外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
パシッ――白球がグラブに収まる渇いた音が響く。
何も無い、全てが真っ白な世界。この世でもあの世でもないその場所に、二人の人間の姿があった。
一人は三十代ながらも青年的な若々しい姿をした壮年で、もう一人は十代半ばの女子高校生だ。親子ほど歳の離れた二人だが、しかしその出で立ちには共通点があった。
一人はプロ野球チームの、もう一人は高校野球の――どちらも「野球」チームのユニフォームを身に纏い、その右手にグラブをはめているところである。
パシッ――何回繰り返しただろうか、再び白球がグラブに収まる。
片方がボールを投げ、もう片方がそれを捕まえる。反復して幾度となく繰り返されるそれは、野球という競技に深く関わったことのない者も行ったことがあるであろう、平凡な「キャッチボール」の風景だった。
「息子が出来たら、一度やってみたかったんだよね」
胸元に目掛けて投げ返されたボールを捕球し、それを同じ場所へ投げ返しながら男が笑う。
今自分が行っていること、置かれている状況、それがなんだかとてもおかしくて、自然と笑みが零れる。
とてもとても楽しくて、すごくすごく物悲しい。この気持ちをどう表現すれば良いのやら、彼――星園渚には見つからなかった。
そんな彼の思いを白球と共に受け取った少女――泉星菜が呆れたような目を返しながら再び投げ返す。今度は少し、強めに放った投球だった。
「女の子らしくなくて悪かったな」
娘ではなく、息子扱いされたことに不服そうに口を尖らせる星菜。
そんな彼女のボールを捕りながら、星園は苦笑を浮かべて弁解した。
「まさか、僕の周りには君ほど女の子らしい子は居なかったよ」
「どんな人生だよ、それ」
「まあ、色々あったんだよ、色々……それはそうとして、最近どう?」
実際、女々しいという意味で言えば彼女ほど女の子らしい少女は居ないだろうと星園は思っている。寧ろもう少しサバサバした方が良いのではないかと思っているぐらいなのだが、それを口にすれば怒られるだろうなと予感していた。
女の子らしくしろと言えば悲嘆的な表情を浮かべ、男らしくしろと言えばそれはそれで不満そうな顔をする。思えばそんな面倒くさい性格も、彼女の個性だろうと星園は思う。
「今更、それを聞くんですか」
「キャッチボール中にする会話としては定番だろう? どうなの最近。色々なことがあったけど、これからも頑張れそう?」
「そんなの、貴方が一番わかってるでしょうに」
やや無理矢理な形で話題を変えてみると、彼女から呆れ声でそう返される。
彼女の中で共に過ごしていた星園は、誰よりも彼女の近況について詳しく知っている。しかしそれでも、星園にとっては彼女と会話をする行為自体に意味があったのだ。
「言葉にしなきゃ、伝わらないだろう?」
「……そうだね」
わかっている筈だ。
わかっていると信じていた。
そんな思い込みと思い上がりで人間関係を拗らせた彼女には、耳の痛い話であろう。少々意地悪だったかと反省する星園の言葉にバツの悪い表情を浮かべた星菜は、思わずボールを落球しかける。そんな星菜だが、グラブから零れたボールを素早く左手に掴むとサイドハンドで投げ返した。
「昔、負けるのが嫌で……置いていかれるのが嫌で、貴方に野球を習った」
彼女がその口で語るのは、かつての思い出話だ。
「理屈ばっかり語って自分の殻に塞ぎ込んで、大事なことも見なくなっていた」
今だからこそ見える、自分自身の間違い。それを彼女は、客観的な事実として受け止めるように言った。
「誤魔化してばっかりの自分……全部誰かのせいにして周りを見下していた」
「でも、今は?」
人並みになったかどうかはわからないが、少なくとも昔よりは成長したと思っている。
野球を通じて味わった悔しさと喜び、出会いと絆。それらが彼女の足を、舞台の上まで引っ張り上げてくれたのだ。
「そんなお高く留まった自分をぶん殴ってやりたいと思えるくらいには、前向きになったと思っているよ」
「それは結構」
だが、引っ張り上げられただけでは足りない。スタートラインに立っただけでは物語は始まらない。
そこからの未来は、自分の意志とその足で勝ち取らなければならないのだ。
「私なりに全力でぶつかってみるよ。行き当たりばったりでも、何度道に迷っても」
それが、彼女の未来。
死人が入り込むべきではない、泉星菜の人生なのだと星園は思った。
「私は決して、貴方のことを忘れません」
……だから星園はもう、その言葉を彼女から聞ければ十分だった。
「今まで、ありがとうございました」
星園が投げ返したボールを受け止めた後、星菜は帽子を外し、深々と頭を下げる。
不器用な彼女らしい、最後の最後までお固い感謝の言葉。
しかしその言葉は、生前に受けたどの言葉よりも胸に響いた――そんな気がした。
惜しむらくは頭を下げた星菜の目からは、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちていたところか。
「……君って、本当にずるいよね」
女の武器をこんなことで使うんじゃないよ、と……心の中でそうごちりながら、星園は苦笑する。
そんな彼女の前から星園は数歩離れると、18.44mの距離を空けてしゃがみ込んだ。
「ストライク! バッターアウト!」
自らの帽子を吹き飛ばしながら左腕を振り抜いた星園が、自らの投球結果を見届けた後で高らかに叫び、華奢な身体を揺らして卍のポーズを取る。
マウンドに立っている時の泉星菜が見せることのない得意げな――いわゆるどや顔を浮かべた星園が、捕手を務める小波からの返球を受け捕った。
「……空振り三振で派手なジャッジするなよおっさん」
「いやだってほら、気持ち良かったから」
勝負開始から二度目の三球三振。その結果に苦渋の表情を浮かべた鈴姫が、苛立たしげにマウンドの星園を睨む。
コースは外角の、低めに落ちていく変化球だった。一打席目と全く同じ結果に終わったことを、彼は屈辱に感じている様子だ。
――そう。泉星菜の身体を使って投球する星園は、彼を相手に二打席連続の空振り三振に仕留めたのだ。
「……これが、星園渚の魔球か」
受ける捕手の小波大也が、予想だにしないこれまでの経過に驚嘆の声を漏らす。
この勝負の中で星園が鈴姫に投じた六球は、いずれも同じ球種である。
ストレート以上に激しい腕の振りから放たれる、急激なブレーキが掛かった
生前の当時、記者から受けたインタビューに対して自らが名付けたそのボールを、星園はこう呼んだ。
「魔球ブルーウェーブ」
迫り来る大海の青い波のように、緩やかであろうと激しかろうと決して押し返されることのない大魔球。
彼自身がかつて所属していたチーム名から拝借した魔球の名は、開発以後彼の代名詞となったほどだ。
そんな彼の死後、球界から消え去った伝説の変化球を目の当たりにして、鈴姫と小波の反応は二者二様だった。
「ただのチェンジアップだろうに……」
「言ってしまえばそうだけど、これは究極系だね。比喩じゃなくて、本当に二回振れそうな球だよ」
ブルーウェーブと名付けられた星園の魔球は、ストレートの球速で迫って来たボールがバットの手前で急停止を掛けたように勢いを落としていくボールだ。チェンジアップの究極系というのは正しい表現であり、最初の数球は名捕手である小波さえ取り損ねるキレ味だった。
「二打席三振だね。あと二打席だよー? 大丈夫健ちゃん?」
「それだけあれば十分だ」
類稀なミート力を持ちながらも呆気なく二打席を終えた鈴姫に対して星園が煽るように二本指を突き出すと、彼は憮然とした表情で返す。
仮にも200勝を達成しかけた投手のボールを前にしても、全く臆していない。そんな鈴姫の反応を見た星園は、浮かべた微笑を隠すように拾い上げた帽子を締め直した。
「そうかい!」
楽しい時間はあと二打席。
左腕の見えない招き猫投法から、星園は三打席目の投球に移った。
「星園さん?」
突然しゃがみ込み、右手にはめたグラブを大きく広げた星園の姿を見て星菜は何のつもりだと首を傾げる。
そんな彼女に対して、星園は簡潔な言葉で答えた。
「投げてよ。思いっきり」
キャッチャーやってあげるからピッチャーやれ――キャッチボールをしたことのある野球少年ならば誰もが行ったことのあるであろう投球練習を、星園は促したのだ。
そんな彼の言葉に、星菜は帽子を被り直しながら小僧らしい笑みを浮かべる。
「……プロ野球選手が女子高生の球を捕り損ねたら、すっごいカッコ悪いですよ?」
「コラ、生意気言うな。君のおっそい球なんて僕でも捕れるよ!」
元プロ野球選手とは言え、星園のポジションは投手だ。成長した自分の球を捕手のように捕れるのかと挑戦的な笑みを浮かべる星菜に対して、星園は休日に無茶して張り切るお父さんのような表情を返す。
「その挑発、乗った!」
子供染みた、売り言葉に買い言葉である。115キロの壁を乗り越えた今の自分の実力を見せるように、星菜は小山雅との対戦で編み出したトルネード招き猫投法を披露した。
パシッ――と、力の無い打球が星園のグラブに突き刺さる。
三打席目の初球を叩いた鈴姫の打球が、マウンドの手前でワンバウンドして星園のグラブに収まったのである。
わかりやすいピッチャーゴロ。その結果に確信犯めいた女子高生的仕草でぴょんぴょんと喜びを表しながら、星園は鈴姫を煽りたてた。
「はい、アウトー! ほれほれどうしたー? そんなんじゃうちの娘はやれないねぇ!」
「……ムカつく」
「はは……なんか昔の星ちゃんみたい」
「だからムカつくんだよ! あの野郎ッ!」
「うわ……星ちゃんが野球部から居なくなった時みたいにキレてる……」
打ち損なった球種はまたも変化球――外角低めのブルーウェーブだった。
良いように打ち取られていく鈴姫はマウンド上でこれ見よがしに喜ぶ彼の姿を前に、新球を習得しては自身をその実験台にしてくれた昔の星菜を重ね、普段の語彙力を失うほどに闘志を燃やした。
バシンッ!――と、力強い投球が星園のグラブに突き刺さる。
思わず跳び上がり、星園はグラブを外しながらヒリヒリと痛む右手を擦った。
「いってぇ……! くぅ……っ、ス、ストレート……馬鹿みたいに威力上がったね」
「馬鹿になったからね。これが私の成長だよ。捕り損なって顔面にぶつかれば面白かったのに」
「この、鬼畜女子! 女子高生の皮を被った悪魔! つば九郎! たまべヱ!」
彼女の持つ技術と球のキレにより体感球速は140キロ以上出ているように感じるが、実際の球速は130キロ前後と言ったところであろう。
しかし、いずれにせよつい最近までたった115キロのストレートで足踏みしていたとは思えない球威がそこにあり、星菜のこれまでにはない明確な成長がそこにあった。
上体に大きな捻りを入れた投球フォームは星園渚のものではなく、彼女が彼女自身の手で編み出したものだ。
そこに星園は、彼女が自分の手から離れて羽ばたいていった事実を改めて再確信した。
彼女は、女子選手の壁を遥かに越えてしまった。
そして一気に、高校野球のレベルさえ飛び越えようとしている。
なればこそ、星園は一選手として期待を抱かざるを得なかった。
「じゃあ次、変化球いってみようか! 球種は……チェンジアップで!」
彼女――泉星菜はいつか、星園渚さえ超えてくれると。
「……うん」
ボールの縫い目に二本の指を掛けたストレートから鷲掴みの握りに変えて、星菜はワインドアップに大きく振りかぶる。
上体を大きく回転させながら右足を振り下ろし、渾身の力で左腕を振り下ろした。
――甲高い、透き通った金属音が朝日の空に響く。
そして舞い上がったのは音だけではなく、振り抜かれたバットによって弾き飛ばされた白球も同じだった。
迸るような痛烈な打球は投げた星園の頭上を瞬く間に抜けていき、インフィールドゾーンを越えた先で勢い良く落下していく。
センター前ヒット。都合よく前進守備でも敷いていなければどんな名手でも捕れない場所に、打球は着弾した。
「ナイスバッティング」
その結果を振り向いて見届けた星園が、惜しみない賞賛の言葉を打者に浴びせる。
しかし当の打者――左打席に立つ鈴姫健太郎は、その結果に不服そうな表情だった。
「……なんで、ストレートを使わなかった?」
数拍の間を置いて鈴姫の口から放たれたのは、この勝負における徹底した星園の配球に対してのものだった。
彼がこの四打席で投じた球種は、全てブルーウェーブ。タイミングを外し緩急をつける為のチェンジアップの究極系を扱いながら、ストレート系の速いボールを一切使わなかったのだ。
……流石に、あからさま過ぎただろうか。鈴姫は自分が手加減されたと感じている様子だが、星園の方としてはそんなつもりでこの配球にしたわけではない。
星園はこの四打席勝負において間違いなく自身の持てる全てを出し切ったつもりであり、ブルーウェーブ一辺倒だったのにも相応の理由があるのだ。
「泉星菜のストレートは、泉星菜だけの武器だからさ」
その理由を、星園はセンター方向の芝生で転々としているボールを眺めながら言い放った。
「僕の武器は君に投げたブルーウェーブだけ……この身体はあの子が何度も挫けながら試行錯誤を重ねて、それでも前に前に進みながら真剣に鍛え上げてきたものだ」
星園渚が星園渚として勝負をするには、始めからこうするしかなかったのだ。
彼が今扱っている身体は泉星菜のものであり、頭の先から足の指先まで彼女のものだ。
そんな彼女の身体を使ったところで、ストレートもカーブも彼女が編み出した泉星菜の武器に過ぎない。
星園渚として彼女の力に頼らない形で勝負をするには、星園渚唯一無二の武器であるブルーウェーブを投じる他なかったのである。
「あの子の身体であの子の武器を使えるのは……使って良いのは、泉星菜だけだ。僕じゃない」
「あんた……」
それが星園渚の、せめてもの矜持だった。
故にそれが理由で勝負に負けたとしても、彼には何の悔いも無いし相手からの批難を受ける気も無かった。
投手とは、それだけふてぶてしくあるものだ。
しかしだからと言って、星園は手加減どころか負ける気さえ持ち合わせていなかった。
「だけど……ああも綺麗に打たれるとはね。君達の飛躍には本当に、驚かされるばかりだよ」
「……俺は、もっと上手くなる。星菜や小波先輩よりも……あんたよりも」
「その意気だ」
まるでリリーフに後を託すようにマウンドを下りた星園の目が、左打席に立つ鈴姫の目と交錯する。強い意志の見える少年の瞳に、星園は頬を緩める。
やりたかったことは、これで全て終わった。
「だけど、君には一つ言っておこうか」
最後にたった一つだけ、彼には死人らしく遺言を残しておくことにした。
それは本当に、どのような形でも良いと星園渚が心から願った彼らへの想いだった。
「幸せになれよ、二人で」
鈴姫の元へ歩み寄った星園が、拳を突き出してコツンと彼の胸に押し当てる。
幸せにするのではない。彼女はもう、彼に庇護される弱い子ではないのだから。しかし、誰の助けが要らないほど強い子でもない。
だから、共に幸せに
「……当たり前だ」
星園渚最後の遺言を聞き届けた鈴姫は、泉星菜を抱き留めながら確かに受け取った。
――見事なものだった。
ストレートと同じ――いや、それ以上に見える速球が、ベース手前の位置で急停止するように急激に速度を落とし、星園のグラブの下を抜けていく。
最後のキャッチボールが後逸で終わるとは、何とも自分らしい結果だ。
だが、泉星菜は成し遂げたのだ。
捕手が取り損ねるほどのブレーキが掛かった
「完成、おめでとう。これで君は、晴れて僕の後継者になったわけだ」
師匠らしいことはあまりしてやれなかったが、それでも彼女のことは最初で最後の弟子だと思いたい。
やはり彼女は、自分を超える才能の持ち主だ。ボールを捕り損ねたことをこんなにも嬉しいと感じたのは、生前を含めても初めてのことだった。
「星園さん……私は……っ」
満足そうに笑んだ星園の言葉に何を感じたのであろうか、涙ぐんだ顔で星菜はその手を差し伸ばしてくる。
逝くな――と、そう言いたい様子は、目に見えてわかった。
そんな彼女に対して、星園は伸ばされた手を受け取らなかった。
しかし彼女の手に対して、星園はたった一つ、慣れ親しんだ白球を手渡した。
「……!」
「最高に幸せな人生だった。君もいつか、そう言えるようになれ」
彼女のことを、娘のように思っていた。
生意気な弟子のようにも思っていた。
だからこそ、星園は彼女と共には居られない。
泉星菜の人生が、待っているのだから。
「元気でね、星菜」
「……さようなら、師匠」
片方は笑顔を。
もう片方は、涙ぐんだ笑顔を。
それが最後の対面となり、一人の少女に宿った魂の一つは――途絶えた。
星菜が目を開いた時、最初に視界に映ったのは心配そうにこちらの顔を覗き込む親友の表情だった。
「星菜! ……大丈夫か?」
――約束の勝負はもう、終わったのだろう。
今の星菜は見覚えのあるグラウンドで彼の腕に支えられながら立っており、その横には勝負の立会人になってくれたのであろう小波大也の姿があった。
彼らには、本当に世話になった。どちらも大切な幼馴染で、感謝してもし尽くせない恩人――。
「……かえった、よ……」
震える唇を開けて初めて出てきた言葉は、「彼」の望みが無事に叶ったという報告だった。
そんな星菜の言葉に、鈴姫と小波が黙祷を捧げるように顔を伏せる。
「そうか……」
還った……途絶えたのだ。
今の星菜の頭には、甲子園に出場しプロ野球選手となり、名球会入り直前で病死した男が持つ記憶は――もう、無い。
「星の大魔王」と呼ばれた名投手は、この世界から文字通りに消え去ったのである。
「あの人はずっと、私を見守ってくれた……私の無茶やわがままを何度でも聞いてくれて、不貞腐れていた私のことだって見捨てず、受け入れ続けてくれた……」
だが――星菜が持つ泉星菜自身の記憶にある、彼との思い出は消えていなかった。
だから、膨れる。
膨れ上がってしまう。
大切な人を永遠に失ったのだという――悲しみが。
「……ごめん、ケンちゃん。ちょっと胸貸して」
「っ……星菜……」
――今だけは、許してほしい。
何も考えたくない。時間さえ忘れて、星菜は生まれて初めて恋を認めた親友の胸で声を上げ、泣いた。