドが、この程度の負けで諦めるなと言っている。
現に雅は、猪狩守との勝負が実現し、敗北が叶った今でも彼との才能の差に絶望を感じていなかった。
小山雅の野球人生を終わらせるには、トップレベルの才能を見せ付けるだけでは足りなかったのだ。
「兄さん」
ふと、後ろの方から声が聴こえた。
声変わりはしているがどこかあどけなさを感じるその声は、今回の勝負で捕手を務めてくれた猪狩進――猪狩守の実の弟である。
雅の一つ歳下に当たり、出身校は兄と同じあかつき大附属高校。夏の大会では一年生ながら代打出場を果たし、各打席でヒットを記録している将来の有望株というのが雅の調べだ。ついでに性格が兄と違って謙虚で大人しいとも調べていたが、実際会ってみてその噂に違いがないことがわかった。
そんな謙虚な彼がここで口を開いたことに雅は振り向いて反応し、守も彼の発言に注目した。
「なんだ進?」
「あそこに居る人、もしかして……」
「む? ……ほう」
進が言って指差した方向に顔を向けると、守が突如美形の顔を悪役風に歪めてクククッと忍び笑いを漏らした。
そのただならぬ変貌に何事かと興味を抱いた雅が彼と同じ方向に目を移してみると、そこには、一人の少女が居た。
小山雅が野球を始めた原点にして元凶、尊敬すべき野球の先輩にして後輩、かつての親友の姿が。
「あっ、星ちゃんだ」
「君も知っているのか、泉星菜のことを」
「うん、私達は友達だからね」
泉星菜。簡素なジャージを纏っていても、やはり彼女は華やかで美しい。尤もそれは彼女の方もまた雅に対して全く同じことを思っているのだが、それは雅にとっては預かり知らぬことだった。
この河川敷のグラウンドにいつから居たのか……もしかしたら、最初から全部見ていたのかもしれない。そう思うともう少しいい格好を見せてやりたかったなと、まるで体育の授業で気になる女子の前で張り切ろうとする男子のようなことを考えている自分に気付き、雅は苦笑した。
「おはよう星ちゃん! 君もこっちに来なよ!」
河川敷の隅からこちらを眺めている彼女に向かって右手を振りながら、雅は明るい声音で呼びつける。
――そう言えば、彼女は今でも野球を続けていると言っていたか。
(……そうか! 星ちゃんだ! まだ星ちゃんが居たじゃないか!)
ランニングの要領で駆け寄ってくる後輩にして先輩である彼女の姿に微笑む裏で、雅は思考を巡らせる。
そして、思った。思い至ってしまった。
自分の野球人生を終わらせるには、これ以上無いほどうってつけな相手に。