あれはどんよりとした厚い雲から大粒の雨が落ちていた日。同じように積み重なった不満が知らず知らずのうちに心を曇らせていたのだろう。
「もう知らない!」
遂に言ってはいけない言葉を吐き捨て飛び出してしまった。あてなどあるはずもないのに。まだ小さい頃の記憶は曖昧でそのあとどうしたのかよく覚えていない。誰かに声をかけられて気がついたらここにいた。
?「それって誘拐って言うんじゃないの?」
?「細かいことは気にしない!!」
ーーー
「咲?どうした?」
「あっ、お姉ちゃん。なんでもないよ」
ぼーっとしていた咲はふいに声をかけられた。心配そうに見つめる顔に何となくほっとする。安心したら気にしていなかったテレビから流れる騒がしい実況が耳を劈いた。咲は渋い表情をして音量を落とすと背中のほうから声が届く。
「もうすぐ出番だ。気の済むようにやってくるといいさ。一緒の卓に入るのは久しぶりだろ?」
「うん、でも私にはお姉ちゃんなんていない」
「それを私の前で言うか」
苦笑いを浮かべた相手を見た咲は慌てて訂正を入れた。忘れようとも忘れられない人を思い浮かべながら。
「ごめん!そうじゃなくて、えーっとあの……」
「意地悪言う姉でごめんな、気にしてないから。ほら」
開け放ってある扉に向かって背中を押された。一歩踏み出せば、もう会場に続く廊下だ。表情を引きしめて振り返った咲の目ははっきりと捉える。怖いという印象を与えがちな、でも本当は優しい大好きな人。少し微笑んだ顔はどこまでも穏やかだ。
「行ってきます」
「おう、行ってこい。待ってる」
だいすきだよ、心の中で呟いたこの言葉は誰にも届かないだろう。しかし、口は無意識のうちに動いていたらしい。私もだ、言われてから気がつくのでは遅かった。頬を真っ赤に染めながら咲は背を向けて走る。恥ずかしさから逃げることに全力だったおかげで会場に着く頃には肩で息をしていた。乱れた髪と呼吸を整えると卓についている三人の元へ向かう。
「よろしくお願いします」
長かったインターハイも残すは半荘二回のみ。いや、これは団体戦だ。大将の姉が戦いきるまで、つまり残り半荘十回。
咲はぐるっと辺りを見渡した。雀卓以外には中継用のカメラと試合時に独特な色を放つ照明しかない寂しい部屋。全ての音が遮断されているため、打牌の音がよく響く。ここは高校麻雀団体戦の頂点を決める全国大会であり当たり前のことなのだが、何度来ようと慣れることはないだろう。
そして、同じ卓を囲む顔は二年生が二人と、チャンピオンと言われる三年生の宮永照。一年生は咲一人、しかしそこは問題ではない。一番の問題は、チャンピオンだ。これもチャンピオンだからという理由ではなく、咲の
ー宮永照と宮永咲
二人は姉妹だ。それ以上でもそれ以下でもない。複雑な宮永家の事情を知る人物は姉妹を除いて二人のみ。
そんな、らちあかないことを考えている咲などおかまい無く時は刻々と進んでいく。
ブー
開始を告げるブザーが鳴ると対面に座る照が手をのばし賽を振った。カラカラと音を立てていた小さなふたつの立方体が動きを止めると綺麗に積まれた牌が姿を見せる。
(私はお姉ちゃんのために絶対勝つ!)
触り慣れた麻雀牌はすんなりと手に馴染み、咲は一打目をそっと河に出す。
同時に眠っていた小さな魔物が活動を開始しようとしていた。
ーーー
(一局目はこの人...って言うのは辞めておこう、お姉ちゃんから確実に和了れる。逆に言うと、ここで和了れなければラスをひく確率が上がる。だからといってこの面子から和了するのは簡単じゃないよね。まずは速さ重視でいこう)
考えることほんの数秒、次のツモ番までで十分な時間だった。試合は四人の思惑が交錯しながらも滞りなく進んでいく。
「ツモ、1300・2600」
『決勝戦、最初のあがりは宮永咲ーー!!』
『速さを意識した打ち回しでしたね。チャンピオンがいるこの卓でのあがりは大きな意味を持ちます』
『というと?』
『チャンピオン、つまり宮永照選手は一局目には上がらないことが多いんです。一局目で相手を観察し、特徴である連続和了を成し遂げていると』
『チャンピオンがあがりにこない一局目にあがることで、他校との差をつけておくということだね』
『はい。速さを重視したのは確実にあがるためか、それとも連続和了に対抗するつもりなのかは分かりませんが』
お茶の間やスクリーンの前の観客に実況を届けるのはこーこちゃんこと福与恒子、解説はすこやんこと小鍛治健夜。少々癖のある実況解説ながらもしっかりと言いたいことは伝わってくる不思議は、決勝戦までに慣れた人も多いだろう。
そのスクリーンでは卓に広がった点棒を咲が仕舞おうとしている。そして次の局へ進もうとしたその瞬間、照以外の三人は全身の毛が逆立つのを感じた。
(きたね、お姉ちゃんの照魔鏡。本当に嫌な感覚だよ。じゃあお姉ちゃんに鍛えてもらったお礼に私も全力でいきます!)
周囲に放たれた
意思を持っていないので当然のことだが機械は何よりも無機質だ。人間に動かされるだけの自動卓はすっかり次局の準備を整え、参加者の動きを待つ。長いようで短い時間が過ぎ去り、ようやく一つ目の牌が河に姿を現した。
(咲、見ない間に随分大きくなった。未だに心を掻き乱す存在なのは間違いないけど、私の
「ツモ、500・1000」
(手加減はしないからね。私だってまた勝てるように、お姉ちゃんって言われるように努力してきたんだから)
照がチャンピオンでいられる最大の理由は咲の存在があったからであり、過去にとらわれながらも努力を惜しまなかった結果だ。追われる立場は心地の良いものではなかったが、咲に届けるには最善の方法だと不器用な照なりに考えた。
点棒のやり取りが終わると照はもう一度椅子に深く腰掛ける。まだ誰も正しく理解していない咲の恐ろしさ、親番に豹変すること、それをしっかりと自覚して深く息を吐いた。まだ対局は始まったばかりだ。
ーーー
「お疲れ様、咲」
「ありがとう。私、ちゃんと次に繋げられたかな」
「平気だよ。あとは任せな、それとも姉を信じられないか?」
「ううん。お姉ちゃんだもん、大丈夫!」
「とは言っても出番はまだ先だけどな」
重い足取りで控え室に戻るとチームメイトは優しく労いの言葉と共に受け入れてくれた。またやってしまったと後悔しても変わることの無い数字、プラマイゼロは咲を苦しめる。しかし、理解のある仲間の言葉に多少なりとも救われた気分になった。
次鋒の選手を送り出したあと姉に連れられていったソファに背を預ける。窓の外はうだるような暑さだろう。そんな蝉の声を聞くだけでも暑く感じる異常な気象の中、空調の効いた部屋は意識を手放せと囁いてくる。
しばらくしてから緊張から解放されたことも相俟って悪魔の誘いを断り切れなかった咲は温もりを感じる姉の柔らかい太ももに顔をうずめて眠りに落ちた。
(血の繋がりで姉妹だとか姉妹じゃないだとか決める、その考えを捨ててないなら絶対に許さないから)
夢か現実か、判断のつかないところでそう誓った。いや、あの子が出てきたからきっと夢なのだろう。車椅子に乗っていないその子は爽やかな風の吹く小高い丘の上で長い金色に輝く髪をサラサラと揺らしながら笑っていた。