is,am,are。扶桑語なら全部「は」「が」っていうのはあまり理解できない。
いや、理解できなくはない。納得がいかないというかなんというか。
なんで全部amじゃダメなのか。三単現?どこかの食べ物か。
「そのあたりどう思う、ちびっ子」
「だから……ちびっ子はやめてよ」
「はいはい、ごめんなさいよチョク」
隣で座って夏目漱石を読むチョクの頭をポスポスと叩いた。
唇を尖らせたチョクは何も言わない。
反応の少なさにため息をつきそうになって、ブルリと身を震わせた。
窓の外では雪が降っている。
今年もよく降るなと今度こそ特大のため息をついた。
「こう寒いとお汁粉が食べたくなるね」
「ああ、いいね。あとはあれだよ、チョコレート」
辞書をめくって、cのページを示す。
「ほら、チョコレートの例文。温めて溶かすことができるんだって。で、乾パンにつけて食べる。絶対美味しいよ」
「わあ……!やってみたいね」
「あと半年くらいしたらできるんじゃない?リベリオンからの支援物資が余って扶桑中に配られるとみた」
言ってから少し後悔した。
あるか分からない希望的観測は、裏切られた時のドン底な気分を加速させる。
昨年の夏から始まった、扶桑海事変。
ジワジワと勢力を伸ばすネウロイ、対応する陸軍海軍、浦塩方面から避難を早めに始める人々。
不安や焦燥感がこの田舎にも蔓延していた。
さらに、今がネウロイと競り合いになって戦況が大きく動かないからか、暗い感情を奇妙な安心感というか高揚感というかよく分からない感情が包んでいるようだった。
それにあてられたのか、最近学校では扶桑海事変に関わる話が増えた気がする。
ウィッチの仕事はどんなもの、もしもネウロイが扶桑海を越えて来たらみんなで避難することになるかも、近々避難訓練をするよ、といった具合だ。
慰問文を書いたのは昨日のこと。
級友の一人は定食屋の子供だが、『嫌なことがあって、酒を飲んで喚き散らす客』の話をしてくれたのを思い出した。
不安を誤魔化すために、比較的安定しているという情報の酒を飲む。そして、なんとなくよい気分で安心する。
しかし、この奇妙な安定は冬のみのものだということに誰もが気づいていた。
奴らは寒さを嫌う。
つまり、雪が降る今の時期に小康状態になるのは当たり前だ。
半年後の夏には、それこそ扶桑はチョコレートを溶かしたように原型を留めていないのかもしれない。
「半年後か……戦争、きっと終わるよね?」
もちろん、なんて言えるわけがなかった。
代わりに悪ガキのような笑みを浮かべて、殊更不遜に振る舞った。
「まあ、あと3年も戦争が続いたらこの小島光希様が戦場に行ってネウロイをちゃちゃっやっつけてくるよ」
へへん、と格好つけるとチョクは少し困ったように笑う。
「なんだっけ、海軍に入りたいんだよね」
「そう!」
机をバシンと叩いて立ち上がる。
「海兵!絶対に海兵!陸士は受かっても絶対に行かない!」
だって陸士(陸軍士官学校)では私の目標が達成できないかもしれない。
海兵。
海軍兵学校の略だ。
3年制で、卒業すると少尉に任官されて名実共に航空歩兵となる。
私の目標を達成するための第一歩だ。
入学のためにも満たす条件はいくつかある。
その中でも一番大切な条件は……。
「せっかくハルが契約してくれたんだ、挑戦してみないと」
私の中で眠っている使い魔、ハルを起こす。
寝ぼけながら、それでも自分の半身は力を貸してくれた。
白い立ち耳と巻いた尻尾が揺れる。
「なんでそんなに海兵がいいの?」
「士官になった時の制服がカッコいい」
「……私は陸軍の巫女服もいいと思うけどな」
ウハハ、と笑う私を見ながらチョクは眉を下げた。
「……私もウィッチになりたかったな。そうすればネウロイと戦えるのに」
少し驚いた。
チョクは怖がりな性分だ。
自分の家にお泊まりに来たときは厠についていってやったし、学校の試胆会では震えて一人だけ留守番だった。
そんなこんなで、チョクはお姉さんに夜は添い寝をしてもらっている。
そんなこいつが戦いたいだなんて。
「ウィッチはともかく、軍人はやめておいた方がいいよ」
大人が髭を弄るように顎先を軽く撫でる。そうしながら言葉のかけらをまとめていく。
「軍人になったらネウロイと戦うし、扶桑にいられるとも限らない。それに、きっと軍人になるっていうのは普通を捨てるってことだと思う」
薄ぼんやりとした、軍人になるとどうなるのかという想像を形にする。
自分の身の丈より大きいよく分からないものの攻撃を避けて、こっちは攻撃を当てる。
そんなの、絶対に難しい。
三度ぶつけ、ただし一回受け損なったり逃げ損なったりしたらダメ、みたいな。
「それにさ、きっとお姉さんは心配するよ。春になったら離れて暮らすんだから、たぶん今まで以上に心配する」
チョクのお姉さんは、春になったら嫁に行く。
管野家から出ていく。
学校に呼び出されたときも時も、親と喧嘩してウチに飛び出して来た時も、迎えに来たのはお姉さんだった。
ほんのりとした優しい笑顔、けれど時々意志の強さを感じられる瞳。
自分も姉だけど、あんな風にはなれないだろうなと密かに憧れていた。
「じゃあなんで、ミツはそんな軍人になろうとするの?」
「決まってる」
咳払いを一つ。
口の端を引っ張りあげてニヤリ、と自信たっぷりに笑ってみせた。
「女の子にモテモテになれるから!」
その後、頭の後ろで手を組んだ。
グイッと後ろに体重をかけて椅子が軋みごえをあげる。
「って言っても親は反対みたいなんだけどね。おかげで毎晩口論だよ。しかも弟も妹の相手をしたあとだから毎日疲れちゃってさ〜」
やれやれ困ったと頭を振る。
弟妹の相手は慣れたものだ。
けれど、親との口論が思った以上に長い。自分が部屋を飛び出すか「もう寝なさい」と言われるかまで終わらないんだから。
チョクは困ったように眉を下げた。
「うち来る?」
「バカ言え、お姉さん独り占めできなくなっちゃうんだぞ。泊まりに行くなら春以降だな」
甘えられるうちに甘えておきなさい、と笑って髪の毛をかき混ぜる。
チョクは自分の手を振り払ったあと、それっきり何も言わなかった。
笑い声が口からこぼれなくなり、ふと窓の向こうを見る。
日没後、光の残滓が漂う時間。
教室の外の木は雪の重さでたわんでいる。
まるで、現状だ。
将来のこと、家族のこと、今の扶桑の現状。
自分達の日常は、雪にたわんだ木のように静かな軋みをあげていた。
春はまだ来ない。