知らない天井だ。
香苗はうっすらと目を開けて、そう思った。
眼だけできょろきょろと見てみると、右には誰もいない。
窓の外から夕日が見えているが、その程度。
そして左には……
「あ、香苗ちゃん。気が付いた!」
自分に抱き付いて来る綾羽がいた。
「あ、綾羽さん」
「救急車で病院に運ばれたって聞いて、びっくりしたんだよ!何事もなくてよかった……」
ほっとした様子の綾羽。
「気が付いたようですね」
安心している時、部屋に白衣を着た医者が入って来た。
優しい笑みを浮かべた男性である。
左胸の名札には『伊賀和志』とかかれている。
「あの、先生。綾羽ちゃんは……」
「何も問題はありませんよ。明日から学校に通うことも可能なくらい健康です」
「え、でも……」
綾羽も、香苗が『精霊力制御疾患』であることを知っている。
対応が時に複雑になることも知っていた。
「私も驚きました。この疾患を抱えていたと知らされていなかった人間が、正しい処置をして救急車を呼んだことをね」
「え、遊月君が?」
「彼から状況を聞いた救急隊員も驚いていました。その場でしなければならないこと、隊員に伝えなければならないことを、簡潔にまとめて話していたとね」
そういって、医者の男性はケースを取り出す。
香苗が持ち歩いているものと同じものが入ったケースだ。
「悪霊瘴気をとりこんでしまった場合の最も優れた対応は、『悪霊瘴気を抜くこと』と『救急車を早急に呼ぶこと』ですが……時折勘違いして、この薬を飲ませる人がいます。これが最悪の間違いなのですよ」
「え、そうなんですか?」
綾羽が首をかしげる。
医者の男性は頷く。
「はい。この薬には、『精霊力』を排出させる成分が含まれていますが、悪霊瘴気を狙って排出させることはできません。服用すると、その二つをまとめて排出します。しかし、外に出ていきやすい精霊力の方が多く出ていくのです。結果的に、体の中の悪霊瘴気の割合が多くなります」
「じゃあ、遊月君は薬を飲ませずに、悪霊瘴気だけを抜いて、救急車を呼んだってこと?」
「その通り。悪霊瘴気はすでに抜いており、薬を飲ませてはいないことを伝えることもしっかりとね」
そこまで説明を聞いて、綾羽は疑問に思った。
「あの、悪霊瘴気を抜いているんですよね。なら、その時点で問題はないと思うんですけど……」
「悪霊瘴気を抜いたとしても、すでに発生していた体調不良はなくなりません。さらに悪霊瘴気と言うのは、元から存在する精霊力を変質させたものですから、それを丸ごとごっそり抜いた場合、今度は体内の精霊力が足りなくなります」
多すぎると困るが、だからと言って足らないと問題が出て来る。それが精霊力と言う存在である。
「この疾患を抱えている人は、飽和状態に近い形で精霊力を保持している人が多く、体内の精霊力が足りなくなっても問題が出てきます」
「はぁ……なんていうか、すごいんですね」
「遊月さんでよかったです。あの、ありがとうございます」
ほっとしている香苗だが、医者の男性にも頭を下げる。
だが、医者の男性は手を振った。
「いえいえ、私はこれが仕事ですから、礼ならその少年に言ってください。仮に最悪の状態で運ばれていたら、今のような良い状態ではなかったはずですからね」
この医者としては本心だった。
とはいえ……。
(最も、あれほど正確に、根こそぎ悪霊瘴気を取り除けるとは……もともと悪霊の可能性もありますね。大変気になりますが、まあいいとしましょう)
医者として興味があるとしても、話したがらないというのならそれは尊重するべきである。
「それでも、ありがとうございます。ええと……あの、他の人って名札に名字しか書かれてないんですけど、なんで先生だけフルネームなんですか?」
例を言おうとしてな札を見て、疑問に思った。と言ったところだろう。
首をかしげる香苗。
医者はフフッと微笑む。
「名字だけですよ」
「え?」
「私の名字は、『伊賀和志』と書いて、『いかわし』と読むんです」
「あ。す、すみません!」
「構いませんよ。よく『
なかなか聞かない名字。というものはあるが、名字と名前が一体化しているように見える名字と言うのは少ないものだ。
謝る香苗の横で綾羽もびっくり。
……とまあ、そんな珍事もあったが、おおよそ平和である。
★
次の日。
「あの、遊月さん。ありがとうございました」
「……それは任務に協力したことなのか、悪霊瘴気が入りこんでいた君を助けたことなのかわからんが、いずれにしても礼を言われるほどのことじゃないさ」
なんだかんだ言って律儀と言うか素直な江藤。
次の日に学校に行けるとなれば、校舎に入って行く遊月を見つけて礼を言っている。
「あの、そっちじゃなくて……」
「……ああ、君の任務の後始末をしたことか?」
先日の悪霊退治だが、あれは彼女の任務である。
確かに悪霊討伐は成功しているが、その後で倒れてしまったため、報告書の作成など不可能だ。
医者から夜は安静にしているように言われたので、朝になってどうするかと言う話になると彼女は思っていたようだ。
しかし、連絡を入れてみると、既に報告書作成に必要なメモが提出されており、不備がなく、実際に現地調査と提出者への確認も済ませて、正式が書類が受理されていた。
その結果、この件に関していえば、DGCの中ではすでに完結している。
「はい、提出者は遊月さんと聞いたので……」
「別に、DGCにいろいろ聞かれるのが初めてじゃないっていうだけの話だ。その時の応用だよ」
「それでも、ありがとうございます」
「……そうか」
それ以上は何も言い返さない遊月。
遊月としては別にどうでもいいことだ。
しかし、江藤としてはちゃんと礼を言っておきたいということなのだろう。
なら、遊月はそれを否定することはない。
「それで、あの……遊月さんは、私の精霊力制御疾患が気にならないんですか?」
「別に全然。江藤とセックスしたいわけでもないしな」
「セッ……そ、そんなこと言っちゃだめですよ!」
顔を真っ赤にして慌てて怒る江藤。
見ていていじるのが楽しくなるような反応だが、遊月はあえて言わない。
「ま、そう言うわけだ。私は精霊力制御疾患についての知識をしっかり持っているから、問題はない」
「分かりました」
「まあ、また迷惑をかけに来るといい」
そういって、遊月は江藤の頭を撫でる。
「~~♪」
そして気持ちよさそうになる江藤。
……忘れてはならないのは、ここは学校の敷地内である。
当然、他の生徒も見ている訳だが、誰も遊月を変な目で見ている様子はない。
というか、中には羨ましそうな顔で見ている者もいる。
「さて、もうそろそろ授業だ。また後でな」
「あ……」
パッと手を放す遊月。
江藤は名残惜しそうに頭を触った後、教室に歩いていった。
★
「英明。昼休みにタブレットを弄って何してるんだ?」
「ん?ああ、今日は非番だからな。悪霊調査だよ。掲示板とかってみんな勝手に書きこんでいくからな」
昼休みの時間の使い方と言うのは様々だが、英明は『綾羽ちゃん親衛隊』の表の業務として悪霊退治をしている。
「……で、何かあるか?」
「まあなんていうか、人間だろうと精霊だろうと、悪い奴になろうと思えばだれでもなれるわけだし、とりあえずデッキとデュエルディスク持って行けば勝てるような奴が多いんだよなぁ」
「悪霊にも大小があるからな」
「そういうこった」
そう言いながらもタブレットを見つめる英明の目は真剣である。
とても、組織の第一目的を果たそうとしてダブル弁慶で気絶した男とは思えない。
(ていうか、英明ってネットとか使えるんだな)
『我も使えるぞ』
遊月の隣にドーハスーラが出現。
(え、お前使えるの?)
『まあ検索エンジンをかけるくらいだがな。我はいろいろと気になることが多いからな』
(自分の評判だろ?)
『その通りだ。そう言うものを調べるのにネットは便利だからな』
(へぇ……どんなことがかかれてるんだ?)
『我がこの地に降り立った時は【とりあえずデッキに『電網の落とし穴』入れておこう】みたいなコメントが多くて発狂するかと思った』
電網の落とし穴
通常罠
(1):相手がデッキ・墓地からモンスターを特殊召喚した時に発動できる。
そのモンスターを裏側表示で除外する。
(……それはひどいな)
『せめて奈落で勘弁してくれと思ったものだ』
意気消沈したドーハスーラだが、言いたいことは終わったのかフェードアウトしていった。
「……うーん。特にないな。今日は綾羽ちゃんを見ていよう」
「非番なんだよな」
「だからって見ていたらダメな理由にはならない」
納得していいのかどうか微妙なところである。
「そういや、香苗ちゃんは大丈夫なのか?」
「大丈夫になるようにしているから大丈夫だ」
「なるほどな……それにしても、精霊力制御疾患って先天的になる場合があるって聞いたことがあるけど、あれって親からもらうものなのか?」
「……基本的に生まれてくる時に感染するものではない」
「そうなのか?」
「母親がHIVに感染していたからと言って、出産の時に引き継ぐことはない。お腹の中にいる時だって、母親と子供が血液を交換し合ってるわけじゃないしな」
「……そうだったっけ?」
「お前血液型なんだ」
「俺はBだけど」
「お前の母さんは?」
「母さんはOで……あ、それもそうか。交換されてたら拒絶反応起きてるわ」
「そういうことだ」
仮に(というと失礼かもしれないが)江藤が子供を産むとしても、帝王切開すれば子供に精霊力制御疾患が感染することはまずない。
「親からもらうわけじゃないのに、なんでそんなことになるんだ?」
「……少し大きな話になるが、精霊力って言うのはそもそも、所有することそのものにバランスが存在する」
「極端に多く持つものが少なく、少ないものが多いのはそういう理由か」
「このあたりは金と同じだ。だが……金と同じと言うことは、あまりにも上のものがやりすぎると、とばっちりを受けるものがいる」
「……じゃあ、香苗ちゃんは、俺たちが今まで作ってきた借金を抱えてるみたいなものか」
「そうだ。そもそも精霊力制御疾患は、三十二年前までは確認すらされていないウイルスが原因だからな。そのウイルスが勝手に感染する」
「なるほどねぇ……」
英明の中にもいろいろ考えはあるかもしれないが、遊月はそれを変えようとは思わない。
「誰が決めたのかは知らんが、誰かが何かを奪っているとして、今まで気にしなかった癖に、いきなりそれを借金だと言いだしたんだ。そして江藤は、それを抱えて生きている」
「遊月が香苗ちゃんに協力的なのはその借金が理由か?」
非常に強力な精霊を味方にしている遊月。
英明がそう判断するのは不思議なことではない。
「そうなんだろうな。私のレッドアイズは、本能でそういう抱えている運命の重さみたいなものが分かるんだ。それを従えている私にも影響が出ているだけだが」
「抱えている運命の重さねぇ……俺ってどうなんだ?」
「レッドアイズ曰く『軽くはない』らしい」
「……マジで?」
「マジだ」
英明は嫌そうな顔をしているが、レッドアイズがそう言うのなら遊月にとってはそうである。
「さて、今日は特に問題がないのなら、私はそれでいい」
遊月は立ち上がって自分の席に戻った。
「……ま、このDGCのホームページに乗ってるレベルなら、DGCの下級構成員の話で済むだろうな」
英明もそう結論付けて、タブレットをしまった。
★
江藤は昇格したわけだが、まだまだ階級で言うと下であることに変わりはない。
言い方はあれだが、『使う側』ではなく『使われる側』である。
「ええと、この部屋ですね」
近い時期に昇格や昇進したものが香苗を含め数人いるので(降格も複数いるが)、穴が開いているチームなどの再編成が行われる。
もちろん、DGCである以前にデュエリストであり、人間なので、それぞれ存在した関係は考慮されるのだが、その関係を無理矢理作っているのだと判断された場合、上から一方的に彼らを書類上は切り離すことになる。
あえて話しあいの時間と場を設けないのは、本人たちで解決しようとしても問題が長期化するだけの場合がほとんどだ。人間関係と言うのは元よりそういうものである。
そのため、上の人間が一方的に命令を下すことで、多少の評判の悪化は覚悟したうえで再編成するというものだ。
無理矢理関係を作っていたとしても、一度切り離して別々の環境に放り込めば、それ相応に人間は変化するものである。
そう言うこともあり、結果的にこのようなことになっている訳だ。
切磋琢磨はいいが、関係に囚われているのはダメだ。というのが上層部の意見なのだが、構成員のほとんどは知らないものである。
「あら、やっときたんですね」
そこまで広いというわけではない部屋だ。
報告書などを紙で行うこともあり、なかなかペーパーレス化が進まないDGCらしく、紙を保管するファイルやケースが大量にあるのかと思っていたが、そのようなものはなく、多少本棚がある程度の部屋だった。
そこに、黒い髪を伸ばして銀縁の眼鏡をかけた女性がデスクに座っていた。
「あ、あの、江藤香苗と言います。よろしくお願いします!」
「ああ、いいわよ。そう言うの。私はきっちり仕事をこなしてくれたらそれでいいから」
そう言いながらもキーボードを連打する女性。
作業が終わったのか、腕を伸ばして、香苗の方を見る。
「あ、私は
そういって、キーボードを少し押す。
すると、香苗のデュエルディスクにメールが送られてきた。
確認すると【巡回任務・エリア『アムネシア南東地区』・最高討伐難易度E】とかかれている。
巡回任務で、場所も指定されている。
悪霊も確認されているようだが、難易度はEであり、任務発行に特別な審査や書類整理が必要になるBよりもかなり下だ。
Aにもなれば外部からの応援要請も考慮しなければならないレベルだが、この場合は関係ないだろう。
「アンタが担当するエリアよ。ちゃんと割り振っておいたから、後は書類を作ってまとめて置いといてね。じゃあ、私は帰るから」
「え?」
「えってなによ。もう私がやることは済んだんだから帰っていいに決まってるでしょ。本来ならこんな雑務なんてしなくても上に行けるのに……ああ、これはアンタには関係ないわね」
言うが早いか、パッパと荷物をまとめて部屋から出ていく晶子。
香苗は呆然としていたが、ふと思うことがあった。
「米倉?」
確かこの名字は……。
「何してんの。速く行きなさい」
「え、あ、はい!」
晶子に急かされた香苗は慌てたように走りだして、『DGC悪霊対策ホームページ担当第三室』の部屋を後にした。
そしてそんな部屋の中で、一枚の紙が晶子の引き出しから地面に落ちた。
いろいろと上層部からの報告がまとめられているが、一部、赤く大きな文字で書かれている部分がある。
『アムネシア南東地区にて、討伐難易度Aの危険な個体が確認されている。遭遇確率15%だが、任務発行の際に管理官は巡回任務を担当する者に対して厳重に注意することを義務付けることとする。担当室からホームページに注意書きして置くこと』
★
「うーん……特に何もなさそうですね」
一人で巡回場所を歩く香苗。
ちなみに、本来こういった討伐任務ならチームが組まれるのが通例だが、討伐難易度Fくらいの悪霊討伐と言うのは、言いかえれば雑草を引っこ抜くようなものである。
とてもじゃないが、駆逐するにしても大人数は用意できない。というか『雑草を全部片づけるまで帰れない』などと言われた場合、場所によっては発狂するだろう。
本来ならホームページを担当するようなあまり関係のないところにそう言った雑用が回ってくる。
そして、そんな回ってきた誰もやりたがらない面倒なことを、香苗は押し付けられたということだ。
何の説明もなしに進めたので香苗本人は気が付いていないが。
「何もないならそれに越したことはないと言われたことはありますけど……」
当然のことだが、犯罪だの悪霊だのと言うのはない方がいい。
討伐数が多ければ英雄だが、討伐数が極端に少ないのならその時は安心すればいい。
予想外のことが起これば死を招くこともあるのだ。そのくらいの自重は必要。
セキュリティの目的はあくまでも『討伐』ではなく『守護』であり。
スローガンは『守りたいと思うものを増やしていく』である。
「……あ」
チラッと曲がり角に何かが見えた。
香苗は走ってそれを追いかけると、『ジャイアントウィルス』の悪霊が見えた。
「倒さないと……」
急いで追いかける。
だが、それに気が付いたジャイアントウィルスは逃げ続ける。
角を曲がり続けて、人の気配がないところまで移動しているような気もするが、被害が最小限になるのならそれでも構わないとして香苗は追い続けた。
そして、袋小路に追いつめる。
「討伐します!」
香苗はデュエルディスクを構える。
ジャイアントウィルスのそばに、カードが五枚出現した。
「『デュエル!」』
香苗 LP8000
GG LP8000
『ボクの先攻。モンスターをセットして、ターンエンド』
事故……と言うわけではなさそうだが、難易度Eだとデッキがまだまだ未熟なので、このようなことはよくある。
「私のターンです。ドロー!」
香苗はカードをドローする。
「私は手札から、『深夜急行騎士ナイト・エクスプレス・ナイト』を妥協召喚します!」
深夜急行騎士ナイト・エクスプレス・ナイト ATK0 ☆10
「さらに、『重機貨列車デリックレーン』を特殊召喚です!」
重機貨列車デリックレーン ATK1400 ☆10
「そして、デリックレーンとナイト・エクスプレス・ナイトでオーバーレイ!全てを砕く大砲を装着し、いざ発進!ランク10『超弩級砲塔列車グスタフ・マックス』」
超弩級砲塔列車グスタフ・マックス ATK3000 ★10
現れる列車。
なんというか、『あー……』と思ってしまうような感じである。
「グスタフ・マックスの効果発動。相手に2000ポイントのダメージを与えます!」
GG LP8000→6000
「そして、デリックレーンの効果が発動して、セットモンスターを破壊します!」
破壊されたのは予想通り『ジャイアントウィルス』であった。
「そして、バトルフェイズです。グスタフ・マックスでダイレクトアタック!そしてこの攻撃宣言時、『リミッター解除』を発動します!」
『あ、やっぱり……』
途中から気が付いてしまったジャイアントウィルス君。
絶望が彼のゴールである。
超弩級砲塔列車グスタフ・マックス ATK3000→6000
GG LP6000→0
そして消え去っていくジャイアントウィルス。
儚い命であった。
「ふう……ここでの討伐は終わりみたいですね」
追いつめたのはいいが、肩で息をしながら歩く香苗。
見た目通り、あまり体力はないようだ。
そして、裏路地から出てきた時……。
右側から、膨大なエネルギーが感じられた。
「……え?」
香苗の目に映ったのは……。
『ククク。人は勝利した瞬間に油断する。俺様が作った撒き餌を倒した程度で油断してくれてうれしいぞ。人間』
不気味な色の液体を口の中に集約する『パンデミック・ドラゴン』だった。
そして、大きなウイルスの濁流が放たれる。
それはたやすく香苗を覆い尽くして、彼女の後方を侵食していった。
「うっ……げほっ!げほっ!」
全身から入りこんだウイルスが侵食していく。
それと同時に、先ほど飲んだばかりの精霊力制御疾患の薬の効果がかき消されたように、パンデミック・ドラゴンから放たれる悪霊瘴気が彼女の体の中に入りこんで行った。
立つことすらできず、体を抱くようにして耐えながら、地面に倒れる。
「はぁ……はぁ……」
呼吸のペースもおかしい。さらに、全身から汗が噴き出ている。
だがこれでも、最悪の事態にはなっていない。
『ほう、俺様のブレスを受けてもまだその程度で済むとはな。褒めてやるぞ人間』
口の中にエネルギーを集約させていくパンデミック・ドラゴン。
香苗は自分の体の中を侵食するウイルスが発する気味の悪い何かに涙を流しながら、それを視界の端で見た。
今の状態であれを受けたら……。
(いや……し、死にたくない!)
内心で絶叫するが、そもそも人の気配のないところまで誘い込まれた時点で、彼女の負けだ。
『さあ、死ね!』
パンデミック・ドラゴンがブレスを放出する。
その時……。
『させるか!』
彼女の前にドーハスーラが飛びだしてきて、右手の杖から波動を放出してブレスにぶつける。
精霊の格。そしてそもそもお互いの攻撃力を考慮しても、ドーハスーラの方がステータスは上。
押し勝っているのはドーハスーラだ。
『チッ。邪魔が入ったか』
『我が主からいやな予感がすると聞いて、来てみればこんなことになっているとはな。最近のホームページは嘘っぱちらしい』
『ククク。人間が作るものだぞ?器用なものが作ったからと言って上手くできているとは限らないことくらい知っているだろうに』
『それに関しては同意見だが、今は貴様の相手をしている暇はないのでな。尻尾を巻いて逃げるというのなら見逃してやってもいいぞ?』
『なるほど、それ相応に、お前にとっても大切な存在らしい』
パンデミック・ドラゴンは口の中にブレスをためる。
『チッ!』
ドーハスーラは舌打ちすると、波動を集めて壁にする。
「あ、あの……」
『黙っていろ。お前と話している余裕もないのだからな』
ドーハスーラは右手の杖を振って、香苗の体から悪霊瘴気を抽出していく。
だがその後ろで、ブレスを受ける壁が崩れ始めた。
「か、壁が……」
『こんな即席の壁で、難易度Aの悪霊を止められないことくらい我が一番分かっているから黙っていろ!』
ドーハスーラは叫ぶ。
彼はもともと、パンデミック・ドラゴンよりも上位の悪霊だ。
しかし、彼の得意分野は単なる『制圧』であり、守りながら戦うことに特化してなどいない。
元々の悪霊としての格で言ってもパンデミック・ドラゴンより上なのだが、そんなドーハスーラを困らせるくらい、パンデミック・ドラゴンのウイルスと、精霊力制御疾患というものは特殊性がありすぎる。
『ぐあっ!』
遂に壁を貫通してドーハスーラに直撃する。
だが、ドーハスーラは抽出をやめなかった。
まずこれを抜いておかないと、ウイルスの除去どころの話ではないことを、遊月よりも知っているからである。
「わ、私は……」
『だから黙っていろ!というかレッドアイズはどこで油を売っているんだ!』
ドーハスーラは怒鳴り散らすが、もしも来れないとなれば、盛大に足止めをくらっていると分かっているのでそれ以上は責めない。
『ほう、やはり元々の格の差があるか。なら、それを縮めるとしよう』
パンデミック・ドラゴンは、不気味な液体を口の中にためていく。
そして、それを一気にドーハスーラめがけて放出した。
『あれをくらうと我でも少々マズい!』
アンデットワールドで療養できるが、だからと言って喰らいたくはないものだ。
だが、ここで黙っていた者が動いた。
81
特殊な形のその数字が、ドーハスーラと香苗の視界に入る。
次の瞬間。ドーハスーラを守るようにバリアが出現。
パンデミック・ドラゴンのウイルスボールは、バリアに当たると霧散していった。
『これは……なるほど、まだ認めている訳ではないようだが、粋なことをするものだ』
そう言って、ドーハスーラは抽出を続ける。
パンデミック・ドラゴンは驚いたように何度もウイルスボールをぶつけるが、バリアには何の影響もない。
そして。
『よし、抽出が完了したぞ。我の役目は終わりだ。消え去れ!』
ドーハスーラが振り向くと、右手の杖で波動を集約してパンデミック・ドラゴンにぶつける。
ひるんだようだが、すぐに体勢を立て直した。
『ぐ……仕方がない。ここは一旦引くとしよう』
次の瞬間、パンデミック・ドラゴンは消えて行った。
ドーハスーラは舌打ちする。
『チッ……どうやら所有者が近くにいるようだな。だが、探している時間はない。速く運ぶとしよう』
ものすごく背中が痛いのを我慢しながらそんなことを言うドーハスーラ。
世間体を気にするものは見栄を張りがちだが、彼クラスになると田舎の猿芝居だ。
『この程度はなんてことはない』と遠まわしに言っているようなものだが、それが香苗にわかるくらいである。
それはともかく、まだウイルスは抜かれていない。
だが、このドーハスーラが、誰のものなのかを香苗は把握した。
体の中に不快感は残っているが、そっと、香苗は目を閉じるのだった。