これからどうなるんだろう、とエミリアはふと思った。
それは先ほどから頭の中で絶えず繰り返されていた問いだ。ただ、どれだけ自問しても、確信に足るほどの答えは見つけられずにいた。単純に推論を広げるだけの経験と判断材料が不足しているという事もあるが、それ以上に影響しているものがある。
少し神経を澄ませれば判る、張り詰めた空気。初めて着る衣装で、慣れていないウェディングドレスとやらの違和感とは僅かに違う。露出した腕や背中のみならず全身に感じるそれは緊張感だ。
未だに呑み込めていない状況、確かめなければいけない不安要素が立ち込める事態。出来ることなら今すぐにこの式場を出て皆と合流したいところだが、そうもいかない。今は、目の前の問題を解決するのが一番だ。
この一言一言が、これからの推移に大きな影響を及ぼす。けれど考えている暇はない。ならば、自分の気持ちに正直に、思ったままを語るべきだ。
男の前で喋るな、不満を口にするなと言われた。
自分の為を想って注意してくれた彼女たちに、心の中で礼を告げる。そして、一緒に謝罪も。
せっかくの配慮を破ってしまって申し訳ない。それでも、こればかりは言わずにはいられなかったから。
どうにかしてこの状況を打ち破る。彼女たちのことも助ける。その動機さえあれば、十分だった。
「私は、あなたのものにはならないわ」
眦を決し、言い放った。
「──っ! ああそうかい! 僕も、君みたいな勝手な浮気女を妻にするつもりなんてなくなったよ! せいせいするなぁ!!」
吹っ切れたような怒鳴り声。感情に引っ張られて真っ赤に茹で上がる男の顔。肌に纏わりついていた緊張感が、ついに爆発した。
その反応も、浮気女と罵られる謂れも、エミリアには理解出来ていない。ただ相対した男とは根の部分がずれている、故に相容れないと。
レグルス・コルニアスは自分の敵だと、知っていた。
「君なんかもういい! 目障りだ! 僕の期待を裏切ったばかりか、男としての純粋な気持ちまで踏みにじった売女がぁ! 媚さえ売れば、男が自分の言いなりにでもなると思ったか? そういうのさあ、本当にわからない。分からないんだよ。どうして人の心を、そんな軽い思いで弄ぶことが出来るんだろう? 善良で妻思いの僕には、到底、理解できない下劣な──」
「──ぁ」
激昂してそう喚き散らしながら、詰め寄るレグルスにエミリアは小さく吐息をこぼした。いや、レグルスに、ではない。彼女の目線が向かう先、見えるのは変哲のない扉だ。
自分の言葉が遮られた。意思が無視された。それもただの扉に。気付き、レグルスの怒りはいよいよ限界に達する。
しかし、それが発されるよりエミリアの感じた異変の方が、僅かに早かった。
コン、コン。物を軽く叩く音が、広い部屋に二、三度反響する。腕を振り上げたレグルスも音を聞き取り、動きを止めた。
音の発生源は考えるまでもない。エミリアの見つめる、あの扉だ。
そして扉を叩く音、それはノックに他ならない。来客の知らせだ。だがレグルスには心当たりがあるまい。
「────」
少しの間流れた沈黙をも、無遠慮なノックの音が破る。コンコン。コンコン。レグルス側の対応を催促しながらも、急かすわけでもない絶妙な間隙での反復。それでも、気の短い相手によっては割と不快にさせかねない態度だ。
まさに、この男がそうだった。
「誰だ、そこにいるのは! 僕の神聖な結婚式に、空気も読めない客を招待した覚えなんかないぞ! ああ、誰も彼も、みんな僕を邪魔する。まるで息を合わせたように馬鹿にしやがってぇ……! 許さない。許せない。僕は本気だ。やるといったらやる。いくら寛大で満たされている僕でも、こんなに、嫌というほど心の平穏を侵されたことは無かった。君たちがはじめてだよ、ここまで怒らせたのは。せめてもの栄光に思うがいい。僕の手で死ねるんだ。そうだろ? 間抜け面さらして、呆気ない死に様を見せてくれよ。そうじゃないと気が収まらない。二回殺すまでは望まない、僕のちっぽけな欲望と、親切心に感謝するんだな。ああ、考えるほど忌々しい下郎共が。僕の事をコケにする売女も誰だか分からないそこのお前も、その無礼を悔いて死んでしまえ!!」
案の定、怒髪天を衝いたレグルスは散々言い散らし、扉の方向に向かって腕を振るう。仕草だけを見るならば何でもない動作だ。だが現実は違う。彼の意思が反映されたかのようにふと空気が震え、音も形もないままに何かが式場を駆け抜けた。
「危ない!!」
数分前にも目にしたその脅威を思い出し、ノックをした誰かの身を案じてエミリアが叫ぶ。あれは人を殺すものだ。当たればただでは済まない。しかし残念ながら、反応速度が圧倒的に遅かった。危険を察知して踏み出した頃には既に、脆い扉は粉々に砕け散っている。もっとも、レグルスの攻撃を前にして強度など全く意味を成さないのだが、エミリアには知るよしもない。
入り口付近が盛大に弾け飛び、土埃と破片が舞った。抉ったようにも壊したようにも聞こえた破砕音は飾りじゃない。もしさっきの誰かがノックをした姿勢のまま扉の前にいたのなら、明らかに死は免れないであろう、容赦なき一撃。実際そこに人がいたのかどうか、如何はすぐに判明した。
「そんな……」
呟くエミリアの凍りついた表情が、その凄惨さを語っている。
まず見えるのは血痕。人間一人の量とは思えないおびただしさを、一面に撒き散らした深紅。綺麗に二分された骨と肉、そして今も止めどなく亡骸を浸している血液に混じる物体はおそらく内臓だ。輪郭もまともに残っていないから脳漿かもしれない。風もないのに、不意に死臭が鼻の奥を貫く感覚にエミリアは眉をしかめた。
しかし何よりエミリアの目を引くのは、今や肉塊でしかない死体を包んでいたであろう服装だ。断面から色鮮やかな中身がボトリとこぼれ落ちるなか、外側には見覚えのある白黒ベースの上着とズボン。ボロボロに破れた包帯。手元には鞭らしき細長い物体。
これらの特徴に該当する存在を、エミリアは一人だけ知っている。
「うそ……そんな、わけ…………が」
大きく開いた瞳孔と口から、発せられる動揺。驚愕。次に芽生えるは絶望。
全身がわなわなと震動し、詰まった息に言葉は途切れる。思わず座り込み、手で顔を覆って、感情を吐き出すエミリア。その目は半分、闇に濁っていた。
「スバル…………? なんで、なんでこんな、事に……」
「まったく、あれこそ因果応報、自業自得ってやつだよね。うん。僕の邪魔をして無事でいられると思ったのかな? 馬鹿にも程があるよね。でも世の中にはそういう、救いようもなくて、王たる僕が寛大に慈悲を与えてやらなきゃ生きられない愚図がいるもんなんだよ。そういう奴らに限って、自分がどれだけ慈悲をかけられているのかにも気付けない。僕がわざわざ気にかけて、配慮して、時間を割ってやってるというのに。ほとほと呆れちゃうよ。なにも知らずに図に乗って僕に、そう、あろうことか王である僕にだ! 下賤な民なんかが、完璧で無欲な僕に歯向かうなんて、それこそ愚の骨頂だ。僕でさえ今のこの生活に満足しているというのに、どうしてそう自分勝手になれるのか、不思議でならないよ。……ああ、それとも君には、図星で息苦しい言葉だったかな?」
独りペチャクチャと自分を語るレグルスに、答える声は無い。数十人いる彼の嫁らも、言葉を発する機会を失っているようだ。困惑と恐怖のみがひっそりと漂う。
「あのさぁ。さっきから何してるわけ? 僕の話、聞いてた? 聞いてないよね? 僕がいま喋ってたじゃん。なのに、何? スバルって言ったっけ? あそこに汚物撒き散らして死んでる彼のことかい? 君さあ、この期に及んでまだあの男の名前を呼ぶって、人としてどうなのかなぁ。うん? 君が男を道具としか思ってない卑しい女だとは知ってるさ。最初から、僕をからかうつもりだったってこともね。知ってるとも。だからさ、まずあの男を処理して僕の力を思い知らせたわけじゃん。君がまだ生きてるのは僕のおかげなんだ。命の恩人。僕があとほんの少しでも短慮で気が早い人間だったら、君は既にぐちゃぐちゃの肉片になってただろうね。そこらへん、分かってるよね? 分かってないなら、君は、どうしようもないアバズレだ」
「…………っ」
「まただ。人の話を聞かない。聞こうともしない。別に僕は、君の全てを無条件で否定するつもりはないよ。嫌な人の言葉は聞きたくない、そうだね、その通りだ。それには同意するよ。でもさ、嫌な相手でもさぁ、せめて聞いてる姿勢ぐらいは取るもんなんじゃないの、普通。間違ってるかい? 間違ってないよね。ほら、今もそうだ。弱ったらしい女らしく泣きじゃくるばかりで目も合わせない。姿勢がなってない。君みたいなアバズレとは会話が成り立たないや。いくら僕が思いやりのあって人情深い性格とはいえ、この仕打ちはあんまりじゃないか。人の関心を無視するなんてことは、それは、意思の凌辱だ。権利の侵害だ。話す権利とまでは言わないけど、最低限の礼儀ってものがあるだろ。君はそれもしない。だんまり。そうやって、自分の態度と立場は棚に上げて、そのくせ相手には自分の身勝手な考えを押し付けるんだ。僕が一番嫌いな輩のタイプなんだよね」論点の定まらない話ばかりを垂れ流し、それでも反応を得られないレグルスはふと口を閉じてエミリアを見下ろす。「うんざりだ。鬱陶しい。お前みたいなアバズレにかまってやる時間も、労力も惜しいんだ。やっぱり死ね。今すぐにだ。一度でもお前を欠番の席に座らせようとした、過去の僕はどうかしている。もう騙されないぞ。顔が良いだけの売女が。一生悔やんでも悔やみきれないほどの過ちを、その身で味わえ」
自己完結で支離滅裂。語るだけ語って一切を放棄したのか、彼はおもむろに腕を掲げる。いつからか動かなくなったエミリアの真上に標準を合わせ、必殺の一撃を繰り出す瞬間。
「私は、あなたになんか殺されてやらないわ」
「そこまでにして、一度心を落ち着かせたらどうです? レグルス司教」
二つの、女性の声音が同時に響いた。片方はエミリアに違いないが、もう片方はレグルスの嫁ではない。第三者、新たな人物だ。
咄嗟に首を扉の方へと向けるレグルス、しかし怪訝な表情は変わらない。すぐに声の方向が逆だったと気付き、振り返った時には不審から困惑に変わっていた。
エミリアとレグルスのあいだ、どこからともなく出現した少女が両手を肩の高さに掲げて目を細める。
「あなたの怒り、言い分、全て理解します。腹立たしかったでしょう、悔しかったでしょう。ですが、そう判断を性急に下してはなりませんよ。安静を取り戻せば、レグルス司教も分かっていただけると思っています」
激情に駆られていたレグルス、絶望を強い意志に変えて顔を上げたエミリア、その両方を黙らせる魔性の声色だ。纏ったのは簡易な白衣に、触れる艶々しい白金の髪。唐突にも程があるはずの乱入にも関わらず、そこににいると──いたと認知すれば、ひどく自然に馴染んでしまう堂々たる佇まい。
不自然を不自然と思わせない、文字通り魔の宿った性質。恐らく故意ではない。存在そのものが矛盾を抱えながらも、それこそが自然体。かの偉容は、取りも直さず筆舌に尽くし難い天衣無縫の体現だ。
どれだけ大層で簡勁な表現を並べても過分に到らないばかりか、なおも描破しきれない無際限をその身に内包した女性。
ただしその異質感も威圧感も、通じる相手と通じない相手がいる。
「何かと思えば──」戸惑いを見せたのも一瞬、すぐに気を取り戻してレグルスは肩をすくめた。「──どうしてパンドラ様がこんな所に? いま僕は忙しいんだ。この売女を懲らしめてやらなきゃならない。見れば分かるでしょう? 分かったなら、下がってろよ。これ以上僕の権利を無視しようっていうのなら、いくらパンドラ様でも、容赦しないぞ……!」
「あら、どうやらまだ頭が熱くなっている様子で。いけませんよ。レグルス司教に、私はなにも無理強いをしているのではありません。ここにいる彼女の価値を……」
「容赦しないと言ったぞ、女」
良くも悪くも自分の感情に正直な男は、状況や立場に意を介さず再度腕を振り抜く。まさに手を伸ばせば届くような至近距離、動作の完了と攻撃の影響がほぼ同時に訪れる。
「きゃあぁっ!」
眼前で爆発が起きたかのように吹き飛ばされたエミリアの衝撃は錯覚ではない。式場の壇が、パンドラ諸とも消し飛んだのだ。鮮血までもが華々しく迸る傍ら、直線上の一切合切を不可視の刃が穿つ。勢いが衰える事もなく、空気や衝突の抵抗などお構い無しに、レグルスの憤怒を湛えて吹き荒ぶ暴威。範囲内にいた何人かの嫁も避けきれずに呑まれる。
白衣の少女の体が木っ端微塵に切り刻まれる光景を、エミリアは確かに見た。
正面からの敵対をかたく覚悟してもなお臓腑を震わせる、圧倒的な惨状を目にしたはずだった。
動きを制限するドレスを破り、空中で身を翻して着地した彼女はゆえに瞠目する。
「何度やっても何年経っても、案外変わらないものですね。初志貫徹こそレグルス司教の長点でもありますが、今回は少しばかり、抑えていただきますよう」
「……ぇ?」
エミリアの背後から聞こえた声に、応じることの出来る者はいない。まさに見てはならないものを見るような目で、この場の全員が、本来ならば死者であるはずの彼女に視線を送る。ホロゥと勘違いする余裕すら彼らには無かった。
誰もが死を確信して疑わなかった現実を、不条理に終わりを迎えるはずだった運命を、パンドラは飄々と破ってみせたのだ。当のレグルスさえ顔を歪め、舌打ちをこぼす。
「這い上がるなよ、小賢しいクズ共が! よってたかって僕を愚弄しやがってぇ……何回僕を、王を、コケにしたら気が済むんだよ! いい加減にしろよ!? お前らなんか、個としての完成形であるこのレグルス・コルニアスの足下にも及ばない──」
どしどしと床を踏み締めながら迫るレグルス。何か一つに考えが纏まりにくい上に、そうと決めたら即、他の部分が甘くなる男だ。
「おい、足元注意して歩いた方がいいぞ」
謎の声に向き直る暇もなく足が虚空を泳ぎ、力を入れていた分だけ体勢が崩れる。先ほど自分で行った攻撃の余波で床の一部が壊れていたのだ。しかしレグルスは、この期に及んで驚きや戸惑いよりも怒りが先行し、とりあえず悪態をつこうとして──二の句が継げない。
弧を描いて旋回した靴底が、狙い違わずレグルスの顔面を直撃した。
「が──ぅ、ぁ!?」
悲鳴も密着する靴底に埋もれて届かない。呻き声を残しながら、受け身も取れずにたたらを踏む。そのまま段差に躓き、背中から転倒。思わず目を塞ぎたくなるような痛々しい流れだった。
「くっ、そがぁぁぁ!! おい、百八十四番! どこだ! どこにいる!」
「────………………ぇ? あ、はい! ひゃ、百八十四番は、先ほどの旦那様の腕で、その……」
「もっとはっきり言えよ、人としての礼儀だろ! あれだけ言いつけたのに、これっぽっちも改善してないじゃないか。お前も百八十四番も、後で覚悟してろよ。……それはそうと、他の奴らは何してるんだ! さっさと僕を助けろよ! 嫁が夫を助けるのは当たり前だろ!? 常識だろぉ!? そんなことも出来ないなんてどうなんだよ、なあ? まさかお前らも僕を馬鹿にするのか? どいつもこいつも、突っ立ってばかりで使えない女だなぁ!」
何が起きたのか考えるのに数秒、レグルスの嫁は結局分からないまま返答を優先したが、彼の八つ当たりの餌食となるだけだった。誰一人として状況を呑み込めず、渦中のレグルスを助けるなど頭の隅にも無かった嫁たちがびくりと肩を震わせる。
彼女らの態度、視線の先、発言中に空いた僅かな間──不自然な点をしっかり観察していれば異変が見えたはずだが、自分の事しか頭にないレグルスが気付かないのは論を俟たない。
「なあ、お前さ。どれだけ馬鹿正直に間抜け面晒せば気が済むんだよ。さすがに百年の恋も駄々下がりっていうか、そんなの元々無かったっていうか、醜態で俺を引かせるなんて相当なもんだぞ。自分で言うのもなんだけど」
「……今、僕を、僕のことを、なんて、」
「いや、そういうのもう良いから。いい加減気づけよ。処女厨のイカれた鈍感キャラとか、マジで誰得だよって話」先ほど蹴りを入れた男は、つまらなそうに言いながらレグルスを指さす。「その服、汚れてんぞ」
「は?」
恐らく、今の今まで自分が誰に蹴られたのかも分かっていなかったであろうレグルスは、ようやく相手を認識し、散々な言われように目を剥いた。
せめてもの弁解の余地があるとすれば、この状況はレグルスにとって余りにも予想外の展開だったのだ。結婚式は断られ、邪魔されて、壊された。挙げ句には意味不明の攻撃まで受けて、まるで夢にでもいるような気分だろう。
夢見心地。無論それは悪夢の方だが、ともかく彼は、頭に血が上ったこともあって意識が曖昧だった。普段から他を見下すしか能が無かったレグルス・コルニアスは突然乱入した男の傲慢さに煽られ、ようやっと目を覚ましたのだ。
「なぁ──っ!?」
明瞭になった視界。遅すぎる自覚に驚愕の声を上げるのも無理はない。彼はこれまで、純白の髪が土に汚れたことも、清潔だった服が大きく破れたことも、前歯が血にまみれて抜けそうなことも、その一切を経験してこなかったのだから。少なくとも『強欲』と呼ばれるようになってからは、彼に完璧以外有り得なかった。完全で完璧で完成された存在であるがゆえに、身体が直接的な被害を被ることは無かった。
鼻の骨が潰れて捻れ、頬が抉られた痛みなどなおさらのこと。よく、怪我をしても本人が気付くまでは痛みも感じない場合があるが、まさに彼がそうだった。
良くも悪くも、夢はいつか必ず覚めるものだ。
ご愁傷様。
「あぁ、ああぁぁぁぁあああ──アアアアァっ、あ、ォあ、ぁ、ぁ、ぉ、ぉおぉ、ぉおおおおああああああ!?」
レグルスは壊れた顔面から粘液と血液を一緒くたに垂れ流しながら、遅れて貫いた激痛にのたうち回る。左に右に体を捩らせ、物にぶつかっては歯が数本折れ散っている。
それでも根は折れないのがレグルスだ。自分の身に起きた異常をどうにかするのでなく、ただひたすらに目の前の敵を睨み付ける。
「もう、許へないっ……売女もパゥドラだまも、お前もだ! グルがったんだろ! 僕には分かるぞ、ふらじ者共め……さ、さいそから僕を、こうやって侮辱するつもりだったんだ! 全員、一人残らぶ、ぶっ殺してやる! 裏切った僕の嫁たちも同じがよ! あれだけ恩恵を施してやった、って、のに、恩知らぐめ。……仇で返ずなんて嫁失格だよ、もうようじゃしないぞ! ああ、ぢなみに、僕に歯向かったことを後悔ぎてももう手遅れだからな。夫に迷惑ばかりかける嫁が、側にいていいわけ無いじゃないか。当然の、仕打ちだ。むしろ一思いにごろじてやるんだからぁ、お、王としての寛大な器に感謝すべきだろ! ほら、そうと分がっだら、ぜいいんひざまずいてこうべを垂れろ!! 不敬を泣いてわびて、惨めにおどなしく、僕の手で殺ざれろよ!!」
顔が潰れても、その口だけは達者に回る。方向性さえ真逆だったのなら尊敬されるに違いない執念を以て、血を吐くレグルス。
顎を滴り落ちる鮮血を見てその表情が更に険しさを増す。憤怒か流血か見分けのつかない、真っ赤な顔で恨み言を並べる凄惨な姿は、生憎と滑舌の悪さのせいで滑稽に映るだけだ。
「声震えてやんの。権利だの礼儀だの、馬鹿の一つ覚えみたいにピーチクパーチク騒ぐんじゃねぇよ。カッコいい単語覚えたての中二かっての」
「お前ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「大罪司教って、チート能力持ってるくせして馬鹿に感情的だよな」
普通ならば誰もが発言するのを憚るような言葉を男は直球でぶん投げ、迎え撃つ。案の定、堪忍袋の緒が切れたレグルスは叫び狂い、真っ直ぐに目標を定めた。足下に転がった破片を一掴みしてよろよろと立ち上がる。
何気なく、男が己の後ろを確認した時、思わず視線がぶつかった。
「ぅ……す、スバル…………?」
エミリアだ。
度重なる横槍で蚊帳の外に置かれていたエミリアは、レグルスの嫁ら同様その場から動けずにいた。数知れない感情滂沱として過らせ、涙目になったその紫紺の瞳を、瞬きすら惜しいとばかりに男に向ける。目一杯に見詰める彼女に、男は、スバルは口端を上げた。
「今度こそ、君を守ってみせる。絶対だ」
「わ、私はいつもスバルに……」言いさしてエミリアは急に顔色を変えた。「ううん、違うの。そうじゃなくて、スバル、うしろ──」
「好きだよ、エミリア」
その告白を最後に、スバルの身体が弾け飛ぶ。
笑顔が切り裂かれ、引き千切られた皮膚と血管が空に散る。一瞬にして消失した輪郭、人としての形が溶けるように爆ぜた。皮を肉を血を骨を命を、満遍なく撒き散らしながら吹き飛び、壁に激突し、ずるりと落ちて転がる。篠突く赤い雨を全身に浴びたエミリアは、伸ばしかけた右腕が半ばからもがれた事に気付いた素振りもなく、愕然と目を見張っている。
ドバドバと溢れ出す新鮮な血液、銀髪を濡らすそれが自分のものかスバルのものかも最早分からない。流す紅涙が絶望の表れか染められたのかも分からない。
ただ、目の前のそれは。
既視感のある光景、だった。
「いや……」
既視感があったはずの、光景だ。しかし、どうも引っ掛かる。
「どうかされましたか? なにか、『見間違えた』ので?」
振り返った背後、首を傾げるパンドラに、散らかった生命の残骸に、壊れた扉。一番最初に殺されてしまったあの死体が、どこにも見当たらない。深く染み付いていた血痕すらも消え去った。巻き込まれた誰かの死だけが、跡形もなく、消された。
訳も分からず姿勢を正すと、今さっきスバルに破片を投げつけたレグルスが血濡れの口で「ふぅ」と一息吐き、直後には叫んでいた。
「ははっ、だまあみろ! 一人気取ってるからざぅなるんだ馬鹿め。僕に楯づいて、生きで帰れると思うなよぉ! ああ清々しい! そうだ、そうだよ! 愚かしくも僕の前で、よ、よそ見じやがっで。愚か者の末路はこうじゃなきゃ! 僕の、僕の手で全員死ぬんだよ! 反ぎゃぐじゃには、ごぶ、お似合いの結果じゃないがっ!!」
相変わらず歯切れの悪い口調で喜悦の声を上げるレグルス。喋る度に吐血して喉を詰まらせながらも、欲求が苦痛を上回るのかひどく愉しげだ。
そういった感情に疎いエミリアでも、それが彼にとって異常だと十分に理解出来る狂乱具合。
現在、レグルスが感付いていない事は二つ。一つはエミリアが疑問に思った死体の消失で、一つは彼の嫁たちの減少だ。
間違い探しにさらさら興味を持たないレグルスは、己の民たる嫁が少しずつ数を減らしていっていることなど、到底知り得ないだろう。
そしてこの瞬間、謎はもう一つ追加される。
「ちっ……パンドラ、まだかよ」
「申し訳ありません、ハズレを引いてしまいました。ですが、あと少しで完了です。しばしお待ちを」
「……頼んだぞ」
「え──?」
服の裾を払いながら愚痴をこぼすスバルに、パンドラが微笑んだ。──エミリアの隣で、だ。
これにはレグルスも驚いたのか、見るに堪えない表情が笑ったままに固まった。
「なんで、なんでまだ生ぎでんだよ! 僕のごう撃喰らって、ボロ雑巾みだいにぶき飛んだはずだろ! ふ、ふざけるな、ふがけるなぁ! 誰が生きてでいいなんで言った!? 今ずぐ死ねよぉ……!」
「はあ? 何言ってんだお前。処女に拘る上に歯茎ガタガタでボケまで来たとか、ただのエロジジイじゃねぇか。ここは老人ホームでもパチンコ屋でもねぇから、さっさと帰って寝ろよ。帰る家が無いなら死ね」
言葉に殺意の滲み出る声が聞こえたのはレグルスの背後。
「死んで、消えて、いなくなって、せめて遺族の為の肥やしにでもなれ。それがお前のちっぽけな存在価値だ」
「残念ながら、レグルス司教の家族は彼自身が全員殺してしまったので、もういませんよ」
「そうなのか。──空っぽだな、お前」
「────っ」
振り返ったレグルスが見たのは、先ほどまで死体を晒していた男が突きだした拳。腰もまもとに入っていない、素人感丸出しの一撃。
それでも、既にぐちゃぐちゃの顔に追撃を加えるのはそれこそ傷口に塩を塗るようなものだ。ましてや慢心して強者然としていただけのレグルスには十分有効打になりうる。
右ストレートを派手に喰らい、残り少ない歯が更に欠ける。もうまともに食事は出来ないだろうと思う反面、スバルはそもそも彼を生かしておく理由など無い事を思い出す。しかし、一つ問題があった。
まことに情けない話だが、スバルの力ではレグルス一人を殺すにしてもかなりの労力が要る。単に首を絞めたり心臓を圧迫するという選択肢もあるにはある。ただ、好きな女の前でそんな見苦しいやり方は出来ない。今のために未来を捨てるわけにはいかないのだ。
「……エミリア。こいつの体、凍らせられるか? その、気が咎めるのは分かるけど、生け捕りにしてもしもの事があったら……みたいな」
「えっと……ごめん、ちょっと、待って」
「さっきのこととか、パンドラについても説明する。後で全部話すから、今はこいつを倒すことに協力してほしいんだ。こいつは危ない。生かしてちゃ駄目なんだよ」
「スバル……」
急変する状況に追いつけていないエミリアは、やけに冷静で沈着したスバルに返答を躊躇う。当然といえば当然だった。たった十分にも満たない一幕だったが、エミリアの知る常識を覆すには十二分の役割を果たしたのだ。
額に汗が滲み出るのを感じながら、エミリアは己の右腕を見下ろす。何事も無かったかのように元通りになっていた。いや、元通りになったのではなく、最初から右腕には何もなかった。それはそう、ただの勘違いだ。広い式場に、エミリアを含む四人しか姿が見えない事もそう。
脳裏にこびりついた違和感を払拭しきれないまま、スバルを見返す。すこしシワがついただけの服装と、傷一つない肌。
おかしいと思ったのは、それら以外にもある。
「……本当に、それだけ?」
「え?」
「あの時のスバル、なんだか苦しそうだった。見たことのない顔だったの。私を守る為に、レグルスが敵だからそうしたってことは分かってる。でも、それだけじゃない気がした。何も手伝えず助けられた私に言えたことじゃないかも知れないけど……怖かった」若干俯いて、視線を避けてしまったことに気付いたエミリアはすぐに顔を上げる。「変よね。スバルはスバルなのに。私、混乱しすぎてちょっと頭がぼうっと──」
ゴン、と固いものを叩く音に、エミリアの言葉が遮られた。
パラパラと欠け落ちる破片。レグルスが暴れて脆くなっていた壁の、スバルが殴りつけた部分の塗装が剥がれる。
「あ……悪い。何でもないよ、エミリアたん。ちょっと、何言ってるのかよく分かんなくて……つい、無意識に」
「──すば」
「大丈夫だって! いやマジで。ほら、別に手怪我してないし、元気一杯フルパワーだし、それに、」
「もう止めて、スバル!」
限界だった。
もう見てられない。彼はまた一人で沢山のことを背負って、両手から溢れそうなものを抱えて、一人で解決しようとしている。彼の、尊くも悪い癖だ。しかもその沢山の中にエミリアがいるわけで、レグルスに捕まったからこそ彼の負担を増やしてしまったのだ。
彼が孤独に責任を問われる謂れなんてありやしない。何も間違っていないのに。よく笑ってよく泣いて、人一倍頑張ろうとする普通の男の子なのに。なぜいつも、エミリアの知らない所でスバルが苦しまなければならない?
苦しいのなら共有して欲しい。楽しいことも悲しいことも、全部一緒に味わって、分け合いたい。大丈夫だと、傍にいると伝えてあげたい。自分で迷惑をかけておいて身勝手かもしれないけれど、それがエミリアの本心だ。彼の救いになりたい。心の支えになってあげたい。
何よりもまず、自分のことを大切にして。それから二人で、皆で立ち向かえばいい。
抑えきれない胸の高鳴りと衝動に駆られてエミリアはスバルの下へと走り出す。
「やっぱりスバル、どこかおかしいわ。また、一人で無理して」
そして、途切れた。
「あ?」
あと数歩、本当に一メートル足らずの距離。駆け寄るエミリアの首が、不意に上を向いた。スバルも釣られて頭上を見上げる。何も無い。ただ天井が見えるだけだ。
視線を戻すと、エミリアは未だに首を直角に傾けていた。どうしたのかと近付こうとして、その首筋に極細の線がすっと、引かれているのを発見した。怪訝に思い、恐る恐る近寄ってみる。少しずつ見えてくる一線。赤く、彼女の細い首を横断するように引かれていた。そっと手をかざす。
それからの出来事は、スバルにとってまるで夢の如く曖昧で儚い記憶として残っている。
白皙の喉に触れた途端、首が可働域を超えて後ろに反れた。しかし骨の折れる音も呻き声も無いままに、ガクリと支えを失って崩れ落ちる。
すると赤線が引っ張られるようにして、縦に裂けた。視界を塗り潰すほどの血が噴出し、勢い良く迸った。か細い身体が一切の抵抗もなく頽れた。そしたらまあ大変、あっという間に死体の完成だ。
頭と身体が文字通り首の皮一枚で繋がっており、純白だったウェディングドレスは鮮血に濡れて華やかに紅色を彩っている。鮮烈で凄惨な死の色香に傾国の美貌がより際立ち、いっそ雅趣に富んだ美しさを醸し出す。これ以上ない嬋娟と妖艶を湛えた肢体、それは皮肉にも女性としての究極体だ。死んでこそ輝くものが、エミリアにはあったのだろう。
対してスバルは一言も発さなかった。瞬きも言葉も忘れた様子で、真っ赤に染め上げられた花嫁姿のエミリアの上体を抱える。止めどなく溢れる血流、せめて溺れないようにしてやるのが精一杯だ。
ビクン、ビクンと微かに痙攣して震える彼女の手を掴む。握り返す力は勿論のこと、そのような意思も残っていない。やがて身体中の血液を外に出したのか、肌は蒼白を通り越した無色に変わり、空になった心臓のため胸部がへこむ。
それら全ての一部始終を、ナツキ・スバルは黙って、ただ静かに見守っていた。
「……はは、ばがな女だ。そこはさっき、僕が息を吐い」
ぐちゃり。
もう一つの命が潰える音が、スバルの靴底に鳴った。しかし彼には何も聞こえなかったようだ。再度足を上げ、振り下ろす。今度はひび割れるような硬い音だった。もう一回。振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。その動作を繰り返すだけの単純な作業。叩く音が段々と粘着性を帯びてきた頃、ようやく動きを止めた。
「お前に死の味を一度しか味あわせてやれないのが心底残念でならねぇ。ゾンビみたいに何度でも復活する系の無敵だったら良かったのにな」見下ろし、顔の無い死に様がエミリアと似ている気がして、胴体もひき肉にしようかと一瞬悩んだ。だが、まったくの無意味だと判断し、パンドラのいる方へ向き直る。「また失敗した。今回は惜しかったんだけどな……でも、レグルスの嫁を一人ずつ転移させて心臓が移る瞬間に殴るのは通じたし、次はもう少し巧く誘導して、」
「スバル」
微笑を貼り付けて傍観していたパンドラの代わりに、目が合ったのは第三者だった。
爛然たる赤髪の下から、澄んだ双眸が覗きこむようにスバルを射抜く。戦場と化したこの都市で、最も死と遠い空気を纏っていながら最も運命の征路を見据えている存在。
正義の権化。世界の意思が形を成した超越者。
レグルス・コルニアスが口先だけの偽善者だとすれば、それを嘘偽り抜きに実現してみせたのが彼、ラインハルト・ヴァン・アストレアといえる。
しかし、救世主であるはずのラインハルトの登場にスバルはひどく混乱した様子を見せる。
「……ライン、ハルト? 何でお前がここに……いや待て、パンドラはどこいった。ラインハルトは別の場所に行かせたんじゃなかったのかよ、おい! どこにいるんだ、パンドラァッ!?」
「ごめんよ。スバルの言っている言葉の意味が、僕にはよく分からない。パンドラという名前の人もそうだけど……わからないことが多すぎる。お願いだよ、スバル。話を、してくれないか」ラインハルトは目線を合わせ、慎重に話を催促する。「これは一体どういう状況なんだ? ここで何があった? 君は、何を──?」
人としての、あるいは生き物としての限界を素で跳び越えた彼だが、なにも全知全能とまではいかない。人の内心を一瞥で見透かしたり、都合の良いように思考を操るなどの力は無いのだ。
支配でなく誘導。あくまで一介の友人として、ラインハルトはスバルに接近を試みる。
変わり果てた彼の下へと。
「言ったら」目を歪に細め、嘲笑にも似た顔で睨め返すスバル。「信じてもらえるのか?」
「さすがに内容によるかな。……ん、すまない、一旦ここを離れよう。他の場所が危ないようだ。君の話が聞きたかったんだが……まずは事態が落ち着いてから、もう一度訊くことになるだろう」
「じゃあ、俺はここにいるから好きに行ってこいよ。大人しく待ってるから」
「残念だが、それは出来ない。安全の為にも、ついてきてもらうよ」
「監視、じゃなくてか?」
故意に心を抉るような言葉に、ラインハルトは悲痛な表情を浮かべる。その目はエミリアを一瞥したが、すぐにスバルへ戻ってくる。
「スバル。余計な真似はしないでほしい。一緒に、行こう」
「嘘嘘。冗談だって。今行くよ」
手を振って直前の発言を否定するスバル。何事も無かったかのように、エミリアの死体を避けてラインハルトの方へと近づいていく。怪しまれないようにか、両手を肩の高さまで上げた状態だ。
「……インビジブル、プロヴィデンス」
呟いた声は、口の中にだけ響いた。少なくとも隣のラインハルトにまで届かないほど小さかったはずだ。それでも、刹那。良くない気配を感じ取ったラインハルトが、咄嗟に振り向く。
しかしながら、動作を察知した後に反応した時点で、既に手遅れだ。その行動を止めるには、最初から彼の自由を完全に拘束して周囲を固めておく必要があっただろう。 スバルの姿勢は変わらない。ただじっとしているだけにも関わらず、ラインハルトは得体の知れない悪寒が己の背を這い上る感覚を味わった。これは、死の気配だ。
「──!? 待て、スバル! やめるんだ!」
「驕るなよ英雄。死ぬ事に関してなら、俺が世界最強だ」
有言実行。
見えざる一本の手で小さな瓦礫を掴み取り、尖った方を向けて喉に押し付ける。さほど勢いが衰えることなく矛先は皮膚を突き破り、血管を断ち切り、肉を抉った。ついでに鍵を回す要領でぐいと捻れば、脆い喉笛など簡単に掻き切れる。
傷口に冷たい空気が流れ込んでくる。ヒュー……と風音を鳴らす喉の穴を、やがて逆流した血が通って強引に塞ぐ。流れ出る様はじょうろのようだった。
「なんてことを……っ! 駄目だ、駄目だよスバル! ここで死んじゃいけない!」
ラインハルトの応急処置も虚しく、出血量が傷口からの排出量を上回ったのか、スバルは返事の代わりに喉を詰まらせるようにして喀血した。上下に溢れ出る命の滝を止める術が、ラインハルトにはない。
何をするにしても万能で最強とされるラインハルトでも、唯一人並み未満の事柄がある。それは魔法だ。常に周囲のマナを取り込むだけ取り込み、体内に循環させるはいいが排出する機能を兼ね揃えていない。一方的に吸うばかりで出す道が塞がれているため、彼はどんな下位魔法すらも使いこなせないのだ。瀕死のスバルを救うだけの治癒魔法など以ての他。もし『青』が側にいたならば可能性はあったかも知れないが、今となってはもう呼ぶにも遅すぎた。
ただでさえ、こと死ぬという一点に関して、スバルは他の追従を許さないエキスパートだ。誰も彼の右に出ることは叶わない。
いや、こんなロクでもない世界なのだから、一人や二人、死に慣れた変わり者がどこかにいてもおかしくないだろう。だがどちらにしろ、ラインハルトが生と死においてド素人であることに違いはない。
自分の死も理解していない者が、どうして他人の死を扱えられようか。
おこがましい。
「スバル、スバル! 待ってくれ! どうして、こんな、っ…………スバル──」
誰かに名前を呼ばれながら死ぬのは、どこか懐かしい気がした。
ラインハルトは良い奴だ。恐らく世界で一番正義の味方に近い存在で、実力だって申し分ない。彼が悪の組織に属していないだけで、世界は最大級の賭けに勝ったようなものだ。そうでなければとっくに破滅していたかもしれない。
──けどな、ラインハルト。
俺とお前は真逆、両極端にいる。そしていつか、対立する運命に置かれてもいる。俺が賢者として在る限り、お前は必ず英雄として俺の前に現れるだろう。
それでも、負けられない。無限の選択肢から正解を選び抜いてみせる。それまでの旅路に付き合ってくれるのなら、全力で無視してやろう。
勝利必須の無理ゲー。ただ正面突破でなくても、ゲームには裏技があるものだ。
次こそは。
絶対に。
意識と身体が別に落ちていくような浮遊感。音と光が不可逆の彼方へ遠ざかり、ぽっかりと大口を開けた深淵が間近に肉薄する。ナツキ・スバルという概念が分解され、溶けていく。死に沈み、没するのだ。
しかし直後、伸びた幾千もの手がそれを否定するようにスバルを引き上げる。まだ終わっていないと、始まったばかりだと。意識は愛の囁きと共に浮上し、再臨する。
暗転は一瞬よりも短い。
「スバル。余計な真似はしないでほしい。一緒に、行こう」
『死に戻り』が成功して過去に舞い戻り、足元に転がった二つの死体と、立ち塞がる赤毛の剣聖が賢者を迎えた。
「──俺の負けだよ、英雄」
運命はどこまでも、ナツキ・スバルを絶望させる事に余念がない。
‡
今でも時たま、夢に見る。
無知と無垢に飾られていた在りし日の追憶を。自分の知る世界は平和に満ちていて、それが普通だと信じて疑わなかった頃の記憶を。
過去のことをずるずると引きずるのは女の性だというが、あの日々を鮮明に思い出せるのもそのせいだと割り切ってしまえば、むしろ好都合だと思える。ただ、そうした世の中に対する屁理屈を覚える度に、少女は、自分がどうしようもなく変わってしまったのだと如実に実感しては複雑な心情になるのだ。二度と戻れない過去を嘆くほど子供でもないがバッサリと切り捨てられるほど大人でもない。
世界なんてもっと単純でいいのに。小難しい事情も何も知らないふりして、もっと気楽に生きれたらどれだけいいだろうか。そんな呑気な考え方こそ子供の特権だって、姉様は慰めてくれたけれど。
自分がいまどこに立っているのか分からなくなる時があって、それがとても苦しい。胸の奥で何かが燻るような不快感。こんな痛みを抱えて生きていかなければならないのなら、一生、大人にはなりたくない。無知のままで良かった。何も知らない、可愛いだけだったあの頃に──。
「…………また、昔のことばっかり考えてた」
最近、よくぼうっとしていると言われる。自覚はあって直そうと頑張ってもいるのだが、ふとした瞬間に自制が効かなくなるのだ。使用人としての仕事は要領よく覚えられるのに、以外なところで弱さが表れる。
「気をしっかりしなきゃ、ダメじゃない。──よしっ」
ぺちん、と頬を両手で強く叩いて荒療治。ベッドから立ち上がり、服を着替えて姿見の前で一回転する。スカートが柔らかく舞い上がり、おかしな所がないか入念に確認してから、鏡面に映った自分へ向かって首肯する。うん。準備万端、ばっちりだ。
すぐ隣に化粧台があるが、まだまだ学ぶべきことがいっぱいあるので保留にしている。いつかきちんとおめかしできるようになったら、あの人を驚かせてやりたい。きっとビックリして、大きくなったなと褒めてくれるに違いない。そう思うと無意識に笑みが零れた。乾いた微笑だった。
妄想に入り込む直前にはっと気を取り直し、彼女は急いで部屋を出る。いけない。しっかりしようと自戒した途端にこうだ。これからが危ぶまれる。
朝起きて仕度を終えたら、まず第一にやるべき日課がある。大して難しくもなく、他の仕事と比べて重要度も劣るのだが、彼女にとっては最も欠かせない必須任務として力を入れていることだ。
向かった先は同じ屋敷内のとある一室。目を閉じても問題なく辿り着ける程度には、毎日のように何度も足を運んだ場所だ。道すがらに窓の外を見上げ、口許を緩める。晴天。これ以上ない散歩日和だ。
扉の前で一息吐いて深呼吸。二度ノックをした後、返事も待たないままドアノブに手を伸ばした。鍵はかかっていない。
「失礼いたします」
言いながら入室し、部屋の内部を眺める。これといった特徴もない普通の部屋模様だ。ベッドやテーブルなどといった家具に、白い塗装の壁。奥には閉め切ったカーテンがある。彼女はそれを、左右に思いっきり引っ張った。
両開きのカーテンが開け放たれて、暗かった一室は唐突に朝を迎える。波のように押し寄せた陽光が部屋中を覆い、見えにくかった部分が色彩を取り戻す咲き誇った向日葵のような笑顔を作り、彼女は後ろ手に上半身を屈めてベッドに向き直る。
今の今まで、そこにいたのかも曖昧なほどに、存在感の薄い男が横たわっていた。
似た光景を見た覚えのある彼女だが、それとは違う感慨を持って顔を覗きこむ。この辺りでは珍しい黒一色の髪と瞳──目を閉じているので今は見えないが──に、高くも低くもない鼻筋。一文字に結ばれた口。表情は比較的穏やかに見える。
「朝ですよ。今日は良い天気なので、外に出て散歩しましょう?」
部屋の隅に置かれていた車椅子を引き、眠ったままの彼に語りかける。意識がないため当然返事もない。身体を起こすのだって、彼女の体格では一苦労だ。それでも何とか上体を起こして数分後、無事に車椅子に座らせる事に成功する。
そこまでやっても、男が目を覚ます気配はゼロだ。まるで死んだか凍りついたかのように、されるがままの無意識状態。
こういった状態に陥った者を、少女は何人か知っている。特に最近になってよく聞くのが、『暴食』という魔女教徒による名前や意識の消失だ。しかし彼の場合、そのどちらでもなかった。かといって目立った外傷も、龍の血とやらで気味の悪い模様が浮き出る右脚くらいだ。命に関わる呪い、病なども特には無い。
彼自身の、心の問題なのだ。
「スバル様……行きますよ」
じっと動かない彼の膝に毛布を掛け、車椅子ごと部屋を出ながら言う。出入りが楽に出来るよう部屋は一階に設けてあるので、廊下を少し行けば直ぐそこが玄関だ。以前はベアトリスとガーフィールが階段の上り下りを自任していた。だが、部屋を移してからは各自出来る範囲を尽くして看護しようとの事で、役割を一部分担したのだ。
ベアトリスは、精神に干渉し何らかの作用を与える魔法の開発、及び関連文献の調査。ガーフィールは、労力が多く要求される力仕事を率先して使用人たちの負担軽減をしたり、時間が余った場合にはオットーと一緒に国中を飛び回って解決案の模索、及び特効薬などの商談に携わっている。他にもロズワール邸の全員が、何かしら解決に到る糸口を探しているところだ。
『暴食』の被害者に比べて良い点は時間経過による自然治癒や、外部衝撃などといった様々な要因で改善する見込みがあること。悪い点は確立した原因と治療法が明らかになっていないため、どこに焦点を当てるべきかが不明であること。
ともかく、スバルにしろレムにしろ手掛かりは未だに掴めていない状況だ。ベアトリスたちも焦りと苛立ちを覚えはじめた様子で、危うげな雰囲気が最近は色濃い。
「今日もお散歩ですの、ペトラ?」
「あ、フレデリカ姉様」
玄関を通ろうとした時、背後から声が聞こえてペトラは振り向いた。揃いのメイド服を男勝りの体格で別物にしている、ペトラの指導役フレデリカ・バウマンだ。初めて見た頃のインパクトをそのまま愛嬌に変えて、フレデリカは妹分に近い感覚でペトラを可愛がっている。
「今日はすごく晴れていて風も心地よいので、丁度良いかなって思いました。駄目、でしたか?」
「ああ、違いますの! 全然ダメなんかじゃなくて……むしろ、毎日ご苦労様と言いたいくらいですわ。ベアトリス様やガーフィールが、忙しいのに無理して体を壊したりするのを見てると、こちらまで胸が苦しくなりますから。きっと皆、ペトラに感謝していますわよ」
「いいえ。そんなこと、ありませんよ。私に手伝えることは、これぐらいしか無いので。私の方こそ、大した仕事もできず、全部フレデリカ姉様たちに任せてばかりで……もっと、スバル様のお役に立ちたいのに」
双方、謙遜でも建前でもない心からの本音だ。相手の言葉が痛いほど解るし、だからこそ譲れない。そしてそれは、彼女らに限った話ではないのだ。誰もが真剣に取り組んでいるのに誰もが不足を感じる。見えない中で不安が募り、焦燥に急かされて結果疎かになる。その悪循環。
根本的な原因、悪は他にあるにも関わらず、問題に対して自らの責任を負わずにはいられないのが彼らの人となりであり欠点だ。それらを克服するにはまだ、平穏への距離が遠すぎる。
「それじゃあ、行ってきます。昼までには帰りますね」
「ええ。いってらっしゃいまし」
幼いながらも現実の苦味を知ってしまった小さな後ろ姿を、静かに見送るフレデリカ。目尻に滲んだ涙を指先で拭き、しばし思いに浸る。
「本当に、大人びましたね……ペトラ」
「それには肯定しかねるな」その第一声は、脈略や流れを一切無視した。「彼女は大人に近付いたのではなく、子供から遠ざかったという方が正しいかと。差異」
「ひゃっ!? く、クリンドですの!? 急に出てこないでくださいまし! 驚いて殴るところでしたわよ!」
「先ほどからずっといたのだが。どうにも君は人を無条件に見下す癖を持っている。一方的で短絡的な思考は、受けとる側からしたら単なる暴挙でしかない。でかいのはせめても図体だけにして欲しいな。不格好」
「わたくしが態度をでかくする相手は、敵以外だとクリンドだけですから気にすること無いですわ!」
言いつつさりげなく後ずさりするフレデリカを尻目に、クリンドは無視してモノクルを拭く。しばし沈黙が生まれ、この場を去るつもりのなさそうな彼にフレデリカは頭の上に疑問符を浮かべた。
「それで、何の用ですの? さっき旦那様に呼ばれて上がってませんこと?」
「後程、こちらにお客様がいらっしゃるようだ。準備。旦那様には断りを入れ、優先して来ただけのこと。中断」
「ということは、予定になかった方が訪問なさるので……?」
「恐らくは。簡素な身なりと慌てた様子を見たところ、急用の使いではないかと。使者」
「急用って、何が……」
フレデリカは思わず、玄関の見えない向こう側へと視線を移す。クリンドが一体どうやって使者の到来と急用らしい事情を知り得たのか不思議でならないが、彼の異常性についてはいつもの事なのでスルーだ。
すると、クリンドは変化の乏しい顔で首を傾げる。
「何やら私の与り知らぬ所で不当な扱いを受けている気が。理不尽」
「本当に与り知らないなら、そもそもそんな気もしませんでしょうに。相変わらず訳の分からない……あら」
肩を震わせてまた一歩距離を置こうとしたフレデリカが、ふと何かを悟った様子で声を上げる。その数秒前から感付いていたクリンドは既に扉を開け、急用の使者とやらを迎え入れていた。
彼の予告通り、姿を見せたのは訪問者として最低限の礼儀だけを守った軽装の男だ。息を切らしながら転がり込むようにして玄関先へと入ってきたどこぞの使者は、目の前の二人が使用人だと理解したのか、持っていたものを素早く差し出した。
「緊急事態、王都からの伝言です! 一刻も、早く、……これをメイザース辺境伯と、近郊の町に知らせてください! そして準備が整い次第、メイザース辺境伯には上級会議に参加していただきたく──」
どうにも只事では済まなさそうな物騒な言葉を待ちきれず、フレデリカは使者から書物を取って中身を確認する。一介の使用人が、主人より先に許可もなく閲覧した事の非礼などこの際お構い無しだ。
使者の方もよほど焦っているのか、書の伝達完了を確認してはすぐに屋敷を出て行った。そのまま休むことなく竜車に乗り込んで走り去っていくのを見るに、ここ以外にも事態を伝えるべき場所があるようだ。恐らくは、ロズワールなどの早急な対応が求められる領主を優先的に訪ねて情報を渡し、領地並びに下町への拡散は後回しにしているのだろう。
「そんな……嘘、ですわよね?」
真っ先に内容を確認したフレデリカでさえ、帰り際に使者が改めて口にした言葉には、耳を疑った。
『憤怒』の大罪司教が、王都の警備網を脱してルグニカのどこかで逃亡中にある──などと。
「まさか、ペトラ……」
無意識に発した声が、遅れて自覚するもあながち早とちりだと思えなくて身震いする。いいや、それこそまさかだ。たった今、こちらに情報が届いたばかりなのだ。少なくとも数時間、考えて備えるだけの余裕はあるはず。
しかし同時にこうも思う。使者だって人間だ。事件発生後すぐに把握して動けるものではないし、あまつさえ王都が発信源ならばここに来るまでも何箇所か寄って、かなりの時間を費やしただろう。ましてや相手は魔女教の幹部とでもいうべき大罪司教だ。臆測だけをもとに侮るなど、間違いなく愚行の極致。
フレデリカは憂いの宿った目でペトラを思い浮かべる。胸中にざわめき、こびりつく嫌な予感。
それが俗にいう女の勘なのか、あるいは半獣としての本能的な直感によるものなのか、自分でもわからないままに。
──奇しくも時を同じくして、当のペトラ・レイテは屋敷を大急ぎで出て行く使者の姿を、その大きな瞳で目撃していた。
「……何か、あったのでしょうか」
事情を知らない彼女は、これといった危険を感じず精々緊張に留める。
水門都市プリステラで魔女教の騒動があったのは数ヵ月前だ。一日に満たなかった大規模攻防戦の終結からそれなりの時間が経ったとはいえ、消息を掴みきれていない大罪司教が数名、今もどこかで身を潜めて虎視眈々と狙っているかもしれない。気の緩んだペトラたちを、再び悪意の檻に閉じ込める為に。
しかし、そんな可能性に怯えているようでは何も出来やしない。そもそも魔女教は神出鬼没、一年以上も前から世話になっている憎き宿敵だ。奴らの脅威に怖じ気づいている暇など無く、注意を怠った事だって一度たりとも無い。むしろ対魔女教戦において、ここは王国内でも屈指の対応力を誇る防衛陣営。そう簡単にやられるようであってはとっくに滅びている。
ペトラは己の中の警戒度を一段階だけ上げ、散策ルートの変更を行う。本来ならば下町まで行ってぐるっと遠回りしてくるつもりだったが、有事の場合を考慮して屋敷の近くを一周する程度が良いだろう。せっかくの晴天下だが用心するに越したことはない。それだけの相手を敵に回しているのだ。一年前から、覚悟は決している。
しかしながら。
覚悟の強さと現実の非情さが半比例するのなら、世界は今よりずっと単純で平和にできていたはずだ。
それこそ車椅子を押すペトラの前に、彼女が現れることなど、無いほどに。
「ああ、やっと……やっと、見つけました。この百年間、ずっと探してきた努力が、狂おしい愛の報いが、ようやく実ったのです」
「——っ、だれ!?」
ペトラが歩いていた街道、その脇から降って湧いたように出現した一人の女が、行く先に立ち塞がる。
見る者の精神を強引に揺さぶる狂気。その身に纏う異常性を有り体に表してみせた異形に、同調するよう汚染される空気。
鼻腔を突くのは、隠しきれない死と抑えきれない愛の混じった匂いだ。激情ゆえに自らをも焼き焦がし、歪曲して狂乱した在り方が彼女を咎人たらしめる──その名を、大罪司教シリウス・ロマネコンティという。
スバルの前に出て両手を広げたペトラには見えない。
ただひたすらに世の中との隔絶を湛えていたナツキ・スバルの双眸が、僅かに開いた目蓋の隙間から、シリウスのそれと同じ光を宿したことに。
それをペトラの小柄な体躯越しに見透かしたシリウスが、身も心も蕩けてしまう熱量の、獰猛な貪愛に濡れた声音で囁く。
「さあ、今こそ目覚める時ですよ。──私の愛しい人、ペテルギウス」