母が好きだ。
母がどうしようもなく、好きだ。
真っ白な肌も、髪も、片方しかない瞳も、骨と皮しかない身体も、その在り方も生き様も、全て好きだ。
いつ散ってもおかしくないその命で、健気に生きて、懸命に愛を与える母が好きで好きで仕方ない。
『カレン』
母に名前を呼ばれるのが好きだ。
触れれば簡単に壊れそうなか弱い声で、精一杯張り上げるその声が好きだ。
『重くなったわね……もうお母さんは持てないかも』
母に抱っこされるのが好きだ。
残念ながらそれはもう叶わぬ願いだが、好きだった。
『怖い夢でも見たの? ならお母さんが一緒に寝てあげる」
母と寝るのが好きだ。
その頼りない腕で抱き締めてくれる感覚が、好きだった。
母は弱くて、強い人間だった。
どんなに苦しい目にあっても、どんなに痛い思いをしても、母は母であり続けた。
ベッドで何日も寝たきりかと思えば、子どものように外ではしゃぐ時もある。
いつだって笑顔を忘れず、それでいて悲しい時は涙を流す。
そんな母が誰よりも人間らしいと私は思った。
ある日、ふと思った事を母に聞いてみた。
『どうして私を産んだのか』と。
お世辞にも母の身体が出産に耐えきれられるものだとは思えない。
実際、私を無事に産めたのも奇跡に近かったらしい。
しかし、奇跡とはいえ母はその時命を落としかけたとも聞いた。
何故、そこまでして産もうと考えたのか。
気付いていなかったわけではない筈だ。
仮に望まない妊娠だったのなら、その時点で諦めれば済む話だ。
では何故なのか、当然の疑問だった。
そして母は、少し照れくさそうに答えた。
『愛したかったから』
ただそれだけの、一言だった。
それなのに私はそれ以上、何かを言う事はできなかった。
それが嬉しさからくるものだったのか、理解できない故の諦めだったのかは未だにわからない。
母は不幸な人間だ。
その生まれも、人生も決して楽なものではなかった。
しかし母はそんな不運を怨みはせず、それを誤魔化すようにいつも笑っていた。
何故だ。
何故母はあんなにも健気に、精一杯生きているのに、こんなにも不幸なのだろうか。
どうして母が苦しまなくてはいけないのか。
わからない、それだけがどうしてもわからない。
どうして、どうして———
どうして、母が『死ななくてはならない』?
その疑問が、ずっと頭に残る。
冷たい雨の感触を全身に味わいながら、目の前にある母の名が刻まれた墓石を見ていると、その疑問がぐるぐると回る。
これはわかっていたことだ。
覚悟ができていたはずだ。
極端に言うと、母はいつ死んでもおかしくない人間だった。
だから別れは突然来るだろうと、わかっていた。
だというのに、何故今更こんな疑問が私を苦しめるのだろう。
何故、何故と。
あれだけ頑張った母が、苦労に見合うだけのモノを得たとは思えない。
母はもっと幸せになるべきだった。
今からでも遅くなかった。
母のこれまでの人生が不幸だったなら、これから幸せにしていけば良いと。
そう思っていた、そう願っていた。
もしこの世に本物の『
それに縋りたいと思うほど、私は母を幸せにしてあげたかった。
『風邪をひくぞ』
耳障りな声が背後からした。
この男は変わらない。
母が死んでも変わる事はない。
母があれだけ尽くしたというのに、この男は最後まで変わる事はないのかもしれない。
そう思うと、無性に腹が立つ。
『そこに突っ立っていても、何も変わらないぞ』
五月蝿い。
『いくら待っても、生き返りはしない』
五月蝿い、五月蝿い。
煩わしい。
その鬱陶しい声を止めろ。
『お前の母親はもういない』
止めろ、止めろ、止めろ!
———目覚ましの音が響いた。
それをいつものように、手慣れた手つきで止めた。
まだ呆けている頭で、何故こんなにも寝汗がひどいのか、この何とも言えない不快感は何なのかを考えた。
そしてすぐにわかった。
私は悪夢を見ていたのだと。
そう理解するや否や、ベッドから飛び起き、部屋の扉を乱暴に開け部屋を出た。
二階から一階へと降りる階段を一気に駆け下り、私は居間へと飛び込んだ。
「———おはようカレン。今日は朝から元気みたいね」
母がそこにいた。
いつものように、笑顔の母が。
「あら、どうしたの? 怖い夢でも見た?」
そして母の細い身体に抱きついた。
抱き心地としては正直微妙だが、私はこの感触が好きだ。
いつまでも、いつまでもこの感触を味わっていたい。
そしていつまでも、私にとってのこの『幸せ』が続きますように。
母の幸せがおとずれますように———
とりあえず次回で最終話とさせていただきます。