北高の制服で帰宅した俺を母は不思議に思わなかった。
晩飯時になり、それとなく高校生活について語る事にした。
ああ、結果か?
どうもこうもなかった。
『北高は腐っても進学校だからお前は腐るんじゃない』
だそうだ。
自分の部屋を見ただけで嫌でもわかった。異常事態だ。
好きな外人選手のポスターさえ貼ってないし、だいたいサッカーに関係するものの一切が置かれていない。
部活として取り組むのを止めたとはいえ趣味は趣味。
まさか何の決断もなしに処分するなんて事はしない。
部屋中のどこを漁っても買ったスニーカーたちが見つからないんだぜ。
世界が変わったとしか表現できないだろ。
少なくとも俺以外の全部が変化しちまったわけだ。
カレンダーの十二月が五月に逆行しているんだからな。
部屋に間違っても北高以外の学校制服なんて置いてなかった。
俺は緑のブレザーを着る他ないらしい。
「お前はいいよな。……ヒマそうで」
午後九時前にしておねむな愚妹を相手に一言。
ありがたい事かこいつぐらいは何ら変わってなさそうだった。
ピンクパジャマを着たちんちくりんのままだ。
「ふぁぁぁ……お兄ちゃんなに言ってるのー? もう寝る時間だよー?」
「ああ。お休みしてろ」
「おやすみー」
そう言って自分の部屋に引っこんでいく愚妹。
小学五年生なんだぞ。しっかりしろ。
こいつの将来が不安なのは俺だけか。
親父も娘が可愛いのはわからんでもないがのびのびさせすぎだ。
と、変わらないものがあることを確認して一安心出来た。
日頃のストレスで変な夢でも見てるんだろ。
夢の中で夢を見るくらい普通だ。
起きたらどうせ外は冬の寒さに逆戻りだ。
――ところがどっこい。
すっとこどっこい夢じゃなかった。
否が応でも朝は訪れ、俺の部屋は昨日のまま。
壁にバルサの闘将プジョルの雄姿はない。
なあ、これがよく出来た現実疑似体験装置とやらの実験台に俺がされてるのなら一時的にでいい、中断させろ。
現実ってもんを知りたい。
部屋から居間に出てきた妹に俺の頬をつねろと言った。
それも空しくむにーと変な感触だけを味わうだけに終わったが。
朝食を済ませて、部屋にある緑のブレザー一式を睨み付ける。
何なら睨み返されても構わなかったが服に顔はない。
表情もなければ俺の文句も生地に吸い込まれていくだけだ。
どうするよ。壁に頭を打ち続けてみるか?
確か勢いよく物体に衝突した際に天文学的な低確率で異空間だか異世界だかに飛ばされるんだよな。
そんな与太話をどこかで聞いたことがある。実践しようとは思わん。
「行くしか、ねえ」
ってのか。
思わせぶりな女子生徒二人が居た、北高に。
そこで何かがわかるってのか。
俺の身、あるいは世界に何が起きたのかがわかるのだろうか。
「だったらいいんだがな」
この状況。あいつならどう思うんだろうな。
一年近く顔を合わせていないあの女、もう顔を合わせる事もないだろう涼宮ハルヒが脳裏をよぎった。
何でも普通じゃない――漠然としすぎだ――事や人に出会いたかったとか。
いつぞやは東中の屋上に魔法陣とか書いてたな。
もしや一、二年の歳月を経てその効果が発揮されたとでも言うのか。
なんて馬鹿な事を考えるくらいに状況は馬鹿げていた。普通じゃない。
一度世界は終わったはずだ。
少し歪んだ状態で俺は過去に戻ったとでも言うのか。
俺だけが対応しているのか。幻想か。
なら百歩いや百光年ほど譲ってこの状況を受け入れるとして、だ。
また十二月に世界は滅ぶのか?
それともこれが現実だってのか?
「しょうがねえ……」
北高のブレザーを着込み、スクールバッグだけを持って出ていく。
時間割が判らなかったら登校する気すら失せていただろう。
ありがた迷惑にもそれは学習机に面した壁にしっかりと貼られていた。
必死こいて教科書を確認して多分不要なものまで詰め込んだおかげでちょっとした重量感を味わっている。
後、北高について知っている事が他にもあった。
山の上にあるせいで周辺道路は急こう配、自転車通学は原則として禁止されているって事だ。
北高付近の駅に月極契約をした場合のみは自宅から駅までの区間を許可しているらしい。
届け出を出すくらいなら学校の近くに不法駐輪でもしてた方がいくらかマシだろう。
なんて考えを改めざるを得ない程に通学路は険しかった。
北高方面へ県道を上っていくと長々と斜面しか続いていない。
これを自転車に乗って行こうだなんてする奴の神経を疑っちまう。
自転車通学禁止は学校側の配慮なんだろうか。
教職員は車でスイスイ通勤だろうがな。
事実として文字通りの不届き者は見受けられなかった。
徒歩万歳だ。
しっかし冬の寒空に順応したと思えば五月の微妙な気候に逆戻り。
ともすれば暑いだけの夏が再びやって来る。
何が楽しいんだかな。
俺にはわからん。
そこらに居る他の生徒はそれがわかるってのか。
夢があるってのか。
――なんてくだらない事を考えているうちに北高に到着した。
さて、ここで問題がある。
一年生の校舎がどこか、は大丈夫だ。
昨日俺が倒れていたのが一年の教室らしかった。
よって難なく生徒玄関まで入り込めた。
問題は別にある。俺、どのクラスだよ。
さてどうしたもんかと生徒玄関をうろちょろしていると。
「おい。お前は朝っぱらから何が楽しくて右往左往してんだ?」
俺に一人の男子生徒が声をかけてきた。
驚いた。
こいつは東中で一緒だった谷口じゃないか。
そういや北高に進学してたのか。
腐っても進学校。
中学三年間谷口と同じクラスだったがこいつは馬鹿だ。
馬鹿がどこへ進学するんだかな。
生徒の質に高低差あるのが総選のつらいところだ。
とにかく状況がわからない以上は当たり障りのない台詞を選ぶしかなかろう。
「……ちようどよかった。オレの上履きがどこにあるか知らないか? 探しても探しても見つからんのだが」
「はあ? イタズラでもされたってのかよ。ご愁傷様だな」
よし。
どうやら向こうはちゃんと俺を知っているらしいね。
東中出身も汚点に思えたがありがたい事もあるもんだ。
俺が北高に居るのが自然になってるのが不自然かつありがたくないんだがな。
あっちの高校の方が偏差値高い。
「お前さんも探すのに協力してくれないだろうか。いや、してくれるとかなり助かる」
「まったくよ……」
気怠そうに了承してくれた谷口。
こいつはオールバックが似合う歳じゃないって事を理解出来ていないらしい。
だらだら歩く後ろを追ってみると下駄箱の一角までやって来た。
そこで谷口が立ち止り。
「……お前、とうとう頭がイカれちまったのか? どう見てもここにちゃんとあるじゃねえか」
谷口がそう言って指差した先には上履きが置かれている。
様子から察するに、そこが俺の場所らしい。
ゆっくりと手に取って外靴と履き替える。
もちろんお茶を濁すのも忘れない。
「おかしいな。さっき見た時は確かに置いてなかったんだが」
「寝ぼけてんだろ。顔でも洗ってこいよ」
「かもな。……寝坊助ついでに一つ訊いていいいか?」
「んだよ」
「朝倉涼子がどこのクラスか知っているか?」
地雷だったのだろうか。
俺が、と訊かなかっただけ機転が利くだろ俺。
まるで前衛的な格好をした異世界人でも見るかのような眼差しで見られた。
谷口は驚きを通り越して引いている表情である。
「……お前よお。割りと深刻なレベルで睡眠不足なんじゃねえか? じゃなかったら立派な記憶障害だぜ」
「昨日の晩飯は思い出せるぞ」
「トイレに行って予鈴ギリギリまで顔を洗い続けてろ。ちったあ目が覚める。お前は一年五組に行けばいいって事だけ憶えとけばいいからよ。頭動かすのがきついんなら病院行け……俺は先に行ってるぜ」
そう言うと谷口はすたこらさっさと生徒玄関を後にした。
ううむ一年五組か。
彼の靴も俺とそう遠くない場所に置いてあった。
もしかすると谷口と俺は同じクラスなのかもしれない。
何から何までどうなってやがる。
何もかもが謎だらけだ、驚きようがないだろ。
――いいや。
俺はまだ驚いちゃいなかったんだ。
言われた通り一年五組――そういや昨日俺が倒れていたのがここだ――の教室に入るなり俺は固まった。
ああ、硬直したね。
ドア付近でフリーズだ。
俺の席どこだっけと谷口を捕まえて訊ねるよりも先に呟いた。
「どうしてあいつがここにいる」
お前が言うなと誰かに言われれば少しは俺の気も楽になっただろう。
結果としてそんな事を言ってくれる奴はこの場に居なかった。
だって間違いようがないだろ。
髪こそバッサリ切っちまってるようだが、あのカチューシャ、あの顔、間違いない。
「……涼宮、ハルヒ」
俺の記憶の中の涼宮はいつも不満そうな顔ばかりしていた。
だが、二度だけ。
地上絵の自首をした時と卒業式の日に俺に感謝の言葉を述べた時。
たった二度だけは苦笑のようなものを浮かべていた。
今、視界に映るそいつはどうだ?
窓の外ばかり眺めているのは変わらない。
でもどこか挑戦的な雰囲気だ。
俺の知っている涼宮ハルヒからは感ぜられなかった何かがある。
やはり、世界が変わったのだろう。
俺は動けなかったがそれも長い時間ではない。
今更だろ。
開き直れ。
気が狂ったのなら受け入れろ。
論理的じゃない奴を狂人と呼ぶのではない。
論理的に破綻している奴をそう呼ぶのだ。
辛うじて俺は俺の正気を保っていた。
俺は俺の世界を知っている。
「何ぼけっと突っ立ってんだ?」
気が付けば谷口が再び俺へと声をかけに来ていた。
なら話は早い。
「オレが涼宮と同じ教室だという衝撃の事実を再確認してたところだ。そのせいで席がどこだったかも忘れちまった」
「何言ってんだお前。衝撃どころかお前は涼宮の前の席だろうが。マジでしっかりしろよ」
バンと右肩を叩かれる。
嘘だろ。
東中の再来か。
しかも俺の座席はあんな人間台風直下などと誰が信じられる。
誰の仕業だ。
どうしてこうなった。
「……はぁ」
渋々俺の席らしき窓際の一角まで歩き、座る。
真後ろがあの涼宮。
中学でそんな事はついぞなかった。
頭から変な溶解液をかけられるかもしれないと思うと恐ろしい。
身の毛もよだつとはこの事だろ。
で、この女にあいさつの一つでもしてやった方がいいのか。
そうだな、折角だからするとしよう。
夢だという可能性を俺は捨てていないんだからな。
「よう」
「……いつも通り遅いわね。しまりがないんじゃないの?」
俺はだらしないキャラで通っているのか。
無理もなさそうだ。
昨日の夜に授業ノートを確認したところどの科目も何一つノートされていなかった。
普段の授業を寝ているのだろうか。
信じたくないね。
「かもな」
「しっかりなさい。SOS団の一員としてあんたはバリバリ働かなきゃならないのよ」
「……はあ?」
エスオーエスダン、ドゥーユーアンダスタン?
なんだそれ。
新種のライフル弾か、いや、一員とか言ってる辺り集団としての団なのだろうか。
涼宮はこの学校でも意味不明な事をしているのか。
いやいやそれどころか俺はこの女と話し合う仲になっているのか会話がスムーズだ。
驚きだ。
信じられない。
席に座りながら後ろを振り向いている俺の表情を見て涼宮は。
「なに馬鹿な顔してんの」
「悪いがオレの顔は生まれつきだ」
「あんたが馬鹿なのはいいけど、それを外に出すなって言ってんのよ」
「よく言うぜ」
お前は俺の母さんかよ。
ほどなくしてチャイムが鳴り響いた。
担任もじきにショートホームルームをしにやって来るだろう。
ぞろぞろと席に座っていくクラスメートたち。
その中には女子の集団と談笑していた朝倉涼子の姿もあった。
こちらを一瞬見て笑みを浮かべたのは気のせいか。
俺も前を向く事にした。
にしけた校舎だな。
「……せめて部活中ぐらいはやる気を見せなさいよ」
と後ろから聞こえた。
部活だと?
何だ、何の話だ。
俺は帰宅部じゃなかったのか。
サッカー部員とは思えない自分の部屋のありようだったぞ。
どういう事だと涼宮に問いただす前に担任らしき比較的若い教師はやって来た。
格好はジャージだ。
つまり体育教師なのかもしれないな、なんて事よりも気になる事が山積みだ。
しょうがないな。
ま、後でゆっくり話を聞かせてもらおうじゃないか。
――そして昼休み。
お茶でもしようやと俺が声をかけに後ろを向くよりも早く涼宮は席を立った。
そのまま教室を出てどこかへ消えてしまう。
思い起こせば中学時代からそうだった。
失念していた。
「ちったあ頭が働くようになったか?」
そう言って谷口がどかっと涼宮の席に座る。
手には弁当箱と水筒。
もしかして俺はこの馬鹿と昼飯を共にしなきゃいけないのか?
勘弁してくれ。
更に谷口の隣には惚けた表情のチビ野郎が居た。
彼も俺と昼飯時を同じくすべく机を確保して近づける。
何だよ。
俺に選ぶ権利はなさそうな雰囲気だぜ。
この二人が俺の友人なのか。
「キョンもさあ、落ち着いているんだかボケっとしているんだかよくわからないよね」
俺の顔を見て呆れた表情でそう言ったチビ。
"キョン"とは何の話だ。
シカ野郎と俺を罵っているのかチビが。
お前なんかシカ以下だアシカみてーな顔のアシカ野郎。
谷口はアシカ野郎に同意するように。
「涼宮と関わって正気でいれる方がどうかしてるぜ」
「それはちょっと涼宮さんに失礼なんじゃないかな」
「お前らに散々あいつの危険性についてはレクチャーしたはずなんだがな」
から揚げをおかずに白米をかきこむ谷口。
俺はこの状況について1ミクロンで構わないからレクチャーしてほしいんだが。
言ったところで無駄だろうな。
結局この昼休みで得た収穫は俺のあだ名が何故かキョンであるという事。
どうやら妹づてに俺の家に来た友達がそのあだ名を聞きつけてクラス中に広めたらしい。
これもよくわからんな。
あのちんちくりんは可愛らしく「お兄ちゃん」と俺を呼んでくれている。
今日の朝だってそうだった。わからん。
きっとわからない事だらけで死んでしまうから"わからん殺し"なんだろうな。
俺がようやっと事態の一端を垣間見る事が出来たのはここから数時間後の話となる。