「———私には、お前を愛せなかった」
男が女にそう告げた。
「……そうですか。でも、私は貴方を愛せました」
女が男にそう返す。
「二年くらいでしょうか? 私には、貴方を愛するのに充分な時間でした」
「だが、私はその時間の中で何も変わらなかった。お前も、お前が命を賭してまで産み落とした子も、私には愛せなかった」
「今まで一度も?」
「…………あぁ、愛せなかった」
男は女の視線から逃れるように、目を閉じた。
「———それは、残念です」
「……あぁ、残念だ」
この時男が感じていたのは何だったのだろうか。
失望、後悔、無念。
全部感じていたのかもしれないし、全く感じてなかったのかもしれない。
男は、それすらも分からなかった。
「……何処に行くのですか?」
男は女のもとから離れようと、足を踏み出した。
二歩目で女がそれに気付き、男に問いた。
「———私は産まれるべきではなかった。ならば、生きている意味も意義もない」
「私を置いてゆくのですか?」
「そうだ、この為にお前を選んだ。いつ命を終えてもおかしくないお前を」
「……酷いお人、どうして私を選んだのか教えてくれなかったのに、今更———しかもそんなにアッサリと答えてくれるだなんて」
「あぁ、その通りだ。私は酷い人間だ、欠落した人間だ、欠陥した人間だ。ならば己の誕生は何かの間違いだ」
「……それなら、どうして此処にきてくれたのですか? 別れなんて告げる必要が貴方には無いでしょう?」
男は未だに視線を逸らしたまま答える。
「単なる義務だ———私の目的、試みの為にお前を選んだ。その試みを終えるのなら、それを告げるのは私の義務だ」
「———ふふ、本当に真面目なお人」
女はそう言って、ナイトテーブルに置かれた果物ナイフを手に取った。
「———いいえ、貴方は私を愛してます」
女は男の言葉を、考えを否定した。
「何を———」
男の言葉よりも先に、女の手が動く。
女は手にしたナイフを、己の胸に突き立てようと腕を振り下ろして———
「———ほら、貴方、泣いているもの」
「…………?」
———それは男の手によって止められた。
男は無意識に、女の自殺を止めてしまった。
ナイフの柄を握る女の手ごと握るように、男は柄を掴んでいた。
「……私はいったい———」
「貴方、泣いてるのよ」
男は涙など流していない。
だが、女にはそう見えたのだ。
「……泣いてなどいない。悲しんでなどいない。私は———」
「『どうせ死ぬのなら、自分で手を下したい』———ですか?」
「っ……」
女は男を愛していた。
故に、女は男の欠陥にはもう気が付いていた。
男が他者の不幸を糧にする事でしか、幸福を得られない人間である事に。
「……良いですよ」
「なに……?」
「貴方が私を愛しているという証明になるのなら、どうぞこの命を絶ってください」
女はナイフを握っていた微かな力を完全に抜いてしまった。
元より、男の握力を振り解く事が出来ないのだから、女にこの状況を覆す事は出来ない。
男がこのままナイフを取り上げれば、女は助かる。
逆にこのままナイフを押し込めば、女の命を終わらせる事ができる。
女の生死は、男の手に委ねられてしまった。
「私は知っています。貴方の苦しみを、悩みを、嘆きを。そして喜びを、歓喜を、幸福も———だから、私を選んでくれたのでしょう?」
「…………」
「病に苦しむ私を、生死を彷徨う私を、未来がいつ途絶えるか分からない私を———そんな私を、貴方は愛してくれた」
「———違う」
「貴方は、私を愛しています」
「違う、私はお前を愛せなかった」
「いいえ、愛しています」
「———私は……」
男は頭がおかしくなりそうだった。
女の言い分は正しい。
だがそれを認める事が出来ない。
認めたら最後、男は完全に歪んでしまうからだ。
「———例え」
女が既に渇ききった口で、喉で声を出す。
「例え、貴方の愛が、生き方が正しくないと、誰かや他でもない貴方自身が断言しても……私だけは、赦します。貴方を愛します」
「——————」
男のナイフを握る手に力が入る。
それは男の意思ではなく、意志によるものだった。
「———ああ、でも」
女が呟いた。
「我が儘を言うのなら、もう少しだけ生きて、貴方と貴方の子どもを———」
愛していたい。
女はそう呟いた。
———これは、昔の話だ。
男と女の、いつの日かの遠い思い出。
ただそれだけの話だ。