疲弊といった単語から程遠いハルヒではあるものの、流石にこの日ばかりは疲れていたらしく三日前のように徒歩のみでの帰宅ではなく帰りもバスを利用することとなった。
バス利用客はてんで皆無で、駅前に到着するまでに乗っていた客は俺たちを除けば五人いたかどうかという程度だ。
にも関わらずバスが存在し続けているってことはどこかしらに需要があるんだろうな。
「……なんでついてくんのよ」
駅前で各自解散を告げたハルヒが彼女の自宅まで送迎せんとする俺に対して放った第一声がこれだ。
決して口に出すつもりはないが今は少しでもハルヒを見て癒されたいのだ。なんでと聞かれても困る。
ハルヒは明後日の方向を向きながら。
「今日はひとりで帰りたい気分なの」
「ならオレは勝手にお前と同じ道で帰らさせてもらおう」
「ストーカーじゃない」
手厳しいにもほどがあるぞ。メンタルをやられていないだけ俺は割かし強い部類なのかもしれない。
しかしこいつの態度が照れ隠しの一環であることなど俺にはバレバレで愉快なわけで。
「せめて文句を言うならこっちに顔を向けて言ってくれ」
「いやよ」
「どうして」
「どうしてもよ」
ここで誤解のないように供述しておくが、ハルヒはがっしりと俺の左腕を自分の右腕ホールドしている状態であり、さて腕を組んで往来する男女ペアの会話はもっと馬鹿馬鹿しいお花畑みたいな内容だろうと考えるのは一般論ではなく俺だけなのか。
ハルヒはいじらしいというより若干意地になっているらしく。
「あんたは自分の立場をまだわかってないようね。あたしが上であんたが下なのよ。対等に渡り合おうなんて十年は早いんじゃないかしら」
「だったら十年待てばいいのか」
「違うわ。十年ぐらい修行しないとあたしに敵わないってわけ」
修行とはまたどんな少年漫画の世界だ。修行して強くなるとかいうのは今時流行りもしないだろうに。
俺が思うにハルヒの思いつきの程度は小学生のそれと大差ないので強いだの弱いだの言ったところで全部が全部当てはまるわけではなかろう。
適材適所。王には王の役割があって、料理人には料理人の役割があるということだ。
「しかしお前がチョコレートを用意してくれるとはな……」
「なに、あんたはあたしが冷酷な女だと思ってたの?」
はたして昔の涼宮ハルヒを知っている奴が何人信じるのやら。彼女に彼氏がいて、バレンタインなんていうお菓子メーカーの陰謀に乗っかるなど。
谷口はこいつが丸くなっていることに対して歓迎ムードで、この調子で頑張ってくれとかつい先日は言われた覚えがある。
なんというかハルヒがツンツンしているのは駄々っ子のそれと大差ない。よって。
「いいや、ハルヒは団員のことを考えてくれている優しい団長だぜ」
決してちょろいわけではないのだが他人から認められるのに慣れていない節がある。
とくに頭を撫でられるのは弱いようで、俺がすっと右手を伸ばしてハルヒのサラサラヘアに触れようとすると負けじとハルヒも空いている左手で応戦して。
「ちょっと! やめなさいよ!」
「何故だ」
「こっちの台詞でしょ」
そんなに頭に触れられたくないのなら離れればいいものを、それをしないのは何故だと俺は聞いたんだがな。
と、若干の現実逃避を交えつつハルヒを家まで送り、俺も一旦帰宅して時間を置いてから件の場所へ向かうことにした。
間違ってもシャミセンや愚妹にチョコレートをイタズラされたら困るので三つとも俺の部屋の学習机の引き出しにしまって鍵までかけておいたから大丈夫だろう。
とはいえ猫は昼間から寝ているし妹も学校から帰って来るなりランドセルを放り投げて友達のところへ遊びに行っているからチョコの存在も知らないはずだ。
よって嫌々ながらも安心して俺は家を後にすることとなった。
希望はいいもので、いいものは決して滅びないなんて台詞を言い出したのはどこの誰だったのだろうか。
例え地球が逆回転しようが、俺以外の世界の全てが変わろうが、俺が俺として存在し続ける限りは絶望的でもなんでもない。
だからこそ、自分を自分だと認識できない奴なんで現れた日にはデカルト先生も大爆笑だな。
「おつかいは終わりだ。そしておつかいには駄賃が必要だと思うんだがよ」
光陽園駅の駅前公園、そのベンチの脇にグレーのトレンチコートを着込んだ女が座っていた。
朝比奈みくる。SOS団の部室にいる彼女よりも何年か歳をとった姿の大人バージョンだ。
俺の多少の恨み交じりの言葉を耳に入れた大人朝比奈はこちらを向くなり柔和な笑みで。
「どうぞ、座って。わたしがお話しできることは限られてるけど、少しぐらいは話さなきゃいけないから」
言われるがままに俺はベンチの右側に座り込んだ。
日本列島から冬はまだ立ち去らないらしく、午後六時前にして辺りはすっかり暗くなっている。
俺は単刀直入に左に座る大人朝比奈に向かって。
「あんたは何者なんだ。どうしてオレにつきまとう。オレとあんたに何か関係性があるのか、SOS団以外の」
「……」
彼女は否定も肯定もせず、ただただ沈黙を続けていた。
答える気がないのか、答えられないのか。
俺は心底呆れかえっているとようやく静かに口を開き。
「世界には知らないままでいる方がいいこともあるんですよ」
ごもっともな意見だがその台詞を言われるには俺は色々と知りすぎてしまった気がする。
それから大人朝比奈が語ってくれたのはここ数日での作業が未来において重要なことだったということ。
あれがあったからあの人が結婚しただとか、これのおかげで後世に残る発明のきっかけが生まれただとか、俺には一見して無関係な話に思える。
どこか遠く彼方を見据えながら朝比奈は。
「これは通過点にすぎません。分岐はまだ続いています。わたしにとっての今があなたにとっての未来とは限らないの」
「何故オレの未来をどうこう指図されなきゃあならねえんだ……」
図らずも自分自身からの手紙というインパクトだけで今回の一件に関わってしまったようなものだ。
そして同じ手を二度と食ってやるつもりはない。俺は未来人のおもちゃではない。
俺はいっそ決別でもしてやろうかという出せる限りの気迫を静かに込めて横の女に対し。
「自分のことだ、てめえの尻拭いはてめえでしやがれ。オレはそういうふうに生きてきたつもりだぜ。これからもな」
言ってから気付いた。ハルヒも似たようなことを言っていたということを。
大人朝比奈はそれを知ってか知らずかくすりと笑ってから。
「今はそれでいいです。わたしのことを無理に信用する必要はないの……ただ」
すくっとその場から立ち上がり、まるで時が止まるかのような、思わず見とれてしまうほどの憂いを帯びた表情でこちらを見つめて。
「あなたにとって、常に最善の未来を選択し続けて下さいね」
――これはたとえ話だ。
あるところに目も当てられない程に悲惨で、"不幸"以外に形容できないまでの人生を送り続けている人がいるとする。
『我々はみな運命に選ばれた兵士』という言葉が本当のものだとしたら、その人はまさしく不幸という運命を背負って生きてきたわけだ。
そのうちその人は不幸に苛まれるあまりに慣れてしまって平気になっているのだろう。とにかく生きるということだけを放棄していなけりゃどうでもいい。
だとしたらその男だか女だかは不幸だと言えるのか。少なくとも不幸を誰かに押し付けるなんてことはできないだろ、神でもない限り。
極めつけに、そいつがある時に眠りから覚めると180度世界が逆転していて、昨日までの不幸はまさに夢の中の出来事のように現実が吉なるものであふれかえっていたらどうだ。
不幸続きの毎日でもはやまともな精神感覚を失っているそいつは幸せを幸せと感じることができるのか。俺にはわからない。
「この時代に住む"彼女"をよろしくお願いします」
最後にこう言い残して大人朝比奈は公園から離れていく。
俺は彼女の後姿を見ながらさっきのたとえ話を考えていた。
なぜなら俺は自分からそういう世界を選んじまった人間だからだ。
「……誰だか知らんが、好きにやらせてもらうからな」
未来のことを考えたところで決まってなけりゃなんの意味もない。
"彼女"ってのがハルヒのことなのかそれとも今の朝比奈のことなのか、俺にはまだ関係がなかった。
それすらも俺に選択権があるのだから。
翌日の話を少ししよう。火曜日の二月十五日のことだ。
教室に到着した俺は早速後ろの席の女子に言葉をかける。
「調子はどうだ、大将」
「ぼちぼちね」
もちろん話し相手は二月になっても席が変わらない涼宮ハルヒである。
何が悲しくて朝から谷口の情けない与太話を聞かねばならないのか。
ハルヒはじろっとこちらを見つめ手招きをして、耳貸しなさいよ、と言ってから手で作ったメガホン越しにひそひそ声で。
「昨日のこと公言してないでしょうね」
いくら嬉しかろうがわざわざ言いふらすことではなかろう。
晩飯後に部屋でゆっくり味わっていると愚妹に発見された――ちなみに妹は俺に10円チョコを一つくれた――がその程度だ。
「世の中には一つも貰えない哀れな奴だっているの、義理だろうと希少価値があるんだからね。ステータスよ」
何を大げさなとは思うが世の中の真理だから仕方ない。幸の一方で必ず不幸が存在するのだ。
一生のうちには大なり小なり浮き沈みがあるというわけだな。
俺はすっとハルヒの手から耳を遠ざけて。
「だな。美味しかったぜ」
「当り前じゃない。言ったと思うけど半日以上かかったのよ、これでマズいとか言われたらブン殴ってたところだわ」
休み返上で悪戦苦闘してたのはお前だけではないということをこいつは知らない。
宇宙人未来人超能力者どもの陰謀が何やら辺りを取り巻いているのだ。腹立たしい、ああ腹立たしい、腹立たしい。
ハルヒも自分の身の回りがとんでもない状況だと理解してくれれば一番楽なのだが例によって俺が宇宙人以下略のことを話したとしても信じてくれるとは思えない。
ただ、それでもハルヒはいつか己の秘めた力と向き合う時がくるのではないかと俺は確信している。
「でね、あたしは考えたわけよ」
「何を?」
「さっき言った世の中の哀れな奴にSOS団が救いの手を差し伸べるの」
だからこそ最初から最後まで俺だけはハルヒの味方でいてやるべきだ。
楽しそうに思いついたことをペラペラ話す彼女を眺めながら俺は心持ちが穏やかになれた気がした。
ところで二月十四日が休みで潰れた場合の休み明けというものは貰えない奴にとってすれば十四日ではないから大丈夫だと自分をどこか正当化できるというものである。
俺の獲得したチョコレートは母と愚妹とSOS団女子三名の計五個で終わり。だと思っていたが。
「……お前よお、いつからそんな遠く離れた存在になっちまったんだ?」
昼休みになり、弁当箱をつついていると谷口が突然そう言いだした。
彼は俺に何か言いたいらしく、しかも恨み言の類であるのは彼の眼の色で明らかである。
国木田の方を見てみるも首を傾けるだけで谷口の言いたいことはわからないらしい。
「オレは急な引越しをした覚えはないぜ」
「へっ。見逃さなかったぜ。お前、さっきの休み時間中に鶴屋先輩から何か貰っていたよな」
「勘違いするなよ。義理チョコだ」
野郎が吐く「勘違いするな」という台詞ほど吐き気を催す台詞もなかろう、自分で言ってて気分が悪くなりそうだから困る。
というか俺が廊下で鶴屋から義理を貰ったシーンをこいつは見ていたのか。
「あのな、俺は鶴屋先輩から義理すら貰ってねえんだぞ」
白米をかき込みながら苦虫を噛むような顔で俺を見る谷口。
とはいえ谷口と鶴屋の接点など野球大会と映画撮影の二回だけ。
しかもそのどちらも繋がりは希薄。よって。
「うん、絶望的だよね」
ナイスな突っ込みを入れてくれたのは国木田だった。
思えばこの三人で昼に机を囲むのも慣れたものである。
「ちくしょうが……」
世の不条理を痛感しているのか呪詛のように口から紡ぐ谷口。
この様子では朝倉からも義理を渡されたということなど口が裂けても言えそうにないな。
世の中には知らない方が幸せなことがある。これがまさにそうだ。
さて、この日の放課後はまたまたSOS団がやらかしていただいていた。
あろうことかハルヒは放課後に朝比奈の手作りチョコレートを賭けたアミダくじ大会なんぞを勝手に中庭を占領して開催しだしたのだ。
参加料は一人500円で、当然アタリは一つしかないのだが中庭に設けた専用ブース――長机を運搬しただけ――ーには大挙して学生が押し寄せてきた。
「はいはい! 定員割れはあっという間よ! 早い者勝ちなんだからね!」
アナウンサー顔負けの声量かつ身振り手振りを使って呼びかけるハルヒ。
この宣伝力をクラスのために活かしていれば学校祭は安泰だろうに。
と、俺のこんな呟きを地獄耳に入れたハルヒは。
「はあ? 何言ってんの。あたしはSOS団のためにやってるのよ」
「お前は朝比奈を巫女装束に着替えさせて、あまつさえ学生から金をむしるイベントはオレたちのためになると言うのか」
「今回の収益は全て団費に回すから安心してちょうだい」
またどうでもいい備品が部室に増えるためだけにその団費とやらは使われるに違いない。
どうせなら毎回の喫茶店のお茶代に充てればいいのに、と思いつつ結局集まった大量の小銭がどこへ消えるのか俺はついぞ知らないままだ。
で、そのアミダくじ大会はいざ始まるとどうじに終了した。なんと一番手の男子生徒があっさり商品を当ててしまったからだ。
何か作為的なものを疑わずにはいられないが俺に害があるわけでもないのでよしとしよう。
他の生徒からすれば勘弁してくれって感じだがな。かくしてものの三十分もせずに俺たちは部室へ引き返すこととなった。
「早目に終わってくれて何よりでしょう。長引いてしまっては生徒会の面倒になりかねません」
文芸部部室に長机を戻し、いつものようにパイプ椅子に腰かけるなり古泉が小声でそんなことを言った。
今更そういう連中を気にかけたところで手遅れにもほどがあると思うのだが。
「なにより500円で買える夢なんざタカが知れてるのによ」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦とでも言っておきましょうか」
すると古泉は鞄から某カードゲームのブースターパックをいくつか取り出し始めた。
驚くべきことにこいつにも年相応な趣味があったらしく、愛想笑いを浮かべながら。
「本日発売でして」
ペリペリっとパックの裏を丁寧に剥がして中身を確認していく古泉。
対戦相手がいるのかも怪しいのによく買う気になれるもんだ。
知名度によりけるもののカードゲームはコミュニケーションツールとして使えなくもない、しかし俺もそうだが古泉は自由時間の大半をSOS団で拘束されているので対戦の機会がまずないというわけだ。
集めるだけで幸せ、って奴らの考えは俺にはわからん。対戦してナンボだ。
ともあれこのまま呑気して一日が終わるかと思いきや最後の最後で盛大な無茶ぶりがあった。
「……おっほん! みんな、注目!」
唐突にハルヒが声を出すや否や部室内の空気が一変した。
俺はそんなに馬鹿ではない。こういうのは何かの前触れなのだ。
ハルヒは団長席から立ち上がり、ホワイトボードを引っ張り出すと。
「これから重要な話をするから、男子は特に注意してね」
はて、何か取り立ててしなければならない重要な話とはなんだ。
ハルヒの思いつきを聞かされるわけでもないようだ。
「来月のことよ」
そう言ってハルヒはマジックペンでホワイトボードに文字を書いていく。
俺はでかでかと書かれていく文字を眺めていくうちに否が応でも察しがついた。
思わず古泉と顔を合わせてしまう。気が早いことこの上ない女だ、せっかちすぎるぞ。
不敵な笑みで俺と古泉を見据えてからハルヒは。
「ホワイトデー。三月十四日に、あなたたちにはお返しの品を用意してもらいます。当然、あたしとみくるちゃんと有希、三人のぶんね」
こう聞けば普通の要求に聞えるが侮るなかれ、ハルヒは校内一の変人と称される女だ。
よって適当なものを渡せばホワイトデーを経過しようがハルヒが満足するまで再提出を余儀なくされるに違いない。
まるでかぐや姫、かなりヘビーな要求だ。
「それと別に、あんたはあたしに日ごろのお礼も兼ねたサプライズを用意すること。いいかしら?」
嫌だ、って言っても聞かないのなら言わない方が精神的にいくらかマシかもしれない。
こんな話をしようが我関せずで読書を継続している長門や申し訳なさそうにしながらもどこか期待している様子の朝比奈。
ハルヒ一人だけならまだしも三人も用意しろとは、古泉に俺のぶんの仕事も押し付けてやりたいね。
もちろん、ハルヒがいうところの日ごろお礼とやらは俺だけが許された権利であり、義務でもある。
俺はノーという返事を認めない彼女に向かって、虚勢混じりかつ誇らしげに言ってやった。
「いいぜ。オーケイだ」
黄色いリボンが付いていた、ハルヒのチョコレートの箱には『これからもよろしく』とだけ書かれたメッセージカードが入っていたことを追記しておこう。