夜の闇が今より深かった昔、人々は多くの物に恐れを抱いた。病、天災、獣、理由の分からない出来事、兎に角理解不能なよく分からない恐ろしい物、それを総称を人々は『鬼』と呼んだ。
欲望のままに生きる暴虐の化身であり、平穏を脅かす悪しき存在。人々が鬼に感じていた印象はそれであり、多くの者が抱く特徴として上げられるのは頭の角だろうか……。
「うあ……」
一筋の光すら射し込まない石牢の中、堕天使の女が縄で腕を縛り上げられ吊されていた。縄には彼女自身の血を使い呪いの文字が書かれ引き千切る事は不可能で、肉に食い込み皮膚の一部が裂けてテラテラ光る肉が露出していた。服だった布切れが辛うじて体に引っ掛かって居るだけで肌は露出し、全身に強く打撲されたらしい青あざがあって無事な部分を探す方が難しい。
堕天使の特徴である黒く染まった羽は無い。根元から鋭利な刃物で切断され、止血の為か骨が露出している部分の上から焼き鏝を当てられた跡が存在した。弱々しい声で呻き声を上げる彼女は痛み以外で自分の状況が分からない。暗さは堕天使の目に意味をなさないので理由ではない。見るための目が存在しないのだ。眼窩は左右共に空洞となり、目の神経が飛び出して垂れ下がっている。眼窩の周囲には何かを突っ込んだ跡があり、くり抜いた目玉を引っ張って神経を力で引き千切ったと理解させる。流れ出した血は涙のように目の下を伝い、今は乾燥して皮膚にこびりついていた。
「全く、ウチの者に手を出すからよ。出来るだけ食べるなって言われてるけど、敵対者は別なのよねぇ」
彼女の耳に届いたのはお玉の声。ただし、その見た目は大きく変質している。白い毛の猫の獣人と言えば分かり易いのであろうが、額にも猫の顔が存在し、手には巨大な包丁。それを彼女の露出した太股に刃先を当てるように構え、肉を削ぎ落とした。響く絶叫、吹き出す血飛沫。だが、包丁を動かす手は止まらず骨に刃が当たらないようにして左右の足の肉を順繰りにそぎ切りにしていく。彼女の両足が骨だけになるのにさほど時間は掛からなかった。
「さてさて、暫くは賄いの材料に困らなさそうね。ニャハハハ」
嘗て日本人は長い時を生きた猫が転じたこの妖怪をこう呼んだ。バケネコ、と。
「……彼は帰ったのかい?」
「ああ、帰ったよ。……今日の夕食は少し遅めに取る事にしよう」
取り敢えず手を打っておくから、と一誠を帰した道炎に襖越しに恋が声を掛ける。何かを期待した浮ついた声で、道炎は躊躇無く襖を開く。畳に上には既に就寝の準備がなされているが、布団の色は漆黒。散りばめられた花弁の色、そして何より裸で寝転がり誘うように片手を伸ばす恋の白い肌が美しく栄えていた。
「綺麗だな、恋。本当にお前は美しい」
「……そうマジマジと見られたら照れるじゃないか。まあ、私以外の何かを視界に入れる理由など無いからだけどさ」
自ら今のような格好になっておいて口説き文句を投げ掛けられた途端に嬉しそうにしながらも腕で体の一部を隠しながらモジモジと動く。その仕草さえも愛しいと道炎は思うのだった。
「ああ、その通りだ。今はお前さえ見えていれば良い。……触るぞ」
焚かれた香の匂いで頭がクラクラ思想になる中、自らも手早く服を脱いだ道炎は恋に覆い被さって胸に手を伸ばす。シミ一つ無い肌は気を抜けば滑り落ちそうな程に滑らかで、呼吸に合わせて胸が上下する。続いて頬に手が触れた時、恋の口から気まずそうな声が漏れる。
「……あ~、ごめん。今日は君に任せる予定だったんだ。私が君をじゃなく、君に私を好きなだけ堪能して欲しかったんだけど、ついね……」
「仕方のない奴だ。……そしてお前の一部だけあって本当に美しい」
愛しそうに伸ばされた彼の手が恋の頭頂部に出現した上に延びる細長く紅い角に触れる。髪と同じ色であり、触れば硬質な感触と氷のような冷たさが伝わってきた。
「私が美しくいられるのは君が愛してくれるからさ。……悪いっ!」
恋の両手が道炎の肩に触れられ上下が一瞬で逆転する。荒い息づかいで目は爛々と輝く今の彼女は獲物を狙う猛獣のようであり、指先が肩の肉に突き刺さって押し入っていた。指の周囲の肉は押し広げられて盛り上がり、抜くと同時に血が溢れ出す。傷口を覗き込めば骨まで達しているのが見えた。
「布団が汚れちゃった。……これは怒られるかな?」
「なら一緒に怒られよう。どんな時も一緒だ」
指先をしゃぶり血の味を堪能する恋は陶酔した様子で自分の頬に手を当て、その上から道炎の手が重ねられる。そのまま覆い被さった彼女は口の中に血が残ったまま口付けを行い、唾液と共に入ってきた自らの血を道炎は飲み込んだ。
「しかしさ……私こそ本当の鬼嫁だね」
「いや、カツ丼しかりタマゴサンドしかり、メインが先だから嫁鬼の間違いだろう?」
「食べ物に例えるのかい……。まあ、食べるのは私の方だけどさ」
冗談に真顔で返されて少し照れた顔を見せるも恋は即座に捕食者の顔になり、力で押さえつけた道炎の首に手を回して密着する。耳に甘い吐息を吹きかけ、誘惑するように囁いた。
「いただきます……」
「……なんか随分眠そうだけど大丈夫か? にしても今日はよく食うな……」
「いや、朝食が取れない遅刻ギリギリの時間まで解放して貰えなくてな。……ああ、そうだ。例の話だが、取り敢えず面接を行うそうだ」
翌日、朝からずっと欠伸ばかりしていた道炎が弁当に加えて購買のパンを買い求めていた。昼飯を一緒に食べていた一誠には言葉の意味が察せ無かった様だが説明する気のない道炎は先程受信したメールの内容を伝える。一誠を眷属候補に入れてくれるという悪魔からの連絡だった。
「俺が堕天使の総督に話を付けた場合、お前を利用して俺を使おうって奴に狙われるし、悪魔の縄張りに住む以上は他の勢力の傘下は拙い。……デートと日程が被ってるが、すっぽかして家を襲われても問題だから偽物を用意しておくから安心しろ」
「どうせ何処かに属さないと親まで危ないってんなら仕方ないよな……」
狙われる程の神器の危険性だけでなく、悪魔社会が抱える問題も事細かく説明を受けている一誠はどうも乗り気では無いらしい。一応、道炎に言われてビジネスマナーの本で勉強中だが貴族社会における身分差がどれほどの物かもネットで知って不安だった。
「まあ、俺も優良株な候補を紹介してくれって依頼者の中から比較的人格者の一族を選んだから安心しろ。何せ俺の友人もその家の所属だ」
「まっ、今更心配しても仕方ないよなぁ」
元々楽観的な性格の一誠だ。信頼する友人が信頼する相手だと自分に言い聞かせ、メリットの部分を期待する事にした。
「もし出世したら眷属でハーレムが作れるんだよなっ!」
「言っておくが気に入った相手を拉致同然に眷属にしたり、権力を笠に着て無理矢理手を出すなら絶交するからな? ……いや、そもそもお前を受け入れてくれる相手なら別に眷属にする必要は無いのではないか?」
道炎の素朴な疑問に暫く考え込み、やがて考えるのを止めた一誠であった……。
「……あぁ? こんな雑魚そうな餓鬼かよ」
「ああ、特に格闘経験も無く、運動神経が優れているわけもないが此奴だ」
「その通りだけど辛辣だな、おいぃぃっ!?」
そしてやって来た約束の日、道炎の術で転移したのは何処かの山の中にある落ち着いた雰囲気の別荘。新鮮な空気と緑に囲まれたこの場所で待っていたのはチンピラとホストが混じった様な男だった。一誠を一目見るなり柄の悪い態度で見下した様な発言をするが道炎までそれを肯定する。
「ああ、紹介しよう。彼の名はライザー・フェニックス。お前を眷属候補にするかも知れない相手の兄だ。先ず、彼の合格を貰ってみろ。まあ、身分差がどうとか分からないなら父親がリストラ候補で彼は社長の息子とでも思って接すればいい。じゃあ、俺はこの辺で」
「あぁん? お前は帰るのかよ? ったく、ダチなんだから少しは付き合えってんだ」
「悪いな、ライザー。今回は紹介するって依頼で来たんだ。他にも仕事があるし、一定以上特定の勢力に肩入れしないってスタンスな以上は今度にしてくれ」
やや不満そうなライザーであったがぶっきらぼうに手でさっさと行けと伝える。道炎も軽く手を振ると転移していった。
「さて、友人としてしてやれるのは此処までだ、イッセー。後はお前次第だぞ」
本日の彼は忙しい。この後、冥府や北欧、沙弥山に行って依頼をこなし、日本に帰ってきたのは夕方であった。
「さて、どうなっているか……」
古い手鏡を取り出し手をかざすと他者の視点で景色が映る。今回、一誠を狙って来た堕天使を騙すための偽物であるが、思考や行動パターンを完全コピーした偽物だ。人の形に切り抜かれた札が正体で、道炎が術を解かないと殺されても元には戻らない。
「上手く行ったが……面倒な」
計画通りに堕天使は偽の一誠を殺して去っていったが、思わぬ事態が起きる。街中で貰った悪魔召還のチラシが発動し、リアスが姿を現したのだ。後で事情を説明するのが面倒だとさっさと術を解こうとしたが、ある言葉を聞いて固まってしまう。
「へぇ、面白いことになっているじゃないの」
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