十一月初頭に行われたアメリカの中間選挙で大統領の再選が決まる。だが在日米国大使は個人的な理由により帰国し、新しい大使がやって来ることとなった。
警察に属する僕個人としては大使の交代などは関係ない。だがそれに伴う式典などの警備にはおおいに関係してくる。
師走に突入して世間が騒がしくなる頃、米国大使館でささやかなレセプションが開かれた。
そして招待された警察庁上層部と共に警備のひとりとして僕も参加する。
その日の仕事もいつもと変わらない職務のひとつとしてこなせるはずだった。
「警察庁警備局所属の降谷零君」
手にした名刺を真顔で読むその声に鳥肌が立つ。低く落ち着いた声には慣れたつもりだった。
だが僕より高そうなスーツを着込んで前髪を後ろに流し、さらになぜか眼鏡をかけた姿には戸惑いすら抱いてしまう。
「……赤井……」
「何か用かな? 降谷君」
なぜここにいるのかと聞きたいが聞くことはできない。なぜならつい五分前に目の前の男が、新しい大使と共にこの大使館にやってきた駐在官だと説明を受けたばかりだからだ。
「なぜ言わなかった」
「何のことかな」
「ここに着任したことだ」
和やかな雰囲気に包まれた会場の隅で僕は小声ながら赤井に疑念を突き刺す。すると赤井は笑みを浮かべた。
「知らされなかった事で、そこまで気分を害させるとは思わなかったな」
「僕は別に怒っていない」
「それは良かった。ところで降谷君は……」
不意に言葉を途切らせた赤井はちらりとよそへ目を向ける。
そこに何かあるのかと目を向けた僕だが、視線の先には歓談を楽しむ人たちしかいない。
何もないことを確認した僕が再び赤井を見上げると先程より近い位置に赤井の顔があった。
「あれから体調はどうだろうか。例の薬に後遺症などはないと聞いているが」
赤井がささやく内容はもちろん周囲に漏らすべきではないものだ。だから赤井の行動は何も間違っていない。
だが鳥肌が立つのを防ぐことができない。
「降谷君、顔が赤いようだが飲み過ぎたかな」
「それはおまえが……」
「俺が何かしたかな。降谷君?」
「もうその名前を呼ぶな」
「ああ、そういうことか。失敬、ではこれからは零君と呼ばせてもらおうか」
赤井の落ち着いた低い声が僕の名前を呼ぶ。それだけで血流が狂ったように頭へ流れているのを感じた。
肌がざわつき鳥肌が立つとともに頭に血がのぼる。そんな現象は今まで起きたことがなかった。
「どうした零君。耳まで赤くなっているようだが」
「何でもないからもう呼ぶな」
拒絶するように顔を背けて僕が言い放つと、赤井も意図を組んだように口を閉ざした。そこへスマホに着信が入り僕はその場を離れながら通話に出る。
着信に意識を向けていた僕は、背後で赤井が思案顔を見せたことに気づかなかった。
大使館を出ると寒空の下にいた風見が声をかけてきた。ジャケットをまとった風見だが外に居続けては冷えるらしく手をこすっている。
「お疲れ様です」
「何があった?」
冷たい風が頬を撫でて火照った顔と頭を冷やしてくれる。冷静さを取り戻した僕は風見に連れられ大使館の敷地外へ出た。
米国大使館前は交通量の多い場所にある。その向かい側はホテルの建設現場となっているが今は工事が止まっていた。
夜間ということもあり昼間ほど交通量も多くない。その道路に大量の缶が転がっていた。外で待機していた警官たちが道路に出て缶を拾い集めている。
「飲料を運んでいたトラックが扉を開けたまま走っていたらしく、ここを曲がった拍子に」
「扉が開いて中身が転がり出たのか」
風見の説明に続くように言いながら白い息を吐き出す。だがため息を吐き出していても仕方ない。風見に指示を出しながら僕も缶を拾うことにした。
速やかに缶を拾い集めた後に運転手へ注意をさせる。そこまでするのに小一時間ほどかかってしまった。
「はぁ……今夜は冷えるな」
「降谷さん、俺のジャケットでよければ使いますか」
外での作業に冷えてぼやいた僕の前で風見が上着を脱ごうとする。僕はすかさずそれを止めて風見にそのまま着ているよう告げた。
「僕は大丈夫だから……」
「いつまでたっても帰ってこないから、何があったのかと思ったが」
そこへコートを腕にかけた赤井がやって来て僕に目を向ける。
「缶が転がったと聞いたが」
「既に片付いてトラックも行かせた。問題はないはずだが、中で騒ぎでもあったか?」
「こちらは何もない」
眉間にしわを寄せて赤井に問い返せば、問題はないと返ってくる。だがその声はどこか精彩を欠いたような印象を受けた。
僕がいない間に事件が起きたとは思えないが、赤井は何もないのに態度を変える男ではないはずだ。
だとしたらおそらく僕たちには言えない事があったのだろう。
「あの、降谷さん!」
「ん?」
思案しかけた僕へ風見から焦ったような声が飛んでくる。そのため目を向ければ風見は緊張した様子で赤井に手を向けた。
「こちらは……」
「米国大使館の駐在官、赤井秀一だ。日本人に見えるだろうが米国の人間でFBIに所属してる」
「そうでしたか。自分は警視庁公安部の風見祐也と言います」
僕の紹介を聞いた風見はピンと伸ばした背中を勢いよく折り曲げる。赤井はそんな風見を見ながら、なぜか腕にかけたコートを僕へ向けてきた。
わからないままコートを受け取った僕は疑念の目で赤井を見上げる。
だが赤井は僕に横目を向けるだけで何を言うこともなく大使館に戻ってしまった。そのため僕はそれが誰のものなのか知らないまま羽織ることになる。
しかし羽織った瞬間、それが誰のものであるのかすぐに理解できた。煙草の匂いが染み付いたロングコートを着ながら顔が熱くなるのを認識する。
そして僕はやはりその時、そばにいた風見が何かを察したような顔をしていたことに気づいていなかった。