起承転結の転に当たります。
臭くて汚くて寂しくて、周りに物が沢山あっても見据える先は真っ暗で。
一人で走り、一人で眠り、一人ぼっちで生きていた。親は知らず、友も無く、周りを蹴散らす黒い炎だけが拠り所。寂しさを感じるだけの余裕も無いまま、生きる事にばかり必死な自分。
ああ、だからこれはきっと、――悪い夢だ。
きゅるきゅると鳴いて目蓋を閉じたまま傍らの熱に擦り寄った。そうすると、何時も通りに頬を寄せられ確かなものに触れられる。己が独りでは無いのだと、温もりと共に教えてくれた。
手足の無い身体。力に満ちた身体。ずっと傍に居てくれるひと。夢の誰かとは全く違う。
目蓋を開く。
「グレートレッド」
囁く言葉が己の頭のすぐ傍から聞こえてくる。
見上げれば、其処に見えるのは赤い龍。己の親の視線の先に、とても大きなドラゴンが居た。
体躯だけでなく秘めたる力も、未だかつて見た事が無い。
己の親とどちらが上か、子供染みた対抗心できゅるくる唸って互いの比較を思考の半ばで投げ出した。余りにも大き過ぎて、今の己には分からない。恐らくは己の親が上だろう、と身内贔屓で勝手に考えてそれで終わった。
「我は何時か、必ず静寂を――」
そこまで言って、親の言葉が不意に止まった。
赤を見上げていた視線が己の方へとゆるりと下りて、じっと互いの視線を絡め合う。
首を傾げる。視界の端の宙を横切る赤い影が、やがて見えなくなっても動かない。
くるくる鳴いて、頬を寄せる。変わらぬ無表情で親が己に触れてくれるが、掲げた右手の先、銃を象る細い指先が標的を逃して揺れていた。
「我は」
周りがどうにも騒がしい。
だからといって己が親の声を聞き逃す事など有り得ないのだが、不快感だけは拭いきれない。きゅるきゅると鳴いて気持ちを表し、周囲に火を噴いて黙らせる。
「うおおおっ、あっぶねえ!?」
酷く弱々しい茶髪の誰かが大袈裟に飛び退いて言葉を叫んだ。それに対し、くるると笑って舌を出す。なんか馬鹿にされてる!? などと言われたが成程、存外勘の働く奴だ。派手な反応に気が晴れたからこれで勘弁してやろう、と鼻から小さく火を噴いた。
親に頭を撫でられて、上機嫌でくるくると鳴く。
僅かに首を傾げて押し黙る、黒髪の美しい少女。親は、じっと己の顔だけを見つめたまま、やがて空間へ溶け入るようにしてその場を二人で後にした。
「我は――」
繰り返される呟きに篭められた意味は、分からない。
□
目前に迫った死の気配は、何故か知らないが酷く慣れ親しんだものに思えた。
「ハーデスより借り受けた龍喰者サマエル。――最強の龍殺しだ」
自慢気に語る槍の青年。その青白い神聖な輝きを先ほど己の親に弾かれたばかりだというのに、全て予定調和と言わんばかりの余裕な態度。気にいらない。
彼によって示されたのは、十字架に厚く拘束された異形のドラゴン。黒翼を生やすその化け物の、形状自体に思うところは無い。ただ、己の有する感覚器官のあらゆる全てが、その存在が危険である事を訴えていた。
おぞましい程の呪詛が聞こえる。毒臭が鼻腔を刺激する。目に見えるほどの濃密な、悪意。
龍を殺せと、絶叫していた。
こわい。怖い、こわい、こわい、恐い、こわい。ああ、なんて恐ろしい。震える全身を親の身体に絡めて、少しでも距離を取ろうと身を捩る。意味が無いとは分かっていても、肉体に付随する己の本能が言っている。あれを視界に映したまま呼吸するだけで、身体の内側から滅んでしまいそうな程だった。
「――大丈夫。我、すごく強い」
見上げた姿が頼もしい。生まれて初めて、何かに守られるという安堵を感じた。
つい、と首を傾げる。うまれてはじめて、とはおかしな話だ。己はずっと、親の傍らで生きてきた。だというのに、先の思考はまるで、守られずに生きた過去があったかのような――。
僅かだけ恐怖を忘れて、もう一度親の素肌に擦り寄った。
どうでも良い事だ。意味の無い思考だった。己は親の傍に居られるのならそれで良い。あの温かな手で触れて貰えさえすれば幸せだった。それこそが、今のおれにとっての幸福である。
だから。
迷いは無かった。
■
ヴァーリが言うに、危険は無い。だから問題など無い、筈だった。
当代の赤龍帝が見せた未知なる進化。それに興味を持ったらしいオーフィスを、彼女いわくのペット同伴で兵藤邸へと招き入れた。
禍の団の首魁たるウロボロスの登場に戦慄く者こそ数居れど、予想に反して交流自体は和やかなものだった。
龍同士の会談は二、三の質疑応答のみで早々に済んで、あとはオカルト研究部の女性陣とトランプで遊んだり、ペット共々甘味を口にして休息したり、と。果たして本当に彼女は赤龍帝の力に興味があったのだろうか、などとアザゼルが一人でぼやく程。
変事そのものは別口だった。
禍の団英雄派所有の神滅具『絶霧』によって拉致された先の異空間。その場において召喚されたのは禁忌の蛇。龍を殺す龍。――龍喰者サマエル。
磔にされた堕天使型のドラゴンが、悪意の舌を龍神へ伸ばした。
扱い辛い無垢なオーフィスの力を奪い、より使い勝手の良い駒としてのウロボロスを新たに作る。そのためのサマエルであり、今のこの状況。
禁手化した黄昏の聖槍を振るいながら、意気揚々と語る英雄派リーダー、曹操。
その背後。
オーフィスを呑み込んだ龍殺しの呪いの繭が、一際強く蠢いた。
――見てくれだけなら、曹操の望み通りに事が運んだ。
サマエルの全身を包む数多の拘束具。その一部を解除する、ただそれだけで先ほど以上に濃密な、龍に対する呪いの力が強まった。
開かれた龍喰者の口から力を奪う舌が伸び、死への恐怖に駆られた幼龍がオーフィスの邪魔をして、結果逃れる事さえ出来ずに囚われる。そういう算段、だった。実際に上っ面だけを見るのなら、上記二名を捕らえた一連の事態は幼龍の怯懦に足を引っ張られたオーフィスの災難で終わるだろう。
可愛いペットを守る龍神は、先に振るった聖槍の一撃でさえ無防備に受けず迎撃を行った。最強過ぎるために他者への警戒を捨てていた無限の怪物が、たかが神滅具如きに手を出したのだ。
今のオーフィスはかつてと違う。
ただ撃てば避けるだろう。
ならば、と。グレモリー眷属等々他者を含めた異空間への拉致という状況の設定から本命たるサマエルの一撃に至るまで、種々の小細工を弄した全てが曹操の打ち立てた対無限龍の捕縛作戦、今後のための大事な一手。
結果としてそれは成功した。
全て、俺の想定通りだ。と曹操は笑った。
彼が、小さなドラゴンが、曹操の考えるとおりに野生の龍であればそうだっただろう。
人間だった頃の記憶を自覚せぬままに保持し続ける、元人間だとは誰も知らない。神器以外に何も持たない孤独な少年が、人を辞めてようやく欲していたものを得て満たされていたなどと、この場に居合わせた誰も彼もが想像さえしていなかった。
貪り続けた『蛇』と『加護』。オーフィスから与えられた全てをもって、彼が彼女を庇うなど、内面を知り得ぬ曹操にとっては計算の外にあるものだ。
彼はオーフィスを庇った。死への恐怖から逃げるためではない、守るためにこそ彼は動いた。
端的に言って、それは悪手だ。断言出来る。
無限の龍神には、神の悪意たるサマエルの力から逃れるだけの力があった。親を守らんと先走った彼の軽はずみな行動は、結果的に彼共々危地より遠ざかろうとしたオーフィスの邪魔をしてしまった。
警戒する、逃走する。そういった弱さから生まれる行為と縁遠いオーフィスが、人間だった時分 散々命惜しさに逃げ回っていたスラム街生まれの小僧の機転を上回る事は叶わなかった。無限と有限、比較も出来ない力量差があってさえ、両者の対応力だけは力関係が逆転していた。
必要も無いのに彼女を庇って、それが原因で囚われる。
幼いがゆえの拙さが、慕う親を危地に追いやった事にも気付かせない。
だから、全ては彼自身の自業自得だ。
呪いに呑まれながら、肥大化した蛇体で小さな少女の身体を満遍なく包み込む。
一滴たりともサマエルの力が届かぬように。
その爪の一欠けらでさえ渡さぬために。
「駄目」
頼りなさげな言葉が響いた。
触れた少女の指先が、ボロボロと崩れた鱗に溺れる。
「だめ」
暗く小さな繭の中。サマエルの悪意、触手状の舌によって編まれた毒壺の中心で、幼い少女が何度も同じ言葉を投げ掛ける。
それを、肥大化した幼龍の怒号が掻き消した。
黒い龍鱗。黒い瞳。黒邪の竜王に似通った、しかしそれとは異なる双瞳のドラゴン。
力で膨らませた体躯を捩じり、呪いに満ちた繭の内側で、呼びかける少女を包み込む。
狭苦しい空間の中だ、避ける事も叶わず、蛇体が繭の壁面に打ち当たった。するとたちまちの内に鱗が剥げ落ち、革も肉も血も骨も、見る間に朽ちてサマエルの側へと呑み込まれては消えていく。
しかし奪われる端から骨が血が肉が革が鱗が、塗り変わるように再生しては、少女を守る盾を欠けさせぬと主張していた。
己に与えられた全てのものは、今この瞬間のためにあったとでも言うかのように。
蓄え続けた彼の中の力と加護が、瞬く内に吸い尽くされては形ばかりを整え直す。
「だめ、だめ、駄目、やめ――」
やめろ、とオーフィスが言う。
最初は優しく撫でるように。次に言い聞かせるためだと叩き始めて。最後には爪を突き立てた。
けれど、幼龍を傷付けるような事だけは、何故だか彼女には出来なかった。
喰われる龍の、怒号が響く。
そこに篭められたものは、拒絶の意思ではない。
呪いに怯える恐怖ではない。
激痛に悶える悲鳴でもない。
己の親を守るため。此処で死ね、と己自身に命を下す、ドラゴンとしての誇りであった。
だって、毒に触れれば大好きな親が死んでしまう。力を奪われ枯れてしまう。
とても強くて偉大な存在、何より優しく、大切な相手だ。けれど龍である限りサマエルには抗えないと彼の肉体が理解している。だからこそ。此処で死ぬのは親ではなくて己であるべきだ。
「やめろ」
命じるような口調で言った。
遂に、抗うオーフィスの両手が彼の体躯を傷付けた。其処を退け、と乱暴に言い捨てる。
如何に血を流そうと、肉をもぎ取ろうとも。魂さえ残っていれば、龍神たる自身には彼を守りきるだけの力があった。
だが、幼い彼の血が滴るたびに、オーフィスの中の何かが軋む。
「やめろ、やめっ、――やめて」
少女の指先から力が抜けた。
本来ならば、無限を体現する彼女が彼を排除するのは簡単だ。彼我の格差は歴然で、意思さえ伴えば刹那で終わる。
全身を引き千切り、その魂だけでも己の小さな体躯で抱き込めばそれで良い。
「なぜ」
蛇のような身体を抱き締め、オーフィスが問うた。
何故、言う事を聞かない。
何故、逆らう。
何故、守る。
オーフィスは無限だ。幼く半端な龍の雛より、ずっと強い。
ドラゴン達にとって何より恐ろしいサマエルの毒さえ、龍神の有する力の総量を鑑みれば耐え切れる公算の方が高かった。だから、庇う理由など本来なら無い、筈だ。
だが違う。理屈ではない。
言う事を素直に聞けば、親が傷付く。
己が親に逆らえば、その分だけ時も稼げる。そうすれば外に居る案外気の良い連中が、助けてくれる、かもしれない。が、彼等が信頼に値するか否かも、実のところ関係なかった。
大好きだから、守る。
ああ、そうだ。
『――おれは、
舌足らずな子供のそれが、血と毒で濁った声音のままに少女の小さな耳へと届く。
そして――。
無限が、吼えた。
「うっ、――なに、が」
兵藤一誠は頭を振って、赤い鎧を着たままの姿で立ち上がる。
周囲を見渡せば見慣れた自宅。異空間に拉致される以前に、居た場所だ。
兵藤邸のリビング、その其処彼処に見慣れた仲間達が倒れ伏していた。
ぎょっとして、慌てて声を掛けて回るが、ほとんどの人員が気を失ったまま目を覚まさず。しかし命に別状は無い事を理解して、彼は安堵の溜息を大きく漏らした。
「何が、あったんだ?」
呟く声にも力が無い。
最強の神滅具を振るう曹操との戦いの最中、突如轟音と爆発が起こって気が付けばこれだ。
「原因は間違いなくオーフィスだな」
「ヴァーリ?」
同じく禁手化の鎧を身に纏う銀髪の少年が、独り言のように先の疑問の答えを言った。
周囲に倒れたままの面子を見るに、突然の変事に対応しきれず、鎧で守られていた自分達だけが一足先に起きたらしい。本当に、死人が出なかった事は運が良かった。その事実を理解して背筋が冷える。
同じ場所に居た筈の曹操は居ない。あの堕天使型のドラゴンも消えていた。
オーフィス、と名を呼びながら視線を巡らせれば、部屋の端にあるソファの上に此処数日で見慣れてしまった姿を見つけた。
――が。
「ファッ!?」
オーフィスが、其処に居た。
ソファの上、楽な姿勢で腰掛けて、無限の龍神が己の両手を動かしている。
そして涙を流していた。彼女は小さく泣いていた。
その幼い容姿に見合わぬ、――大きく膨れた妊婦のような腹を撫でながら。
※オリ主は大勢に影響を与えられない小物なので、原作ストーリーはほぼそのままです。