小さく息を吸って、吐く。
『全身に魔力を循環させるんだ』
胡坐をかいて座るハジメの背後から、ドクターの声が耳に入る。
揺れそうになる心を務めて平静に保ち、頭だけを動かしながら彼の指示に従い魔力を巡らせていく。
『そうだ。己の体の脳天から足先に至るまで。自らの魔力を循環させるんだ。息を吸って吐くように、当たり前の事として身につけろ』
ドクターの言葉を理解しながら、しかし心は波一つない水面のように静かに。自分の血管の一本一本に魔力が流れていくのを知覚しながら、ハジメはただその感覚を自身に馴染ませ続ける。
これが彼にとっての基本にして極意。一日の凡そ半分を毎日注ぎ込んでも終わらぬ訓練により彼の魔力操作は比類なき程に磨き上げられていったが、それでもなおドクターは「足りぬ」と口にする。
『妹ほどの魔術の才は無く、ウィラード程の万能性もない。だが、君にはそれらを補って余りあるほどの戦士としてのセンスがある。それこそ私の知る限り最も優れた人間と呼べるほどの……ハジメ』
熱意の籠ったその一言に少しだけ心にさざ波が立つも、ハジメはそれをすぐに抑えて静かに目を開く。
視線の先。彼を覗き込むようにこちらを見るドクターと目を合わせ、少しの間見つめ合う。
ドクターは何かに満足したように小さく頷き、そして再び口を開いた。
『君に必要なものは小手先の魔術ではない。魔力操作、その一点。後は君のセンスが全て補ってくれる』
そう言ってドクターは、小さく口を動かして「及第点」と呟いた。
「めっちゃ辛口……?」
『いやドクター・ストレンジの言葉とは思えない位高評価じゃないかな?』
ポップコーンをばりばり食べながらウィルと一緒に編集作業中の映像を勝手に拝見する事しばし。思わず口から出てきた言葉にウィルから即座に突っ込みが入る。
『というかウィラードとの訓練の際にはやれ「才能がない」とか「ハナの爪の垢でも飲んだ方が良い」とかばりばり言ってくるしね。セリフとは言え結構心がえぐられるよ?』
「え。でも俺とのシーンだと普通にウィラード褒めてるじゃん。もしかしてツンデレ?」
『……ツン、デレてる……のか?』
顎に手を当てて考え込むウィルの姿にそこまで悩まんでも、と思いながら編集画面に再び視線を向ける。
お、この後はハナちゃんが異世界へのゲートを開くシーンだな。巫女装束に身を包んだハナが金属製のワンドを振るい、大きな魔法陣を作り出して異界への扉を開く。CGと魔法を融合させた今作屈指の派手なシーンだ。
『ハナはすっかり巫女装束が板についてきたね』
「一応ドクターの門下になる筈なんだけど日本人っぽさを出したいって大人の」
『それ以上はいけない』
真剣な表情を浮かべて首を横に振るウィルに「お、おう」とだけ言葉を返す。突いてはいけない藪もあるんだな、うん。
ガチャリ、と横付けされた車のドアが開く。
『本日はお時間を頂きありがとうございましたスパイディ』
『あ、いえいえ。お話するだけでしたし』
ドアを開けてくれた背の高い白人――CIAだかの魔法対策班に所属している男性がぺこりと頭を下げてお礼を言ってくる。
まぁ今回はこちらが御呼ばれした立場だし礼を言ってくるのは良いんだが、丁寧な対応過ぎてこっちがドギマギしてくる。お役人様に弱い日本人にはちょっと心理的に辛いんだよね、こういうの。
『国家に対する協力は国民として当然です。前回のような事があっては、困りますものね』
『ええ、それは勿論。重々承知しております、Ms.ブラス』
まぁそんな俺の心情なんかどこ吹く風、と平然とお役人にデカい釘を打ち込むアメリカ版沙織ちゃんことケイティさん。それストレートに言っちゃえるアメリカって凄い。
『ケイティ、あんまり強くは』
『ええ。分かっていますよ……勿論』
とはいえ俺達にとっても彼等の働きが重要になってくるんだから、一々いがみ合ってても意味がない。あんまりつんけんする前にやんわりとケイティを諫めると、彼女はあっさりと矛先を下げる。
まぁ、ケイティもその辺りは分かってるんだろうけど一応言っておかないといけないと思ってたんだろう。実際に前回のあの老人の侵入は、連邦政府にとっても寝耳に水レベルの事態だったんだから。
【筋斗雲】の魔法。これも俺の勝手な命名で、彼等は別の名前で呼んでいるかもしれないが、あの魔法の存在とそれを使って海を渡れる魔法使いの存在は、米国政府や世界冒険者協会、そしてそちら経由で情報を得た世界各国の首脳にとんでもない衝撃を与えたらしい。
熟練の冒険者の戦力は戦車にも匹敵する。トップレベルであればその戦力は戦術級にまで跳ね上がる。
これは、現在世界冒険者協会の支部がある国家の共通認識でもある。仮に俺や恭二がテロに走った場合、それを止める為には数発の戦術核が必要になるそうだ。
いつの間にか範馬勇次郎扱いを受けているのもアレだが、まぁ今回の本題は俺達ではなくかの老人。老師とも呼ばれる人物の事だ。
「イチロー」
「うん?」
高級リムジンの中。向かい合うように座っていた俺にケイティは瞳を閉じ、考え込むような仕草をしたまま声をかけてくる。
「ローシは、イチローより強イ?」
「……分からん。恭二より強いとは感じなかったな」
「OK。ウィルは自分より格上言ってマシタ。イチローからシンイチの間、でレベル設定シマス」
すっと目を開けて彼女は頷き、ふぅ、とため息を吐く。
「信じられマセン。人間サイズの移動手段、まさかキョーちゃんより先に出てクル思ってナカッタです」
「恭二は恭二でそろそろ空位は飛びそうだがな」
「ソレ出来ればもっと先にして欲しいデス」
頭が痛い、とこめかみに手を置くケイティ。ワープが世界にバレたらこれ以上にヤバいんだろうなぁとそっと視線をそらし、窓の外を見る。
窓の外では積もっていた雪が少しずつ解け、ぽつりぽつりと緑が見えてきている。そろそろ冬も終わりだろう。
一花の受験もそろそろ終わるだろうし、近いうちに日本に一度帰るかね。