PSYCHO-PASS VS 楪いのり   作:石神三保

7 / 9
予定より一週間遅れてしまいましたが、なんとか書き上げました。次回最終回の予定です。


第七話

 常守は親友である水無瀬佳織と何度かメッセージのやりとりをして、諸々の退院に必要な物を持って、迎えに来てもらうよう手はずを整えた。

 その後、午前中再び検査と診察が行われ、そして退院はその日の午後、すぐにでも可能であることが担当医から告げられた。佳織とは病室で落ち合うことにしていたので、診察後は病室に戻り退院の支度を始めた。昼食の入院食を取りやめることをナースセンターに連絡し、その代わりに昼食は佳織と一緒に、お礼代わりのランチをどこかのレストランでとろうと考えていた。

 診察を終えて身の回りの支度をしていると、ほどなくして常守の病室のドアがノックされた。「どうぞ」と常守が返答すると、ドアが開き隙間から見慣れた親友の顔が見えてきた。

 

「ごめん、ちょっと早かったかな?」

「ううん、大丈夫。それよりも身重なのに雑用を頼んでしまってごめんね」

「いいわよそれくらい、友達なんだから」

 

 佳織は常守に不安を与えないようとしているたのだろうか、いつもと変わらぬ調子の話し方で常守に接してきた。佳織は昨年シビュラシステムが選んだ相手と結婚し、現在は妊娠中であった。

 

「まあ、身重とは言っても全然お腹も出てきていないし、正直あまり普段の生活は変わらないのよね。食事が気になるくらいで。だから雑用程度だったら、まだまだ普通にできるからご心配なく」

「でも、佳織がお母さんになるなんて、信じられない。私もいつか母親になるのかな?」

「そりゃなれるでしょう。相手がいなかったらシビュラシステムから候補を推薦して貰えば良いし。もっとも朱様のお眼鏡にかなう人がいるかは、誰にもわからないけれど」

 

 常守はシビュラシステムに相手を選んでもらうことには、当然のごとく抵抗がある。したがって佳織の言葉に少し反感を覚えたが、内心に留めておける些細な事であったので、表情にも口にもそれは出さなかった。

 

「将来のことは、そのうち考えるわ。それよりも今は目先のこと、この顔を何とかしなきゃ」

「そうだった。また派手にやったみたいね……朱のことだから、また無理したんでしょ?」

「ちょっと、ね」

 

 常守はこうなってしまった原因について話すことは、彼女の色相が濁らせてしまうと懸念した。それなので内容については佳織に話さず、生返事で返してしまった。

 

「ふうん、待ってて私がお化粧してあげる」

「いいよ、自分でやるから」

「怪我人なんだから、いいのいいの。大人しく私に任せなさい」

「それじゃぁ……お願い」

「よろしい」

 

 佳織は常守に笑顔を向けると、荷物の入ったカバンの中から化粧ポーチを取り出した。常守は佳織がメイクしやすい様に、部屋に据え付けられていたパイプ椅子に座り、目を閉じて顔を佳織の方へと向けた。佳織は常守の肌の色に合う様なファンデーションを取り出し、顔に残る痣を隠すメイクを施していった。

 

「痛っ……」

「あっごめん、痛かった?」

「平気。痛み止めも効いているし」

「それじゃ、本当に軽くやさしくやるわね」

 

 常守は佳織に任せるがまま、しばらく目を瞑ってじっとしていた。

 

「ほら、できたわよ。こんなものでどうかしら?」

 

 そう言うと佳織は、常守に手鏡を渡す。常守はおそるおそる鏡を覗き込んだが、佳織の手際がよかったのだろう。ほとんど痣が消えて、擦り傷に貼られたテープを除けば、普段の顔とあまり変わらない印象になった。

 

「それから、これが替えの下着。上に着るホロジャケットも持ってきたわ」

 

 佳織は常守に持ってきた手提げ袋を渡す。

 

「何から何まで、ありがとう。お礼にこのあとランチどう?」

「そうね。今日はそれで手を打ちましょう。本当に大したことじゃないから」

「それじゃ私ロビーで待ってるわね」

 

 それから常守と佳織は病院のロビーで合流し、病院をあとにした。病院から自宅までは距離があったが、約束のランチを食べるレストランを探す目的もあり、病院で待機しているタクシーは使わず徒歩で病院をあとにした。そして、病院の近くにある、商業施設が集中するエリアへ二人で雑談をしながら歩いて行った。

 

「ここがいいんじゃない?」

 

 佳織は洒落たテラス席付きのレストランに目を付け、常守にこの店に入ることを提案した。

 

「私ちょっとこの店、気になってたんだ。ちょっと男性は入りづらい雰囲気でしょう?だから旦那と同伴では来づらかったのよね」

「そんなものなの?」

「そうよ。なんだかんだで家庭に入ると独身の時みたいには、いかなくなるんだから」

 

 そう佳織は不満げな口調で話したが、常守には惚気話にしか聞こえなかった。

 二人はレストランのテラス席に座った。そして各々がああでもない、こうでもないと言いながら、注文するものを決めて席に据え付けられていた端末に入力した。

 ほどなくして、給仕ドローンが二人の席まで料理を持ってきた。常守にとって、佳織との会話は癒やしであった。今朝まで続いた緊張感から解き放たれ、心が穏やかになっていくのを実感していた。

 ランチを食べ終えるのに三十分ほどかけ、最後に食後のコーヒーを注文する。その時、二人の間にあった気遣いの空気が緩み、佳織が鼻歌を歌い出した。最初、常守はそんな鼻歌を歌う佳織を眺め、ご機嫌は取れたようで微笑ましいと思ってしばらく見ていた。だが、彼女の調子外れな鼻歌のメロディーに聞き覚えがあることに気が付いた。

 そして刹那、常守はその曲が何であるのかに気付き、電撃を受けた様な衝撃を受けた。あれは、あの歌だと。

 

「ちょっ、ちょっと待って佳織、その歌はどこで?」

「えっ、この歌?」

「曲名は?いつ誰に教えてもらったの?」

「ちょっと待ってよ朱、なにそんなに興奮してるの?」

 

 常守は、思わず佳織の両肩を押さえてしまっていたことに気付く。

 

「ごめんなさい。その歌は今関わっている事件の鍵になりそうな歌なの。ねえお願い、どんな些細な事でもいいから、なにか教えてもらえない?」

 

 さっきまでの常守の雰囲気とは打って変わり、極めて真剣な眼差しを向けられているのに佳織は気付いた。

 

「いいけど、そんなに大したことじゃないわよ。胎教をする新米ママさんのサークルがあって、そこで歌われていた歌なの。本当にそれだけよ。何か問題のある歌なの?」

「ううん、大丈夫。問題があるとかではなくて、公式なアーカイブに残っていない歌なので気になっただけ。どうして、それを佳織が知っているのか由来が知りたかったの。私も大げさに聞いちゃってごめんなさい」

 

 常守は今回の事件のことを佳織に言うまいと思っていたが、少ない手がかりが見えたため、思わず佳織の都合を忘れてしまったことを反省していた。

 

「もしよかったら、集会の主催者に聞いてみる?連絡先教えるわよ」

「ありがとう。そうしてくれると助かるわ」

 

 この情報は事件解決の糸口になるかもしれない、そんな期待が常守の胸に湧いてきた。本当にこの親友は、自分が苦しい時の助けになってくれる、常守には感謝しかなかった。

 佳織から連絡先を受け取った後、少しその胎教サークルのことについても尋ねてみた。佳織から語られる範囲では、事件を起こすようなグループとは思えなかった。少なくとも佳織は、事件とは全く無関係と言っていいだろう。

 一悶着はあったものの、久しぶりの友人との会話を楽しんだ常守と佳織は、各々タクシーを拾って自宅に帰ることにした。通りに出て、自動運転で周回しているタクシーを呼び止める。そして常守は、先に佳織をタクシーに乗せた。多少二人の間でどちらが先に乗るのか遠慮のしあいがあったが、常守に促されると佳織は「お先に」と一言声をかけて、タクシーの後部座席に乗った。

 

「朱、がんばんなさいよ。それから無理しないで。何か助けが欲しかったらいつでも連絡ちょうだい」

「ありがとう佳織。今日は本当に助かったわ」

「それじゃね」

 

 そう常守に告げると、佳織は自動運転化されたタクシーに行き先を告げ、常守と別れた。

 その後常守もタクシーに乗り、自宅へと向かった。帰りの車内でメールをチェックする。霜月からは一係の各員に、休息を取るように指示を出したとの報告が入っていた。今日の時点での捜査報告は霜月がまとめ上げ、メールにファイルが添付してあった。

 

「みんな、がんばってくれたんだ」

 

 常守は安堵した。それぞれが自分の有用性を示すため、各々が為すべきを為す、今の一係の強い連携が常守の抜けた穴を塞いでくれていた。常守は一通り添付された資料に目を通すと、その報告のため、現在現場の指揮をしている霜月に電話をかけた。

 

『霜月です』

 

 短く霜月が呼び出しに応える。

 

「常守です。一応退院できたのでその報告を。あと送ってくれた捜査ファイルの方は、一通り目を通したわ」

『確認が早いですね。あまり無理をしないでくださいよ?この際だから、しっかり休んでください。報告書にあるとおり、こちらでも捜査は続けていますし』

「体の方はもう大丈夫だから。ちゃんと医師の診断も受けているし。それよりも美佳ちゃん、明日私はこの事件の捜査本部を立ち上げようと思ってるの。だから刑事課の二係三係にも連絡してちょうだい」

『捜査本部ですか?まぁわかりました。でも監視官の方は訓練中なので、集めるのは難しいと思いますよ。二係三係から来られるのは良くても執行官が一人か二人。監視官が加わらないんじゃ、とても私と先輩と巌永さんの三人でまとめきれないですよ?』

「捜査範囲が広範囲になりそうなので少しでも手が欲しいわ。情報分析だけでも手伝って貰えれば、唐之杜さんや雑賀先生の負担も軽くできるから。お願い」

『そうですね。とりあえずは明日の捜査会議で話しましょう。一係の皆さんも、もう休んでもらってますから』

「美佳ちゃんも、切りの良い所で休んでね」

『そうさせてもらいます』

「それじゃ」

 

 常守が電話を切るとほどなく、自宅マンションの前にタクシーが止まった。料金を精算しタクシーを降り自室に向かう。自室に入ると即座にホームセクレタリーのスイッチを入れ、いつものとおり、留守中の配達物の確認や洗い物や洗濯物の後始末をはじめた。残された家事をやろうと思い立ちホームオートメーションを立ち上げたが、洗濯物をランドリーに放り込んだ所で力尽き、そのままベッドで眠ってしまった。

 気が付くと朝になっていた。まだ出勤には早い時間帯であったが、昨晩入浴していないこともあり、まずは朝一番にシャワーを浴びる事にした。シャワーを浴びる前にクッキングマシンへ朝食のメニューを入力しておき、風呂上がりと同時に朝食がとれるようにタイマーをセットしておいた。

シャワーから上がると髪を乾かし、その後クッキングマシンが用意した朝食をとりながら、テレビでニュースを確認した。サイコハザードのような色相を悪化させるニュースは情報統制によって流れてこない。人気のヴァーチャルアイドルの密着取材だとか、最新のペットロボットがどうとか、どうでも良い情報が垂れ流されている。当然一昨日の矯正施設襲撃事件もニュースにはなっていない。

 朝食をとり終えると常守は新しいスーツに着替え、メイクを施して身だしなみを整え、厚生省公安局刑事課のオフィスへ出勤した。事件を抱えていなければ、いつもどおりの朝であった。

 

 

 常守が刑事課のオフィスに入ると、一係のメンバーは既に全員揃っていた。分析官の唐之杜と雑賀はこの場にいない。

 

「みんな心配かけてごめんなさい。このとおり私は大丈夫だから」

 

 常守はオフィスに入ると開口一番、自分の身に問題がないことを皆へ告げた。下手に気遣われて、今後の捜査に支障が出るのを避けたい思いがあったからだった。

 

「思ったよりも大丈夫そうだな」

 

 宜野座がねぎらうように常守に答えた。

 

「これからどうします?」

 

 須郷が常守に尋ねた。

 

「みんな霜月監視官から聞いていると思いますが、捜査本部の設置を考えています。第一会議室で会議を行いますので、そちらへ移動しましょう。捜査の進捗状況の報告と、今後の方針を刑事課全体で共有します」

 

 その言葉を受けて、霜月が常守に報告をする。

 

「準備はできてますよ。ただやはり他からの応援は限られました。二係からはゼロ、三係からは数名だけ。しかも執行官のみですね」

「ありがとう美佳ちゃん。少しでも力が借りられれば御の字よ」

 

 その常守の声は前向きな印象であった。一係の間で何度か会話が交わされた後、刑事課全体で捜査情報を共有するために、一行は会議室へと向かった。

 

 

「ほとんど一係じゃないですか」

 

 先に会議室に集まっていた三係の執行官の一人が、一係のメンバーが入ってきたのを見て言った。結局、捜査本部の立ち上げを話し合う会議に参加したのは、事件担当の一係を除くと、三係の波多野、芳賀、堂本の三人のみであった。

 

「なんだ、結局古株が集まっただけかよ」

 

 波多野が不満そうに声を上げる。

 

「仕方がない、新人はそもそもドミネーターに触るのも始めてな状態だ。訓練を早々に切り上げられなかったんだ」

 

 芳賀が波多野に向かって言う。

 

「こっちじゃ本番が始まってるって言うのにな」

 

 堂本が頭の後ろで手を組みながら、上層部を揶揄するような口ぶりで他の人間にきこえるように話した。

 

「はーい、お喋りはそこまで。これで全員揃ったわね」

 

 同じく一係よりも先に会議室に来て準備をしていた唐之杜が、そう言って場の空気を締めると、会議室のプロジェクターに今回の連続サイコハザード事件と、矯正施設での誘拐事件までが時系列で列挙された。

 

「事件の時系列はこんな所よ。とりあえず、今のところ犯人はまだ『不明』としか言いようがないわ。そしてこの犯人がEGOISTの曲を使ってサイコハザード事件を引き起こしていると疑われているのが現状。そして矯正施設で誘拐事件を起こし、常守監視官をノックダウンさせた。ここまではいい?」

 

 それに対して、六合塚が手を上げて意見をする。

 

「犯人については、とりあえず目撃情報から『楪いのり』と呼称する事を提案します」

 

 事実上、この事件で一番関わり合いが深くなった常守が、その提案に意見をした。

 

「名前の無い怪物って訳にもいかないですし、今回の事件をイメージしやすいから名前はそれがいいでしょう」

 

 他のメンバーからは異論が出なかった。犯人に渾名を付けることは、伝統的な刑事捜査のやり方でもある。なにより名前を決めることは、刑事全体でイメージが共有しやすくなり、余計な混乱を招かないで済むようになる。

 

「それでその楪いのりの足取りは?所沢の矯正施設から街頭スキャナーで何処まで行方が追えてますか?」

 

 常守が尋ねる。

 

「それについては須郷執行官から報告を」

「今回幸いなことに、矯正施設の監視カメラで、その姿を捕らえることができてました」

 

 須郷は唐之杜に変わってプロジェクターの前に立ち、説明を始めた。

 

「それでこの画像を解析した結果実は楪いのりは、光学的な迷彩服を着用していたようです。ほらこれ。このヒラヒラとした服」

「これが光学迷彩服?」

 

 霜月が不思議そうな顔で聞き返す。それはあの蒲田の混乱の時に目撃した金魚のようなひらひらとしたステージ衣装のような服と同じであった。蒲田の時には映像に全く残らなかったが、それが矯正施設の方では、はっきりと映像として残されていたのだった。それも不可思議な現象ではあったが、まさかあの衣装に意味があったとは思わなかったのだ。

 

「かなり旧型の光学迷彩服(ステルススーツ)ですが、これを使用すればホログラム無しで姿を隠すことできます。現代の軍用スキャナーの前ではさすがに役に立ちませんが、民生用の街頭スキャナー程度の光学カメラであれば、十分に今でも有効です」

 

 常守はあの所沢の事件で、一番気になっていたことを聞いた。

 

「顔は監視カメラの映像に映ってなかったんですか?」

「残念ながらフードを被っていましたし、なぜかわかりませんが監視カメラの角度がどれも顔を捕らえるような角度になっていなかたったようです」

 

 それを聞いて、宜野座が無念そうに天を仰ぎながら言った。

 

「またしても顔は目撃証言に頼るしかないのか」

「ええ、今のところは。そして楪いのりは所沢の矯正施設を出た後、このステルススーツを使って姿を隠し、逃走を図った模様です」

「でも、足跡くらいは残されていたのでは?」

 

 今度は六合塚が質問をした。

 

「それなんですが、パルクール並みに建物から建物へ飛び移り、足取りを追いにくくされています。それでもなんとか微細な足跡を追って見たのですが、所沢を南進し、多摩湖近辺まで来た所で見失いました」

 

 巌永と雑賀は常守が倒されたあと、楪いのりが少女を抱えたまま、塀や柵や駐車された車といった障害物を、軽々と飛び越えていったのを目撃していた。あの勢いのまま姿を消しつつ、逃走したのだろうということは、予想ができた。そして並みの人間の足取りの追い方では、対応ができなかったのだ。まさに飛び去っていった、という表現が一番合っているように思えた。

 

「当日夜の降雨で足跡が消されたこともありますし、多摩湖の水上を逃走ルートに使ったとしたら、そこから先の足取りを追うのは困難です。これ以上現場から足取りを追うのは不可能だと思います」

 

 唐之杜が呆れるように話をまとめる。

 

「ステルススーツにパルクール、それであっちこっち飛び回られたんじゃ、どっちみちまともな追い方じゃ足取りは掴めそうもないわね」

 

 宜野座は真剣な面持ちになり、この犯人が相当に厄介であると感じたようだった。

 

「少女が少女一人を抱えてそこまでするとは、並みの相手ではなさそうだな」

 

 女性とは言え、刑事の訓練を受けた常守をノックダウンさせてしまう。しかも少女一人を連れ去りながらだ。戦闘訓練のようなものを受けていない限り、人を抱えながら包囲網を突破するなど、常人では不可能である。

宜野座が犯人に対する印象を語った後、須郷の報告が一段落した。流れが滞らないように、唐之杜が会議を進めた。

 

「そんなわけで、犯人の尻尾はまだ掴めていない。だから次は、誘拐事件の被害者と周辺情報のおさらいからね」

 

 犯人については憶測の域を出ない、不確かな情報も多い。したがってはっきりと身元がわかっている、今回の事件の被害者から情報の共有を行っていく事にしたのだ。

 

「これ見てくれるかしら?攫われた子のプロファイル。厚生省から閲覧可能な部分に限られているけれど」

 

 唐之杜はそう言うとプロジェクターに、次の画像を投影した。

 

「一係のみんなはもう知っていると思うけれども、被害者の名前は『茅間芽衣』、年齢は十歳、性別は女性。先天性潜在犯として、所沢の矯正保護センターに生まれた直後から入所。以来現在まで矯正施設内で育てられているわ」

「先天性潜在犯?」

 

 霜月がその言葉に反応した。霜月の眉根が上がる。

 

「そう。先天性潜在犯。話の始まりは、ある女性が妊娠を機に色相が悪化した所から。当然この女性に対して、あらゆるセラピーと投薬が行われたわ。もちろん妊娠した状態で」

 

 次は常守が反応した。親友の佳織が妊娠していたという、身近な出来事があった直近にあったからかもしれない。

 

「そんな、お腹の子に危険はないんですか?」

「一応、血液胎盤関門があるから、それを通過しない薬剤が選ばれて、投薬が行われていたわ。とにかく色相の悪化を防ぎたくって、ずいぶん色々とやったみたいね」

 

 唐之杜が、即座にその質問に答えた。医師としての専門知識も持つ彼女の言葉には、この場にいる人間を納得させる重みがあった。

 

「でも色相は悪化する一方。そして遂に臨月を迎える頃には犯罪係数は100オーバー。それで矯正施設行きになったわ」

 

 その唐之杜の言葉に、常守は言葉を失っていた。霜月は眉間に皺を寄せており、他の執行官達は同情するわけでもなく、困惑するわけでもない、言いようのない表情をしていた。自分の身も潜在犯であるということもあるのだろう、語られる境遇の理不尽さを、受け入れざるを得なかったその苦悩が表情に表れたのだ。

 

「問題はここからよ。その妊婦が施設内で出産をした。その途端に犯罪係数は許容値に一気に回復」

 

 霜月が何かに気付く。目を見開き、唐之杜の顔を追った。

 

「それって……」

 

 唐之杜は霜月のその反応に応じた訳ではなかったが、続けて核心について話した。

 

「生まれた赤ん坊の犯罪係数は約140。つまり潜在犯はこの子だったってわけ」

 

 言葉を失っていた常守が、嘆息するように言葉を出した。何かに贖罪するかのように思わず手で口元を覆ってしまった。

 

「そんな……」

 

 常守は今回矯正施設から拉致された少女が、縢のように幼少期のサイコパス判定で隔離されたのだと思い込んでいた。唐之杜が続けた話は、それよりももっとおぞましいものであった。

 

「先天的な潜在犯。おそらくシヴュラ登場以来初めてのケース。そんなヤバい子供を『楪いのり』が攫っていった。連続サイコハザード事件と関係がないと考える方がおかしいわ」

 

 唐之杜の視線が鋭くなる。

 

「それから両親はその子の親権を放棄」

「なんて無責任な!」

 

 霜月が思わず立ち上がって言った。それに対して唐之杜は、霜月を窘めるように話を続けた。

 

「まあ当然じゃないかしら?無実の罪で矯正施設にまで放り込まれたんだから。いくらお腹を痛めて産んだ子だとしても、そんな子を愛せる度量のある聖母みたいな人ばかりじゃないわ」

 

 あえて唐之杜はドライな言葉で返す。その方が、反論が自分に対して集約され、この場にいる人間同士で言い争いが起こらないと考えたからだ。事実この後、意見の対立は起こらなかった。

 

「そしてその子の親権者になったのが、『帝都製薬・血液脳関門研究所』の所長の細谷介延。親権者には一応連絡はしたけれど、反応は鈍かったわね」

 

 唐之杜は話を戻す。そして一係の中では一番に冷静で、感情的にならない性格の須郷が質問をする。

 

「親権者については、あとで事情を聞きくとして、その親権者が所長になっている帝都製薬の血液脳関門研究所とは?」

「血液ってのはね、直接脳細胞に入るわけではないの。血液脳関門って膜を通して血中の成分が脳細胞に届く仕組みになっている。血液中の薬剤はこの膜を通過しないと脳細胞に作用しない。だから新しいセラピー薬を作っても、この膜を突破出来なければ意味がない。だからそのための専門の研究施設を持っている訳ね」

 

 唐之杜は医師としての専門知識を、この会議にいる人間にも分かるよう丁寧に解説した。

 

「表向きは向精神薬をいかに効率よく血液脳関門を通過させるかを研究している施設だけれど、実際に自前の施設で新薬の治験も行っていて、企業としては珍しい所ね。普通は病院と協力してやるものよ。厚生省もよく認可を出したものだと思うわ」

 

 どうやらこの時点で、唐之杜は何か裏があると感じたらしい。この研究所の情報を掘り下げていた。

 

「その認可についてはこの研究所の出資者の政治力が強くはたらいていると思うわね。出資者は帝都ネットワークグループと東金財団。つまりは厚生省の御用達。色々と話は通しやすかったと思うわよ」

 

 厚生省のノナタワーそして公安局ビルの建設を行ったのが、帝都ネットワーク建設であった。東金財団はシビュラ時代の医療特許などで、大きな既得権益を厚生省から与えられている。どちらも厚生省の身内とも言える関係であった。

 

「出資比率は帝都ネットワークグループが50%、東金財団が50%で株式は上場されてない。だから監査法人が入ることはないから、中でやりたい放題って言う状態ね」

「そこが今回の事件に絡んできた。臭うな」

 

 宜野座が、長年の刑事としての感じた感覚を口にする。政官財の癒着構造は、この場にいる誰の目にも明かに見えていた。

 

「そうね、そんな所が先天性潜在犯の子供を引き取った。矯正施設と外からは内部の様子が窺えない研究所が繋がっている。臭いなんてもんじゃないと私も思うわ」

 

 続けて唐之杜は、プロジェクターに視線を向けて話を戻す。

 

「この研究所だけれど、当然脳の構造についてもよく知っているし、関連論文を見ても脳そのものにアクセスして機能を調べるってのもあるわね。つまり人間の脳の構造についてのスペシャリスト集団。まさに茅間芽衣はサイコパス研究にとって、うってつけの研究対象だったというわけ」

「では、捜査令状(フダ)を取って血液脳関門研究所のガサをするか?」

「慌てないで宜野座くん。正体不明の被疑者と刑事課の刑事の証言だけじゃ、令状は取れそうもないわよ」

 

 そしてこの後どうするのか、唐之杜はその判断を常守に任せようと考えた。

 

「どうする?朱ちゃん」

「そうですね、研究所が直接関わっているという証拠がない以上、周辺情報の洗い出しを徹底してください。あくまで現段階では被害者の関係者、関係機関という立場です。資金の流れや、人の流れで何か掴めるかもしれませんので、その辺りを重点的に探りましょう」

 

 対処する問題が多いため、須郷が常守に具体的な方針を決めてもらうよう、常守に尋ねた。

 

「今後の捜査の方針はどういう方向性で?」

「私からは現時点をもって、刑事課に捜査本部を設置することを提案します。これには事前に、霜月監視官も同意してます」

「そうしましょう。正直、雑賀教授一人と臨時とは言え余所の部署からきた監視官が一人加わっただけじゃ、手が足りないと思っていたもの」

「やれやれ、戦力にはならないってか」

 

 雑賀が腕を組みながら頭を振って戯ける。

 

「そうは言ってないわよ?もっと映像の分析とか、鑑識結果の分析とかやることが多岐にわたるから、その辺を手分けしましょうって話。雑賀教授にはもっと別の面倒くさいことをやってもらうつもりよ」

「それで割り振りは?」

 

 宜野座が端的に常守に尋ねる。

 

「実は皆さんにはまだ言ってなかったんですが、実は偶然にもEGOISTの手がかりが掴めたので、私はそちらの聞き込みに行こうと考えています。ですから、私はEGOIST関連の方を担当します。巌永監視官、それから六合塚執行官、私と一緒に来てもらえませんか?」

 

 「了解です」と短く巌永が答え、六合塚は黙って頷き同意する。

 

「霜月監視官と唐之杜、雑賀、両分析官はサイマティックスキャン消耗症候群の人達に任意同行を求めて、事情聴取してください。名目上はサイコハザード事件におけるセラピーの経過に関する聴取ということで。事件に主体的に関わりがあると判断したら、拘留することを許可します」

 

 「了解~」と唐之杜が戯けるように返事をした。他の二名は短く「了解」と答えた。

 

「画像解析、現場検証の結果のとりまとめは雛河執行官にお願いします。それから三係の執行官がサポートについてください。とにかくデータ量が多いので手分けをして、些細な変異でも構いません、少しでも手掛かりを掴んで下さい」

「え……僕だけ一人……」

「雛河くんと三係の波多野さんは映像解析に詳しいでしょ。お願い、協力して捜査してくれないかな?」

 

 常守は子供を説得するような、優しい言葉で雛河に指示を出し直す。雛河は、その常守の言葉で納得したのか、短く答えた。

 

「り……了解……」

 

 最後に常守は、宜野座と須郷に対して指示を出した。

 

「宜野座、須郷、両執行官、は血液脳関門研究所周辺の情報を集めてください」

「唐之杜、フダは取れないとしても、研究所の所長から情報を聞き出すことはできないか?」

 

 指示を受けた宜野座が、唐之杜に事態の打開策を聞いてみた。

 

「そうねぇ、攫われた子供の親権者、被害者として聴取ができるでしょうけど、おそらくプライバシーを理由に血液脳関門研究所での研究内容やデータは公開しないでしょうね」

 

 常守がその会話に加わる。

 

「研究所に対して捜査を行ためには、事前に証拠を揃える必要がありますね。事情聴取から何か手がかりが掴めればいいのだけれど……」

「まあ、その辺は親権者の方から掴んでみせるさ。研究所方面の初めは、この細谷介延から任意に事情聴取をすることから始める、でいいな常守」

「それで良いと思います」

 

 最後に常守は、この会議でほとんど発言しなかった、雑賀にコメントを求めた。

 

「心理学者として、今回の犯人の動機について何か思い当たることはありませんか?」

「そうだな、そっくりなアバター使ってヴァーチャルアーティストの復活を目論むって言うなら話はシンプルだが、犯人の心理を推察できるような情報が少なすぎる。事件が派手なわりに、犯人の動機が見えてこない。私はそれよりも事件の共通点について、もっと探って見るべきだと考えるがね。その方が、この事件を浮き彫りにするのだと思うよ」

 

 雑賀は、あくまで事件のパズルのピースを集め、事件の全体像を固めることに力を入れるべきだと考えたのだった。

 

「他に意見はありませんか?」

 

 常守はそう言って会議室を見回す。特に発言者が現れることはなかった。

 

「それでは解散します。各自捜査に当たってください」

 

 そう常守が合図をすると、各々が自分の担当する作業を行うために散らばっていった。

 

「私達も行きましょう」

 

 常守は巌永と六合塚を引き連れ、地下駐車場へと向かっていった。

 

 

 常守は巌永と六合塚を帯同し、佳織から聞いた胎教サークルの主催者宅へと向かっていた。

 

「胎教でEGOISTの歌が使われているというのは、にわかには信じられないわね」

 

 六合塚はまさかEGOISTの曲が世間に広まっているなどとは、考えにも及んでいなかったのだ。

 

「なんと言うか、音楽配信とかPVを見るとかそういうのじゃなくて、顔を合わせてみんなでお話をしたり、胎教に良い音楽を歌ったり、安産のための体操を実践してみたりとか、そういう集まりみたいです」

 

 常守が佳織から聞いた話を、かいつまんで六合塚に話した。

 

「確かにそういう古典的な、『ふれあい』を好む層っていますよね」 

 

 巌永が、一般論的なことを言う。

 

「むしろメンタルケアにもなるからって、シビュラから推奨されているくらいよ」

 

 常守は胎教サークルのようなマタニティクラブについて、少し調べをしていた。なにかと不安になる出産という人生にとって大きいイベント、そのストレスを軽減し、子供を持つ者同士悩みを共有して心理的負担を少しでも和らげるよう、大小様々な団体が活動していることがわかった。シビュラもその様な団体を利用して、色相の安定を図るよう推奨していたのだった。

 

「シビュラが色相が濁るからと、閲覧不可の曲を伝えている集団を推奨するとは、皮肉ね」

 

 六合塚は、皮肉っぽく言った。かつて色相を濁らせるからと、音楽の世界から追放された曲、それがシビュラのあずかり知らない所で密かに伝えられていたのだ。真面目にその曲を封印していた、自分が馬鹿馬鹿しくも思えたのだった。

 

「さすがにどんな内容かまでは、チェックしていなかったという事でしょう。よほど色相が悪化する傾向でもなければ、何をしても干渉しないでしょうし」

 

 常守もある種の理不尽さを感じていたが、シビュラにとっては色相判定、サイコパスが判断基準の全てである。それが悪化しないのであれば放置するという、ある種の無責任さも兼ね備えているシステムなのだと、思い知っていた。

 そんな会話を移動中の車内でしているうちに、常守達が乗っていた捜査車両が胎教サークルの主催者が住むタワーマンションの前まで来た。車を止めると、常守と六合塚は装備のチェックをする。二人はドミネーターを携行していたが、臨時監視官である巌永には与えられていなかった。巌永の行動条件は正規の監視官と行動を共にすることであった。執行は他の監視官か、指揮する執行官に任せる形になっていた。

 装備の確認が終わると、近くのパーキングに駐車し車を降りて目的の部屋へと向かった。胎教サークルの主催者の住む部屋はタワーマンションの中層にあった。佳織に教えてもらった部屋へ行くためには一階にあるエントランスのオートロックを、住人から解除してもらう必要があった。常守はエントランス前にあるインターホンに番号を打ち込み、呼び鈴を押した。

 

『どちら様?』

「厚生省公安局刑事課一係の監視官、常守朱と申します」

『公安局?何か事件でも?』

「いえ、教えていただきたいことがあって、うかがいました。お時間は取らせませんので、少しお話ししていただけませんか」

『いいですけど……色相が曇る様な話ではないですよね?』

 

 インターホンに出た女性は、当然のように怪訝な声を上げた。一般市民宅に刑事が訪ねてくるなど、シビュラによって管理されているこの時代では極めて希なことであったからだ。当然良くない話を持ってきたのだと考えるはずである。

 

「そんなに難しい話ではありません。ある歌について教えていただきたいんです」

『歌?」

「はい」

「六合塚さんお願いします」

 

 常守がそう言うと六合塚は、エウテルペの一節をインターホン越しに歌った。

 

『ああその歌なら……立ち話もなんですから中にお入りになってください。人目もあるでしょうし』

「それではエントランスのロックを解除してもらえませんか?」

『わかりました。部屋へはエレベーターを使ってきてください』

「ありがとうございます」

 

 常守が礼を言うと、エントランスのロックが解除され、自動ドアが開いた。

 ドアの先にはエレベーターホールがあり、中層行きの急行エレベーターはホールの中程にあった。常守達はエレベーターに乗り、目的の部屋へと向かう。目的の階のボタンを押すと、幸い他に利用者がいなかったこともあり、即座に上昇し数十秒で到着した。

 エレベーターを降りると、ドアに書かれている部屋番号を確かめながら、先へ進んだ。エレベーターからは少し離れていたが、佳織に教えてもらった部屋番号と一致するドアの前まで来ることができた。

 常守は改めてドア前のインターホンのボタンを押す。

 しばらくするとドアが開かれた。

 

「すみません、今日は来客を考えていなかったので部屋が少し散らかっていますが、リビングへどうぞ」

「それでは失礼して」

 

 室内に入るとそこはごく一般的な市民の部屋であった。特に不審なものは無い。

 

「お茶を用意しますね」

 

 しばらく後、常守達にフードマシンから作られたお茶が出される。常守はそれに一端手を付けてから、聴取を始めた。

 聴取の結果、この胎教サークルの主催者は、ごくごく普通の主婦であり、二児の母であった。自身の育児経験をネット動画で配信し、育児についての相談を受ける活動をしていた。その動画をたまたま佳織が閲覧し、主婦が主催する胎教サークルに関心を持ったのだ。佳織は念のためシビュラで自分とこのサークルとの相性をチェックし、この主婦が開催する活動に参加した。この主婦と話の内容に不審な点は無かった。

 そしてEGOISTの曲について聴取する。主婦はこの歌は昔学生時代の音楽教師から、口頭で教わった曲だと言った。

 

「ちょっと待っててください。先生のお名前と住所をお教えいたします。私に聞くよりも事情をよく知っていると思いますよ」

 

 そう言うと主婦はサイドボードの上に置かれていたメモ帳に、歌を教わったという教師の名前と住所を書き留めた。

 

「すみません、こんなアナログな方法で。私はこっちの方が好みなものでして」

「いえ、大丈夫ですよ。助かります」

 

 常守はそのメモを受け取ると、早々に立ち去ることを決めた。聴取をしてみて、何か目的を持ってEGOISTの曲を広めていたわけではないとの印象を受けた上に、それがさらに別の人物から教えられたという事を考えても、この主婦が事件の主体でないことは明かだったからだ。

 主婦に捜査に協力してもらったことへの謝意を述べた後に、部屋をあとにした。駐車してあった捜査車両に乗り込むと、さっそく常守は端末で主婦から教えられた、その人物の名前と住所を検索した。該当する住民票はすぐに見つかったが、問題があった。住民票から戸籍を閲覧してみたが、戸籍廃止になってしまっていたのだ。シビュラから存在が抹消された人物。この社会から弾き出され、シビュラの管理からは外れてしまっていた。逮捕歴や施設への入所記録も無く、ぷっつりと行方が途絶えていることが判明した。

 だが住民票から顔写真がすぐさま手に入り、街灯スキャンでその人物の現在地を検索した。結果、直近で確認されたのは都内の廃棄区画への入り口近傍にある、監視カメラが捕らえた男の姿だった。

 

「つまりは、今は廃棄区画の住人って事……」

 

 六合塚は、その検索結果から導き出される結論を口にした

 

「本ボシに近付いた気がしますね」

 

 常守は、刑事として事件の真相に近付いているという手応えを、ようやく感じられたのだ

 

「私もそう思います」

 

 巌永の感覚でも、手応えが感じられたようだった。

 

「次は廃棄区画での捜査になるけれど、二人とも大丈夫ですか」

「私は問題ありません」

「私も」

 

 巌永と六合塚の同意を得ると、常守はナビゲーションに廃棄区画入り口までのルートを入力し、捜査車両を現場へと向かわせた。

 

 

 元教師の足取りが最後に記録されたのが、文京区茗荷谷の廃棄区画であった。廃棄区画としては比較的治安が安定している。湾岸地域の隔離区画とは違い、一度シビュラの管理区画を通らなければアクセスしにくい場所にあるため、おのずと住人は元々シビュラの管理下で暮らしていた一般市民が多い。そのため、市民生活がそのままの形で維持されていて、外部と遜色ない活気がある。それを支えているのは強力な自警団であり、彼らが秩序を守っているため市民生活が維持できているのだ。無論、無頼者達の秩序であり、一般の市民の治安とは全く別物である。

 比較的シビュラの管理区画からも入りやすく、矯正施設送りから逃れた軽い潜在犯は、市民生活を維持するためにこの区画に逃れてくるのだ。茗荷谷は都心にある廃棄区画で交通の便も良く、アクセスが容易であるという地理的な特徴もあり、東京の中心部から人が流入し、そこに定着しやすい条件が整っていた。

 廃棄区画へ入るのは危険ではあったが、手掛かりを掴みに行くしかなかった。

 主婦から教えてもらった元音楽教師、「寒川尋乃(ひろの)」の過去に記録されたサイコパスのグラフからは、強力な潜在犯に変貌したとは考えづらかった。したがって常守は、直接コンタクトしてもトラブルにはならないだろうと判断した。

 グラフから窺えるのは、じりじりと色相が悪化し、やがて回復が難しい段階へと徐々に徐々にと追い詰められる様子であった。そして遂に回復不能であると悟った時、行方をくらましたのだ。回復の見込みのないとの色相診断に追い立てられるように、廃棄区画へと逃れて行ったのだろう。

 常守達が向かった茗荷谷の廃棄区画、そこは二十一世紀半ばの風景がそのまま残され、人々は建物の老朽化と戦いながら生活を送っていた。ある意味では楪いのりが活躍していた時代の風景が、そのまま残されている場所であるとも言える。これも因果なのだろうか。

 廃棄区画の入り口近辺の駐車場に、捜査車両を停車させた。そして情況と装備の申し送りをはじめた。

 

「ここからは、通信状態が悪くて私と六合塚さんのドミネーターが使えないかもしれない。だから二人とも電磁警棒(スタンバトン)を持ってください」

 ホルスターに収められたスタンバトンを、上着の下に装着し動作を確認する。スタンバトンの携行は、巌永にも許されていた。一番先に確認し終わったのが六合塚であった。

「準備は大丈夫よ」

「私も準備が出来ました」

「それじゃ行きましょう」

 

 常守と巌永そして六合塚は、かつて春日通りと呼ばれていた大通りの入り口から廃棄区画へと入っていった。区画を分ける緩衝地帯を通過すると、端末にブロックノイズが現れた。

 

「やっぱりここは通信環境が悪い」

 

 六合塚が端末で電波状況を確認しながら歩いていた。端末に目をとして周辺の注意が甘くなってしまったのであろう、六合塚の前を歩いていた巌永にぶつかってしまう。

 

「どうしたの巌永さん」

 

 巌永は突然立ち止まり、虚空を見る様な目つきになっていた。生気が感じられないとでもいう表情であった。六合塚の問いに対して巌永は少し遅れて反応した。

 

「いえ、ちょっと」

「こういう場所は初めて?」

 

 常守は心配になって巌永に尋ねた。

 

「そうですね……あまり近付いたことはないです……」

「引き返しますか?」

「いえ、大丈夫です。行きましょう」

 

 そう言うと巌永は再び歩き出した。常守はこの時、巌永は廃棄区画独特の雰囲気に当てられ、足が少しすくんだのかもしれないと思った。メインストリートに入ると人が多く、雑多な人や物が所狭しと存在していた。それは異国の風景を目の当たりにするような感覚にさせられる。普段の市民生活とは全く異なる風景であった。

 

 

 茗荷谷の中心近くにある、元アミューズメント施設の一室にその男はいた。

 

「おい、例の朝鮮人が置いていったスキャンプログラムに応答があるじゃねえか。どっかの公安の犬が、ドミネーター持ち込みやがったみたいだぜ」

 

 監視カメラの映像が並ぶモニターが、所狭しと並べられた一室にいたその男は、ワイルドツーブロックの髪型が特徴的で、雑に着こなした上下のスーツ、だらしなく喉元が開いたYシャツに、足下はエナメルの革靴という出で立ちだった。その靴を机の上に放り出し、ふてぶてしくソファーに深く腰をかけていた男が、面倒臭そうに側にいたもう一人の男へ話かけた。

 

「公安がここへ来るなんて久しぶりですね」

「こっちはこっちで統制とって穏やかに暮らしてるっていうのに、面倒くせぇな。外でやらかしたヤツを追ってきたのか?」

 

 指で合図し、もう一人体格のいい男を呼び出した。

 

「まあいい。お前らちょっと見てこい」

「うっす」

 

 指示役の男は二人の男に対して、モニターに映った三人に接触を図るように言った。男二人はダラダラと部屋を退出する。

 

「いいか、春日通りの南側だ。間違えるなよ」

 

 部屋を出て行った二人からは、返事が返ってこなかった。

 

「返事くらいしろよな。ったく」

 

 二人の大男は、指示を出した男の言うとおり、メインストリートの南側へとで向いていった。

 

 

 常守の後ろを歩いていた巌永の足が急に止まる。そして今度は常守の腕を引っ張った。

 

「巌永さん?」

「常守さん隠れて」

 

 巌永は常守の腕を引っ張りながら、ビルとビルの間の狭い路地に身を隠した。

 常守は訳もわからず巌永に路地へ押し込められた。六合塚が周辺を警戒しながら、その後に続く。

 路地へ入り、メインストリートを覗き込むと、あからさまにこの廃棄区画の仕切りをしているであろう風体の、体格の大きい男二人が腕に付けた端末を見ながら周囲を探っていた。

 

「あれは……人捜しをしている?」

「私達が刑事ってバレたんでしょうか」

 

 巌永はこの男達の存在に、いち早く気付いたのだった。そして巌永は常守と六合塚に対して言った。

 

「私が行きます。お二人は例の人物の所へ」

「一人で大丈夫ですか?本来は刑事課の人ではないのに、一人置いていくわけには」

「言ったとおり私は実態調査が専門です。人との接触には慣れています。私に任せてください」

 

 そう常守達に言い残すと、巌永はメインストリートに出て、風体の悪い二人に近付いていった。二人は端末で何かしらを捜している様子だった。そして端末と巌永の顔を交互に見て、何事かを話かけ始めた。巌永はその二人に対して臆することなく話を返していた。

 

「あんた公安の人間だろ?」

「それが何か?」

「ここのルールでね、余計な物持ち込まれちゃ困るんだ。ドミネーター持ってるだろアンタ」

 

 巌永は黙って男達の顔を睨みつけていた。

 

「ボディチェックさせてもらうぜ」

 

 そう言うと、男の一人が巌永の体をまさぐりはじめた。

 

「硬ぇ尻だなぁ」

「やめてください」

「へへっ、いいじゃねェか減るもんじゃなし」

 

 どうやらドミネーターの持ち込みをチェックしているらしい。

 そんなやりとりを男達と交わした後、巌永は常守の方を見た。見ていないで早くこの場を立ち去るようにめで合図を送っていた。

 

「行きましょう。相手はドミネーターの存在を気にかけているみたい。私達がいたらトラブルになる」

「私も気になるけど、あの様子だと大事にならないと思う。一応、彼女の端末と常時接続を続ける」

 

 六合塚は巌永の状態をできるだけリアルタイムでわかるように端末を調整した。そして常守は先を急いだ。目的は廃棄区画の情報屋とコンタクトを取ることであった。常守は密かに、廃棄区画の住人と少しずつ信頼関係を築いていたのだった。情報屋の存在もその一つである。

 複雑化している路地裏を常守は進んでいった。そして目的の場所へ到着した。目的の場所とは言っても路地裏であり、そこにはハンティング帽に作業服、スキットルで昼間から酒をあおっている男がいた。常守はその男に声をかけた。

 

「こんにちは。お久しぶりです」

「ああ、あんたか。今日はどうしたい。そっちの美人さんは?」

 

 常守とこの男は顔見知りであった。

 

「こちらは私の同僚です。今日のお願いなんですが、この人物を探してもらえませんか?」

 

 常守は情報屋に音楽教師の写真を見せた。そうすると即座にその教師の居場所が判明した。

 

「知ってるぜこの顔。この写真よりは若干老けちゃいるが、間違いない」

「本当ですか?」

「意外そうな顔してるなあ刑事さん。まあ、この町で音楽やっている道楽者は珍しいから大体顔を覚えていらぁ。有名人てわけじゃあないが、何処にいるかはすぐわかる」

「教えて貰えますか?」

 

 常守がそう言うと、情報屋は掌を上に向けて常守に差し出す。

 それを見た常守は情報屋に謝礼と煙草を一カートン手渡した。

 

「まいど。ヤツなら今この先のミュージックバーにいるはずですぜ」

 

 男は親指で通りに面したミュージックバーを指さした。

 

「ありがとうございます」

「ああ、あと刑事さんに忠告だ。あんまりドミネーターを持って歩かない方がいい」

「どうしてです?」

「ここを仕切ってる連中が、どうもドミネーターの逆探プログラムを持っているようでね。下手に通信すると場所を掴まれてしまいますぜ」

 

 男がもたらした情報に心あたりがあった。六合塚が細い声で呟く。

 

「だから、さっきの男達……」

 

 なぜ男達が突然現れたのか合点がいった。だがなぜ男は常守にその様なことを話したのか。

 

「どうしてそんな頼んでもいない情報を私に?」

「まあ、ちょっとサービスですわ。もらいすぎたんで」

 

 男は受け取った煙草のカートンを見せて言った。本当は煙草ではなく金と常守との関係の方が重要だったのだろうが、あえて煙草をもらいすぎたというジェスチャーをして、情報屋としての矜持を見せたのだろう。

 

「助かりました。忠告ありがとうございます」

 

 常守はそう謝辞を述べ、六合塚は会釈だけして、その場を立ち去った。

 

 

 ミュージックバーに行くと奥のテーブル席で、一人の男が酒を煽っていた。住民票から取得した写真に経年を考慮し、機械学習を用いた予想モンタージュを作成していた。その写真と、ほぼ一致する男の顔がそこにあった。

 常守は店の奥へと進み、その男に声をかける。

 

「あなたが、寒川尋乃さんですか?」

「あんたは?なぜ俺の名前を知っている?」

 

 常守はバッジをその男に見せた。

 

「公安局刑事課一係、常守監視官です。少々お話を伺えないでしょうか」

「公安局がなんの用だい?まさか色相が悪化したからセラピー受けろって訳じゃないでしょうね?」

「いいえ。ちょっと聞きたいお話があります。それを聞いてもらいたいんです」

 

 そう言うと常守は、自分の端末の画像を男に見せた。

 

「この顔に見覚えは?」

「刑事さんなんだいこりゃ?」

「ある容疑者の似顔絵です」

「今時珍しい。奇妙な事するんだな刑事さん……」

 

 次は六合塚が男に質問をする。

 

「あと、こんな歌を知ってますか」

 

 そう言うと、六合塚はまたEGOISTの歌を歌った。

 

「ああその歌、EGOISTの歌ね。そうか楪いのりかこれ」

「知ってるんですか?」

「だがここじゃな」

 

 昼間で人がまばらだとは言え、誰もが出入りできる酒場であった。先ほどの男達のこともある。刑事であることを周囲に知られるのはリスクがあった。

 

「家はすぐそこだ。付いてきな刑事さん達」

 

 男はそう言うと立ち上がって、机に酒代を置いて出口へと向かった。常守と六合塚はその音この後を追った。

 しばらく通りを歩きビル街を抜けていく。そして通りから少し外れた雑居ビルへ向かってていった。そのビルの一室が男の自宅であったのだ。

 男は自宅へと常守達を招き入れた。そこはエレベーターのない雑居ビルの三階で、元々は居住用ではなく、事務所などに使われていたと思われる部屋であった。部屋は何室かに分かれており、それぞれを使い分けているようであった。

 常守と六合塚は、応接室へと通された。そしてそこにあった来客用のソファーに座るよう促される。

 

「さてと、なんだって刑事さんみたいな人が、EGOISTに興味があるんだい?」

「ある事件でEGOIST関連の情報を集めています。あなたが昔、音楽教師をやっていた頃に、EGOISTの曲を生徒に教えていたと聞きました。何かご存じなのでは?」

 

 常守がそう言うと、男は目を閉じ、しばらく考えた後に立ち上がった。

 

「ちょっと待ってな」

 

 男は奥の部屋のドアを開けた。そして中で何か物を取り出す音がした。しばらくすると、古い玩具のドローンを持って帰ってきた。

 

「俺の婆さんの遺品だよ。五年前に死んじまったがね」

 

そう言うと男はドローンを机の上に置き、頭部にあたる部分のハッチを開いた。中は小物が入るスペースになっており、そこには様々な品々があった。ただしどれもさほどの価値は無さそうであり、男にとっての思い出の品であろうことは見て判断できた。そして男はその思い出の品の中から、一葉の印画紙にプリントされた写真を取りだした。

 

 

「婆さん結構アナログな人間でね。プリントされた写真なんて見たことあるかい?」

 

 そこには学生だろうか、制服姿の男女が何人か並んでいる姿が写っていた。

 

「これが楪いのりだ。一緒に写っている、眼鏡をかけているのがうちの婆さん。婆さんが女学生時代EGOISTは、当時の人気アーティストだったらしい」

 

 男は指で写真の顔を指して説明した。常守は固唾を呑んだ。所沢の矯正施設で見た顔と全く同じ顔が写っていたからだ。八十年近く前の写真である。心の中であり得ないと呟いていたが、重要な手がかりを手に入れたという喜びもあった。緊張で手が震えそうだった。

 

「ありがとうございます。こんな貴重な物を見せてもらって」

「貴重と言ってもらえて嬉しいよ。だが、残っているのはこの一枚っきりだ」

 

 男はなにか寂しそうにそう言った。そして常守に心情を吐露した。

 

「ショックだったよ。婆さんの好きだった物がことごとく色相を濁らせるからって、世の中からことごとく消されちまったんだと知った時は」

 

 常守は黙って男の言葉を聞いた。男は常守の言葉で何かを感じたのだろうか、ドローンに収められていた遺品をいくつか並べ始めた。その中に古い電子機器があった。

 

「あとこれだ。電源さえ入れば今でも見られると思うが、当時のメディアとプレイヤーも残されている。ミュージックビデオ見るかい?色相の保証はしないがね」

 

 それもまた、およそ八十年前から残されていた物の一つで、今とは規格が全く異なる古いビデオミュージックプレイヤーであった。

 

「お願いします。今は些細な情報でも欲しいと思ってますので」

 

「それなら」と男は電源ケーブルをミュージックプレイヤーに接続し、プレイボタンを押す。

 

「婆さんが死ぬまでは動いていたから大丈夫だと思うが、おっ映った映った。婆さん物持ちがよかったからな、七十年以上経っても動いたぞ」

 

 ミュージックプレイヤーに映し出されたのは、EGOISTのPVであった。透き通る歌声、ポップな曲調、映像技術も素晴らしかった。これが見た者の色相を悪化させるため、閲覧制限の処置がされた映像とは到底思えなかった。

 

「どうだい?この曲この歌、これのどこに色相を濁らせる様な要因があると思う?どういう判断で世の中から消されたのか、経緯がさっぱり明かされていない。そんな精神色相(サイコパス)ばかりに気を取られ、この世界の本当に価値のあるものを理解せずに消してしまう。狂ってるとは思わないか?」

 

 常守と六合塚はすっかりPVに見入っていた。男の言うとおり、色相を濁らせる要因が何処にあるのかわからない。シビュラが何を恐れたのか映像を見る限りは、判断できなかった。

 

「いや、狂ってるのは俺の方か」

 

 そんな二人の表情を見て、男はぽつりと吐き出すように一言を言った。

 

「正直私達にも、シビュラがなぜこれを禁止したのかわかりません。アーカイブ内には残されているようですが、許可を得ないと私達でも閲覧することができません。ですから、ほんの僅かな手がかりしかないというのが現状です」

「私もシビュラの公認アーティスト時代に、裏音楽としてEGOISTを知っているにすぎません、何か知っている情報があったら教えて頂きたいのですが」

「楪いのりが現れたって噂は聞いてるよ。EGOISTの曲がちょっとした流行歌になってるってのもな。娯楽ってヤツは軽々と社会の分断する壁を越えてくる。刑事さんから歌を聴かされて確信したよ」

「EGOISTの曲が流行歌に?」

「なんだ知らなかったのか。それはあんたらが見ようとしてなかった、聞こうとしてなかっただけだろ。見ようとも聞こうともしない人間には届かない。ましてやデジタル化されたアーカイブなんぞに頼ってるから、あんたら出し抜かれたんじゃねぇかな」

 

 そして常守は、ここに辿り着いた経緯を男に話した。街中に楪いのりが現れたこと、そして常守の友人がEGOISTの歌を歌っていたこと、その歌を主婦から教わったこと、さらにその主婦は男から歌を教わったという事を話した。

 

「どうやら刑事さん達の話を聞くと、詠み人知らずの歌として伝わってるらしいな。聞くかぎり容姿や、歌われた歌のメロディー、そのリリック、それは間違いなくEGOIST、間違いなく楪いのりだ」

 

 そして男は表情を硬くし、真剣な眼差しになって話を続けた。

 

「だが流れた月日を考えると楪いのり本人だとは到底思えない。最新のサイボーグ技術を使っているでもなければ、とてもな。俺にだってそれ位はわかる」

「では正体というか、誰がこんな事をしているのか、見当がつきますか?」

「さあね?正直に言うと正体なんかどうでもいい。ただ俺以外の誰かが、俺のように歌を伝えた。歌は歌い継がれる。それはこの公衆監視社会でも止められやしない」

 

 男は苦笑いを浮かべながらそう言った。

 

「ええと、ミームって言うんだったかなこういうの。教師時代に聞いたことがある」

「ミーム……」

 

 唐之杜もその言葉を使っていたのを思い出した。常守が考え込む仕草をしたのをみて、男は私見を言った。

 

「刑事さん、彼女は何か伝えたいんじゃないかい?この社会に。本物だとしても、偽物だとしても」

「EGOISTとしてのメッセージを伝えたいと?そういうことですか?」

「どうだろうな。本当のところはわからない」

 

 それは本心のように思えた。男はただEGOISTが好きなだけなのだろう。時代が許せば熱心な一ファンでいられたのかもしれないと、そう常守は感じた。

 

「ビデオはコピーしていかなくていいのかい?もっとも今じゃ半世紀も前のメディアから直接記録をコピーする手段はないから、映し出された映像をカメラに収めるって方法くらいしかないが」

 

 正直、手がかりとして非常に欲しいものであった。なんとか現物を手に入れたかったが、男の提案に乗った方が、話がまとまりそうであった。常守はその提案を受ける。

 

「是非撮影させてください」

 

 常守は携帯端末のカメラをビデオプレイヤーに向け、非常に原始的ではあるが映像を映しているプレイヤーを撮影することによって動画をコピーした。今回はこんな古い手段と何度も巡り会う。

 バックアップとして六合塚も携帯端末で撮影していた。そして撮り終わった画像を刑事課一係の共有フォルダに送ろうと思ったが、廃棄区画の深部であったため、サーバーにアクセスできずアップロードができなかった。

 

「通信環境が悪くて、共有フォルダにアクセスできない」

「しかたがないですね、私達が個人でこのファイルを保管しておきましょう」

 

 常守はそう言って、ローカルストレージ内に動画を保存して撮影を終了した。六合塚も同様に、自身の端末のローカルストレージに保存した。手元にあるコピーは今のところ、この二つの動画ファイルだけとなった。

 

「今回は捜査に協力していただき、ありがとうございました」

「いいってことさ。俺を訪ねてくる人なんざ誰もいやしなかったし、昔話ができて気晴らしになったよ。こちらこそありがとうを言いたい」

「いえ、そんな……」

 

 そして男は最後にこう言った。

 

「いいかい刑事さん。歌っていうのはドラッグの類じゃない。決して流通は止めることはできないぞ。そこんところを間違えたらいけない」

「ご忠告痛み入ります」

 

 男の言う事は確かであった。歌を歌い継ぐ、これは止めることができない。例えシビュラの力をもってしても、データ上にない現象を解決することはできないだろう。だからこそ刑事が動かされる。常守はその事を今、肌身で感じていた。

 そして用件を済ませた常守と六合塚は、男の部屋から立ち去った。

 

「巌永さんと早く合流しましょう。彼女が無事か気がかりですし」

「一応、合流ポイントは渡してあるので、そこへ行けばなんとか。無事だといいのだけれど」

「合流したら一度、オフィスに戻りましょう。長居は無用ですから」

 

 そして常守と六合塚は、巌永と合流すべく、そのポイントへと足を向けた。

 

 

――

「なあ、あんたこれで良かったのか。その子を引き渡した方が、良かったんじゃないか?」

 

 常守達が立ち去ったあと、男はそう手前の部屋のドアを開けながら言った。

 

「出て行くのか」

 

 少女は黙って頷く。そして消え入りそうな声で言った。

 

「あの人ならこの子を救えそうだから……」

――

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。