外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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『覚醒』

 

 

 ――不愉快だ。

 

 具体的に何が、とは言わない。しかし小山雅には、今自分が抱いている感情が心底気に入らなかった。

 それをただただ不愉快だと思いながら、雅は脇目も振らずにベンチへ戻り、バットを持って打席へと向かおうとする。

 その背中に、大嫌いな男の一人が呼び掛けた。

 

「雅!」

 

 男の名前は、青葉春人。この野球部の主将であり、ここに居るときめき青春高校野球部の中では最初のメンバーの一人だ。

 雅は彼の声にほんの数秒だけ立ち止まると、横目をちらりと彼に向けた。 

 

「……その、頑張れ」

 

 彼が放ったのはこの場の沈黙を振り払い、辛くも絞り出すような苦しげな言葉だった。

 雅はその言葉に何も返さず歩みを進め、そのまま右打席に入った。

 

(……どういう神経してるんだか)

 

 あれだけ執拗に毒を吐いてやったのに、まだ自分に声を掛けてくるとは――正直言って、雅には彼の態度が意外だった。

 神経が太いのか細いのかわからない。尤もそれは、朱雀以外のチームメイトに関しては皆同じだったが。

 

 

「さて……」

 

 気を取り直し、雅はマウンドに目を向ける。

 自分が野球を続ける未練の一つは、先の回に雅が己が自身の言葉で打ち砕いた。

 次はもう一つの未練――泉星菜との勝負に完全な勝利を上げるだけだ。尤も既に、勝負はついているつもりであったが。

 

「終わりにしよう、星ちゃん」

 

 神主打法の構えに入り、雅は極限の集中力を持ってマウンドの星菜と対峙する。

 この打席で行うスイングは一回、一振りもあれば十分だ。彼女のボールならばストライクゾーンを大きく外れない限り、どこへ投げようとフェンスの向こうに放り込めると雅は確信していた。

 

 プレイの号令が掛かり、金色の視線に曝される星菜がワインドアップに振りかぶる。そして持ち前のボールの出どころが見にくい「招き猫投法」から、その一投目を繰り出した。

 雅の内角を抉るクロスファイヤーの軌道で食い込んできたボールは、球速の割には(・・・・・・)鋭い切れ味で縦に割れ、ベース手前の地面へと落ちていく。

 高速の縦スライダー。星菜が投じた変化球はストライクゾーンを大きく外れ、当然ボール判定となる。彼女の指先から地面に叩き付けられるまでの一部始終を冷めた目で見送った雅は、小さく溜め息をついた後でゆっくりとバットを構え直した。

 

(この球じゃ決して……君は私を打ち取ることが出来ない。女の子として生まれてきたことに、後悔するしかないね)

 

 最初の対決の際には失望のあまり怒りすら沸いたものだが、今この打席においての雅は意外にも冷静であった。

 冷静に彼女のボールを見つめながら分析し、評論している。そこに込められた感情に怒りはなく、ただ彼女を愛するが故の憐れみだけだ。

 

(そりゃあ、110キロちょっとのボールを130キロぐらいに見せる技術は凄いさ。ここまでなるにはきっと、並大抵の努力じゃなかったんだろうね)

 

 女子としては、才能がないわけではない。

 努力だって間違いなくしている。

 しかし、それだけではどうにもならないのが泉星菜という野球少女の限界なのだ。

 緻密に構成された彼女の投球は、この程度のレベルであまりにも完成しすぎていた。彼女は自身の持てうる努力と才能の全てを掛けたことによって既に伸びしろを失い、成長の頭打ち状態になっているのだ。

 

(……ほんの五キロ。君の球質なら、あとほんの五キロでもストレートが速ければ、体感で140キロ近くまで速く見せられるかもしれない。そうなったら私も、少しは手こずるかもしれないね。……でも駄目だ。このボールじゃ、駄目なんだよ)

 

 野球の神様などこれっぽっちも信じていないが、もしもそんな神が居るのならこの仕打ちはあまりにも酷すぎると雅は思う。

 あんなに野球が好きで頑張っていた泉星菜が、相対した自分に対してこんなにも情けないボールしか投げられないことが。

 

(私には君のボールの回転が、はっきりと見える)

 

 再びワインドアップから投球動作に移った星菜が、左腕から弧を描くスローカーブを振り放つ。

 もしもその腕が華奢な少女の細腕ではなく、屈強な男子の筋肉質な左手であったなら。

 もしも彼女が彼女ではなく、彼だったなら……一体どのような物凄いピッチャーになっていたのか、想像もつかない。

 あくまでも「女子としては」という条件さえ入れれば、雅とて星菜の野球の才能を認めていたのだ。しかし雅には、他でもない彼女がその程度のレベルでいてほしくはなかった。

 

 ――だからこそ、最速115キロという現実が心苦しいのだ。

 

『そんなこと知らないよ! 私はプロ野球になるんだからっ!』

 

 一瞬――昔、いつぞやに幼い頃の彼女が高らかに言い放った言葉が脳裏を掠める。

 その瞬間、雅の振り抜いたバットが低めに曲がり落ちたスローカーブを真芯に捉え、会心の金属音と共に豪快な飛球(アーチ)を吹き飛ばした。

 レフトフェンスをゆうに越えていく当たりは、推定110mと言ったところか。非力を自称する雅の中では、過去最長と言ってもいい飛距離だった。

 

 しかし、三塁審判の判定はファールである。

 

 雅にとっては打った瞬間からわかっていたことであり、何の不服も無い判定だった。

 

「……悲しいよ」

 

 バットを出した瞬間、脳裏にちらついた幼少時代の彼女のビジョンに邪魔をされたような気がした。……でなければ、今の一振りで確実にホームランにしていた筈だろう。

 つくづく、野球に感傷を持ち込むと碌なことにならないものだ。雅はほんの僅かに切なげな笑みを浮かべた後、再び冷酷な眼差しを持ってマウンドを見据えた。

 

 ――次は、外さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝てない……まるで先の打席を再現したかのような雅の打球を見送った後、星菜は自らの左肩に鉛のような重さを催した。

 肩が痛いわけではない。身体の調子は万全どころか、かつてないほどに良好の筈だ。そしてボールを投げた感触も、今までがそうだったように狙ったコースに狙った変化と、間違いなく狙い通りのものだった。

 しかし、小山雅にはまるで通用していない。先の大飛球は決して星菜が意図した打たせたものではなく、彼女が運よく打ち損じてくれただけに過ぎないのだ。

 その事実が、星菜に自分と雅の間にある隔絶した実力差を思い知らせる。そしてその絶望こそが、星菜の左肩に圧し掛かってきた重さの正体だった。

 

(……ああ、わかっていたさ。技術だけじゃ……最速115キロの限界なんか、こんなもんだって……)

 

 幼い頃に抱いていたプロ野球選手になるなどという夢は、もう既に過去のものだ。球速も無く上背も無く筋力も無い、何よりこれ以上の成長の見込みも無い。現実的に考えて、どこにそんな投手を目に留めるスカウトが居るだろうか。

 そんな夢が果たせないことはとっくの昔に、中学の時点で悟っていたことだ。今自分が再び野球をやっているのもプロを目指しているからではなく、今の星菜は鈴姫ら信頼出来る仲間達と共に真剣に野球に打ち込み、自分の野球人生に対して悔いを残すことなく完全燃焼することが出来ればそれで十分だった。

 

(野球選手としては、ここが私の死に場所か……いや、とっくに死んでいたか。志のある私なんてのは)

 

 投手としての、野球選手としての泉星菜は既に死んでいる。だからここに居るのは、前の泉星菜の亡霊みたいなものだ。この内にある未練と、復活を望んでくれた友の願いによって生まれた性悪な亡霊である。

 対する小山雅の方は、志半ばに散った名も無き女子選手の怨念が形を変えて生まれた妖怪か何かだろうか。心の中でそんなおかしなことを考える自分に、星菜は渇いた笑いを溢した。

 

(……私のボールじゃ、雅ちゃんは抑えられない。ノーアウトランナー無しだけど、ここは敬遠するのが一番良い気がするよ)

 

 ここまで力の差を思い知ると、いっそ諦めがつくというものだろう。

 地区内に居る各高校のエース投手達も、猪狩守以外は全員あの妖怪にやられたのだ。星菜の尊敬する早川あおいも同様に。だからここで自分が二打席連続のホームランを浴びたとしても、敬遠で勝負を逃げたとしても……いずれにせよ大した恥にはならないだろう。

 

(人間諦めが肝心……先人は良い言葉を作るもんだ……)

 

 諦めは、決して悪いことではない。

 何故ならば一つの可能性を諦めることによって、もう一つの可能性を得ることが出来るからだ。

 そう……野球を諦めることによって、泉星菜の人生が女性としての幸福を得る可能性が高いのが良い例である。

 

 ――しかし、星菜はそうしなかった。

 

 何度も挫けて、何度もウジウジして。

 何度も説教されて、何度も立ち直って。

 何度も支えられて。何度も這い蹲って。

 

 ――それは泉星菜が、まかりなりにも自分自身で選んで決めた道の筈だった。

 

外角低め(アウトロー)の、115キロのストレートか……)

 

 長く間合いを置きながら、星菜は捕手六道明の出したサインを読み取る。

 見るにしても投げるにしても、星菜はそのコースが最も得意であり、最も好きだった。

 

無法者(アウトロー)の、115キロのストレートってか……)

 

 アウトロー――その言葉は野球で言えば外角低めを意味するが、世間一般の俗語としては「無法者」だとか、無法な生活スタイルの者を示す意味合いがある。法の埒外であり、自分の信念や弱肉強食が正義という世界に自ら好んで身を置く者などはまさにそう言われるものだ。

 そう考えると、高校野球という規定の埒外である場所に自ら好んで身を置いている自分もまた、まさにアウトローと言えるのではないかと星菜は思った。

 

 

 ――だが、そんな無法者(アウトロー)のことを、彼らは一度として見放したりはしなかった。

 

「勝負していこう、ピッチャー!」

「――っ、健太郎……」

 

 昔から自分のことを好きでいてくれた、幼馴染も。

 

「余計なことを考えるな。今まで通り、ここに投げろ」

 

 小山雅に対峙するこちらの不安を察して、投げやすいコースを要求してくれた捕手も。

 

「ファイトッスピッチャー! まだまだ球はキレてるッスよ!」

 

 この野球部に初めて誘ってくれた、マネージャーの先輩も。

 

「ベンチのことは気にすんな! 俺、馬鹿だから!」

 

 パワフルで頼もしい、尊敬するキャプテンも。

 

「外野の打球は全部捕ってやるでやんす!」

 

 コミカルで頼りない……だけど、心から信頼出来る副キャプテンも。

 

「打たせてこう打たせてこう!」

「さあ、バッチ来い!」

 

 頼りない仲間だと思っていた――だけど、自分には無い大切な物を持っていた他の先輩達も。

 

 彼らはいつだって、こんなしょうもない女の独りよがりに付き合ってくれたのだ。

 

 

「私は……」

 

 何故か心拍数が上がってきた星菜は、一旦気を落ち着ける為にプレートを外して六道にタイムを取らせる。

 マウンドの上で胸に手を当てて深呼吸すると、星菜は黙祷を捧げるように静かに目を閉じた。

 

 ――みんな誰しも、自分自身の為に野球をしている。色んな思惑があっても、結局は自分自身の選択で彼らはここに居るのだ。

 

 先の回に朱雀南赤が言い放った言葉が、星菜の脳裏に過る。彼の言葉に対して、星菜もまた概ね肯定の思いを抱いている。

 

 だが、それだけが全てなどとは思っていない。

 自分の為に行うことが、野球の全てではない。

 

 マネージャーとして竹ノ子高校野球部に入り、マウンドに帰ってくるまでの間に訪れた心境の変化が、星菜の心の中に決して砕けない力強い「何か」をもたらしていた。

 

 その胸に広がっていくのは、今しがた掛けられたチームの人々の思い――勝つ為には当たり前の、チーム全体の信頼感だった。

 

 野球をする理由は自分自身にある。しかし、野球の試合は絶対に、自分だけの為に行うものではない。

 

 一人はチームの為に、チームは一人の為に。

 

 そこに特別なものは何も無い。

 星菜自身とて、そんなものは既に、野球を始めて間もない頃に教わっていたことだったのだから。

 

「野球をしよう……泉星菜の全力で」

 

 心拍数が落ち着くと、不思議なことに星菜が左肩に催していた重さが消えた。

 そして星菜の栗色の瞳に、純真無垢だった頃の輝きが蘇る。

 

 投手の準備が整ったことでプレーは再開し、星菜は打席の小山雅と向き合う。

 神主打法に構える雅に対して、星菜は大きく振りかぶり、右足を高く上げた。

 

 そして上半身を大きく捻り(・・・・・・・・・)大きなテイクバックを入れて(・・・・・・・・・)、左腕を豪快(・・)に振り下ろした。

 

 

 

 

「ストライクッ!」

 

 呆気に取られた――というのが星菜の投じた三球目の投球に対する雅の反応だった。

 ボールは見えていた。ストライクゾーンに来ることもわかっていた。

 しかし思いも寄らない星菜の「投球フォーム」を見て、雅は虚を突かれたのだ。

 

「星園の次は、朱雀の真似か……」

 

 トルネード投法。星菜が投じたこの投球は、彼女本来の技巧を持ち味とした招き猫投法ではなく、全体重を振り絞る豪快さを持ち味とした朱雀南赤を模倣した投球フォームだったのだ。

 

「やけっぱちになったのか。そんなくだらない技で、私を抑えられると思っているのか?」

 

 テイクバックを大きく取り、身体全体を軸にして投げるトルネード投法。それならば確かに、上手くハマれば彼女のピンポン玉のような球威に産毛ぐらいは加えられるかもしれないだろう。

 しかし、そんなものはたかが知れている。それも、ただでさえ強靭な足腰が要求されるトルネード投法など、華奢な彼女が、碌にフォームを固めていない即席の状態でモノに出来る筈がないのだ。

 

 それが自分に勝つ為に彼女が考え付いた手段だというのなら、雅には嘲笑を浮かべる気にもなれなかった。

 

「ふん……野球をなめるな」

 

 四球目、ツーエンドワンから星菜が投じてきたのは、尚もトルネード投法からの外角低めのストレートだった。

 雅はそのボールへ思い切り踏み込み、逆方向への柵越えを狙ってバットを強振する。

 

 一閃、快音が響く。

 しかし、手応えは微かに外れだった。

 

「……?」

「ファール!」

 

 バットが弾き返した痛烈な打球は、ノーバウンドでファールゾーンのフェンスへと直撃する。

 力み過ぎたからか狙い通りの飛距離が出ず、それどころかフェアゾーンにすら飛ばなかった自身の打球に対して雅はギリギリと奥歯を軋ませた。

 

「なんで……」

 

 仇敵を睨むような目で星菜と向き合い、バットを構える。

 しかし当の星菜はどこ吹く風か、涼しい顔でその目線を受け流し、続く五球目の投球動作に移った。

 

(内角高め、この回転はストレート……)

 

 星菜が指先から放った瞬間、雅は彼女のボールの回転から球種を断定し、すかさずバットを振り抜く。

 ボールの縫い目すら見切る動体視力と、見切った後でバットを出し、ジャストミートすることが出来る反応速度。持ち合わせた超人的な才能が可能にする、雅の星菜攻略法がそれである。

 星菜のボールは遅く軽い。故に通常であれば振り遅れてしまうタイミングでも、星菜が相手の場合には完璧なタイミングで捉えることが出来るのだ。

 例え彼女のボールの出どころが見にくくても、奇策のつもりで繰り出してきたトルネード投法であろうとそれは同じ筈だ。寧ろ本来の投球フォームよりも精度が落ちる筈の彼女のボールは、雅にとって余計に打ちやすくなった――筈だった。

 

「ファール!」

「――!」

 

 完璧に捉えたと思った筈の打球は、今度は音を立ててバックネットに突き刺さっていく。

 自分のバットが叩いたボールの位置。彼女の左腕から、ホームベースにするまでの速さ。グリップから手に伝わってきた痺れた感触――そのどれを取っても、雅には不可解な現象だった。

 

(なんだ……?)

 

 彼女の投げるボールなら、思い通りの打球を飛ばすことが出来る筈だった。

 小山雅の予測を覆すことなど、決してあり得ない筈だった。

 

「ファール!」

 

 次のボールもまた、内角高めのストレートである。それに対して今度こそ間違いなく捉えたと思って振り抜いた雅の打球は、またしても後方のバックネットに飛んでいった。

 

 一度ならず二度までも、星菜の投げたボールは雅の一閃を凌いだのだ。

 

(なんで……私が振り遅れている?)

 

 次のボールもファール、その次もファール。

 いずれも、球種は全てストレートである。気づけば馬鹿の一つ覚えのように真っ直ぐだけを投げ込んでいる星菜と、そのボールを前に飛ばせなくなっている雅がそこに居た。

 

(どうしてッ!)

 

 前の打席と同様に、雅は彼女のボールの縫い目から回転まで見極めて、バットを振っている。そんな芸当が通用してしまうほどに、彼女のボールは遅かった筈なのだ。

 

 ――しかし、今はその打法が通用していない。

 

 回転を見極めてからバットを振るのでは、タイミングが間に合わなくなっているのだ。徐々に振り遅れている――ファールの打球が次第に一塁方向へと逸れていっていることからも、それははっきりと窺える事実だった。

 

(どうして今になって……球が速くなっているんだ!)

 

 彼女はこの勝負の中で、一投を放る度に球威も球速も増していた。

 スピードガンで計測していない以上、実際の球速はわからない。しかし雅の体感では、既に140キロを超えている。

 ここに来て剛腕投手のような球を放り出してきた彼女の姿はまるで、これまでの彼女とは別人が投げているようだった。

 

(トルネードに変えたから? 馬鹿な! それだけで、こんなに球速が上がるわけがない!)

 

 この打席、十球目のボールを尚もファールで凌ぎながら、雅は今しがた彼女の投球に起こっている不可解な現象を探る。

 考えられる可能性と言えばこの勝負から突然変えた豪快な投球フォームぐらいなものだが、雅は朱雀南赤というトルネード投法を扱う投手を身近に見てきた経験から、即座にその可能性を否定する。

 泉星菜の中で完全に自分のフォームとして定着していた招き猫投法と、思い付きで試してみたような即席のトルネード投法。どちらがより速いボールを投げられるのかなど、常識的に考えれば誰にでもわかることだ。泉星菜とて、フォーム一つでこれほどのストレートを投げられるのなら始めから星園渚のフォームを真似たりはしなかった筈である。

 故に今の彼女の投球に起こった変化には、それ以外に別の要因がある筈だった。

 

「くそっ!」

「ファール!」

 

 十一球目のボールを打ち損じ、これもファールになったことで雅は舌を打つ。

 何故速くなったのかは知らないが、たかが体感140キロのボールなど本来の自分であれば簡単に弾き返せる筈だ。しかし現実としてホームランどころか前にすら飛ばせていない状況が続き、雅は苛立ちをさらに募らせた。

 

「手が痺れているだって……? なんでだ……! こんな球威があるなら、なんで今まで投げなかった!?」

 

 今まで手を抜いていたのではないか……そんな疑問から吐き出した雅の声に応じたのは、マウンドに居る泉星菜ではなく、彼女のボールを受ける捕手の言葉だった。

 

「勘違いするな……俺だって、彼女のこんな球を受けたのは初めてだ」

「なに……?」

 

 彼女は今までも、いつだって本気で投げていた。

 雅と同じように、彼女のボールを受ける捕手もまた驚いている様子だった。そして周囲に目を向けてみれば、竹ノ子高校のナインも彼と同じ様子である。その中でただ一人、ショートを守る鈴姫健太郎だけが訳知り顔で安心したような表情を浮かべていた。

 

「感謝するよ、小山雅。君のおかげで、うちの新エースが目覚めたらしい」

「ッ!」

 

 ここに来て、急激に成長したとでも言うのか?

 それとも、元々持っていた彼女本来の力が目覚めたのか?

 いずれにせよ今の彼女の投球は、ご都合主義のように非現実的な現象だった。

 そしてそれは小山雅にとってはこの上ない屈辱であり、決して許されないことだった。

 

(認めるか……!)

 

 十二球目。またしてもクロスファイヤーで食い込んできた星菜のストレートを、雅のバットが真芯に捉える。

 鋭い金属音を上げて打ち放たれた痛烈な打球は、160キロを超える速さで三塁側の竹ノ子高校のベンチへと直撃していく。感情に任せ、出鱈目に引っ張った打球は当然のようにファールだった。

 しかし雅はこの瞬間、彼女の新しい球筋を見切った。際どいコースを突く体感140キロのストレートとて、雅にはさして脅威的なボールではないのだ。

 

「あの球を打てるのか……」

ボク(・・)は君達とは違うのさ。次はレフトスタンドだよ……!」

 

 勝負の中で急激に進化した星菜のボールを前にして、一打席の中で順応していく雅の才能を前に、竹ノ子高校の捕手が驚愕を通り越して呆れたような言葉を呟く。

 

 そう、彼女が今までの彼女でなくなったのなら、こちらはそれすらも凌駕する打撃で挑めばいい。

 

 数多のエース投手を相手に勝負を挑み、いずれも打ち勝ってきたのが小山雅という打者だ。この打席も彼らにしてきたように、無慈悲に打ち砕けばいい。

 雅は金色の双眸を見開き、他でもない自分自身に対して宣言した。

 

「そうだ……今こそボク(・・)は、私の「過去」を超えるんだっ!」

 

 ただ自らの過去と決別する為に、雅はここに来た。宿命のライバルと言って良い彼女との決闘を望んだ。

 左手に持ったバットをマウンドへと突き出しながら、雅は燃え滾った闘志の瞳で星菜を睨む。

 対する星菜の瞳の色もまた、紅蓮の炎のように熱く燃えていた。

 遊び球は使わない――次でこの打席の勝負は終わると、雅だけではなくこのグラウンドに居る誰もがそう直感していた。

 

 

 星菜がワインドアップに入り、雅がグリップを握り締める。

 

 星菜が上体を大きく回転させつつ、左腕を隠しながら右手を招き猫のように振り上げる。

 

 雅が神主のような構えからテイクバックに入り、左足のステップ動作に移る。

 

 星菜の右足がマウンドの土を踏み締め、雅の左足がバッターボックスの土を踏み締める。

 

 

「――――!!」

「――――!!」

 

 

 投手と打者、隔てる物の無い二人はお互いの持てる全てを振り絞り、ボールを投げ、バットを振った。

 

 

 ――そして。

 

 

 雅の目から、ボールが消えた。

 

 

 

 

 

 

 

「ストライク! バッターアウトッ!!」

 

 球審からこの試合最大の声量を振り絞った判定の声が上がり、マウンドの星菜が声を上げてグラブを叩く。

 対する雅は吐き出す言葉も失い、茫然とその場に立ち尽くしていた。

 

 

(……泉、星菜……ああ……やっぱり君は、私の……)

 

 驚愕に震える瞳を上げ、雅は彼女の姿を見据える。

 この打席の決着をつけた一球――それは、雅が生まれて初めて見たと言っても良い未知の変化球だった。

 

 自分がバットを振った瞬間、ボールが消えたと――そう錯覚してしまうほどにブレーキの掛かった、まさに真のチェンジアップ(・・・・・・・・・)。胸元に体感球速140キロ超えのストレートを投げ続けてきたからこそ雅を打ち取ることが出来た、彼女が誇る渾身の外角低め《アウトロー》だった。

 

(私の……!)

 

 彼女は決して、あの時から落ちぶれてなどいなかった。

 この打席でそれを理解した雅はあらゆる感情を綯い交ぜに抱えながら、顔を伏せてベンチへと戻っていった。

 

 

 


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