外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
鈴姫健太郎が彼の存在を初めて知ったのは、忘れもしない中学時代のある日のことだ。
打撃練習の際に、鈴姫の打ち返した痛烈な打球が打撃投手である星菜の頭を打ち抜いたのである。
その瞬間、星菜は気を失いマウンドで倒れた。幸いにも後遺症が残るほどではなかったが、当時の鈴姫からしてみれば頭が真っ白になり、まさに心臓が止まるような衝撃だった。
そして倒れた星菜は保健室へ運ばれてから数分後、鈴姫が見守る中で目を覚まし、その栗色の瞳で彼の顔をじっと見つめて言ったのである。
『はじめまして、鈴姫君』
そこに居たのは泉星菜であって、泉星菜ではない存在だった。
泉星菜と同じ姿でありながら、明らかに異なる雰囲気を纏いながら彼は自らの存在を明かした。
『僕は星園渚。この子の前世というか……この子に憑りついた幽霊?みたいな存在かな』
自分は泉星菜ではなく、星園渚だと、彼は語った。
かつて200勝目前で病に倒れ、生涯現役のままこの世を去った伝説の投手――星園渚。
彼は星菜のことを物心つく前からも見守り続けてきた、姿形も無き彼女の師匠だった。
街路樹の隅で展示されている、過去の名プロ野球選手達の記録や手形が刻まれたプレート。
その内の一つである「星園渚」のプレートをまじまじと覗き込みながら、瞳を輝かせながら感動の表情を浮かべる少女の姿があった。
「わっ、「悲劇のエース星園渚」だって! こういうの、やっぱりあったんだ!」
「ああ……」
現時刻は昼の正午。
星菜と鈴姫の姿は今、兵庫県神戸市にあった。
待ち合わせ場所で合流した後、鈴姫は行先も告げられないまま笑顔の彼女に連れられて最寄りの駅へと向かった。
その後半ば強引に新幹線に乗せられた鈴姫は目的地である新神戸駅で降りると、地下鉄へ乗り換えること数十分後、二人はその場所にたどり着いたのだ。
――神戸総合運動公園野球場。
またの名を、「グリーンスタジアム神戸」と呼ぶ。
プロ野球ファンならば、その名前を聞いたことがある者は多いだろう。
かつてはあるプロ野球チームの本拠地であり、今でもシーズンでは何度かプロ野球の試合が行われている野球場である。
その球場の周辺を観光がてらのんびりと巡りながら、星菜――星園渚は満面の笑みを浮かべ、子供のように楽しげな顔をしていた。
そんな彼の後ろには彼とは対照的に憮然とした表情の鈴姫の姿があり、いかにも不機嫌だと言いたげな雰囲気を纏っていた。
「……行きたい場所って言うのは、ここなのか?」
「そうだよ。最後にもう一度、ここに行きたかったんだ」
このグリーンスタジアムは、生前の星園渚が所属していたプロ野球チームの本拠地である。
ブレーブス、そしてブルーウェーブ。合併や球界再編騒動を経た今ではバファローズの準本拠地となり、当時と変わらずに神戸の野球ファン達を集めている。
鈴姫もまた過去に何度か、星菜を誘って観戦客として訪れたことのある場所だった。
「君もここに来るのは初めてじゃないよね? 星菜が落ち込んでいた頃、よく誘ってたっけ」
「…………」
「怒らないでよ……僕もああいうプライベートな時は、基本的に外の情報は見ないようにしてるから」
彼が喋る度に不愉快げな表情を浮かべる鈴姫を見ても構わず、星園は苦笑を浮かべながらベラベラと楽しげに喋り出す。
周囲の通行人からは不愛想な彼氏とお喋りな彼女のカップルのようにも見えようが、鈴姫には今だけは目の前の少女との関係をそのように思われるのがまったくもって嬉しくなかった。
「もちろん生理現象の時とかお風呂の時とか、そういう時も全部シャットアウトしているし、僕自身もあの子のことを不埒な目で見たことは一度も無いからね?」
「……誰がそんなこと聞いた」
「僕だって年頃の女の子に付きまとう変態だと思われたくないし、君もそういう細かいことは微妙に気になっていると思ったから……思春期の男の子なら、僕の立場を知ったら変な想像をするもんでしょ?」
「はぁ~……」
「うわっ、すっごい溜め息」
冗談めかしながらそう笑う星園に、鈴姫はただただ呆れたように深い溜め息をつく。
今目の前に居る「星園渚」という伝説の投手の性格は、万人がイメージするものとはあまりにもかけ離れていると感じる。
……尤も鈴姫の目には、今はあえてそんな自分を作っているようにも見えるが。
周囲を見回せば映るのは、贔屓チームの帽子やレプリカユニフォームを纏いながら、それぞれスタジアムに向かっていく人々の姿だ。
そんな人々の集うスタジアムの立派な姿を眺めながら、鈴姫はかつての自分自身がつけた手形にニヤニヤと微笑みながら右手を合わせている星園に対して訊ねた。
「あちゃー……やっぱり僕と比べるとちっちゃいなぁ、星菜の手」
「今日は……試合を見るのか?」
「ん……そうだよ」
わざわざデーゲーム開始前の野球場に来た以上、場内に入らないとは考えにくい。
鈴姫の質問に星園は頷くと、ポーチの中から取り出した二枚の紙切れを鈴姫の前に見せた。
「ほら、試合のチケット。星菜が昨日、君と僕の分で二枚取ってくれたんだ」
「……金は後で俺が払うと言っておいてくれ」
「いや、お金は星菜のお母さんが出してくれたんだ。良い人だよね、あの人は」
バファローズ対イーグルスの、デーゲームのチケットである。
開催地はここグリーンスタジアム神戸であり、プレイボールは14時だとそこに記載されていた。
星園は自分用の一枚を再びポーチに戻すと、もう一枚を鈴姫に向かって差し出してきた。
そして彼は、今この時になってようやく鈴姫の知りたかったことを話してくれた。
「……僕がこうして表に出てきたのは、君とこうして話したかったっていうのもあるんだけど、最後の時ぐらい、ファンの目線で古巣の応援をしてみたくなったんだ」
微笑みの裏で憂いを帯びた表情を浮かべながら、星園が言う。
その発言から、鈴姫にはある引っ掛かりを覚えた。
「最後……? あんたは、まさか……」
「そう。僕は今日、成仏するつもり」
今日この日。
星園渚は泉星菜の中から消え去る、と。
彼ははっきりと、そう言った。
「僕という魂が今まで彼女の中にあったのは、何かこの世に心残りみたいなものがあるからじゃないかって思っていた。だけど、僕が一番心残りだったことは……君や野球部のみんなが解消してくれた。だから後は、一日だけでもパーッと遊べばスッキリするんじゃないかって思ったんだ」
彼は今日、自分自身で自分の存在を終わらせようとしているのだ。
それは他の誰でもない星菜の為であり、彼女の明日の為に。
……彼もまた彼女のことを大切に思っていることは、星菜の話を聞いていれば鈴姫の方とて嫌と言うほど理解していたつもりだ。
だからこそ、鈴姫には何も言えなかった。
「本当のところは何事もなく、ひっそりと彼女の中から消えれれば良かったんだけどね……この前あの子にそう言ったらガツンと怒られてさ。強引に身体を押し付けられたんだ」
「おい」
「あ……ストップ! いかがわしい言い方になっちゃったね」
やはり、この男は嫌いだ。
鈴姫は彼に対して、改めてそう認識した。
「だけど……何と言うか君、あの子のことになると本当に余裕無いよね」
「好きな女に他の男の悪霊が寄生していたら、不機嫌にならない方がおかしいだろ」
「……うん、そりゃそうだ。僕だって逆の立場ならそう思うだろうね。誰だってそういうのは、気分の良い話じゃない」
苛立ちを隠そうともせずに鈴姫が不機嫌な理由を語れば、星園が大人の余裕とも言える態度で納得する。
彼に対する鈴姫の態度は理屈的には至って当然のものであり、星園自身もまた負い目を感じているように、切実な物言いで口を開いた。
「だからさ、今日一日だけでいいから協力してほしいんだ」
それまでのちゃらけたような雰囲気ではなく、真剣な眼差しで見つめながら、彼は頼んだ。
「あの子の中から悪霊を……僕を追い払ってくれ」
自身のことを悪霊だと認めた上で、彼は頭を下げる。
急に態度を変えたその姿が鈴姫には予想外であり、これが計算ずくなら大した狐だと思いながらもすっかりと毒気を抜かれてしまった。
「……はっきり言って俺は、あんたが好きじゃない」
「うん、知ってる」
「だけど、恨んでいるわけじゃない。寧ろアイツのことを色々と助けてくれたあんたには、どれだけ感謝しても足りないと思っている」
だったらもっと彼のことを敬っても良いぐらいだが、それはそれとして彼女の中に彼が居ることが気に入らない気持ちも鈴姫には大きかったのだ。
だがそれでも、鈴姫の中で最も優先されるのは彼女のことだった。
「……本当に、居なくなるつもりか? アイツは、それでいいと言ったのか?」
自分や小山雅の件でもそうだったが、泉星菜という少女は一度自分の懐に入れた人間には何だかんだで甘いところがある。彼女が自分から彼を追い出すようなことを言ったとは、思えない。
その推測は正しかったようで、星園は苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「……あの子には引き留められたよ。僕自身、君達の成長を間近で見れる日々は楽しいし、ずっと見ていたいという気持ちはある」
「だったら……」
「僕は死んだ人間だ。君達のおかげでやっと前に進めたあの子に、いつまでも過去の人間が引っ付いてちゃ駄目だろう?」
居心地の良い場所をわざわざ自分から離れようとする理由を、尤もらしい言い分で説明し、笑みを浮かべる。
鈴姫は死人ではないし、彼の気持ちなど推し量りようも無い。
ただその決意の程が並大抵なものでないことぐらいは、目を見ればわかった。
元々彼と自分とでは、親子ほども歳が離れている大人なのだ。言い合いでは、どうあっても勝てそうになかった。
観念したように、鈴姫が言った。
「……わかった。わかったよ、おっさん。だけどはっきり言うが、俺は男友達は少ないからな。今日は精々勝手に楽しんでくれ」
まともなエスコートなど出来ないし、するつもりは無いと――暗にそう忠告しながら、鈴姫は踵を返してスタジアムへの歩を進める。
「ふふっ……ありがとう」
礼を述べる彼の表情は、鈴姫の方からは見えない。
だが喜んでいる様子は、その直後に背中に押し当てられてきた柔らかい感触から存分に思い知らされた。
「健ちゃん、だーいすき!」
「ッ……!? おいやめろ」
「あちっ!?」
性質の悪い悪ふざけである。
人目もはばからず星菜の身体で抱き着いて喜びを表現して来た彼は、やはり確信犯なのであろう。周りから向けられる視線を察してにやけ笑いを浮かべている彼の額に、鈴姫は容赦なく一発のデコピンをお見舞いしてやった。
「いたたっ……せっかくサービスしてあげたのに……」
「……やめてくれ、頭がおかしくなる」
「押しの強い子は苦手なのかい? 僕としてはあの子も、たまにはこういうことをすればいいのにって思ってたんだけど」
「俺達は付き合っているわけじゃないし……そうなると俺が持たない。今のアイツでいいんだよ」
「はいはいご馳走様。将来美人局にやられる心配は無さそうで何よりだよ」
「……大人は汚くて嫌いだ」
「うん、僕もそう思う」
冗談を交えたりしながら、談笑しつつスタジアムへと入っていく二人。
彼とこうして言葉を交わしたのは初めて会ったあの日以来であったが、鈴姫には何となく彼とは旧知の仲のように話しやすく感じていた。
ただ慣れないのは、話しているのは三十代でこの世を去った星園渚という男でも、その姿は泉星菜という美少女だということだ。
故に鈴姫はこの時、どう表現すればいいかわからない感情を抱いていた。
今のパ・リーグに所属しているバファローズというチームは、かつて二つの球団が合併したことによって生まれた特殊なチームである。
ストライキにまで発展したプロ野球再編問題と言えば、今も記憶に新しい者は多いだろう。
片やイーグルスというチームは、二つの球団が合併した際に生まれた空白の一チームを埋めるように誕生した新規参入球団である。歴史はまだ浅く、当然ながら星園渚が存命していた頃には存在すらしていないチームだった。
「始めはほとんど二軍レベルの選手しか居なかったのに、十年も経たずに優勝したんだもんね。凄いよね、イーグルスは」
「あんたが生きていたら、バファローズとイーグルス……どっちに行ったんだ?」
「うーん……順当なら親会社が同じバファローズなんだろうけど、僕からしてみればバファローズと言えば今でも鉄道会社のイメージだからね。ブルーウェーブと同一リーグのライバルチームに行くぐらいなら、いっそタイガースみたいなセ・リーグに行ってたかもしれないねぇ」
「メジャー挑戦は考えなかったのか?」
「あんまり興味は無かったかな……向こうでの評価は低かったみたいだし」
「球速が無かったからか。あんたなら、案外向こうでも通用すると思ったんだけどな」
「日米野球では抑えたり打たれたりって感じだったかな? あまりの球の遅さに驚かれたことは覚えているよ」
両チームのスターティングメンバーが発表された試合開始三十分前、二人の姿は一塁側の内野席にあった。
星菜の取っていたチケットに指定された座席に座った二人は、試合に向けて観客が集まり始めている球場で気ままに駄弁り合っていた。
「それにしても、今の子達は球速いねぇ……。高校生にも波輪君や猪狩君みたいな怪物がたくさんいるし、今日投げる市場君と神童君なんかも、平均で150キロ出してるもんなぁ」
「今年の三年はかつてないレベルの豊作だろうな。プロだって神童はオフにメジャーに行くだろうし、市場はイーグルス元祖生え抜きのスーパーエースだ。あんたの時代にもこのレベルの選手は居なかったんじゃないか?」
「まあ、今の子達は栄養学とか練習効率とか何から何まで恵まれてるからね。少なくとも、平均的な体格なんかは僕達の時代より遥かに上だよ」
鈴姫にとって、自分が生まれる前の時代で活躍していた彼の話は誰にでも聞けるものではなく、貴重なものだ。既に死んでいる彼を生きた伝説と呼ぶには不適切だが、プロ野球の世界では英霊の如き存在である彼の話はそれだけで贅沢なものであり、価値のある者だった。
かつて自分が生きていた頃のことを懐かしむような穏やかな目で、彼は語る。
「……ただ、同じ条件なら僕も僕のライバルだった人達も負けないさ。今でも武蔵君とか鉢柳君とか昌さんとか、主力でバリバリやってるしね」
「あんたも生きてたらその中に入ってたんじゃないか?」
「それは流石にどうだろう……? でも君も、近い将来プロになるなら、何より身体づくりに気をつけるといい。野球の実力はもちろんだけど無事是名馬、怪我をしないことが一番大切だからね」
「……ああ、わかってるよ。波輪先輩を見ていたら嫌でもそう思う」
プロで成功した先人のアドバイスを真摯に受け止めながら、鈴姫は彼の言葉を心に刻み込む。
今日で居なくなる彼の言葉を聞けるのは、星菜以外では自分だけなのだ。こうして真面目な話をしている時の彼は間違いなく鈴姫にとっても恩人であり、表情は素っ気なくとも彼がここに居たことを忘れまいと鈴姫は心の中で誓っていた。
ただ存外、星園渚という男の話にはどうでもいいと感じるものも多かった。
「年上の人と結婚する野球選手が多いのも、案外その辺りが関わっているのかもしれないね。自分の健康に気を遣ってくれる余裕を持った女性が、僕としても好きだったなぁ」
「あんた独身だったろ」
「どうも女運悪くてね。付き合う子はことごとくメンヘラばっかりで、よく修羅ばってたっけ……君も気をつけなよ。今も片鱗はあるけど、あの子もどっちかというとそっちのタイプだ」
「……マジなトーンで言うなよ。アイツが色んな意味で重い奴だってのは知ってるけど」
あまり友人の多い方ではない鈴姫からしてみれば、星菜には言えないようなことを話すことも新鮮な気分だった。
それは何の気兼ねも無く、男友達と談笑しているようで。
「……今の会話、アイツに聴こえていないだろうな?」
「いや、デート中は普段の僕のように眠ってもらっているよ。お花摘む時は交代してもらうけどね」
ほとんど最初で最後のようなその時間が、今は少しだけ心地良かった。
TSものみたいな話になりました。
ちょっと気を抜くと更新が滞り申し訳ございません。