……筆がここまで乗らなかったのは初めてです。
さて、あれだけ嵐のように私に与えられた個室を騒がせた面々が全員帰った。嵐なだけに帰るのも疾風怒濤の勢いだった。
私がこの部屋に残る意義はない。治療に関してはあのカエルのお墨付きが出ているし、実際体に異常は感じない。むしろしっかり休んだ分好調な程である。
特にまとめる荷物もなく、与えられた大量の情報の咀嚼と、生の余韻に浸っていた。そこに、見舞客が帰ったのを確認したのだろう、ナースが入ってくる。
(む、美人)
純白のナース服がよく似合うボブの美女。年は二十台の半ば、スカートの裾から伸びる脚は溌溂としながらも規律のある動きを見せる。
そして、胸の特定部位に恵まれた女性だった。
少し、ほんの少しだけ脳の血管に血流が多く流れた。
脳に血が巡って、思い出すのは見舞い勢の中にいた一部。
血液の勢いが増した。
不思議そうに私を見つめるナース、それを見て少し息を吐く。
久し振りだった、こんなくだらないことを考えたのは。考えられたのは。こんなことで平和を感じるとは、我がことながら何とも馬鹿らしい。
穏やかな思いのまま、退院手続きを終える。それとは別にカエルへの伝言も頼む。借りていた口座と使った金は全て返却する、と。人員の管理と個人の管理にずさんな学園都市暗部、どうやら私を死亡扱いにすることを忘れていたらしい。実に間抜けだが、これで私はかつての自分の財産を全て取り戻せる。もう、カエルの援助は必要なかった。
そうして手続きを終え、何事もなく、病院を出る。
この間退院したときはかなり動揺していたし、不安も多く抱えていた。それとは正に百八十度違う。前には見えなかった色々なものが目に入ってくる。視界が色鮮やかになった気がする(実際、金髪の地毛が視界をちらつくので色彩は増えているが、そういうことではない)。
軽やかに足を進め、あのアパートに帰ってくる。
階段を上り、涙子の部屋の前を通り過ぎ、『成辺』という表札のかかった部屋に辿り着く。そして、私は気づいてしまった。
「あれ? 私、鍵持ってたっけ?」
あの日、光子たちとの待ち合わせのために部屋を出たとき、間違いなく鍵はかけたし、持って出た。だが、その後色々とあって、今日目が覚めたとき、私は病院着だった。当然だ。まさか搬入してきた患者を私服のまま治療し、剰えそのまま数日間も放っておくはずがない。
そして私も、当然起きてからあの日着ていた服(洗濯はされてあった)に着替えた。洗濯されたのだから服に鍵は入っていない。
いや、待て。落ち着け、私よ。今、左手に持っているものは何だ? ……ハンドバックだ。あの日、出掛けるのに持ったもので、病室にあったから勿論持ってきた。そして、鍵はどこに入れた? ……ハンドバックだ。
(ふぅ。焦ったって訳よ)
「いやあ、まあ、それで見つかるなら、結局私も焦らないって訳よ」
手に触れるのは、金属製の鍵ではなく、―――紙。入れた記憶のない、紙。
それを取り出して読んだ。
『やっほー! これをどこで読んでるかな? 結構ヌけてるから、もしかして部屋の前? だとしたら悪いことしちゃったなぁ。ははは。
―――あなたの部屋の鍵は預かった。返してほしければ、第七学区の……下に地図描くからそこに来てネ!はあと』
誰だ、これを書いたのは。いや、私の頭の中では当然のごとく二つ隣の部屋の主がこれを音読してくれているが。ちなみに、最後の『はあと』だけ筆跡が違う。流石にあの子もそこまでセンスに乏しくない。
この筆跡は……、この微妙すぎる汚さ、見覚えがある。汚いのに、ところどころに美しさが……微妙に芽生えない。これは浜面の筆跡だ。
(いやいや、流石に浜面もそこまでキモくないって訳)
だが、たとえば麦野に『何か面白いこと書けよ』とか言われたらどうだ? ……ありうる。
という訳で、この紙はきっと今日の見舞グループの双方が関係しているのだろう。
添付された地図を見る。それは手書きらしく正確ではなかった。しかし、正確さと人をきちんと目的地に連れていけるか、というのは別だ。この地図、正確ではないがとても分かり易い。
それによると、どうやら第七学区内のある場所に呼び出されているようだ。私は記憶を辿り、そこがただの貸し倉庫であったことを思い出す(私の装備の倉庫の候補地でもあったのだ)。しかし、確かに部屋の前で読むことになったら悪いだろう。この場所、病院を挟んでこのアパートと反対側にある。盛大な無駄足だ。
はぁ、と溜め息一つ。そして、一つ良いことを思い出して、吐き出した息を吸った。
▽ ▽ ▽
アパートの廊下から、一旦外壁に出て、隣の建物の壁も使って三角飛びの要領で屋根に上る。普段と違った視界になる。
私は呼吸を落とし、強制的に心拍を下げる。心を落ち着かせ、脳を澄ます。
少し遠くの、別の建物の屋根を一度見つめ、目を閉じた。
目を開く。
少し遠くの、別の建物の屋根の上にいた。
「ッし!!!」
嬉しくて、嬉しくて。思わず大きくガッツポーズをする。
何だったか、あのときの老夫婦の解説を借りれば、『外向的な能力』に戻ったのだろうか。私は、テレポートが使えるようになっていた。
しかし、喜びも束の間、くらり、と足元が揺らぐ。慌ててしっかりと踏ん張る。
今までとは違う。自分を基準として座標計算を行うがために、自分の座標をずらすことは苦手だった。それが今ではここまで気楽にできた。それに、苦しみを与えてくる演算負荷も、かつての自分にかかっていたものに比べればどれだけ楽なことか。
一度限界を超えて脳を酷使したのが良かったのか。そういえばあのカエルも言っていた。人の最大の武器は学習能力だ、だとかなんとか。私の脳も学習して強くなってくれたに違いない。
だとすれば、連続使用だ! 使えば使うほど強くなる、だとするなら酷使するに限る!
私は手を突き上げた。本音を言えば、歩いて貸し倉庫まで行くのが嫌なだけだった。
途中、何度も倒れそうになり休憩を挟みながら、ようやく私は貸し倉庫の前に立っていた。
貸し倉庫を眺める。外観からうかがえるような違和感はない。しかし、外装が変わっていないだけで中身はどうなっているかは知りようがない。
さあ、白を切るのもここまでにしようか。
私には、今回のネタが既に理解できていた。
覚えているだろうか? 私はあの日、涙子が私に隠れてサプライズを企画していると睨んでいた。あんな事件があったために流れていたそれを涙子が再び企んだのだろう。そして、あの涙子のことだ、きっと私の知り合いと見て麦野たちにも声をかけ仲間に引き込んだのであろう。
つまり、この貸し倉庫の中では彼女たちが今か今かと私を待ち受けているのだ。そしてその周りにはパーティー仕様に飾られた内装があり、きっと家庭力に長けた涙子の手料理なんかが並んでいるのだ!
しかし、悟られてはならない。私がサプライズに気づいていたなど気づかせてはならない。それこそ準備してくれた人に失礼というものである。こういうものはたとえ気づいたとしても言わないことが様式美なのだ!
(ただ、一つだけ疑問があるって訳よ)
その疑問、とは貸し倉庫のことだ。ここは私が使おうか悩んだような倉庫、つまりは広い、高い、でかいの三拍子揃った倉庫なのだ。あの人数でのサプライズパーティー、この広さが必要とはとても思えない。
私は、一抹の不安を抱きながら倉庫の扉(私が改修したわけではないから扉がついている)を押し開いた。
ゆっくりと開いていく扉に飛び込む。
飛び込んだ私を迎えたのは、無数の銃弾……ではなく大量の紙くずだった。
「ひゃっ!?」
『おかえりなさい! フレンダ!』
大量の、加えて色とりどりの紙切れに可視範囲を極限まで狭められた私に、大音量の音声が聞こえてきた。その声は皆一様に同じ言葉を叫んでいる。しかし、その声色は様々。老若男女、訛りのある方言混じり、外国語まで聞こえる。そして、何より私に辿り着いた声の量が異常だった。それこそ、まるでこの倉庫が人で埋まっているような……、
「な、な、何って訳よ!!??」
大量の紙くずは床に散らばり、視界が広がる。しかし、今度は紙くずではなく人混みによって私の視界は埋められた。
人。人。人。倉庫の高さも使って立体的に人が詰め寄せている。
落ち着け、落ち着け、私。何、ただのサプライズ、サプライズだ。想定内、想定内なんだ。ほら、この演出をするために人を金でかき集めたに違い……ある。
少し落ち着いてみれば、その人混みが全て知り合いの、ううん、
唖然としている私に、麦野と涙子が歩み寄ってきた。
「どう? 驚いた、フレンダ?」
「へへ、ただのサプライズじゃつまらないかな、と思いまして」
ドヤ顔を披露する麦野に、にへらと笑う涙子。私も半開きで固まっていた口の形を三日月型にした。
「超驚いた、って訳よ。結局、私の想定外だったぁ」
何が様式美だ、全然わかっていなかったではないか。
「このために私たち超頑張ったんですよ? フレンダの荷物漁って、お友達の連絡先を超調べて……」
絹旗が疲れた疲れた、と肩を竦める。
そんな絹旗をしり目に、サプライズは続く。
倉庫の奥から歩いてきたのは、光子に万彬に絹保。三人でワゴンを押していて、そのワゴンには巨大な、それこそ全高が私の身長よりもあるようなケーキが乗っていた。
「フレンダさん、快気祝いですわ。著名なパティシエたちに作らせました」
「わたくしたちもほんの少しですけれどお手伝いさせてもらいましたわ」
「おいしくできましたので、どうぞ」
にこやかに笑う。そして、このケーキの説明を始めた。
この巨大ケーキは何層にもなっていて、表層を食べたあとの内側も美味しく食べられるのだとか。これ、中身詰まってるのか……。ちなみに、きちんと切れ目が入っていて、見た目こそ一つの巨大なケーキだがある意味ではケーキの集合体とも言えるかもしれない。
私がそのケーキを一切れもらい(紙皿があった)、そのおいしさに舌鼓を打つ。学舎の園で食べたものに匹敵、いや、それを超える素晴らしいケーキだ。
私が食べたため、わらわらとケーキに群がってこのパーティー(?)の参加者が残りを分け合っていく。瞬く間にケーキは消失した。本当に、何人いることやら。
集まってくれたのは、皆私の友達だ。懐かしい。過去の記憶が蘇る。人数が人数なため、一人一人にかけられる時間は少ないが、多くが久し振りの現実世界での対面だ。きちんと声をかけ会話をする。
私の快気祝いらしいが、私がホストのようになってしまっている。だが、それも悪くない。
友達は皆、こぞって私の心配をしてくれていたらしい。確かに、実際に会えることはほとんどないが、私はこの多大な人脈を一切腐らせていなかった。頻繁に連絡を取り合っていたのだ。それがいきなり連絡を絶てば心配するのも当然だろう。
一旦、全員を捌き切る。友達たちも分かっているようで、私を長い間留め置くことはしない。安否が確認できればいいのだとか。この大量の人混みで新しい人脈を作り始めている。
そんな、一瞬の間隙に私に涙子が近づいてきた。
「すごいですね、フレンダさん! こんなに色んな人とお友達で! 私も人脈は広い方だと思っていたんですが、これに比べたらぜーんぜん!」
「これが年の功、ってやつよ!」
「えー、年の功ってほとんど変わらないじゃないですかぁ」
「なら、結局私がすごいって訳ね!」
胸を張る。これは私の強みだ。弱みになることも山ほどある。だけど、私が私であれる、そこの強さはこの
涙子が、少し躊躇いながらまた口を開いた。
「それでですね、えと、フレンダさん!」
「な、何って訳?」
「プレゼントがあります!」
すごい勢いで言い切られた。そしてそれに私が反応する前に、涙子は後ろ手に持っていた小さめの紙袋を私に突き出した。
「
あのとき、とは強盗に襲われたときだろう。少し申し訳なくなりつつも、私は紙袋の中を見つめて目を見開く。
そこにあったのは、紺色のベレー帽だった。
「…………」
私はそれを見つめる。あの変装、バレていたわけではない。しかし、涙子には何かが伝わってしまったのだろうか。作戦としては失敗だったが、それが無性に嬉しかった。
「……ど、どうですか? 気に入りませんでした?」
黙りこくった私を涙子が窺う。私は、そのベレー帽をいつものように頭に乗せて、大きく笑った。
「ううん! 結局、最高って訳よ!」
略してフレンダ=セイヴェルン生存記、完結です。なんて。