陽はそろそろ沈もうとしている。陽差しのあまり差し込まないこの森は、暗くなるのが早い。
「どうしたノエル、何があった?」
「この男、お姉さまが水浴びしてる所を覗き見してたのよ、その上お姉さまの命まで取ろうとして。だから私、ついカッとなっちゃった」
淡々と語る口調はいつものノエルのそれだ。しかしその内容は。そして、その口元は。
「どうしたのお姉さま?疲れてるのね、無理もないわ、あれほどの戦いだったんですもの。どこかでゆっくり休みましょう。そしてまた…」
「顔をよく見せてくれ、ノエル」
「なあに、どうかなさって?」
急いでノエルの口元を見る。赤く濡れているのは、やはり。
「嫌だわお姉さまったら、そんな目で見て。一体何よ?」
違う。そんなはずはない。ノエルは約束してくれたのだ、決して人の血は吸わないと。
「……何故だ、ノエル。何故、人の血を吸った」
「そんな怖いお顔なさっちゃ嫌よ、お姉さま。心配しないで、これはほんの偶然だから」
無邪気な笑み。だが私は知っている、かつてこんな笑顔を浮かべていた女を。
嘘だ、そんなはずはない。ここまでずっと、堪えてきたではないか。
「でも、何だかとってもいい気分よ。これならきっと、私だって戦えるわ。今度は私がお姉さまを守る番ね」
駄目だ。お前には、お前にだけは、そんな真似をさせられない。その手を、この世界で唯一私に触れられるお前の手を、血に染めさせるような事は。
そんな事をさせるくらいなら、いっそのことー
「何をなさるおつもりなのお姉さま。その手はなあに?」
自分が剣を手にしようとしている事に気付き、私は愕然とした。馬鹿な、一体何をしようとしていた。そんなはずはない。この世で何よりも大切なノエルに、そんな事など。
「違う!今のはなんでもない。ノエル、私は…ぐっ!?」
駆け寄ろうとした私の前で、ノエルの眼が大きく見開かれる。それを見た私の身体は突然全く動かなくなった。
「金縛りの術よ、ヴァンパイアにはこんな事も出来るの。お姉さまに通じるか不安だったけど、上手くいったみたいね」
何故だ、ノエル。何故こんな真似を。そう叫びたかったが、指一本動かせない。必死でもがこうとする私に、ノエルがゆっくりと近づいてきた。
「ありがとう、お姉さま。今までずっと、私を守ってくれて。でも」
ノエルの手がゆっくりと私に伸びる。まさか。いや、そんなはずはない。
「ここで、お別れしましょう?」
何を、言っている。
「お姉さまは私をとっても大切にしてくれたわ。ずっと一緒にいてくれて、いつも私を守ってくれた。本当に嬉しかったわ」
当然だ、私にお前以上に大切な物など存在しない。私の人生は全てお前に捧げる。そう誓ったではないか。
「だけどお姉さまは私の事を見てくれなかった。私を通して、別の私を見ていたのよ。その私に戻ってあげたいって、ずっと頑張ってきたわ。でも」
違う。私はずっとお前を、お前だけを見ていた。どうしてそんな事を言う?
「ごめんなさい。私はきっと、あのまま眠っていた方が良かったのよ。そうすればずっと、お姉さまの好きな私でいられたのに」
そんな悲しい事を言わないでくれ、ノエル。お前がそばにいて、話をしてくれる。私にそれ以上の喜びはない。
「このまま一緒にいても、お姉さまは私を守ってくれる、それでもいいのかもしれない。でもお姉さまは。そして、私も」
そうだ、お前は私が守ってみせる。どんな事からも、どんな相手からも。いつまでもずっと、私が。だから。
「……さようなら、お姉さま。でもね?信じてちょうだい。私はこの先も決して人を襲ったりしない。お姉さまとの約束は必ず守るわ。わがままを言ってごめんなさい」
嫌だ、行かないでくれ。お前まで失ってしまえば、もう私には何も残らないではないか。
頼む。お願いだ。
「大好きよ。今までも、これからもずっとー」
ノエルの手が私の顔に触れる。私がこの世で唯一知る、あたたかく柔らかな人の感触。
ノエルがヴァンパイアとなった今でも、それは昔と変わらないままで。
「あ……」
その感触が消えると同時に、痺れたような感覚は残りながらも私は動けるようになった。そして。
「ノエル……?」
ノエルの姿も、消えてしまっていた。
「ノエル。どこだ、どこに行った?」
辺りはすっかり暗くなっている。夜の闇に紛れたヴァンパイアは、人の目には映らない。
「ノエル。お願いだ、出て来てくれ」
自分から、姿を現そうとしない限り。古い書物で読んだ知識は記憶として残っていたが、私にそんな事を思い出す余裕など無い。
頼む、もう一度姿を見せてくれ。もう一度声を聞かせてくれ。もう一度私に触れて。
私を、一人にしないで。
「ノエル…ノエル……」
熱いものが目に込み上げ、視界が不明瞭になる。それを拭う事も思いつかず、私は痺れの残る身体のまま暗い森をさ迷い続けた。
どこだ、ノエル。長い旅がやっと終わるというのに。私とお前は、これからではないか。新しい土地に着いたら、二人で穏やかに暮らそう。そうだ、さっき素晴らしい事を思い付いたのだ。聞けばきっとお前も気に入ってくれるはずだ。なあ、興味があるだろう。だから出て来てくれ、ノエル。
いつしか私は、先程死闘を繰り広げた場所に足を運んでいた。そこには私が斬って捨てた、無数の死骸が転がっている。
そうだ。ノエルはきっと、人の血を吸いたがっているに違いない。ここにいれば姿を見せるはずだ。こんなにも、ノエルの欲している物が落ちているのだから。
そう思い私は死体の山に目を向ける。だがどの死体も烏についばまれていて、充分な量の血が入っていそうにもない。おのれ、腐肉漁りどもめ。怒りを覚えた私の目にまだ死体に群がっている鳥達が飛び込んできた。
離れろ、これはノエルの物だ。お前達などに渡してなるものか。
まだまともに動けない身体のまま、私は剣を抜き烏達の群れに向かっていく。鳥達は急な乱入者に驚いて一度は飛んでその場を離れようとする素振りを見せていたが、やがて食事の邪魔をした私に襲い掛かってきた。
こんな鳥でさえ私に敵意と憎しみを向けるのか。いいだろう、そんなに私をこの世界から取り除きたいというのなら、かかってくるがいい。お前達もこの死体と同じ運命を辿らせてやる。
剣を振り回し鳥達を斬ろうとしたが、先程の戦闘とノエルの術で私の身体は限界に達していた。剣がいつもより遥かに重く感じられ、足も思うように動かない。思わずその場に膝をついて座り込んでしまうと、鳥達が待ち構えていたかのように群がってきた。振り払おうと手を動かすものの、既に腕が上がらない。立ち上がろうにも今はわずかな重みでさえとてつもなく重たい物に感じる。その間にも鳥達は私の身体の剥き出しになった部分を狙ってついばみ始め、激しい痛みが身体中を襲う。必死で目を閉じ頭を振って何とかここから脱出しようとするが、もはや全く身動きが取れなくなってしまっていた。
こんな形で私は終わるのか。死は恐れていなかったが、まさかこのように惨めで哀れな死に方を考えたことは一度も無かった。だがそれもいいだろう。数多くの命を奪い、ありとあらゆる物に否定され、ノエルからも見捨てられた私には、こんな死に方が相応しいのかもしれない。
鳥達の動きはますます激しくなり、息をする事さえ難しくなってきた。
おしまいだ。生きる意味も目的も何もかも無くして、全てが終わる。人に触れられない私が生き物の体温を感じながら死ねるのが、せめてもの救いだろう。
「こら、あっち行け!おい、お前もじゃんじゃん石を投げろ!」
「それより火ですよ、火で追い払いましょう。何か持っていませんか?」
「そんな物探してる場合かよ。とにかく急げ!」
何か、声が聞こえる。新手の賞金稼ぎ達だろうか。だとすれば、戦わなくては。私はノエルを守らなくてはならないのだから。
……ああ。ノエルはもういないのだった。ならば、このまま眠ってしまってもかまわないだろう。
「おいあんた、しっかりしろ。って、こいつは!」
「どうやら間に合いましたね。おや、この方は」
驚いたようなその声は、たしかにどこかで聞いた事がある。だが、もうどうだっていい。私の命が欲しければくれてやる、好きに使え。
「おい!あんた、アレクサンドラだろ。俺達だよ、分からないか?」
「落ち着いて下さい。アレクサンドラ?お久しぶりですね、妹さんはどちらに行かれたのですか?」
ノエルを知っているのか、この賞金稼ぎ達はいったい。
「お前、達は……」
ずっと閉じていた瞼を開いて見やったそこには、見覚えのある二人のヴァンパイア達が立っていた。