「き、キレェ?」
「綺礼」
「キレー?」
「……難しいなら無理して呼ばなくてもいい」
「そ、そんな事ないです! 確かに難しいけど、少しコツを掴んできて……きれぇい!」
「…………」
「……うぅ」
———人生初めての夫の名前は、私にとっては発音が難しかった。
何回か練習したが、どうにも上手くいかない。
「……なぜそこまで名前にこだわる?」
「え、だって……夫婦ってそういうものなのでしょう?」
夫婦に限った話ではないが、相手の名前を呼ぶのは色んな意味が込められている。
親愛や友情、慈愛に敬愛。
そこには人として、相手を思いやる気持ちが込められている。
だから可能な限り私は、人の名前を呼び続けていたい。
「それに、ずるいです。貴方は私の名前をハッキリ言えるのに、私だけ下手くそなんて認められないです」
「その考えは私にはよく分からんが……クラウディア」
夫は私の名前を唐突に呼んだ。
見せつけだろうか、きっとそうなのだろう。
「……ところで、きれぇの名前って何か意味があるのですか?」
「……清く美しくあれ、と父が名付けた」
「まぁ、素敵ですね」
「……果たしてそうかな」
「カレン」
「…………」
「カレン」
「…………いきなりなんですか。正直貴方に名前を呼ばれても虫酸がはしるだけです」
「なに、たまには名前で呼んでやれと言われただけだ。それより、お前もたまには私の事を『お父さん』と呼んでみてはどうだ?」
「は? 本当に気色悪いですね。呼ぶわけないでしょう」
なんてやり取りが、居間から聞こえてくる。
「ふむ、記憶違いでなければ数年前までは『お父さん』と呼ばれていたはずだが?」
「可哀想に、もう頭がボケてきたんですね。そんなの記憶違いです、あり得ないです」
「……そうか。では確かめてみるとしよう」
「……何ですかその手に持った物体は?」
「ビデオカメラだ」
少し気になって様子を伺いに覗きに来たら、夫はその手にそこそこ昔に購入したビデオカメラのスイッチを入れていた。
『お父さん、抱っこ』
「ッ……!?」
そしてまぎれもない、カレンの声がビデオカメラからした。
『お父さん、抱っこ』
「ち、ちょっと待ってください。何でそんなものが残って……!」
『お父さん、抱っこ』
「や、やめなさい! リピート再生しないでください! そして今すぐそれを寄越しなさい塵神父!」
夫は器用に片手でビデオカメラを持ち上げ、何度も何度も同じ所を再生し続けている。
そしてそれを奪い取ろうと飛んだり跳ねたりする娘。
あ、今凄く良い笑顔だ綺礼さん。
その微笑ましい争いは、三十分くらい続いた。
「クラウディア」
「……急にどうしたの?」
ぽけーっとしていたら、いきなり娘に名前で呼ばれた。
「いえ、お母さんの名前ってあまり耳にしないので、なんとなくです」
「……そうなの?」
言われてみればそうかもしれないが……
夫も基本は名前呼びする事は少ないし。
「ところで知ってましたか? クラウディアというのは一般的にはお母さんのようにヨーロッパ系の女性の名前として使われていますが、その由来は古代ローマのクラウディウス氏族からきてるそうですよ」
「クラウディウス……うーん、どっかで聞いたような」
なんだったけか。
テレビとか本とかで見かけたような記憶が……
「有名なのだとローマ帝国第五代皇帝とかですかね。暴君とかいわれた」
「あぁ! 確か『ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス』だっけ?」
「……お母さんってそういうあまり役に立ちそうで立たない知識ばかり覚えてますよね」
「まぁ、ベッドの上でできる暇つぶしっていったら限られてくるもの」
昔はそういった理由もあって本ばかり読んでいた。
歴史書とかもそこそこ読んでいたため、そのような知識も頭に入ってたりする。
「凄いわよね昔の人って。こんな遥か先の時代にまで名前が語り継がれるだなんて。ネロ皇帝は暴君とか言われてるけど、実際どんな人だったのかしらね?」
「もしかしたら、実は男装していた女性……とかあり得るかもですよ」
「カレンは面白い事言うのね。もし本当だったら、学者さん達が驚きのあまりひっくり返っちゃいそうね」
そんなこんなで、夕方まで娘とトークを楽しんだ。
ちなみに作者は歴史がすごい苦手ですはい