舞踊ことダンシングダンスの弟であるリヴァービートのニコニコ大百科風解説でございます
ウマ娘編の方でも彼は河刻として登場しています
リヴァービート
リヴァービート(River beat)とは日本出身の元競走馬・元種牡馬である。調教師は中橋栄治。主な騎手は柴幡大地。生産は金城牧場。馬主は金城謙典。競馬史で唯一凱旋門賞・メルボルンカップを制した競走馬であり、3世代しか残せなかったものの、現在まで血脈を継がせることに成功している。
通算成績42戦16勝。GIは8勝。重賞は7勝。
父はリヴァーマン。母はデュネット。半兄にロスマンズ国際Sを勝利したFrench Glory。日本調教馬初の凱旋門賞馬にして世界的大種牡馬のダンシングダンス。マイルからミドルディスタンスにかけて活躍したダブルノーブレス。全姉に20世紀史上最強の競走馬と名高いリヴァーデュネット。半妹に芝ダート問わずに活躍したGI11勝馬スターキャロルがいる。
兄妹達の中で唯一長距離レースを走ることができ、天皇賞春2連覇やメルボルンカップ制覇など輝かしい成績を納めている。
主な勝ち鞍
1997年 菊花賞(GI)
スプリングS(GⅡ) セントライト記念(GⅡ)
きさらぎ賞(GⅢ)
1998年 凱旋門賞(GI) KGVI&QES(GI) 天皇賞春(GI)
日経賞(GⅡ)
1999年 メルボルンカップ(GI) 天皇賞春(GI) コーフィールドカップ(GI)
2001年 ジャパンカップ(GI)
京都記念(GⅡ) 阪神大賞典(GⅡ) オールカマー(GⅡ)
1998年 最優秀5歳以上牡馬
1999年 JRA特別賞
●幼駒時代
幼駒時代のリヴァービートはとにかく走り回り、他の仔馬達とコミュニケーションをとっていたと当時の牧場スタッフは述べている。同じ場所に放牧された仔馬達と一緒に駆け回ったり、ポツンと寂しくしていた仔馬を見つけては積極的に誘ったりとしていたらしく、いつの間にか仔馬たちの中心的な存在へとなっていたらしい。なお、幼駒時代にリヴァービートと一緒の放牧地で過ごしていた仔馬たちは、後に全馬OP馬までのし上がっており、後に鳴尾記念を勝利するハードゴージャスや三冠馬バトルフィールドを産んだゲイルテースト、京都記念優勝馬プレザントイーストがいた。
人に対しても愛嬌を振りまき、人が嫌がることは絶対にしなかったと牧場長である金城謙典は当時のインタビューに答えている。あまりの人懐っこさから闘争心はないのかと危ぶまれていた時もあったがそんなことはなく、オンオフがしっかりしている馬だった。
●クラシック期前半まで
リヴァービートのデビュー戦は1996年12月1日の3歳新馬戦に決まった。鞍上に運良く空いていたロンゾ・ケネーンが騎乗。2着のステイゴールドに1馬身差をつける勝利で新馬戦を勝ち上がった。全姉リヴァーデュネットと同じ大逃げからの勝利に世間は早くもリヴァーデュネットとの対戦を熱望していた。そして始まるステイゴールドとの腐れ縁
クラシック期のリヴァービートは初戦のきさらぎ賞・3月のスプリングSを大逃げで快勝。皐月賞の人気馬筆頭として名を連ねる。本番の皐月賞では圧倒的1番人気に押されるも、伏兵のサニーブライアンにゴール手前で差されアタマ差の2着に終える。さすがにリヴァーデュネットのようにはいかなかった。
続く東京優駿でもリヴァービートは1番人気に推される。一方、皐月賞を制したサニーブライアンは7番人気と皐月賞馬とは思えないほどの低人気だった。レースが始まるとリヴァービートはすぐに先頭に立つ。その2馬身ほど後ろにサニーブライアンが取りつき、2番手集団からは10馬身以上離すという展開になる。
サニーブライアン鞍上大竹佳宏のリヴァービート潰しの戦法に屈し、残り200mというところでサニーブライアンに抜かされ無念の2着。鞍上の竪山亘宏はメジロライアン・ダンシングダンスに続いて3度目の東京優駿2着となった。
●出会い。そして、最強の姉
放牧から帰ってきたリヴァービートはセントライト記念に向けて調整をしていたが、ここでトラブルが起こる。当初の鞍上は、きさらぎ賞から騎乗してもらっていた竪山亘宏の予定だったが、別の馬とブッキングしてしまい、再び鞍上が空いてしまったのだ。鞍上が空いたリヴァービートへと営業を掛ける騎手は多く、ベテラン・若手問わずリヴァービートの鞍上を狙うものは多数いた。そりゃあ、みんな強い馬に乗りたがるのはわかる。
しかし、リヴァービートが選んだのはまだ2年目の若手騎手である柴幡大地。調教師の中橋栄治や馬主の金城謙典が決めたわけでもなく、営業をかけていたベテラン騎手にも目もくれずリヴァービートは柴幡大地を選んだ。スーパークリークが多木寛を逆指名したあのエピソードを彷彿させるような事が起こり、関係者一同は目を丸くした。
鞍上が決まったリヴァービートはセントライト記念を快勝、そして菊花賞でマチカネフクキタルの猛追を凌ぎきり見事初GIのタイトルを獲得した。柴幡大地は7月辺りから所属厩舎とのトラブル等が重なってしまい、ほとんど勝てておらず途方に暮れていた。しかし、リヴァービートに出会ったことで成績も上昇し、初GIを手にすることが出来た。
この当時を振り返り「僕はリヴァービートがいなかったら騎手をやめていた。リヴァービートには本当に感謝している」と柴幡大地は語っている。
そして、有馬記念当日。リヴァービートは現役最強馬であり全姉であるリヴァーデュネットと対峙する。リヴァーデュネットはここまで全戦全勝且つほぼすべてのレースで5馬身以上離して勝利している世界最強馬。リヴァーデュネットを追い詰める事が出来たのはサクラローレルと半兄であるダンシングダンス、1997年の凱旋門賞にてアタマ差まで詰めてきたSwainの3頭のみ。
この姉弟対決を見ようと中山競馬場に人数制限が掛けられるほどの人数が集まる。レースが始まるとリヴァーデュネットとリヴァービートの二人旅。その他後続はスタンド正面の時点で既に10馬身近く離されており、まさに姉弟対決という形になった。しかし、最終直線に入った途端、リヴァーデュネットの加速についていけず、最終的にリヴァーデュネットから7馬身も離れた2着。
中橋栄治は「スタミナならリヴァービートの方が上だけど、それ以外の部分は完全にリヴァーデュネットの方が上」と嘆いていた。
●春の盾、そして凱旋門
古馬となったリヴァービートは初戦のダイヤモンドSを3着で終える。さすがに3400mは長かったのか少し消耗していたようだ。次走の日経賞はいつもの大逃げでステイゴールドから2馬身差で勝利し、天皇賞春へと弾みをつける。
そして1998年5月3日の天皇賞春。ステイゴールドの他にもメジロブライトやシルクジャスティス、前々走のダイヤモンドSでリヴァービートに勝利したユーセイトップラン等が出走する中でリヴァービートは1番人気に推される。
レース展開はいつもの大逃げで他の出走馬がそれに追随するという展開。リヴァービートはそのまま先頭を走り続け見事逃げ切る。2着にはステイゴールド、3着にはメジロブライトが入着。見事97世代でワンツースリーを決めた。
天皇賞春の勝利後、陣営は宝塚記念に向かわず海外遠征することを発表。KGVI&QES、アイリッシュチャンピオンステークス、凱旋門賞に出走することを公表した。
KGVI&QESに出走するためにイギリスのある牧場で放牧することになったリヴァービートだが、すぐに現地の馬達と仲良くなり、グルーミングしたり一緒に軽い併走をしたりと楽しくすごしていたそうだ。なお、アイルランド・フランスの厩舎で過ごしている時でも同様のことをしており、リヴァービートのコミュニケーション能力の高さが如実に表れた。
肝心のKGVI&QESはというと、現地のラビットを上回る速度で大逃げをし見事1着。全姉リヴァーデュネットに続く姉弟制覇を成し遂げた。なお、リヴァービートから1馬身差の2着となったSwainはダンシングダンス・ダブルノーブレス・リヴァーデュネットとリヴァービートの兄姉と対戦歴があり、1995年のジャパンカップでダンシングダンスに勝利するなどの強豪馬であった。
遠征2戦目のアイリッシュチャンピオンステークスではKGVI&QESに逃げ勝ちっぷりが認められたのか1番人気。しかし、前走のKGVI&QESで2着となったSwainの逆襲によりクビ差の2着に敗れる。しかし、3着のAlboradaから6馬身離しての2着と強さを見せつけた。
なお、Swainはこの勝利で調子を上げたのか、引退レースのブリーダーズカップクラシックでAwesome Againから7馬身差の圧勝を決めた。
そして凱旋門賞。ダンシングダンス・ダブルノーブレス・リヴァーデュネットに続く兄弟制覇とSwainとの激闘にあてられたのか、現地でも圧倒的1番人気になる。レース展開はというと、KGVI&QESの時と同様にラビットを置き去りにするほどの大逃げをし、そのまま逃げ切りの勝利。兄弟4連覇というアンタッチャブルレコードを叩き出した。
2着のSagamixとは6馬身離しての勝利であり、これはSea-Bird・Sakheeと同じ記録である。
なお、鞍上の柴幡大地は騎手3年目にして凱旋門賞を制覇した騎手となった
日本に帰国し、ジャパンカップ・有馬記念と出走するがいずれも全姉リヴァーデュネットの2着に終える。しかし、6馬身・4馬身とリヴァーデュネットとの差は縮まっており、来年はもしかしたらと思わせる成長を見せたのだった。
●長距離の雄
古馬2年目となったリヴァービートは京都記念2着・大阪杯3着と惜敗が続く。特に調子が悪かったわけでもなく、騎手の腕が悪かったわけでもない。むしろ柴幡大地の騎手としての腕は向上しており、4月時点で騎手リーディング5位に付けるなど着実にトップジョッキーとしての道を歩み始めていた。ただ京都記念を勝ったプレザントイーストと大阪杯を勝利したマチカネフクキタルが強かっただけである。
2連覇を狙う天皇賞春ではセイウンスカイ・スペシャルウィーク等、後の黄金世代がリヴァービートに立ちはだかる。レース展開は大逃げするリヴァービートについていくセイウンスカイ。スペシャルウィークは中団からの競争で始まるが、終わってみればリヴァービートとセイウンスカイの二人旅。そのままリヴァービートが1着でセイウンスカイは2着。大きく離れてスペシャルウィークが3着という形で決着がついた。
続く鳴尾記念ではハードゴージャスの2着。しかし、次走の宝塚記念では8着と初めて掲示板外になってしまった。そして勝ったのは全姉リヴァーデュネット。なんなんだこのUMA。中橋栄治等調教師たちは故障したのか疑ったが、怪我などは一切していなかった。しかし、柴幡大地はすごく走り辛そうにしていたとインタビューで語っている。
宝塚記念8着とほろ苦い結果に終わってしまったが、馬主の金城謙典がオーストラリアのメルボルンカップを目指すと宣言。長距離に強くて海外輸送にも強いリヴァービートならメルボルンカップを狙えるんじゃないかと凱旋門賞を制覇した時から考えていたようだ。そして、リヴァービートはオセアニアへと旅立つことになった。
●初の快挙
通常、長時間の輸送は馬に多大なストレスがかかり、ガレることが多いがリヴァービートはそんなことはなくケロッとしていた。オセアニアに着いてからはメルボルンカップが開催されるフレミントン競馬場内のドミニク・ウッドブリッジ厩舎で過ごすこととなった。
初戦は9月4日に行われたクレイグリーステークスだったが、流石に1600mは短すぎたのか6着と掲示板外に終わる。この結果についてリヴァービートを預かっているドミニク調教師は「目標はあくまでメルボルンカップ。リヴァービートにフレミントン競馬場のレースを体験させてほしいとオーナーから言われました」と語っている。
次戦は10月16日にコーフィールド競馬場で開催されるコーフィールドカップ。適応距離である2400mだったお陰か、大逃げで前走のクレイグリーステークスで敗北したSky Heightsに勝利。海外GI3勝目を挙げ、メルボルンカップへ向けて弾みをつけることに成功する。
そして11月2日。本番のメルボルンカップ。凱旋門賞馬・3200m戦である天皇賞春を2連覇しているということもあって、リヴァービートが1番人気。レース展開はリヴァービートがいつも通りの大逃げ。そのまま後続を突き放し続け、最終的に2着のRogan Joshから2馬身離して勝利。史上初の凱旋門賞・メルボルンカップ優勝馬に輝いた。
偉業達成から10日後の11月12日、リヴァービートは無事日本に帰国。レースの疲れを癒すため、金城牧場で放牧に入る。
なお、凱旋門賞・メルボルンカップを制覇した競走馬は2035年現在でもリヴァービートしか達成していない。
●苦難の日々
しかし、ここからしばらくの間、リヴァービートは勝てなくなってしまう。
ジャパンカップ、有馬記念と出走するがジャパンカップ8着・有馬記念6着と惨敗してしまう。勝ったのは全姉のリヴァーデュネット。なお、リヴァーデュネットはこの年の凱旋門賞で初めて敗北をした。勝ったのはセイウンスカイである。
2000年。新たな世紀を目前にしたこの年、リヴァービートの前に巨大な壁が立ちはだかる。
その名も――テイエムオペラオー。
この年の日本競馬界を一言で表すならば、「オペラオーとドトウ、その他大勢」であった。
リヴァービートももちろん黙ってはいなかった。
春先から中距離・長距離路線の主要GⅡを次々に使われ、中山記念ではゲイルテーストに敗れて2着、続く日経賞と毎日王冠ではセイウンスカイに先着を許す。かつて姉を凱旋門賞で破ったその馬に、自らもなすすべなく敗れ続けることになる。
肝心のGI戦線でも流れを変えることはできなかった。春の天皇賞(春)では、テイエムオペラオーに3/4馬身まで迫るも届かず。続く宝塚記念では何と7着と惨敗し、本格的に衰えたのではという声も囁かれ始める。
しかし、秋に入ってからは若干の復調の兆しも見せる。天皇賞(秋)ではテイエムオペラオー、メイショウドトウに次ぐ3着。ジャパンカップでは5着と地味に掲示板を確保し、ラストの有馬記念でも再び3着に入るなど、決して崩れない安定した走りを披露した。
目の前には常に世紀末覇王テイエムオペラオーの影。
そしてその影の後ろにしぶとくついて回る、名脇役メイショウドトウの存在。
どのレースも崩れることはなかったが、一歩届かない。そんなレースばかりが続くのが、この時期のリヴァービートであった。
●復活、そして引退
2001年、年明けの京都記念。このレースでリヴァービートは持ち前の大逃げ戦法を炸裂させ、後続に影も踏ませぬまま快勝を飾る。続く阪神大賞典でもその勢いは止まらず、並み居る長距離巧者たちを振り切って2連勝を達成。
「ついに完全復調か?」と期待が高まる中、迎えたのが春の大一番天皇賞春。
このレースでは、再びあの馬が立ちはだかる。そう、世紀末覇王テイエムオペラオーである。リヴァービートは序盤から果敢に逃げ、最後の最後まで先頭を守りきろうとするも、ゴール前でテイエムオペラオーが猛追。
結果は――ハナ差の2着。
まさにあと一歩で、リヴァービートはまたしてもGI制覇を逃すこととなった。続く宝塚記念では5着と善戦はしたものの、やや物足りない結果に。これにより、リヴァービートは夏場に放牧に入ることとなる。
休養明け初戦はオールカマー。ここではエアスマップらを相手に完勝。復調気配を見せ、陣営も改めてGI獲りを視野に入れ始める。
迎えた天皇賞秋では、新たな時代の胎動が見え始める。勝ったのは、リヴァービートの兄であるダンシングダンスの初年度産駒、グローバルビギン。テイエムオペラオーやメイショウドトウといった歴戦の猛者を差し切っての戴冠であった。リヴァービートはここでも善戦しながらも5着。勝利が遠のいたようにも見えたが、物語はまだ終わらなかった。
続くジャパンカップ。ここがリヴァービートにとって、まさに真骨頂となる。
スタートから誰もが「速すぎる」と目を疑うペースで突き抜ける。1000m通過タイムは55.9秒。 通常の逃げ馬なら間違いなくバテる。だがリヴァービートは違った。
そのまま後続との差を保ち、テイエムオペラオーやジャングルポケットといった名馬たちの追撃を寄せ付けず、会心の逃げ切り勝ち。
これは、海外遠征以来となるGI8勝目。大逃げ馬として、真の勲章を手にした瞬間であった。
そして、ジャパンカップからわずか数日。疲れを完全に抜いたリヴァービートは、引退レースとして香港ヴァーズへの出走を決定。同じく遠征馬として参戦していたステイゴールドと共に、海を越えることになる。
レースはリヴァービートの得意の大逃げからスタート。そこに追走してきたのがエクラール。直線に入ると、ジャパンカップでの激走の疲れが出たのか、リヴァービートの脚が鈍る。エクラールに抜かれたその直後、ステイゴールドが末脚一閃。エクラールをゴール直前で捉え、GI初制覇。
リヴァービートは3着と最後までその実力を示してみせた。
香港から帰国後、調教師の中橋栄治は正式にリヴァービートの引退を発表。すでにアメリカで種牡馬入りすることが内定しており、放牧を経てその地へと渡ることが明かされた。
●リヴァービートの成績
●血統表
●ステイゴールドとの腐れ縁
競馬界には、時に「運命」とも呼べるような縁を持つ馬同士が存在する。
リヴァービートとステイゴールドも、まさにそうした関係の代表格である。
2頭はなんと23回も同じレースで走っていたのである。
リヴァービートの通算出走数は42戦、一方のステイゴールドは50戦。そのうち23戦を共に走ったということは、リヴァービートからすると実に半数以上のレースを同じ舞台で競い合っていたという計算になる。
もちろん、すべてが直接の勝負だったわけではない。リヴァービートが得意とする大逃げと、ステイゴールドが得意とする後方からの差し若しくは追込みは対照的な戦法だったが、それでもレースという場において、互いの存在は常に意識し合っていたに違いない。
ジャパンカップでの激走を経て、引退戦となった香港ヴァーズでは、ステイゴールドがゴール直前で勝利をもぎ取り、リヴァービートは3着でラストランを締めくくった。
勝敗はともかくとして、そこにいたのは6年にわたり同じ空気を吸い、同じターフを駆け抜けた者同士の絆であった。
互いに全く異なる個性を持ちながら、長きに渡って同じ歴史を刻んだ2頭の名馬。その関係性は、単なるライバルという枠を超えた、時代をともに駆け抜けた「戦友」と呼ぶにふさわしいだろう。
●仲間に勝ち方を教えた競走馬
リヴァービートが現役として活躍していた1990年代後半から2001年までの間、中橋栄治厩舎は驚異的な成果を上げ続けていた。
なんと、リヴァービートが所属していたその期間、中橋厩舎に所属していたすべての競走馬が"勝ち上がり"を果たしている。
中央競馬において、所属全馬が1勝以上を記録するというのは、非常に稀有なことである。
この快進撃の理由として関係者が口をそろえて挙げていたのがリヴァービートとの併走効果である。
リヴァービートと調教で併走した馬は、その後3戦以内でほぼ必ず勝利を収めるというジンクスのような現象が続いていた。
調教で併せるだけで勝てるようになるなどという話は一見オカルトじみているが、結果がそれを証明してしまっていた。
その影響もあり、中橋栄治調教師は1997年から2001年までの5年間、常に調教師リーディングTOP3入りを達成。
特に1998年には堂々の全国調教師リーディング1位に輝き、名実ともに勝てる厩舎の看板を確立した。
この"勝ち運の伝播"について、リヴァービートの担当厩務員が引退後に語った言葉が印象的である。
「なんていうか……リヴァービートって、併走を終えた後に、まるで相手にアドバイスでも送ってるような仕草をするんですよ。それから調子がぐんぐん上がって、気づいたら勝ってるんですよね。」
それはまるで、レースを知り尽くした名馬が後輩にそっと助言を授けているかのような光景だった。
その抜群のコミュニケーション能力は、後にJRAの「ヒーロー列伝」ポスターの一節――
「あなたのおかげで、僕/私たちは……」
という一文の元になったとも言われている。
単なる速い馬ではなく、仲間に影響を与える存在だったリヴァービート。
その姿は、ターフを超えて厩舎の魂として今なお語り継がれている。
●アメリカでの種牡馬生活
現役引退後、リヴァービートはアメリカ・ケンタッキー州の名門牧場ウインスターファームにて、種牡馬としての第二のキャリアをスタートさせることとなった。
異国の地での新生活――しかし、そこはかつてオセアニアやヨーロッパでも好走を重ねた名馬。順応力と社交性は現役時代からピカイチである。
渡米後もまったく物怖じせず、持ち前の明るさと馬当たりの良さで、現地の仲間たちとすぐに打ち解けた。
特に仲が良かったのが、同じ2002年に種牡馬入りしたTiznow。リヴァービートとは気が合ったようで、放牧地は常に隣同士。2頭で並んで草を食む姿は、牧場スタッフの間でも有名な光景だったという。
実際、ウインスターファームのスタッフも当時の競馬誌インタビューで「あそこまで他の馬とすぐに仲良くなれる馬は、なかなかいないですね。初日からまるで何年も前からここにいるような顔してましたから」と語っている。
そんなリヴァービートには、早くも多くの期待が寄せられていた。
初年度に127頭、2年目に114頭、3年目に122頭と、種付け頭数は多く、受胎率も極めて安定。父系はリヴァーマン系とあって、米国の血統ファンからも注目を集めていた。
「大逃げで世界を驚かせたあの馬の血が、次代にどう継がれていくのか」
関係者の期待は、日に日に高まっていく。
……だが、その矢先のことであった。
●突然の訃報
2005年11月25日――
その日は、何の変哲もない平和な午前だった。だが、ケンタッキーの名門ウインスターファームは、突如として深い悲しみに包まれることとなる。
その日の昼前、牧場の一角で異変が起きた。放牧されていた馬たちが一斉に同じ方向を向き、嘶き始めたのである。
その様子に異常を感じたスタッフが馬たちの視線の先へ駆け寄ると、そこには――リヴァービートが地面に倒れ、動かなくなっている姿があった。
その傍らで必死に嘶いていたのがTiznow。種牡馬入り以来、放牧地を共にし、苦楽を分かち合ってきた親友の異変に、最初に気づいたのはこの馬だった。Tiznowはその場から離れようとせず、スタッフが駆け寄る間も、ずっと嘶き続けていたという。
スタッフが懸命に確認するも、すでにリヴァービートは事切れていた。死因は心臓発作。前兆もなく、突然訪れた別れだった。放牧地にいた多くの馬が、彼に向かって涙を流しながら嘶き続けたという。
リヴァービートの亡骸を運ぶとき、Tiznowは激しく抵抗し、泣きながら暴れ回った。スタッフが何とか落ち着かせようとするも、リヴァービートの姿が見えなくなるまで嘶き続けていたという。
牧場長は後の取材で、こう語っている。
「あそこまで他の馬に慕われていた種牡馬は、私は見たことがない。これから本格的に成果が出てくる時期だったのに……残念でなりません。」
リヴァービート、享年10歳。
まだ若く、血統的にも種牡馬としての伸びしろを大いに期待されていた中での突然の死は、ウインスターファームだけでなく、世界中の競馬関係者に大きな衝撃を与えた。
この知らせはすぐに日本にも届き、多くの競馬ファン、そしてかつてリヴァービートに関わった関係者たちがその早すぎる死を悼んだ。
●その後の産駒達
リヴァービートの生涯は、種牡馬としてはわずか3世代で幕を閉じた。
突然の心臓発作により、10歳という若さでこの世を去ったことは、関係者だけでなく競馬ファンにとっても大きな衝撃だった。
しかし、その短い種牡馬キャリアの中で、彼は確かな爪痕を残している。
まず最初に名を馳せたのは、初年度産駒の中から現れた快速馬Six Summitである。この馬はアメリカの芝中距離戦線で頭角を現し、ついにはガルフストリームパークターフハンデキャップを制覇。これがリヴァービート産駒初のGIタイトルとなり、突然世を去った父に対する大きな弔いの勝利として注目を集めた。
2世代目の産駒からも有力馬が続出。
芝牝馬戦線で抜群の安定感を見せたBishop Crockettは、ファーストレディSを勝利。カナダ遠征に挑んだAfrican Gulliverも、E.P.テイラーSを見事に制し、国際的な評価を受けた。さらに、アメリカ三歳牝馬芝路線の重要GIであるベルモントオークスSでは、Saga Summitが鋭い末脚で勝利。
2年目にして「この父を見よ」と言わんばかりのGIを勝利した3頭の馬が揃い、リヴァービートの評価は一気に上昇する。
3世代目からは、マイルGIの雄Peer Olympiaが誕生。層の厚い芝マイル戦線において、メーカーズ46マイルステークスを勝ち切る実力を見せつけた。これにより、リヴァービート産駒は3世代でGI馬を5頭も輩出する。
アメリカだけでなく、日本でもその血は存在感を見せた。代表的なのが、3世代目産駒のエターナルラークである。
エターナルラークは中距離路線で堅実な成績を残し、GⅡのセントライト記念とニュージーランドTを制覇。さらにはGⅢのエプソムカップでも勝利し、芝の安定派としてファンの支持を集めた。
その後、リヴァービートの血を未来へと繋いだのは、やはりSix Summitであった。種牡馬入りした彼は、そのスピードと柔軟性を評価され、多くの繁殖牝馬を集める。そしてその中から現れたのが、後の後継種牡馬たち――Paradise Martin、Flight Fire、Clear Ballerらである。
一方、エターナルラークも一時は日本で種牡馬生活を送っていたが、目立った成果を出せずアメリカに移籍。しかし、移籍後に4頭の後継馬を残すなど、遅咲きながらも父の血を繋ぐことに成功した。
そして何より、リヴァービートの血統史において象徴的なのがParadise Martinが輩出した、欧州最強馬のひとり、Sudden Crossの存在である。
Sudden Crossはイギリスで頭角を現し、3歳時に凱旋門賞を制覇。父系としてはマイナーであったリヴァーマン系の血を再びヨーロッパの頂点に押し上げたことで、その名は一躍世界に知られることとなった。
リヴァービートは、種牡馬としてたった3世代しか残せなかった。だが、その3世代からGI馬を5頭も送り出し、さらに後継種牡馬が複数誕生。
まさに、短くも輝いた種牡馬人生。その血は、いまもどこかのターフで走り続けている。
関連項目
・リヴァーデュネット
・Tiznow
・Six Summit
・Paradise Martin
ちなみにリヴァービートは転生・憑依馬ではありません
Paradise Martinの母はフォークロア。母父はティズナウです
Sudden Crossは珈琲帝国編でちらっと出ており、珈琲帝国の同期でもあります