少年が迷い込んだは禁忌の森。何人も近寄る勿れと伝えられる魔性の森林である。
 既に陽も落ち、戻る当てもない彼はやがて一軒の洋館に辿りつく。
 少年はその主人であろう見目麗しい姫君に誘われ館へと入っていく。
 薄暗い館の内部を歩いていく最中、館の主人と名乗る女は少年の素性を探ることも無く昔話を始める。曰く、来客に浮かれているから口が軽くなっているのだと。
 恩のある身である少年も特に拒否をする理由も無く、主人の言葉に耳を傾ける。
「昔々、大馬鹿なお嬢様がいたの。……ええ、とても愚かな、同情の価値もない皮相浅薄な女よ」
 それはまるであまりにも近しすぎる人間を語るようで、言ってしまえば、とても自虐的な語り口だった。(本文より抜粋)

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Wish

 少年が迷い込んだは禁忌の森。何人も近寄る勿れと伝えられる魔性の森林である。

 既に陽も落ち、戻る当てもない彼はやがて一軒の洋館に辿りつく。

 少年はその主人であろう見目麗しい姫君に誘われ館へと入っていく。

 薄暗い館の内部を歩いていく最中、館の主人と名乗る女は少年の素性を探ることも無く昔話を始める。曰く、来客に浮かれているから口が軽くなっているのだと。

 恩のある身である少年も特に拒否をする理由も無く、主人の言葉に耳を傾ける。

「昔々、大馬鹿なお嬢様がいたの。……ええ、とても愚かな、同情の価値もない皮相浅薄な女よ」

 それはまるであまりにも近しすぎる人間を語るようで、言ってしまえば、とても自虐的な語り口だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女の欲望は飽くなき飢餓のようであり、満足さは注ぎ足されるたびに消費され底なし沼の如く様相を呈していた。

 生まれが特殊であったわけではない。確かに、公爵家の次女として生を受け、不足なき衣食住の環境と貴族社会において不可欠な知識を授けられ、何の変哲もない子供のように友人にも恵まれていた。

 家の為に利用される未来が見えていなかったわけではないが、父親の力もあってか彼女の行く先は明るく照らされており、不安材料は抗うことのできない、確率的で、偶発的なものに留められていた。

 豊潤な人生を送ることができている自覚も少女にはあり、両親への感謝の心持ちも常に存在していたため、自身を苛む渇きの正体が不明瞭であることに対して、不快に思うことすらあったのである。

 

「お嬢様、そろそろお支度のお時間です」

 姿見の前に置かれた椅子に腰かけながら、何度目かもわからぬ不愉快な思考に少女が陥っていると、メイドの声がドア越しにくぐもって響いてきた。

「もうほとんど終わってるわ」

 少女は気だるそうに立ち上がり、ドレスに座りジワが出来ていないかを入念に確認すると、最後に自身自慢の髪に乱れが無いことを確認し、ようやく従者にその顔を見せた。

「もう、私たちにお着替えもお任せになられてください……」

「自分でできることは自分でするわ」

「我々が怠慢だと処罰されてしまいますので、どうか」

「知らないわよ、そんなの」

 嘆息するメイドを尻目に早足で目的地へと歩き出す。このメイド、仕事は優秀であるが、必要以上に絡みたがるきらいがあるようで、実のところ少女に良くは思われておらず、しかし彼女はそれを勘付きつつも、平然と専属メイドという地位から動こうとしない。非常に厄介である。

 空がやや赤みがかってきた時分、あちこちで蝋燭の不足を確認するメイドたちの姿があった。また、元は私兵なのだろう男たちが鎧を脱ぎ重そうな荷物を何往復もしながら館のホールに運び込んでいるのも、窓越しに確認できる。

 今日は同じ派閥に属している貴族同士の交流会が開かれるのである。公爵家である少女の家は派閥の長であり、当然ホスト側である。然程特別というわけでも無いのだが、顔を定期的に合わせることで派閥同士の結託を薄れさせず、更には子息を参加させ縁談に発展させることができれば家の存続も図れるという、そういった場の提供という意味では重要なものには間違いなかった。

未だ政治に対して興味を持ちづらい少女にしてみれば遠い世界の舞台のように聞こえるが、自分と近い年頃の少年少女が来訪するとなれば話は変わってくる。

色恋などにはまだ疎い部分もあれど、遠方の友人らと直接顔を合わせて話ができる貴重な機会となるわけで、少女も友人らの例に漏れず、数日前より楽しみからそわそわして止まなかった一人である。

「確認するけど、特に変更はないのよね」

「はい、欠席等の連絡は承っておりませんし、お嬢様の御友人様方も皆来られるとのことです」

「そう……ふふ、よかった」

 少女が年相応の笑みをようやく浮かべると、メイドも少し表情を崩し、すぐに引き締める。どれだけ目の前の花が可憐であろうとも、その魅力に理性を突き崩されかけようとも、勤務真最中の身である。その気真面目さに少女はつまらなさそうに唇を尖らせると、父親の待つ書斎のドアの前で止まる。

「それじゃあ、お父様にご挨拶してくるから」

「はい、お待ちしております」

「あー、お父様よりリリィちゃんたちと早くお話がしたいなぁ」

「……そんな大声で話されますと聞こえてしまわれるのでは?」

「聞かせてるのよ」

 父親のことが別に嫌いなのではなく、どちらかと言えば好きに分類されるのだが、そこは年端のいかない女子の心は騙し絵の如く天邪鬼。ついついきつく当たってしまう性なのであった。

 

 パーティーも終わり、楽しみにしていたお茶会も翌日に控えていたため、大人たちよりも早くベッドに潜り込んだ少女。国の重鎮たちのつまらない話を耳から詰め込まれ辟易としていた彼女は、その意識を眠気に容易く明け渡そうとしていた。

 消えかけの蝋燭の明かりは弱弱しく、今しがた緩やかに潰えた。壁の向こうの枝葉が風に揺られ心地よい睡眠導入剤となり、青い月がこれ以上ないほど膨らみ夜の地表を炙っているのがカーテンの隙間から見える。

 心身を休める絶好の環境、だが、それは何の前触れも無く侵されてしまう。

「……誰かいるの?」

 微睡みの中、部屋の入口の方から不穏な気配を感じ、ベッドの中に身を深く入り込ませながら問いかけた。枕の下に隠してある短剣をいつでも抜けるように身構え、視線をドアの方に投げかける。

 屋敷の警備は十全の筈である。なにせこれほど多くの貴族諸侯が集まる機会は少なくなく、しかも、広義で言う政治的活動の場であるため、暗殺者が送り込まれるという事態も容易く想定できるからだ。少女の家も、客人もそれぞれが自衛のために兵を用意しているのである。更に言えば、屋敷の使用人らによって警戒も最大限に行われているため、このような夜更けに音もなく許可も無く私室に踏み入られるようなことはあり得ないと言っても過言ではない。

 正体不明はゆっくりと少女に歩み寄る。間諜か、不埒者か、そのどちらにしても少女の力ではどうすることもできない手練れだろう。闇の中より忍び寄る死の恐怖に少女は全身を震わせる。

「君をどうこうするつもりはないよ」

 まるで蜂蜜のように甘い青年の声が少女の鎖骨を撫でた。あまりの衝撃に少女は叫ぶことを忘れ、その発生源、深淵より届けられた言葉の源を凝視する。

 その反応は失策、あまりにも手遅れだった。

 影はそっとカーテンを開けると、その全貌を月光で晒した。暗殺者であれば、愚行を通り越した行動であるが、それは殺意を纏ってはおらず、むしろ知性あるものを悉く吸い寄せるような引力を放っており、人が持つべき許容力を遥かに越した蠱惑的な魅力を少女に見せつけていた。それはあまりにも美しすぎたのだ。

「貴方は誰?」

 若干熱を孕んだ視線を少女は彼に向ける。護身手段から手を離した行為は自殺に等しいと揶揄されそうなものであるが、そうさせてしまいそうな小動物的な柔和さが助長させてしまったのだろう。

「僕はウィズ、君を救いに来たんだ」

 ウィズと名乗った青年は妖光を背に少女のベッドの傍に立つと、そのまま跪いて彼女の顔を真摯に見上げる。

「僕は君の真なる願いを知っている。さあ、その麗しき御姿を僕に見せてほしい」

 魔性の囁きが少女の耳朶を打つ。

 勿論、少女には青年との面識は一切ない。この世の美を集約したかのような麗しい男を見かけた、或いはこうまで言い寄られるまでに仲を深めたのであれば毎日のように脳裏に浮かべてもよさそうなのだが、生憎人生この方恋に浮かれるような心地になったことなど無く。仮に彼が恐ろしい刺客だったとしたら、このように礼を尽くされるような筋合いはない。理性が溶かされていく最中でも、惧れ、懐疑心、様々なものが少女の肌から脳に伝わり処理されていくが、その浮世離れした絶景を視覚が情報化するたびに、自分の全てを明け渡してしまいそうな衝動がつま先まで走っていく。

「私の願いですか?」

 なんとか誘惑を跳ねのけ寝具で身を守りつつ、彼の言葉に少女は返した。即物的な欲望ならば数えるほどには存在する。しかし、彼のいう“願い”は恐らくそうでないのだろう。

 まるで少女の内側を知っているかのような、少女の渇きの正体を知っているかのような口ぶりは。少女の知らない、少女を知っているかのような。

 青年は何も言わない。ただ微笑みを湛え少女を見守るだけである。

「私は」

 自分はどうしたいのだろう。今までずっと漠然として、形にならなかったものなのに、急に言われてスラスラと出てくるようなものなのだろうか。少女は詰まらせる。

「何でもいい、僕が叶えてあげるよ」

 青年が慈しむような手つきで少女の額を撫でる。不思議と触れられた部分から熱が奪われていき、思考がクリアになっていく。

「私は、私は」

 終わりなき不満のサイクル、その連鎖を断ち切るために、青年に伝えなければならないことが、次第に鮮明になってくる。代わりに、少女を構成する一部分が剥離し、分解され、二度と復元できないまでに変質していくような気さえしている。だがもう、少女には些細な事となってしまっていた。

「本当の幸せが欲しい」

 

「何が本当の幸せなのか私にはわからなくて、何を満たせば幸せになるのかわからないけれど」

 

「私は私を知らないから」

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、君が幸せを知る手助けをしてあげるよ」

 

 ここに契約は成った。

 

 

 

 

 

 少女はこの時、世界を手に入れたのである。

 

 

 

 衝撃的な夜から数年が経ち、少女は女へ変わろうとしていた。誰もが羨む美貌と知性を手に入れ、彼女の手の振るう方向へ全てが流されていく。もはや使用人だけでなく、両親を含めた親の誰もが、大臣が、宰相が、国王が、男が、民が、世界が、彼女の思うがままであった。

 しかし、

「どうして私の言ったとおりに出来ないのかしら!」

「ひぃい、申し訳ありません、お嬢様……!」

「もういい、あなたは要らない。衛兵、今日の断頭台は空いてるかしら」

「いえ、あと2週間は空きがございません」

「そう、なら適当に火にでもくべておいて」

「お許しを……私がいなくなってしまったら家が……!」

「貴方がいなくならないと私の気がおさまらないの」

「いやぁあっ、お嬢様ぁ! なぜっ、どうしてしまわれたのですかぁ?!」

 屋敷に残っていた最後の古参の悲鳴が締め出され、部屋に控えていた衛兵がいなくなり人の目が無くなった途端乱暴に髪を掻きまわすと少女は盛大に溜息をもらし、机に突っ伏した。そこにかつての姫の面影はなかった。顔立ちだけで言うなら確かに似ているが、面持ちや振る舞いに見る影は無く、稀代の暴君、現世に甦りし大淫婦と秘めやかに囁かれる女の姿しかなかった。

 苛立ちを収めるべく、机に置いてあるワインの瓶をひっくり返し、なみなみとグラスに注ぐと一気に煽る。

「何よこれ!」

 すると彼女は眉をしかめ、衝動のままに瓶を壁に叩き付ける。あっけなく硝子は砕け散り、赤い飛沫をシルクのカーペットに撒き散らした。

「こんなまずいもの誰が持ってきたの! ってかさっきのアイツよね! ほんっとに腹が立つ!」

 異音を察知したメイドたちが掃除道具を手に部屋になだれ込み、シミのついたカーペットの交換まで綺麗にこなすとすぐさま退室していく。その勤勉なさまですら不愉快そうに睨みながら、少女は乱暴に椅子に腰かけた。

「おやおや、今日は随分と荒れていますね」

 少女以外誰も存在しない筈の密室に、眩く輝く宝石のように麗しい声が届けられる。

 少女は肩を竦めながら振り返ると、窓の前に姿勢を正して立っている青年の姿を捉えた。逆光でその表情は推測することしかできないが、酷く愉快そうにしていることだけは少女にも伝わってきた。

「愚鈍な輩に囲まれてると苦労するわ」

「君のハードルが高すぎるんじゃないかな」

 グラスに残っていたワインを愛おしそうに飲み干す青年を、勿論少女の飲み残しなので当事者はやや不快そうに眺め、また一つ嘆声を溢す。

「また溜め息……幸せそうじゃないね」

「ええそうよ、私は不幸せ。貴方が私の幸せを見つけてくれるっていうからずっと待ってるのに……」

「僕は手助けをするって言っただけだよ。その力の向かう先は君次第。無責任なことを言うようだけど、これは事実だ」

「……力に関しては感謝してる。おかげで私は全てを手に入れられたのだから。だけど」

 そういって少女は自分の手のひらを見つめる。国を手にしたその手は、恐ろしいほど軽かった。

 

 思い返すは、ウィズと出会ってすぐの彼女自身。

 目覚めた彼女は何の変哲もない部屋と、メイドの厄介な目覚ましに昨晩の出来事は夢だと判断し、何事も無かったかのように一日を過ごすことに決めた。

 彼女の要望通り、高級な紅茶に料理長自慢のパンケーキはいつものように最高のもので、友人との歓談は閑談らしく進み、昼頃には帰りゆく朋友らとの別れを惜しんだ。

 翌日から始まるレッスンの日々を憂い、彼女は日常に戻りゆくはずだった。しかし、少女はふと願ってしまった。翌日のピアノの稽古の中止を、澄んだ川の流れの様に純粋な心で願ってしまったのだ。

 講師の非業の死を知らされたのは朝方のことで、真剣な表情で見知らぬ男と話し込む父親の口からだった。それから何度かピアノの講師が交代するという話が出たが、全て立ち消えとなってしまった。候補者が、次々と失踪してしまう事件が勃発してしまったからだ。

 またある日、専属メイドに嫌気がさして配属変更を父親に申し出たが、それは却下されてしまった。現職の専属メイドが、少女の教育に最適だという判断からだったのだろう。

 次の日、専属メイドが首を吊っているのが発見された。結果的に専属メイドは交代となった。

 ちょうどこの時期、少女に力の自覚が芽生える。同時に、青年との契約が夢ではなかったことを知る。

 憂さ晴らしに奴隷狩りをしたいと父親に打ち明けたら、国の法に触れるからとやんわりと諌められてしまった。数か月後、法改正があり少女の悲願は達成された。反対した貴族は粛清されたらしいが、少女にはどうでもよい事だった。

 少女が恋をしたいと言った。国中から候補者が募り、彼女の元に毎日求婚者が集った。しかし彼女はその全てを振った。危うく誘拐されかけたこともあったが、別の候補者という名のストーカーに助けられたこともあった。そのストーカーもすぐに行方を眩ませてしまった。

 少女の中にはもう、歯止めは存在しなかった。

 

「ホントに代償は無いの?」

 一抹の不安が、少女の胸中には常在していた。それは力を振るい始めたその日から一日たりとて去ることは無く、彼女の悩みの一端を担い続けていた。

 強すぎる力は破滅を生む。代価失くして報酬は無し。この世の摂理は過去が証明している。少女とて痴呆ではない。自分が何かを得る度、まるで予想もつかない何かが積み上がっていて、いつかこの青年に返さなければならないのではないか、そういう怯えが湧き上がるのも無理はなかった。

 故に少女は何度も青年に問いかけ続けていた。いつの間にか彼が少女の傍に再び存在するようになってから、頻繁に。

 青年は苛立つことも、うんざりした様子を見せることも無く、必ず同じ回答をする。

「君が力を使うことによって、君から貰うものは何もないよ」

 今日もまた、同じ笑顔で、あの夜と同じ、慈愛の籠った笑顔で。

 その仕草に幽かな胡散臭さを感じながらも、実際神の如き力を授けてくれたことで少女の中で彼の言葉が何より信頼できるものであったのは事実であり、そのたびに不信を振り払って話を切り上げる。

「そうだ、今日はいいものを持ってきたんだ」

「へえ、あなたが珍しい……何? 美術品なら見飽きたわよ?」

「君に似合う指輪さ、この世に二人といない職人に作らせた、真の芸術品だ」

 その愚かさゆえ、少女はついぞ気づくことは無かった。青年の含みのある答えと、その口元に漂う愉悦の吐息に。

 かくして、この喜劇は終わりを迎えようとしていた。

 

 

 

 はてさて、等価交換、とまでは言わなくても、『報い』という言葉がしっくりくるだろう。

 少女は聡かった。力に溺れても、理性と呼ばれるものが欠片でも存在していたが故に、大いなる何かに懐疑的な想いを抱いていたのは、元々彼女が心優しい人間だったからなのだろう。だが、彼女は狂ってしまっていた。彼女は代償を払うことなく願いを成就させていったが、その過程にどれほどの人間が存在しただろうか。どれほどの命が、尊厳が、魂が踏みにじられていったのだろうか。

 確かに彼女は青年に何も捧げなくてもよいのだろう。だが、多くの怨嗟が、彼女の崩壊を欲していた。

 都のあちこちから火が上がり、群衆の怒りの合唱が少女の城を取り囲んだのは、少女が青年と静かに飲み明かしていた時だった。

 

「何事ですか!」

 館の周りの異変に気が付いた少女が声を荒げるが、いつもなら即座にやってくる使用人たちがどこにも見当たらない。あろうことか、門に密集する武装集団を迎撃しなければならない筈の衛兵らも姿を消していた。

「誰でもいい、私に状況を説明しなさい!」

 青年を置いて、少女は館を駆けまわる。じわじわとにじり寄ってくる魔の手に対する怯えを擦り付ける相手を探そうにも、料理人も、住み込みの侍女たちもいなくなった城は彼女に孤独という現実しか見せつけることはしなかった。

「使えない奴ら……私を置いて全員逃げ出したのね……」

 掌から血が流れ落ちることも厭わず拳を握りしめ、手当たり次第に調度品を床にたたきつける。

「どいつもこいつもっ! 私をこれっぽっちもわかってないっ!」

 がなり声を上げ、髪を振り乱し、自分の纏うドレスを手当たり次第に引きちぎる。

「何故私は幸せになれないの?! なぜ誰も私を幸せにしてくれないの?! 私は幸せになりたいだけなのに!!」

 血走った眼を外に向けると、怒り狂った民草の中に見知った顔があるのに少女は気が付いた。それは先日彼女が死刑を命じたメイドであり、彼女もまた憤怒を背中に宿し、手には猟銃を持っているのが遠目ながら判別できた。

「まさか……」

 死んだはずの人間がなぜそこにいるのか、少女には始め理解が追い付かなかった。この世には死人すら蘇らせる秘術があるのか。なるほど世界はまだ広い。面白くない。

「そんなはずない、まさかあの衛兵たちが手引きして逃がしたのね……」

 従順だった犬たちの静かな裏切りを知り、少女の憤懣は頂点に達した。

「殺してやる……」

 少女は窓枠から身を乗り出し、迫りくる民衆に力の限り呪詛をまき散らした。

「お前たち全員死ねばいいんだ! 死ね!! 地獄に堕ちろ!! 私に逆らったことを無限に後悔し続けろ!! 私にはその力があるのだから!! あはっ、あはははははっ」

 

「こんな国滅びてしまえ!!」

 

 

 何も、起こるはずはなかった。

 

「い、いや」

 少女がありったけの熱意を込めた願いは、不発に終わる。

 群衆は依然その歩を少女に向けている。一気に迫ることはせず、まるで勝ち誇ったかのように、ゆっくりと、そして着実に。

「う、ウィズ……ウィズゥ!!」

 血の気が引いていく感覚がした少女は、一心不乱に自室に駆け戻った。ドアを壊さんばかりに開くと、青年は変わらず余裕綽々と一献傾けていた。

「あんた、今がどういう状況かわかってるの?」

「ああ、知ってるとも」

「なんでそんなにのん気に飲んでいられるのよ!!」

「だって、僕が狙われているわけじゃないしさ」

 青年の口調が少しばかり変化しているとも気付かないまま、少女は問い詰める。大股で成年に詰め寄り、その襟を鷲掴みにする。

「私を幸せにしてみせるって言ったじゃない! 私の幸せを見つける手助けをするって約束したじゃない!! これが私の幸せってこと?! こんなところで無様に死に絶えるのが私の幸福!?」

「そんなはずないじゃないか、君の幸せは別にある」

「じゃあ教えなさいよ!! 今すぐ!! 私……私死んじゃう! 嫌よ、私死にたくない……死にたくない!!」

 青年を突き放し、その場に座り込んでしまう少女。顔は涙でぐちゃぐちゃになり、かつて国を傾けた華やかさも艶やかさもありはしない。醜い魔女の本性が露わになっていた。

 館の入り口が次々と破られる音を背後に、青年は静かにその肩を抱く。

「……そうだね、そろそろ頃合いだから教えてあげるよ。君の幸せの形、君の真の願いを」

 初めて聞く青年の楽しそうな声色。少女は驚愕の眼差しを青年の瞳に向ける。

「君は愛されたかったんだ。大勢じゃなくてもいい、君のどんな醜い姿でも受け入れてくれる人が、たった一人でもいたらそれで十分だったんだよ」

「それだけ……たった、それだけ?」

「君はいくら施しを受けようとも、誰かから愛されているという確証が持てないでいたんだ。だからどれだけ満たされようとも、心の渇きだけは決して満たされなかったんだ」

 

「君がいくら自分の思う通りに世界を回しても、君が幸せになるはずもないよ。そこに愛は存在していないのだから」

 

 階段を踏み鳴らす有象無象の気配、もう時間は無かった。

 

「だけどもう大丈夫、これから君は幸せになるんだ。君は僕に愛されながら永い時を生きる。さっき願っただろう? 死にたくないって」

 青年の指が少女の唇に触れる。

 小さく震えていた。

 全身が震えているように感じたのは、青年の気のせいではあるまい。

「ああ、この時を待っていた。君を手に入れるこの瞬間を待ち望んでいた。ようやく君は僕に愛される資格を得た。おめでとう、大勢の人間が君を祝福するだろう、君という人間の死を。そして君は生まれ変わるんだ」

 

 

 

 

「愛してるよ、僕の愚かなで可愛い人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 館の主人と食卓を囲んでいた少年は唖然としていた。目の前の人物が語る物語はあまりにも荒唐無稽で、それにしてはあまりにも真に迫るものであったからだ。

「それで、その少女はどうなったのですか?」

「多分、生きているんだと思うよ。その青年と共に、今もまだ、その過ちを懺悔しながら」

 ワインを口に含み、館の主人は妖艶に口端を吊りあがらせた。その不気味さに吐き気を覚えた少年は口元を抑えなんとか堪えると、水を飲み込み難を逃れる。

「私のつまらない話を最後まで聞いてくれてありがとう……なにせここには客人と呼べる人は殆ど来ないから、ついついお話がしたくなっちゃうの」

「いえ、こちらこそ食事までいただいてしまって……ありがとうございました。何かお礼ができればいいのですが……」

「いいのよ、もう充分代価は戴いたもの……今日はもう寝なさい、明日発てば危険は少ないでしょう」

 遠慮する少年を空き部屋に押し込めると、館の主人は食堂に戻り、ワインを再び嗜みだした。

 しばらくして少年が座っていた席にグラスがもう一つ置かれ、主人はそこにそっと中身を注ぐ。愛しさと、なぜか諦観の念を込めた笑みを浮かべ、彼女は自分のグラスを差し出した。

「ずいぶん懐かしい話をしたわ」

 静かに成される乾杯。いつの間にか現れた青年はゆっくりと赤酒を煽り、頬を緩めた。

「ねえ、あなたは私を幸せにすると言っていたけど、私と結ばれて、あなたは幸せなの?」

 少女はまるで返答など期待していないと言わんばかりに視線を伏せ、グラスの中の水面に映る自分の顔を眺める。私は満ち足りている、と主張する自分の目尻に切なさを覚えつつ、やがて中身は空となった。

「貴方の幸せは、何?」

 少女の問いかけに、かつてウィズと名乗った黒山羊頭の青年は、肩を竦めるばかりで、口を開こうとはしなかった。

 


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