祈りの海   作:鬼平

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第1話

 全身があたたかな浮遊感に包まれている。

 遥か上で水面が揺れている。穏やかな波のきらめき。私は母の胸に抱かれているかのような深い安らぎを覚える。

 みずからの手を見る。戦いに明け暮れた男の手。

 その皮膚がぽろぽろと剥がれ、光を帯びて砕けていく。皮膚の奥から手の駆動のメカニクスが露出し、それもまた砂と化して拡散する。

 コップの水に放り込まれた砂糖菓子のように、私は沈みながら海に溶けてゆく。

 ふと、彼のことを思い出す。

 彼はどこにいるのだろう? 私は彼を守らなければならないのに。海に抱かれ、安らいでいる場合ではないのに――

 ほどけゆく手と反対の手を、強く握られる。

 振り向くと、彼がいた。私とまったく同じ顔。少年のようにあどけない微笑みを浮かべている。

 彼の体もまた、海との境界を失いつつあった。

 私たちを構成していた粒子が、波に揺られ混じりあっていく。私たちは無限に広がりながら重なっていく。

 彼は今、私の中にいた。

 私もまた、彼の中に。

 崩れつつあるまなじりから、歓喜の涙があふれる。

 

 

 

 そうか。よかった。

 

 

 

 ――わたしたちは、ようやくただのひとりに還れるんだ。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 目覚めた時、最初に知覚したのは波の音だった。

 それから水の生温さ。濡れた砂の感触。目をこじ開けると、刺すような日射しが飛び込んできた。

 鉛のように重い体をどうにか起こす。視界に広がるのは白い砂浜と青い海。

 浜辺に打ち上げられた? とすると、こうなるまでに自分はなにをしていたのか。

 どういうわけか、前後の記憶がまったくない。そもそも、自分の名前を思い出せなかった。自らの素性に関する情報が、なにひとつ脳裏に浮かんでこない。

 記憶喪失?

 不安が募り、何度も頭を振る。その拍子に、自身の服装が目に入った。

 黄色と赤と黒の三色で彩られたファイティングスーツ。しかしほとんどの箇所が無残に破れ、裸に近い状態になっている。

 ――そうだ――私は。

 ネオドイツのガンダムファイター、シュバルツ・ブルーダー。

 名前を思い出したことをきっかけに、一気に記憶が溢れ出す。

 シュバルツは注意深く、混線した記憶の糸を解きほぐしていった。ほどなくして、もっとも新しい記憶にたどり着く。

 ゴッドガンダムの手から放たれる、涙のようにまばゆい一粒の光。

 ……そうか……私は。

 自分を殺すよう、ドモンに懇願したのだったな……

 彼は満身創痍でランタオ島に乗り込み、弟にデビルガンダムとその搭乗者である兄を討つよう促し――目論みどおり、成功したのだ。

 そうだ、だから……私は死んだはずなのに。

 自分がどうして一命を取り留め、今ここに存在しているのか、どれだけ考えてもわからなかった。

 ドモンの放った石破天驚拳は完全だったはずだ――あれはデビルガンダムに致命傷を与えうる唯一の攻撃。仕損じたはずはない。

 とその時、波の音にまぎれてうめき声が聞こえた。

 あの声は。

 シュバルツは思索を中止した。

 声の方へ行きたかったが、体が思うように動かない。全身が強ばり、軋むように痛む。エネルギーが枯渇しているせいか力が入らず、立ち上がることすらできそうになかった。

 ――やむを得まい。

 シュバルツは集中し、ネガティブな身体感覚のひとつひとつを慎重に遮断していった。生体アンドロイドでなければ、ここまで意図的に肉体のセンサーをコントロールすることは困難だ。こんな時だけはこの体がありがたい。

 必要最低限のコンディションを獲得したシュバルツは、即座に声のした方角へと駆けた。

 五十メートルほど離れた岩場の陰に、男が横たわっていた。シュバルツは思わず息を呑む。全身がずたずたに引き裂かれている。その顔は、シュバルツとまったく同じ造形をしていた。

「キョウジ!」

 駆け寄って抱き上げる。意識はない。呼吸と脈拍を確認すると、ひどく弱々しいリズムを刻んでいた。

 キョウジがなぜ生きているのか? 自分の生存以上に、まったく説明がつかない。

 シュバルツは周囲を見回した。地形から推測するに、ここはランタオ島であるようだ。自分とキョウジの死地となったはずの場所。ドモンの一撃が二人を貫く直前、なんらかのはずみでデビルガンダムから放り出されでもしたということなのだろうか?

 ともかくも、今はキョウジを助けることが最優先だった。

 ランタオ島は無人島だ。ここではまともな救命措置ができない。海を挟んだ彼方に、ホンコン島の街並みが見える。まずはあそこに彼を運びたい。

 シュバルツはなにか使えるものがないかと、辺りを歩いて回った。すると海岸の隅に、ボロボロに傷んだ木製のボートが打ち上げられているのを発見した。劣化がひどいが、使えないことはなさそうだ。

 シュバルツはキョウジをボートに横たえ、次いで自らも乗り込み、朽ちたオールを使って海へと漕ぎ出した。

 

 

 ――どうにも、妙だ……

 状況を把握すればするほど、疑問が膨らんでいく。

 シュバルツは夕闇に紛れ、密かにホンコン港の外れに漂着した。キョウジを背負い、港のコンテナからコンテナへと潜みながら移動する。

 しかし、目に映る光景に違和感があった。

 港が妙に寂れているのだ。コンテナの数が明らかに少なく、積み卸し用のクレーンは錆びて汚れている。

 おかしい。ここは覇権国の栄華を誇るような立派な港だったはずだ。自分がどれくらいの間眠っていたのかはわからないが、そう長い時間ではないはず。それがここまで急に寂れるものだろうか?

 歩いているうちにコンテナのエリアを抜け、木造の小型船が多く停留する桟橋にたどり着いた。船を家として暮らす船上人の居住区だ。

 背中のキョウジが激しく咳き込む。シュバルツは慌てて船の陰に身を寄せ、キョウジを桟橋の上に横たえた。

 キョウジは苦しそうに顔を歪め、荒い息を繰り返している。

「み……ず……」

「水がほしいのか?」

 キョウジからの返事はない。

 この状況では飲用水を手に入れるのも一苦労だった。せめて安静にできる環境を作ってやりたい。この国の外れにある貧民窟なら潜伏できるだろうか、などと思案をめぐらせていたその時、

「ねえ、どうしたの?」

 背後から声をかけられ、シュバルツは弾かれたように振り返った。

「あ……、その……」

 まだ幼い少女が立っていた。髪を頭の左右でそれぞれ団子状に結い、布で覆っている。シュバルツが怖いのか、小刻みに肩を震わせていた。

「つ、連れの人、大丈夫? なんだか具合が悪そうだから……」

 この少女、見覚えがある。

 シュバルツは再び記憶の糸をたどる。今度はすぐに答えをはじき出すことができた。

 そうか。ドモンに縁のある子どもだ。

 ドモンはガンダムファイト決勝戦の間、ずっとネオジャパンの確保したホテルではなく、現地の船上人の船に居候していた。その宿主であった老人の孫娘。名前は確かミンといったか……

 しかし、この答えもやはりシュバルツの違和感を増幅する結果となった。

 ミンの背丈が異様に高くなっているのだ。

 確か彼女は小学校低学年程度の体格だったはず。それがどういうわけか、数年経ったかのように大きくなっている。ゆうに十五センチは背が伸びたのではないか。

「これ、どうしたんじゃ、ミン」

 少女の背後にある船から老人が出てくる。

「おじいちゃん、男の人がいるの。二人。困ってるみたいで」

「……フム」

 老人は少女の横を通りすぎ、シュバルツとキョウジのそばに屈んだ。キョウジの額に手を当てる。

「ひどい熱じゃな。じっくり休ませてやらんと……お前さんら、行くところはあるんかの?」

「……いや」

「当てがないなら、ワシらのところに来るといい。大したことはしてやれんが、寝床くらいは用意してやれるぞい」

「しかし、」

 シュバルツは考え込んだ。

 自分たちはこれ以上ないほどに込み入った事情を抱えている。だから一般人と関わるべきではない。しかし意識も定かでないキョウジを抱えていては、なにをどうすることもままならない。

「……厚かましいのは承知の上だ。連れの体調が整うまで、厄介になってもいいだろうか」

「堅苦しい男じゃのお。もっと気楽に頼ったらどうじゃ」

 老人が歯のない口でニッと笑った。

 

 

 丸い小窓の外で、海が穏やかに揺れている。

 シュバルツは安堵とも懊悩ともつかないため息をついた。傍らには薄い布団にくるまってキョウジが眠っている。老人たちの船の物置部屋を片づけて用意された居室だった。

 と、ドアの向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。

「おじゃましまーす!」

 ドアが勢いよく開き、少年が転がり込んできた。

「こらっ! 病人がいるんだよ! 静かにしないとダメでしょ!」

 ミンが怒りながら少年を追ってくる。

「だってさ、姉ちゃん。誰かを泊めるなんて久しぶりだろ? ドモン兄ちゃん以来なんじゃないのかな」

 少年はシュバルツに向かって「こんにちは!」と人懐こく笑った。

 この少年も見覚えがある。ミンの弟だ。しかしやはり、最後に見た時から十センチは背が伸びている。

「おれ、ホイ。よろしくね。おじさんは名前なんていうの?」

「私の名前……」

 シュバルツは自分の名を名乗っていいのかどうか、咄嗟に判断できなかった。

 ガンダムファイターとしてのシュバルツは、おそらく消息不明か死亡という扱いになっているはずだ。本物のシュバルツとすり替わっていたことがネオドイツ陣営に知られてしまった以上、なにかのはずみで足取りを捕捉されると面倒なことになる。

「ホイよ。人には事情というものがある。名乗りたくとも名乗れないということがあるもんじゃ」

 老人がドアのそばに立っている。手にはお椀とコップの乗った盆を持っていた。

「孫たちが騒々しくてすまんの。名前なんぞ名乗っても名乗らんでもええ。ワシャそういうことは気にせんタチじゃ」

「……すまない」

「ふーん、そっかあ」

 ホイが口を尖がらせる。

「でもさ、しばらくここにいるんだろ? 名前がないと不便だよ。そうだな、えっと……」

 思案したのち、ポンと手を打ち鳴らす。

「クロ。クロはどう? 前に飼ってた猫の名前なんだ」

「猫の名前で呼ぶなんて失礼でしょ!」

 ミンが弟の頭を拳骨で小突く。

「クロか……」シュバルツは微笑んだ。「いや、いい名前だ。それでいい。私のことはクロと呼んでくれ」

「弟がごめんなさい」ミンが頭を下げる。

「じゃあそっちのおじさんはシロでいい? クロと一緒に飼ってた猫なんだ」

「もう! だからペットの名前なんて……」

「いや……いいよ。俺のことは、シロでいい」

 シュバルツは驚いてキョウジを見た。いつの間にか目を覚まし、こちらを見ている。

「オッケー! じゃあクロのおじさん、シロのおじさん。しばらくの間、よろしくね」

 お近づきのしるし、といって少年はポケットからラムネ菓子の容器を出し、シュバルツに渡した。

「おじさんたち、顔そっくりだよね。双子なの?」

「……まあ、そのようなものだ」

「ホイ、もういい加減にしなさい! 休ませてあげないといけないんだってば」

 ホイは振り上げられた姉の手をひょいとすり抜けた。「じゃあね!」と叫び、走り去っていく。ミンはしきりに謝りながら弟のあとを追っていった。

「起こしてしまってすまんのう」

「いえ……」

 老人が盆を床に下ろす。水の入ったコップと粥入りの椀を、シュバルツとキョウジそれぞれの前に置いた。

「無理をしてでも食べなされ。腹が減っていては、治るものも治らん」

「感謝のしようもない」

「連れのお人だけではないぞ。お前さんもじゃ」老人がぎょろりとシュバルツを見る。「ひどい顔をしておる。食べて、寝て、次に備えることじゃ」

 ――次。

 デビルガンダムを仕留めた私にとって、「次」とはいったい何なのだろう……

 シュバルツが黙っていると、老人はほっほっと気の抜けた声で笑った。

「お前さんらの経緯はわからんが、何事もなるようにしかならんじゃろ。気負いすぎんことじゃ。そうじゃろ」

「……ええ」

「ほれ! 言うた先から力んどる」

老人はシュバルツの肩をバンと叩くと、鷹揚な足取りで去っていった。

 ふたりだけになった部屋に、波の音が響く。

「いい人たちだね」

 キョウジがつぶやく。

「……そうだな。彼らに出会えたのは、運がよかった」

「ねえ、その……ええと」キョウジはなにかを言いあぐねている。

「どうした?」

「俺はお前を、なんて呼べばいいのかな……」

「私の名前、ということか?」

「だって、俺はお前のことを全然知らないんだ。だから教えてほしいんだ。お前がこれまでに使ってきた名前を」

 言われてみれば、そのとおりだ。キョウジはシュバルツを作り、二言三言言い残してすぐに意識を失った。自らの分身がその後なんと名乗り、どのように行動したかなど、知る由がない。

「……シュバルツだ。シュバルツ・ブルーダー。ネオドイツの覆面ファイター。私は私をそのように定義した」

「なるほどな……」

 キョウジは目を閉じ、口をつぐむ。なにごとかを考えているようだったが、不意に力なく咳き込みだした。

「大丈夫か、キョウジ。水があるぞ」

 キョウジの頭を手で支えてやり、コップを取って彼の口にあてがう。キョウジは夢中で水を飲み干した。それからシュバルツは粥を匙ですくい、これもまた彼の口へと運んだ。キョウジは二、三口どうにか飲み下したものの、すぐに「もういい」と首を振った。シュバルツはそれ以上食事させることを諦め、安静な姿勢にさせてやった。

「キョウジ、覚えているか? デビルガンダムは葬られた。ドモンの手によって」

「……うん。覚えてるよ」

 あの時、シュバルツとキョウジの「心中」は確かに完遂されたはずなのだ。――それなのに。

「どうして私たちは助かって、今ここでこうしているんだろうな。まさかデビルガンダムに止めを刺せなかった、などということはないだろうな」

 キョウジからの返事はない。見ると眠ってはいなかったが、うつろな表情で天井を見ている。

 シュバルツはふと、床に置いておいたラムネ菓子の瓶を手に取った。先ほどホイからプレゼントされたものだ。水に溶かしてキョウジに飲ませれば栄養補給になるかもしれない、と考えてのことだったのだが、ラベルに書かれている情報がシュバルツに思わぬ衝撃を与えた。

「待ってくれ。この菓子、製造年月がF.C.六十二年七月になっている」

「……え?」

「この菓子が最近作られたものだとすると、今はF.C.六十二年。ガンダムファイトから二年も経過したことになる」

 とすると、自分たちは確かに死に至る傷を負ったが、DG細胞の作用かなにかによって、二年かけて奇跡的に回復したということなのだろうか。

 ――まるで浦島太郎だ。

 目覚めてからこれまでに感じてきた違和感の正体が、これではっきりした。しかしその解答は、シュバルツにより根本的な混乱をもたらすことにしかならなかった。

「そうか、シュバルツ。お前は……自分が助かったと、思っているんだな……」

「え?」

 振り向くと、キョウジがシュバルツを見つめていた。どこか哀しげなそのまなざしに、シュバルツの胸がちくりと痛む。

「どういう意味だ? キョウジ」

「いや……そのままの……意味だよ」

 キョウジの表情が苦しげなものに変わっていく。シュバルツははだけていた布団をかけ直してやった。

「あまりしゃべるな。もう寝るといい。回復したら、今後のことをゆっくり考えよう」

「ああ……」

 ほどなくして、静かな寝息が聞こえてきた。

 シュバルツはしばらくの間キョウジの呼吸に耳を傾けていたが、ふと自分に用意された食事のことを思い出した。床に置かれた椀を取り、匙を口に運ぶ。魚の出汁と絶妙な塩加減が例えようもなく体に沁み渡った。うまい、と思ったとたんに緊張が解けたのか、身体感覚の制御が一気に解き放たれる。

「ぐっ……!」

 椀を取り落さないよう、床に置くのが精一杯だった。シュバルツは木床に仰向けに倒れ込んだ。もはや一ミリも体を動かすことができなかった。

 ――まあ、いい。

 なにもかも、明日だ。

 自分は存在をかけた使命を果たしたのだ。だから今くらいはすべての判断を放棄しても許されるはずだ。そう考え、覆い被さってくる鉄の塊のように重い睡魔に身をゆだねた。

 

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