外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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最期のマウンド

 多くの来場客が詰めかけたスタジアムで行われた一戦はエース対決の前評判通り、息の詰まる投手戦が繰り広げられた。

 序盤から好投の光る神童、市場の両先発は自慢の快速球を武器に凡打の山を築き、イニングは八回表まで0行進が続いた。

 試合の均衡が破れたのは八回の裏、バファローズの攻撃である。

 この日、バファローズの七番にスタメン起用されたドラフト一位ルーキーの雷轟。フルスイングで振り払った彼のバットは、白球をライトスタンドへと叩き込んでいった。

 値千金のソロホームランは両チームにとって重い一点を刻み込み、試合は1対0のバファローズリードで九回表を迎えた。

 

 そして最終回のマウンドに上がったのは、なおも先発の神童。

 

 それまでに投じた球数は118球。完封を狙うマウンドにてやや疲れを見せた彼は、先頭打者に粘られた末にこの試合初のフォアボールを与え、ノーアウトの走者を許した。

 次の打者は送りバント、とはいかず、イーグルスベンチはあえての強行策を敢行。それが功を為してライト前ヒットが飛び出し、走者は一塁三塁とさらにピンチが拡大していった。

 堪らずバファローズの投手コーチがマウンドへ向かっていくが――バファローズベンチが下した判断は神童の続投。

 ……いや、星園の目にはそれが神童自身が志願しての続投のように映った。この試合は俺の試合だと、絶対にマウンドを下りたくないと言う気迫を感じたのである。

 

 そして、そこからは圧巻の投球だった。

 

 ノーアウト一三塁のピンチで投じた第一球は内角を抉るこの日最速の153キロ。

 底力を発揮した神童のストレートに打者のバットを掠りもせず、三球三振に切り伏せる。

 そして次の打者には一転して変化球責めである。スライダー、フォーク、ムービングと織り交ぜ、最後は打者を食ったようなど真ん中へのカーブで見逃し三振に仕留める。

 あと一人。走者を釘付けにしたまま、神童が投じたこの試合最後の一球が夜空に打ち上がった。

 

 ――キャッチャーフライ。ゲームセット。

 

 試合結果は1対0。神童がこの日投じた140球の粘投により、バファローズは完封勝利を収めた。

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅の新幹線に揺られながら、鈴姫と星園が試合の余韻に浸る。

 パ・リーグ屈指の実力を誇る両エースの投げ合いは、それこそどちらが勝つのかまるで予想がつかない投手戦だった。バファローズの神童もイーグルスの市場も、投球内容は完全に互角だったと言えるだろう。

 

「いやあ、やっぱり凄かったね神童君は。星菜が気に入るのもわかるよ。僕も一発でファンになっちゃった」

 

 鈴姫の隣の座席で朗らかな笑みを浮かべている星園の手の中では、バットの跡が微かに残された硬式の野球ボールが弄ばれている。

 そのボールは、この日球場に訪れた彼の元に舞い込んできた一つの幸運であった。

 

「記念になったか?」

「うん! 明日を担う期待のルーキーのファールボールだからね。僕ってこういう運は強いらしい」

 

 丁度良く、星園の座っていた席にファールボールが落ちてきたのである。

 今日のバファローズ勝利の立役者である雷轟が打ち上げたややライナー性のファールフライであり、丁度良く彼らの席に落ちてきたそれを星園が涼しい顔をしながら掴み捕ったのだ。その瞬間には周囲の観客から温かい拍手が贈られ、彼も彼で子供のように無邪気に喜びながらバシバシと鈴姫の背中を叩いてきたものである。

 そんな彼の純真無垢な野球少年のような姿を見た際には思わず実年齢を疑った鈴姫であったが、星菜の姿で可愛らしく笑う彼を見て不覚にも温かい気持ちに包まれてしまったのが微妙な感情である。

 そんな彼はボールの縫い目に左手の指を掛けながら、懐かしむように微笑んでいた。

 

「あの子への、良いお土産になったよ」

「そうか」

 

 現役時代は数えきれないほど手に触れて、何球投げ込んできたかもわからないNPBのボール。感触を確かめながら目を細めている彼が、何を思い何を感じているのかはわからない。

 ただ鈴姫は、気づけば訊ねていた。

 

「今日は……満足出来ましたか?」

 

 目上の人間に対して敬意を払うように、敬語で訊ねた。

 そんな問いに、星園は答える。

 微笑みながらもどこか儚げな、自分を偽っていた頃の時の星菜によく似た表情で。

 

「……大満足だよ。今日は夢みたいに、楽しい一日だった」

 

 それはきっと、本心からの言葉ではあるのだろう。彼の表情に憂いは無く、感情の部分では割り切っているように見える。

 しかし。

 

「今を頑張る野球選手達の姿を見ていたら、改めて思い知った」

 

 球場で目にしたありのままの事実を認めたように、彼が言った。

 

「僕の居場所はもう、この世には無いんだなって」

 

 死人である自分はやはり、ここに居るべきではないのだと。

 今一度、そのことを確認したような物言いだった。

 

「あんた……」

「それでいいんだ、鈴姫君。死人が誰かの足を引っ張るのも、生きている人間が死んだ人間に引き摺られるのも……本当はあっちゃいけない」

 

 自分自身を否定する彼の言葉に眉を顰める鈴姫だが、そんな鈴姫を諭すように星園が語る。

 それは、彼自身が死人であるからこそ説得力のある言葉だった。

 

「そういう意味でも、安心したんだ。僕が居なくても古巣はちゃんと回っている。形を変えてもチームは生き続けていて、きっとそれと同じように泉星菜の未来も続いていくんだなって……そう思うと、僕の役目はとっくに終わっていたんだなって思い知らされた」

 

 彼の目に映る世界と、鈴姫の目に映る世界。

 同じ筈でありながら、生きた時間のまるで違う二人にはまるで違う見え方をしていた。

 それがわかるからこそ、鈴姫は複雑な心境だった。

 

「……あんたは大人だし、俺にあんたの決意を曲げさせるような大層な台詞は言えない」

「わかってる。それが出来ていたら、君らとっくに恋人同士になってるだろうし」

「言うなよ……」

 

 星園渚という偉大な男の決意に、所詮子供に過ぎない自分が茶々を入れるのは違うと鈴姫は感じる。

 しかし、だからこそ。

 

「……まだ心残りがあるんなら、何度でも付き合ってやるから無理するな」

 

 自分に出来るのは彼の決意をに対して、少しでも後押ししてやることだと思ったのだ。

 偽りない気持ちでそう言った時、星園はどこか子の成長を喜んでいる父親のように、嬉しそうに笑った。

 

「君って奴は……生意気に育ったもんだ。あの弱虫君がさ」

「今でも弱虫だよ。誤魔化すのが上手くなっただけだ」

「うん、知ってる」

 

 もしも彼が自分と同じ世代の人間だったならば、もう少し仲良く出来たのだろうか。そんなことを思いながら、鈴姫も苦笑を浮かべる。

 そしてしばしの談笑を挟んだ後、星園が口を開いた。

 

「……じゃあ君の善意に甘えて、もう少しだけ僕のわがままに付き合ってくれないかな」

 

 泉星菜の栗色の目を開いて鈴姫を見据え、真剣な表情で彼が言う。

 これが最後の頼みだと、そう前置きして。

 

「最後に一度だけ……ピッチャーとして、君と勝負してみたいんだ」

 

 何の勝負かは……もはや問うまでも無い。

 その頼みを自然な感情で受けた鈴姫は、意外な顔一つ浮かべずに快諾した。

 

「わかった。引導を渡してやるよ、おっさん」

 

 自然に、そんな憎まれ口が出てくる。

 鈴姫の方からしてみれば最初からその申し出を待っていたような、不思議な感覚だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、翌日の月曜日。

 場所は日が出始めて間もない、早朝の河川敷グラウンド。

 そこが、二人の決戦の舞台だった。

 練習着を身に纏い、バットを片手にその場へ到着した鈴姫が目にしたのは、ジャージの上にレプリカユニフォームを羽織っている少女の姿だ。それはマウンドに佇んでいる泉星菜――星園渚の姿だった。

 

「朝早くから悪いね」

 

 今日は平日の登校日であり、あと数時間もすれば授業が始まってしまう。

 しかし今の鈴姫にはそのことを気にする意識は皆無だった。その心にあるのは全力を持って目の前の投手と勝負し、完膚なきまでに打ち砕いてみせるという打者としての闘争心だけだ。

 

「そのユニフォームは?」

「これ? これはブルーウェーブ時代の僕のレプユニだよ」

 

 彼が羽織っているユニフォーム――今で言うところのバファローズに近いロゴであるもののチーム名の違うそれは、星園渚の現役時代のレプリカユニフォームだった。「28」と刻まれたその背番号もまた彼がかつて背負っていたものと同じであり、本来ならば野球場に応援に来た中年以上のファンが身に着ける衣装である。

 そのユニフォームを羽織っている今の彼の姿を見て、鈴姫はこれから始まる勝負が彼にとってどれほど重い意味があるのかを改めて認識した。

 

「ゲン担ぎって奴か」

「星菜からの気遣いさ。おかげで身が入るってもんだけど……よっ」

 

 泉星菜ではなく、星園渚としての本気の勝負。

 引退試合としてマウンドに立っているその姿を見て、鈴姫の闘志が一層強く湧き上がって来る。

 鈴姫の姿を横目に見て薄く笑んだ後、星園はマウンドから振りかぶり18.44メートル先のキャッチャーミットへとボールを放った。

 

「ナイスボール!」 

 

 テイクバックの小さいどころの見にくいフォームから放たれたボールは、寸分の狂いもなくキャッチャーミットへと突き刺さっていく。

 星園の投球に対して当然のように座って捕球している捕手の存在に気づいた鈴姫は、そう言えば一体誰が彼のボールを受けているのだろうかと興味を向ける。

 しかしキャッチャーボックスに座っている人物の姿は、鈴姫にとって見知った男の姿だった。

 

「おはよう、鈴姫君。久しぶりだね」

「……っ、小波……先輩」

 

 恋々高校主将、小波大也。

 中学時代は同じチームで共にプレーしたことのある先輩であり、星菜を巡る問題については度々反発していたことが記憶に新しい。

 今ではその星菜が立ち直り、恋々高校と合同で行った署名運動の際には協力した関係でもある為、鈴姫もまた昔ほど彼のことを憎んでいるわけではない。

 しかしこうして突然の形で会うには思考が割り切れず、心が落ち着かない人物なのもまた確かだった。

 

「キャッチャー兼審判として、彼に来てもらったんだよ。こんな時間で申し訳ないけど、僕と星菜のことを知っているのは君の他には彼しか居なかったから」

 

 元々星菜と小波は幼馴染であり、年齢こそ一つ違うものの二人は仲が良かった。その関係から、彼もまた彼女の中に居た星園の存在を知っていたのだ。

 ボールを受けてくれる上に、第三者として公正な審判が出来る。その上こちらの事情を知っているとなれば、寧ろこの場に彼を呼ばない方が不自然かもしれない。

 しかしその事実は理解出来てもまだ、鈴姫は素直に彼を受け入れられるほど大人ではなかった。

 

「……いいんですか? こんなところで油を売って」

「構わないよ。確かに昨日、あおいちゃん経由で星ちゃんから連絡が来た時は驚いたけど、こういうことならお安い御用さ」

 

 皮肉気に吐いた鈴姫の言葉を意に介さず、小波はありのままの感情で返す。

 そういう余裕を持った対応もまた、鈴姫には何となく気に入らなかった。

 

「僕にとっても、星園さんは他人じゃないからね」

「……頼もしい先輩ですよ、まったく……」

 

 かつて野球選手として行き詰っていた泉星菜の開花の裏に、星園渚の存在があることを小波も知っていた。

 故に彼もまた友人を助けてくれた星園に対して感謝しており、一選手としても尊敬しているのだと言う。

 そんな小波を座らせながら投球練習を行う星園が、バットケースからバットを取り出した鈴姫の姿を見て問い質す。

 

「僕の方は準備OKだけど、君は大丈夫かい?」

「ええ、アップは済ませてきたんで、いつでもいけます」

 

 この河川敷に来る前に鈴姫はランニングと準備運動を済ませており、フォームチェックも万全に終わらせている。100%の力で――それこそ公式戦と同じ感覚で勝負に入れると鈴姫は確信していた。

 そう答えれば星園はよしよしと満足そうに頷き、左打席に入った鈴姫を見て高らかに宣言した。

 

「じゃあ、さっそく始めようか。ルールは公平に四打席勝負。一打席でも出塁すれば君の勝ち、ヒットを打たれたり四死球を与えたら僕の負けだ」

 

 四打席を無安打無四球に抑えなければならないという、投手に不利だと思えるルールの提案に内心で驚く。

 実戦で回ってくる打席を考えれば四打席勝負は適正かもしれないが、公平かどうかで考えれば疑問符がついた。

 

「公平、か……」

「うん、一球勝負の誰かさんとは偉い違いだ」

 

 打者の鈴姫からしてみれば自分側に有利だと思えるルールだが、これは彼の引退試合である以上、彼の言う「公平」には大人しく従うことにする。

 そんな二人のやり取りに苦笑する小波がマスクを被り、キャッチャーミットを構えた。

 

 

 星園渚対鈴姫健太郎――おそらくこの地球上で初めてであろう、死者と生者による投打の対決が始まった。

 

 

 


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