PSYCHO-PASS VS 楪いのり   作:石神三保

4 / 9
すいません前回の投稿から間が開いてしまいました…去年の年末に投稿をする予定でしたが今日の今日までかかってしまいました。


第四話

 常守は局長室に出頭していた。捜査のために閲覧制限記録の閲覧許可と、雑賀穣治の分析官復帰の許可を公安局局長に直談判するためだった。

 煩わしいメールでのやりとりを避け、一刻でも早く捜査を進展させるのが目的である。焦りは感じていなかったが、手早く解決しないと重大な事態になる、という思いがあった。禾生局長へ出頭する旨の連絡をメールで行ったが、事件が事件だけに、特に異議もなくもなくすんなりとアポイントが取れた。

 局長室の扉の前で、常守は一旦止まり姿勢を正す。ほどなくして扉が開いた。

 

「入りたまえ」

 

 禾生がそう言って、局長室の奥にある執務机から、常守に入室を許可した。

 局長室の扉が開くと常守は「失礼します」と一言発して入室し、禾生の机の前まで近付くと足を止め敬礼をした。

 

「それで、シビュラシステムに問題が無いことが証明できたかね」

 

 禾生は常守に敬礼を解くように片手を上げ、常守に問いただした。

 

「それはまだです。それを証明するためにはいくつかやらなければならないことがあります。その許可を頂きに来ました」

 

「それが雑賀譲二の分析官復帰と、制限がかかっている資料の閲覧というわけかね」

 常守はアポイントを取る際に、禾生に対し事前に用向きを伝えてあったのだ。

「はい」

 

 そう短く返答えると、常守は脇に抱えていた捜査計画を記したタブレット端末を、禾生の目の前に差し出した。禾生はそれを受け取り黙って資料を眺める。何度かスワイプして捜査計画の書類に一通りの目を通し、読み終わった所で端末を机に置いた。そして、一呼吸置いてから常守に話しかける。

 

「いいだろう。それがシビュラの健全性を証明するために必要であるならば、許可しよう」

「ありがとうございます禾生局長」

 

 『禾生局長』などとは、常守は我ながら茶番を演じているなと思った。だが、これは自分が刑事である限り必要な手順なのだと、刑事を刑事たらしめる根幹に必要なものであると、納得しての行動であった。

 そしてその許諾は、思いの外あっさりと出された。

 常守はタブレット端末を受け取り、脇に抱え退出しようと踵を返そうとした。だが常守がそうする前に、禾生は常守を呼び止めた。

 

「ああそれと、かねがね君たちが不満を漏らしている人員不足の件だが」

「はい?」

 

 自分では許可を取りに来ただけのつもりであったため、常守は禾生からのアプローチは予想していなかった。しかもここへ来て、人員の問題についてとは。そのため疑問の声を上げたのだった。

 

「紹介したい人物がいる。入りたまえ」

 

 常守は完全に不意を突かれていた。発するべき言葉を頭の中で探しているうちに、常守が入ってきた局長室の扉から、一人の若い女性が入ってきた。常守よりも身長はやや低く、150cm台後半だろうか小柄な印象を受ける。ブラックフォーマルなレディーススーツにタイトスカート、インナーは清潔感のある白い襟付きのシャツ、髪はウェービィなミディアムボブで軽量感がある。一目で、役所勤めをしているとわかる容姿だった。

 

「彼女は……」

 

 そんな女性の印象を、常守は頭でかみ砕きながら、禾生に事の次第を尋ねようとした。

 代わりに答えたのが、入ってきた女性である。常守に敬礼を掲げながら自己紹介を始めた。

 

「厚生省大臣官房統計情報部から、本日付で臨時監視官を拝命しました『巌永望月』です。厳しく永遠にでイワナガ、望月の(かけ)たることもなしの望月と書いてミツキと読みます。シビュラシステムの健全性を確認するため、公安局刑事課一係に非常勤で配置されました」

 

 清涼感のある、はつらつとした声で自身の身分を常守に明かした。

 

「そう言う事だ。常守監視官」

 

 禾生は余計な説明を省き、短く常守に伝える。そして巌永の前に立っている女性が、常守監視官であることを示したのだ。

 

「あなたが常守朱監視官ですね。よろしく」

 

 そう言って、巌永は常守の前に右手を差し出す。常守は戸惑っていた。人事の話などまるで聞いていない。この状況を受け入れるべきか迷っていた。いくつかの考えが逡巡したが、上層部が何らかの意図をもって、刑事課に人員を送り込んできたことは、すぐに理解できた。おそらく何をしても、この人員配置には逆らえないだろうと言うことは、強く感じられた。常守の要求を通す代わりの、代償と言ったところだろうか。常守の頭ではいくつかの打算が、まばたきをする間にはじき出されていた。結果として、その差し出された右手をとることにしたのだった。

 

「刑事課一係の常守朱です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 戸惑いながらも、常守は差し出された巌永の手を取り握手を交わした。

 

「巌永望月は、新人ばかりの二係三係よりも、私の意志を良く汲んでくれる。彼女の監視官としての能力に心配をすることはない。適性も十分にあることを私が保証する」

 

 禾生の()()()()()()、その言葉で少なくとも禾生局長は、明確な意図を持って巌永望月を、連続サイコハザード事件の捜査にあたっている一係に送り込んできたのだ。果たしてその意図とは何であろうか。

 

「早速だが、君たち二人はその足で、雑賀譲二をを迎えに行ってくれたまえ。君たちが雑賀のいる矯正施設に到着するまでの間に、必要な手続きは済ませておこう。常守監視官と巌永臨時監視官の両名は、協力してシビュラシステムの健全性を証明したまえ。そのためには何を使っても構わない。たとえ必要な人材が潜在犯であろうと、それが必要であるならば利用しても構わないと私は考えている」

 

 その言葉に常守は、禾生壌宗がシビュラシステムの健全性の証明に、強い執着を持っていると感じた。何を使っても良い、であるならば、禾生局長が作り出したこの状況を、積極的に利用するべきだと考えた。いつだったか霜月に言われた、空気を読むべき時だと常守は思った。第一歩として、雑賀譲二の分析官復帰という交渉は成立したのだ。ここで躊躇う理由は無かった。

 

「了解しました。常守朱、雑賀教授の召還に向かいます」

 

 今は急ごう、そう考え常守は敬礼しながら禾生の命令を復唱した。同様に巌永も禾生に敬礼をする。

 二人はそれから言葉を交わすこと無く、局長室を退出した。

 

 ――禾生は常守と巌永が立ち去ると、椅子を回転させ机を背後にしながら立ち上がり、独り言を呟いていた。

「さて、彼女は上手くやってくれるだろうかね」――

 

 

 常守は地下にある駐車場へ行くために、エレベーターへと歩みを向けていた。

 

「ちゃんとした自己紹介がまだでしたね、巌永さん。歩きながらでもいいかしら」

「禾生局長から、常守監視官のことは聞き及んでいます。堅苦しい挨拶は抜きで構いませんよ」

「そうですか……」

 

 常守の巌永に対する第一印象は、真面目で明るそうな人物というものだった。きな臭さがまるでない、典型的な役人のように見えた。だが、それがどうも引っかかる。不審な点が無いことが不審なのだ。明らかに不自然で急な人員配置、普通であればもう少し何かクセのある人物を、送り込んでくる様に思える。モヤモヤとした感情が、常守の胸の中を覆っていた。不安を払拭するために、常守は巌永に直接聞いた。

 

「巌永さんは、どうして刑事課に臨時配置されたのですか?私達刑事課は何も聞いていなかったので、良ければ理由を教えてくれませんか」

「そうですね、一言で言えば実地でのデータ収集と解析、その分析結果を用いて捜査に協力する、と言ったことです」

「刑事課が提出したデータに、不審な所があると言うことですか?」

「いえ、そんな事はないですよ。捜査資料に用いる元データはシビュラの監視下で取得されていますし、そこへの不信感は全く無いです。目的をもっと簡単に言えば、この目で確認してこいという、至極単純な理由なんですよ」

 

 巌永は軽快なイメージのウェーブがかった髪を揺らし、常守に微笑みを交えながら答えた。

 予想に反して、柔和な表情を見せた巌永に、常守は自分の感情が表情に出すぎていたのだろうか、不安な様子が表に出てしまっていたのではないかと思った。少し考えすぎただろうか。

 常守の不安を払拭するように、巌永が話を続けた。

 

「私の所属は、大臣官房統計情報部であることは、先ほど自己紹介した通りですが、この部が何をしているかというと、実際に行われた犯罪、その種類と犯罪係数、それらの相関を統計的に解析するのが、主な仕事です」

 

 巌永は歩きながらも、常に明瞭な受け答えをする。その立ち居振る舞いで、巌永に明確な目的と意思が存在することが感じられた。

 

「つまり、その統計が正しいかどうか、シビュラの健全性を確認している部署になります。仕事の内容は細かく別れていますが、概ねサイコパスの判定に用いるナレッジベースの管理運用、と考えていただければ良いと思います。実際の判定がどう行われたのか検証する、と言うのが今回の公安局刑事課へ派遣された目的です」

 

 巌永がそう話し終える頃には、エレベーターが到着した。二人はエレベーターに乗り、地下にある駐車場へ向かう。常守は話を続けるために、巌永に声をかけた。

 

「判定の検証ですか?」

「何をどう判定したのか、実際の現場で、どのようにシビュラシステムが用いられたのか、と言ったことの検証です。現在刑事課では、刑事事件になるかならないか、微妙な案件を取り扱っていると聞いておりますので、その解決に力添えが出来ると思いますよ」

「つまり、外部から見た方が、()()()こともある、と言うことでしょうか」

「そう考えてもらって構いません」

 

 巌永がそう言い終えるのと同時に、エレベーターは地下駐車場へと到着した。常守は、ドア側に立っていた巌永を先に通して後に続く。常守がエレベーターを降りた所で先に立ち、乗ってきたセダンタイプの公用車へと歩みを向けた。

 

「早々に私に付き合わせてしまって悪いけれど」

 

 常守はそう言って車のロックをはずし、巌永を車の助手席に乗せる。

 常守は運転席に着くと、ナビゲーションに雑賀の収容されている所沢の矯正隔離施設を目的地として入力し、自動運転モードに切り替えた。

 車が発進すると、巌永が常守に対し、捜査資料の閲覧を申し出てきた。

 

「到着するまでに、捜査資料を読み込んでおきたいと思います。ファイルを共有していただいても構いませんか?」

「構いませんよ。IDは?」

 

 巌永は自分が持っているタブレット端末に暗号化されたIDを表示し、それを常守の端末に向ける。巌永のIDを読み込んだ後に、常守がファイル閲覧の許可のパスワードを打ち込む。

 

「ありがとうございます」

 

 そう言うと巌永は早速、捜査ファイルに目を通し始めた。

 

「何か質問があったら、遠慮無く言ってください」

「了解です」

 そのようなやりとりを交わしている間に、公用車は首都高へ乗り入れ、行く先を郊外に向けていった。

 

 *

 

 雑賀の収容されている矯正隔離施設までの道すがら、常守と巌永は雑談も交えて、捜査の話をしていた。曰く住所は南青山である、曰く年齢は常守よりも一つ年上である、曰くまだ独身であるなど、身の上話を交わして巌永の素性を知ることが出来た。矯正施設に着く頃には、二人は打ち解けた雰囲気になっていた。

 

「悪いけど巌永さんは、車で待っていてください」

「わかりました。私のことは気にせず行ってきてください」

「正直なことを言うこと、あなたのサイコパスが、どれだけ強いのか判らなくて不安という理由が一番強いです。これから私が会いに行くのは、まがりなりにも潜在犯ですから」

 

 嘘は言っていなかった。かつて雑賀譲二が犯罪心理学の講義を行った際、受講者の色相が悪化してしまった事例があるからだ。その後、潜在犯になってしまった受講生もいる。狡噛慎也のように。したがっていくら厚生省の人間であろうと、簡単に雑賀へ面通しをするのは控えた方が良いと思ったのだ。

 もう一つの理由は、巌永には言わなかった。それに関して常守は、できれば雑賀と二人だけで話をしたいと考えていたからだ。

 

 巌永を車に残し、常守は隔離施設の窓口へと向かう。そこにいるスタッフに用向きを伝え、確認を取る作業に入る。局長室からここまでの移動の間に、禾生が手続きを終わらせていたため、簡単なIDの照合で隔離施設の内部へと入ることができた。

 施設職員棟と隔離棟は分厚い二重の扉で区切られており、万が一にも外部の人間と内部の人間とが接触しないよう、厳重な監視管理体制になっていた。

 常守は一人その扉をくぐっていく。多くの収容者にとっては、二度と戻ることはない道を進んでいく。例外があるとすれば、社会にとってその能力が、潜在犯と比しても大いに有用であると認められた場合のみである。公安局刑事課の執行官のように。

 二重の扉をくぐると、案内兼護衛用のドローンが待ち受けていた。そして常守の前を進んでいく。いくつもの規格が統一された部屋の間を抜け、雑賀譲二の収監されている独房へと一定の歩幅で歩いて行く。不意の来訪者に気付いた収容者が小窓からこちらを覗き込む。刺激を与えないために、視線を感じながらも目を合わすことなく、歩くスピードを変えずに機械のごとく進んでいく。

 そうやってようやく、雑賀の房の前まで来た。センサーが常守をスキャンして身元を照合、そして固く閉ざされた扉が開く。そこには強化ガラスで区切られた接見室があった。パイプ椅子が一脚置いてあるだけの、他には何も無い空間であった。

 そしてガラスの向こうにある什器に、雑賀は腰をかけて待っていた。

 

「待っていたよ、常守監視官」

「お久しぶりで雑賀教授。お変わりありませんか?」

 

 雑賀の独房は、何処かの研究室のように、山積みの書類の束が置かれた机、そして周囲はその机を取り囲むように、紙の本で埋め尽くされた本棚が置かれていた。

 潜在犯であっても軽度であるならば、ある程度私物を部屋に持ち込むものが許されている。一度社会にとって不用な人物であると烙印を押した後でも、一応は人権に配慮しているのである。社会から隔離され、人に影響を微塵も与えないのであれば、自由にしていいと。世捨て人となって初めて得られる自由がある、そういったこの社会の歪みが、集約されているのがこの場所だった。

 雑賀は、常守の社交辞令に答える。

 

「ああ変わりないよ。一見退屈そうに見えるかもしれないが、考える時間が無限にある、これはこれで優雅な生活なのだよ」

 

 雑賀は突然の来訪者にも、落ち着いた様子で対応をした。

 

「サイコパスさえ安定していれば、好きな本をいくらでも読めるからね」

 

 そう言って手に持ったハードカバーの本を閉じて常守に見せた。

 

「私はある事件について、雑賀教授の協力が必要だと考えてこちらに来ました。分析官として是非にも、刑事課に来ていただきたいです」

「詳しく聞こうか。今なら、二人だけで話せるしね」

 

 雑賀はそう言うと、常守に接見室にあるパイプ椅子に座るよう手で促す。

 常守は、椅子を強化ガラスの前まで引き寄せた後、雑賀に捜査の状況を知らせるため、捜査資料を収めた端末を接見室の脇にあるパスボックスに入れた。パスボックスの中でX線スキャンが行われ、武器や爆発物でないことが確認される。その上で、端末が雑賀の手に渡る。

 雑賀は端末を受け取ると、自分の机に戻り捜査資料に目を通す。事件のあらましを注意深く読み込んでいた。

 数分後に端末から目を離し、目線を常守へ向けた。

 

「ふむ。シビュラが感知できない何らかの方法を使われて、サイコパスが共鳴を引き起こしていて、連続サイコハザード事件が起こっている、と。目下のところ原因は不明、捜査も行き詰まっているというわけだ」

「はい」

「鍵になるかもしれないのは、『サイマティックスキャン消耗症候群』の患者と、新型量子メモリー増設に伴うシビュラのアップデート。それから『楪いのり』か」

 雑賀は捜査資料から要点を抜き出す。それを口にして常守に伝えることで、自分の理解を深めていく。

「君は、新型量子メモリーによる不具合を疑っているわけだ。より完全性を目指すために新たに作られた、シビュラの補助システムを」

「そのとおりです」

「刑事のカンってやつかね?」

「今はそう言うしかないかと思います。ただこの事件、『楪いのり』の登場によって単なるシビュラの不具合、バグの類ではなさそうだと考えています。なぜ私達には見たり聞いたりできるのに、システムを通すと一切、存在を証明する物が残らないのか。そこがわからないんです」

 

 雑賀は静かに目を閉じ、深く考えこむような姿勢となった。しばしの沈黙の後、再び常守に目線を合わせ話を始めた。

 

「ふむ、この事件で現れた『楪いのり』はシビュラが感知できていないのではなく、『楪いのり』感知していても、感知していたとは判別できないのだとしたら?楪いのりはシビュラにとって何の矛盾も無く、シビュラの見ている世界の外側に存在していたのだとしたら」

「鹿矛囲桐斗の事件のように、ですか?」

 雑賀の言葉で、常守はすぐにその事件を思い出した。敬愛していた祖母を巻き込み、刑事課に多数の殉職者を出し、今に至る苦境を生み出してしまった事件を。

「確かに似ていると思うが、あれはセンサーが反応しない、言わば感覚器の問題であったと言える。そう言えばあの時は全能者のパラドックスの話をしたね」

 

 その事件の時、雑賀は臨時の分析官として刑事課にいた。常守なら、すぐその事件を思い出すだろうと思っていた。その前提知識があったことを承知の上で、常守にこの事件に対する、一つの仮説を話し始めた。

 

「そうではなく、感覚器が感知してもそれを感覚として処理できなかったとしたら。その存在が起こす一切合切が無矛盾に合理的に処理されているとしたら。人間の目では存在するが、シビュラの目には存在していないもの。シビュラにとっては名前の無い怪物と言ったところだろうかね」

「名前の無い怪物……ですか」

「君は『ゲーデルの不完全性定理』というものを知っているかね?」

「いえ。全く」

 

 常守は聞き覚えがなかった。一通りの学業を修めてはいるが、専門性が高くなると、知らない知識も多いのが実情である。シビュラの適性診断によって、十代後半にはおおよその進路が決定する。その適性にあった職業に対する教育に重点が置かれる。言わば余計な勉学をしないで済む様、合理的に教育がなされているのである。

 

「そうか知らないか。まあ2080年代に大学制度が役目を失って久しいから、専門外の事柄を知る切っ掛けも無くなっているのだろう」

 

 常守が自分の言った言葉を知らないと確認した雑賀は、深く腰をかけていたキャスター付きの椅子から立ち上がり、部屋にあった、色々な言葉や図形や記号が書き込まれたままのインタラクティブホワイトボードを、部屋の奥から引っ張り出してきた。そしてまるで講義をするかのように、強化ガラス製の窓越しから常守に話を始めた。

 

「ゲーデルの不完全性定理とは簡単に言えばこうだ。全てを算術可能な理論が存在し、それが無矛盾であれば、証明も反証も出来ない命題が必ず存在する。これを第一不完全性定理という。算術可能とはシビュラシステムの原理のように、観測データから帰納的に公理化可能な理論と考えればいい。もしシビュラが完全に人の思考を全て算術している公理で動いているのであれば、不完全性定理によって必ず証明も反証も出来ない命題が存在することになる。これは全てを公理、つまり計算式に変換が可能なシステムの理論が必ず持つ宿命なのだよ」

 

 雑賀はインタラクティブホワイトボードに、模式図を書き込む。知識の無い人間にどうやって説明をするのか、要点をかみ砕き考えながら板書をしていた。

 

「そして次だ。もし公理化可能な理論が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。これを第二不完全性定理という。つまりシビュラがいくら自分は正しいと言ったところで、正しいのか間違っているのか不明な問題が、シビュラの理論の中に存在するんだよ。シビュラ自体が『自分の理論体系は完璧に正しい』と証明することは、そもそもの問題として不可能なんだ」

 

 雑賀は書き込んだ模式図に、大きな×を付ける。そして再び常守に向かう。

 

「哲学では『自己言及のパラドックス』なんて言われちゃいるがね。自己言及のパラドックス自体は紀元前の古代ギリシアの哲学者のエウブリデスが考案したんだが、それが数学の世界でも同様に起こる現象であることが証明されているんだよ。証明されたのは1930年頃、ずいぶん昔の話なんだがね。すっかり皆忘れてしまっているが、数学を学問的に追究する人間には、よく知られている真理なのだよ」

 

 常守が必死の形相で話を聞いているのを見て、雑賀は少し話の手綱を緩めた。

 

「まあ、より詳しい話は私ではなく数学者に聞くといい。前置きが長かったね、つまり全てをスコアにして算術化するシステムは、どうにもできない問題が生じた場合に、自分自身では解決できなかったり、自身がミスを犯していてもそれを自覚する事ができないんだよ」

 

 雑賀が最も言いたいことを要約して伝えた。そしてより常守がこの話を理解できるよう、常守の知識にある物を利用する。

 

「経済省が開発した『パノプティコン』については知っているね」

「はい。鹿矛囲桐斗が生まれるきっかけとなった『地獄の季節』を生んだシステムですね」

「そうだ。あれは交通と銀行履歴をスコア化して理想的な国民支援制度として開発された、完全な機械による統治を目指したシステムだった」

 

 パプノティコン、それは経済省が厚生省から司法権及び行政権を奪還すべく開発した、シビュラに取って代わるはずの国民管理システムだった。

 

「この機械による理想的、つまり公理化可能なシステムによってのみ構成される管理制度、と言うこと自体が問題を生み出す要因だったんだ。おかげでシステムが気付けなかった問題が噴出し、結果として「地獄の季節」を産んでしまった。経済省は根本的な間違いに気付いていなかったんだよ」

 

 雑賀は、パノプティコンの根本的な失敗の原因に言及する。そして、常守の中に芽生えた漠然とした疑問を、表に引き出すことに成功した。

 

「つまりシビュラも間違いを犯しているはずだと?」

「そこだ。ゲーデルの不完全性定理が存在する限り、システムが解決できない問題を抱えているはずなのだがね。だが実情はどうだ。完全無欠のミスが存在しない、ミスの存在があり得ないシステムとして運用されている。不思議だとは思わないかね?」

 

 雑賀は、己の持つシビュラに対しての疑問点を、堂々と明らかにした。

 常守はその疑問に対して、率直に自分の意見を述べる。

 

「シビュラシステムで解決できない問題があるからこそ、刑事課が犯罪捜査に当たるのでは?」

「違うな。それはシビュラが、問題があると認識している。つまりきちんと算術した結果、人であるならば解決できる問題、『刑事事件』という形で計算結果をはじき出しているだけだ」

 雑賀は常守の意見に答え、一呼吸置いて話を続けた。

「そうではなく、もしもシビュラが完全に公理によって形作られているのであれば、シビュラ自身が認識できない問題が、何かしら存在すると言うことだよ」

 そう言うと雑賀は、板書をしていた手を止め、机に軽く腰をかけて腕組みをした。そして、何かを計算しているかのように、腕を組みながら、せわしなく人差し指を動かしていた。

「目下の運用上、そんな解決できない命題が無いように見える。と言うことは、帰納的にシビュラシステムは『完全に全ての事柄を()()()()()()()()()()()()()()()()』のではなかろうかという結論に至ることができる」

 

 改めて常守に目線を合わせ、持論の結論を常守に提示した。

 常守の表情は相変わらず硬く、頭の中で考えが錯綜しているようであった。

 そこで雑賀は、声のトーンを変えて、常守の思考回路に緩みを持たせようと考えた。

 

「もっと雑に言ってしまえば、シビュラが自己解決できる問題があるうちは不完全なコンピューターシステムであり、自己解決が不能な問題が現れたのであれば完全に近いコンピューターシステムである、ということだ」

 

 雑賀は組んでいた両腕を開き、これは簡単な話なのだと、ボディランゲージで常守に示す。

 常守はようやく雑賀の話を、頭の中で消化できたのか、長い沈黙を破って言葉を発した。

 

「それが今回の事件の手掛かりになると?」

 

 その言葉を出した常守は、口を開いた瞬間、なんて間の抜けた返答をしてしまったのかと、内心で自分自身を恥じた。

 雑賀もそれを察したのか改めて、会話の緊張の糸をほぐすように、常守へ話しかけた。

 

「ああすまん、少々難しい話にしすぎたかな……。いかんな年寄りになると話が長くなって」

「そんなまだ先生はお若いじゃないですか」

 

 常守の表情が緩む。雑賀が気を遣って、自分をリラックスさせようとしてくれているのだと、実感することができた。

 

「よしてくれ。現役を離れたロートルだよ」

 

 常守の緊張が緩まった事を確認できた雑賀は、より常守が理解しやすいように、持論を適度にほぐしながら話す事にした。

 

「そうだな、たとえ話としてこんなのはどうだ。正しいことしかできないロボットが『私は嘘つきです』と言ったとする。だが正しいことしかできないのに嘘をつくというのはおかしい。言葉が真実かどうか区別できない、パラドックスだ。翻って『私は正直者です』と言ったとする。正しいことしかできないのでこの言葉は正しいが、正しい嘘つきが嘘をついても正しいことをしているだけで、言葉の真実の区別が付かない。これもパラドックスだ」

 

 雑賀はパラドックスという、分かり易いキーワードを組み込み、自説が常守に伝わるように工夫を施した。

 常守もそれを即座に理解し、雑賀に答えた。

 

「つまり、シビュラはパラドックスを強引に解決して運営されている、不完全なコンピューターシステムだと言うことですか?」

「ここまでの話で、本当にシビュラは完全な算術システムを使っていると思うかね?どうやって自己言及のパラドックスを解決しているんだ?問題が生じていないのであれば、それは完全な算術システムではない不完全なシステムと言うことだ」

 

 雑賀はシビュラに起こっている問題の、最も重要な要点を抜き出し簡略する。そして自分の推測を言葉にして、常守にそれを話した。

 

「今までのシビュラは、何故自己解決出来ない問題がなかったのか。私にはシビュラではない誰か、あるいはシビュラ自体に、機械的ではない知能が介入していて、自己言及のパラドックスが生じないように調整しているのではないかと思えるんだよ」

 

 次に雑賀は、数学的知見から論理的に導き出される、推測だけで、ある真実の存在、それを臆すること無く口にした。

 そして核心に迫る。

 

「不完全なシステム故に、調()()()と名付けるべきか、そういった物の存在がシステムに組み込まれているのではないか、まあこれは私の仮説、推測の域をでていないんだがね」

 

 常守は驚愕した。常守は「()()」が何かを知っている。自分の目でそれを確認したから知っているのだ、あれを。だがこの人はどうだ。論理性をもって思考性のみをもって、()()()()を示唆したのだ。何一つ物的証拠も無しに、()()()()にたどり着いてしまったのだ。シビュラシステムにとっては、脅威以外の何者でもない。人に危害を加える恐れが無いこの人を、潜在犯に仕立て上げなければならない理由が、これなのだ。常守はその事を、今はっきりと確信した。

 雑賀は話を続けた。

 

「実のところ、これまでシビュラが完全なコンピューターシステムである事は自称したことはない。大量のスーパーコンピューターによる並列分散処理とは言っているが、その処理の判断をしているシステムのことについては、まるで語られていない。どんな理論に基づくAIを使っているのか、いや管理にAIを使っているのかいないのかすら、明かじゃあない」

「言われてみれば確かにそうですね……機械によって公平な社会の運営がなされている、と信じ込まされているだけですね……」

「そうだ。シビュラに対しては民衆の()()()()存在しない。しばしばアップデートと称してはいるが、この肝心の部分のシステムを民衆の信用を利用して、公然と入れ替えているのではないかと思うのだよ。そのアップデートによって、身近には問題が現れないから、皆は小さな修正だと思い込んでいる。しかし、実のところは大胆に、以前の不完全な部分を修正しているのではないか、と邪推するわけだ。より完全性を目指して、新たな技術を取り入れているのではないかとね。完全性を目指しているのは間違いない。それはこの国の歴史が、国民が、それを証明している」

 

 常守は常にシビュラの庇護の元、現在の職務を遂行している。シビュラの目指している理屈という物は、理解しているつもりであった。だがその理解を超えた何かが起こっている。そのヒントを、雑賀は与えてくれたのだ。

 

「シビュラが不完全性を是正し、より完全性に近付いた結果として、自身では解決できない問題を引き起こしている。そう考えると事件の真相が浮かび上がってくる、と言うことでしょうか」

 

 常守の、その理解力に雑賀は満足し、無精髭を生やした口元から笑顔がこぼれた。

 

「そう言う事だな。流石に察しが良い。その明晰さが君の持ち味だ」

「そんな事はありませんよ……」

「謙遜することは無いさ。刑事にとって、相手の言葉を理解する、ということはとても大事な資質だ。君はそれを、上手く使いこなせている」

「恐縮です……」

「それでだが、シビュラシステム、ありゃあ本当に存在するのかね?」

 雑賀の目が、眼鏡のレンズ越しにでもわかるほどに、鋭く光る。雑賀は、シビュラの抱えている秘密に確信があるのだ。

「疑いを持つならそこからだ」

 

 最後に常守へ対して念を押すように言った。シビュラを疑えと。

 

「もっともシビュラの存在に疑問を持ったりするから、色相が悪化して潜在犯になっちまうんだ。っと今のは愚痴だよ」

 

 息を呑むような目つきから一転、雑賀は冗談めかして表情を緩める。そしてそれは、雑賀の展開する持論が終わりを迎えたことも示していた。

 

「今話せるのはこれくらいだ。何か質問は?」

「すみません頭の中がまだ整理されきれていなくて、たくさん疑問点はあるのですが、とりあえず」

「そう言えば、君は私が分析官に復帰することの同意を取っていなかったね。私が復帰しないと言う可能性は考えていなかったのかな?」

「雑賀教授なら、断らないと思っていましたから」

「そうかい。そりゃ大正解だ」

「改めまして雑賀教授、公安局刑事課の分析官に復帰されることを、お願いいたします」

「謹んで拝命するよ」

 

 そう言って雑賀は話を切り上げ、椅子から立ち上がった。そして釈放への身支度を始める。既に準備をしていたのだろう、いくつかの私物をまとめたカバンをロッカーから、引き出してきた。

 その間に警備用ドローンがやってきて、雑賀の独房のロックを解除する。

 

「行こうか常守監視官。またしばらくご厄介になるよ」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 雑賀と常守がそう言葉を交わすと、雑賀を社会から隔離していた扉が開き、晴れて雑賀はかりそめの自由を手にした。そして二人は独房を後にし、無機質でなんの刺激性も無い隔離施設の廊下へと、その歩みを進めていった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。